世界の裏庭

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『大誤解』2

    第1部【小誤解】 午後四時

  

[逃走]

 

 西の空の向こうに夕陽が消え去ろうとしていた。夕陽が不吉な黒い炎に見えるのは、いまの自分の心象風景の現われだ。きっとそうに違いないとリョウは思い込もうとした。
 女がひとり、こちらに向かって歩いてくるのが見えた。地下鉄駅から数分の場所で、最初の角を曲がった狭い道だった。道路に背を向け、自動販売機と向き合うような姿で顔を隠してリョウは小銭を探した。
 もちろん探している振りをしているだけで、実際にはただじゃらじゃらとポケットの中をかき回していた。脇道に停めたスクーターを隠すように、女に背を向ける。
 トオルはズボンのポケットから携帯電話をとり出し、画面など眺めている。誰からも電話など来てはいないし、メイルも入ってないはずだ。あっちも眺めているように見せかけているだけだった。
 ヒールが少しずつ近づいてくる音を、背中で聞いた。
 自動販売機で飲み物を買おうとバイクを停めたところで電話が入り、スクーターを停めて話し込む青年。そんな印象を与えることを狙っていた。
 少し離れた場所を、コツコツという軽快な音が通りすぎる。ほっそりしたその背中を気づかれないよう見送った。高価そうなワンピースを着てるな、と思った。
 裾がひらひらと揺れるのは安物、ゆらゆら揺れるのは高級品の証拠と聞いたことがある。女の裾はまさに、ゆらゆらと波打っていた。外見の派手な女ほど大金を持ち歩くものかどうか、本当のところはわからないが、相棒のトオルのその主張を信じるしかない。
 五万円前後。そう見当をつける。見当というより、それぐらいあれば非常に嬉しいという願望に過ぎない。
「どうだ?」
 通りすぎる女を横目で見ていたトオルが小声で訊いてくる。リョウも顔をあげ、道路を見た。
「三十、いや四十代か」
 声を押し殺して言ってみた。
「お世辞にも、上品には見えないな」
「品はなさそうだが、でも、金は持ってそうだ」
「着てる服も高そう」
 事前のプランで考えていたことを確認し合う。なんの裏付けもない想像ではあるが、二人で無理にそう納得した。イメージしていた人物像に限りなく近い女性だった。
 育ちが良さそうに見える女は、実はあまり現金を持ち歩かないのではないかと考えた。金持ちの人間ほどけちで、金に対する危機意識は強いはずだからクレジットカードを多用するのではないか、と。
 引ったくりは犯罪だ。しょぼ過ぎる犯罪には違いないが、見つかれば確実に逮捕される。だから、そうしょっちゅう実行するわけにもいかない。一発でなるべく大きな額を手に入れたい。
 大きな金額といっても自分たちには、せいぜい四、五万円あれば充分すぎる。山分けして二万円にもなれば当座をしのげる。その後は考えていないし考えたところでしょうがない。この言葉を口にしたら、もう後戻りできない。手が震えそうだった。
「イメージには、近い」リョウは言った。
「俺も」同じ気持ちであろうトオルが、うなずいて答える。
「他には誰もいねえだろうな」
 リョウはいったん通りまで出て確認し、戻った。
「この通りには、いまのところあの女だけだ」
 目配せを寄こした顔が、心なしか上気して見える。
「一発かますか」
「おっし!」
 威勢のいい言葉とは裏腹に、リョウの中にはまだ躊躇しているもう一人の自分がいた。正直に告白すれば一時間も前から、気持ちは決行と中止の狭間をぐらぐらと揺れ動いていた。その振幅を長さで表現したら、ゆうに一メートルはあるはずだ。いまから犯罪に手を染めようとしているのに、すでに後悔しはじめていた。
 いったん天を仰いだ。空にはもう太陽はなかったが、遠くの建物が残照を受けて赤々と燃えていた。
 小刻みに震える太ももを押さえ付け、エンジンをかけてスクーターに二人でまたがる。リョウが運転し、トオルがバッグを奪いとる。あらかじめそう決めてあった。
「ここから先は、お互い一切声を出さない。いいな?」
「了解」
 脇道から道路へ出て、歩いていた女を追いかけてゆっくりと走り出す。右手には、税務署か何かの官舎跡地があった。去年辺りに撤去されて更地になっていたが、なぜか広大な敷地は手付かずのまま残されている。左側には民家がつづき、古くて大きな家ばかりだ。だから好都合だった。
 この界隈を選んだのは、トオルが生まれ育った場所から近く土地鑑があることと、S市内でも古くから比較的裕福な層が住んでいるといわれる地域だからだった。
 時速二十キロ、とろとろした速度をキープしながら女に近づいてゆく。
 距離、二十メートル。
 念のため、もう一度バックミラーで後ろを振り返ってみる。薄暗くなってきた道に人影は見えない。当然だ。ひと気が少ないからこそ、この道を選んだのだ。
 この場所、この時間帯、狙う女のタイプ、そういったものを確定するまで、犯行計画には一週間かけた。逃げるときに覚えられないよう後輪の上のナンバープレートも上に折り曲げてある。
 距離、十メートル。
 ハンドバッグは女の右腕にあった。道路側だ。軽く曲げた肘に掛けられていて、まさに絶好の状況といえる。引ったくってくれといわんばかりの、まったくおあつらえ向きの状況だった。
 急にハイな気分になってきて、リョウは後ろを振り向いた。ところがトオルの視線は真剣そのもので、すでに女の背中に釘付けだ。
 速度を十キロに落とした。距離、三メートル。
 リョウの背中から脇腹を通って前に回され、シャツを掴んでいたトオルの手に力がこもる。トオルの左手が、女に向かって伸びていく。
 不意に、女がバッグを左手に持ち替えた。
「あっ」
 思わず小さい声が洩れた。情けないリョウの声はヘルメットの内側にこもり、トオルの間抜けな声は外側から聞こえた。
 気がつけば二人が乗ったスクーターは、女の横をとうに通りすぎていた。あの女性には二人の声が、ドップラー効果で低く聞こえたかもな、そんな馬鹿なことを思った。
 呆然としたままそのままの速度で百メートルほど走り、小さな路地を左に曲がってスクーターを停めた。エンジンをかけ、ヘルメットも脱がないまま二人は長い間黙り込んだ。あの女はスクーターが近づいた音を聞いて、バッグを掛け替えたのだろうか。それとも、たんに重くなったからか?
 ほっとしたような気が抜けたような、複雑な気持ち。それが正直なところだった。これで犯罪者にならずにすんだという安堵感と、お金はどうするんだという相反する二つの感情が入り乱れていた。
 たっぷり十分ほど、二人は黙りこくった。
「難しいもんだな」リョウは言った。「引ったくりなんて、もっと簡単なもんだと思ってた」
「金を手に入れるのは、どんな手段でも簡単じゃない」
 トオルが偉そうに言った。
「でも、たかが引ったくりなのに」
「たかがとはなんだよ。引ったくりだって立派な犯罪なんだぞ」
「殺人とか強盗とか、ずっとひどい犯罪をやって成功して、しかも捕まらないやつらだって世の中にはいるのにな」
「経験豊富な引ったくり犯だって、さすがにあれは予測できなかっただろうよ」
 トオルが言い訳がましくそういった。
「たぶんな」
「きっとそうだ」
 口に出るのは互いに慰め合うような言葉ばかりだ。まだ犯罪を実行してもいない。成功してもいない代わりに、失敗してもいないのだが。いや、正確には決行はしたが、予期せぬ出来事のため延期というところか。
 延期だって? なにを言ってるんだ、お前はもう一回やるつもりでいるのか。だって、計画に一週間もかけたってのに、みすみす一度の失敗で諦めるなんてもったいないじゃないか。頭の中でいつの間にか、二人の自分がなじり合っていた。
「このカルピス野郎が!」
 トオルが突然叫んだ。自分が怒鳴られたのかと思い、リョウはびくりと肩を揺らしたが、勘違いだった。トオルが自らのヘルメットを叩いている。
「びっくりさせんなよ。何なんだよ、それ」
「嫌いなんだよ、カルピスが。あの、酸っぱくて白く濁ったところが苦手で。自分が不甲斐ないとき、昔からいつもこうやって活を入れてた」
「変わってんな」
「元気出るんだよ、『カルピス野郎!』って叫ぶと」
 なんだかよく分からなかったが、こいつもこいつなりに混乱してるんだろうと想像した。トオルはたばこを取り出して火をつけた。
「お前も吸うか?」
「いや、いい。いまはそんな気分じゃない」
 リョウは、たばこを吸うときもあれば吸わないときもある。
「厳しいもんだな」リョウはぽつりと言った。「世の中って」
「あたりまえだ。他人の金をなんの苦労もなくいただこうっていうんだから、そんなに簡単なわけないだろ」
「分かってはいるけど」
「俺は反省はするけど、後悔はしない。そう決めてんだ。負けたまんまで引き下がれるか」
「負けたって、誰に」
「自分の弱さにだ。もっと俺が自分をしっかり持って、自信を持ってやれば、あんときあの女がバッグを持つ腕を急に変えるなんてことはなかったんだ。それが、唯一の反省点だ」
 今度の沈黙は、さっきまでの沈黙よりもさらに重い意味を含有していることは分かっていた。突き詰めていえば問題は「もう一回、それも今日やるのか?」」に尽きる。
 リョウ自身の感想でいえば、正直嫌な予感があった。それも、物凄く嫌な予感だ。自分のこれまでの経験からいえば、そういうときに限ってよく当たるから始末に悪い。
 中学三年のときのことだ。CDを万引きしようとして警備員に捕まったときも、嫌な予感があった。店に入る前に黒猫が前を横切っていったとき、気分がもやもやしたのを憶えている。
 高校二年のときには、今日は家族がいないという彼女の言葉を鵜呑みにし、家に遊びに行って彼女に乗っかっていたら、突然帰宅した兄貴に見つかった。死ぬほどぶん殴られた。慌ててズボンを穿いて彼女の家から飛び出したとき、電線には薄気味悪いカラスがずらると留まっていたのを、はっきり憶えている。
「絶対やるぞ、もう一回。今度こそ成功させてやる」
 重苦しい沈黙を破り、自分自身に発破をかけるようにトオルが宣言した。

       ●

 リョウは意気阻喪していた。確かに現時点で悪い予感の前ぶれはない。きわめて漠然とし、嫌な予感があるだけ。ただ一度の失敗で、心のまん中にあった心棒がすっぽりと抜かれてしまって、ふにゃふにゃになってしまった感じだった。
「やるのか、ほんとに?」
「やる、やると言ったらやる。男に二言はない」
 そう息巻くトオルを見て、リョウはため息をついた。
「黒猫を見かけたら、中止してもいいか」
「なんだって?」
「それとカラスも。引ったくりを決行する直前の寸前でも、黒猫かカラスの群れかどっちか見たら、おれは中止する。それでもいいか」
「訳わかんねえって、おまえ。そうゆうバカなことをほざいてる暇があったら、いいカモが来ますようにって祈れ」
 十分後--。大きなショルダーバッグを肩に掛けた女が、次の曲がり角まで近づいてきた。幸か不幸か黒猫もカラスも二人の前には現れなかった。
 緊張したトオルが、生唾を飲み込む音が聞こえた。迷いはあったし、二人の精神状態がちぐはぐだった割には、実行を決意するまでの時間は短かった。いくら夏だといっても、もうすぐすっかり夜になってしまう。まっ暗になってしまったら、さらに成功は難しくなるだろう。何よりリョウだって、このまま別れて家に戻り、一人で過ごす気分にはなれなかった。
 失敗を繰り返さないように、今度は姿を見せないため小道に隠れることにした。さっきの女が引ったくりの気配を感じとったとは考えにくいが、念には念を入れるに越したことはない。ただの推測に過ぎない財布の中身の多寡より、まず金を確実に手に入れることを優先するのだ。
 バス通りから十メートルほど離れた場所に身を隠し、女が通りすぎるのをやり過ごした。携帯電話を耳に当て、何やら深刻そうに眉間にしわを寄せて歩いていた。身なりは良く、ほどほどに派手な五十前後のおばさんだ。
 スクーターのエンジンをかけ、またがった。トオルが肩にかけていた手を腹に回してくる。いよいよだと思ったとたん、また気分がハイになってきた。我ながら不思議だ。もしかすると犯罪者の素質があるのかもしれない。
 ゆっくり背後から近づく。一度失敗しているためか、緊張感はさっきの半分ほどもない。習うより慣れろ。トオルの右手に力が入り、リョウのジャンパーを強くつかんでくる。
 フルフェイスの黒いヘルメットを心持ち目深にかぶり直す。今度はうまく行くかもしれないと、根拠もなく思った。
 時速十キロで女に並びかける。トオルの腕が伸びていく。
 ヒッ、という吸い込むような小さな悲鳴。奥歯をギリギリと噛み締めアクセルを吹かす。突然、スクーターが背後に引っ張られる。反射的に、リョウは首をひねって斜め後ろを見た。
 トオルの左手と女の右手が、黒くて長い紐で繋がれていた。そんなふうに見えた。
「やべっ」
 反射的にアクセルを戻す。
「吹かせよ、バカ!」
 背中でトオルがわめく。振り返った。
 必死の形相になった女が、スクーターの斜め後ろを一緒に併走していた。化粧の濃い白い顔が、薄闇に浮かぶ。血相を変えて追いかけてくるその姿は、まるで鬼婆だった。
 恐ろしくなってスロットルを開けた。スクーターと人間の綱引きだった。重さを左後方に感じる。
 トオルは左手を思い切り引っ張っているが、女はバッグを離そうとはしない。なんでこんなにしつこいんだ? いい加減、諦めろよ。
 アクセルを全開にすると、トオルの身体がぐいっと後ろにそり返り、身体がシートから落ちそうになった。アクセルを少し戻す。バッグの紐はやはり離れない。
 くそっ、これじゃ埒があかない。弱気になりかけたとき、背後からにゅっと脚が伸びた。女の胴の辺りを、トオルの脚が思い切り蹴り飛ばした。
 バイクにかかっていた負荷がすっと消えた。細く糸を引くような悲鳴とともに女が横様に倒れた。
 ゴツッ!
 鈍い厭な音だった。怖くなって、振り返らないまま身体を伏せてスピードをあげた。
「助ケテー!」
 突然の叫び声に、心臓が跳ねあがった。さらにアクセルを吹かした。スピードがぐんぐんあがる。
「助ケテー! 助ケテー!」
 声は遠ざかるどころか、ますます大きくなっている。
「な、なんだ? 誰の声だ?」
 二人ともすっかりパニックだった。
「あっ」トオルが叫んだ。「止めろ、止めてくれ!」
 慌てて急停止させる。
「くそっ、くそっ」
 トオルが背後で何かもぞもぞとやっている。振り向くと、バッグの横にぶら下がった小さなスピーカーから女の声が聞こえていた。間断なく聞こえる合成音の悲鳴で頭が痛くなった。
「貸せ」
 リョウはトオルからバッグを引ったくると、地面に落とし、かかとで何度も何度も踏みつけた。バキッという音がして音がやんだ。
 ふうっと大きく息を吐き出す。
「防犯ブザーだ。よくもこんな、しちめんど臭いものつけやがって。このやろこのやろ」
 すっかり壊れたブザーを、トオルが執拗に踏みつけている。
「いいから逃げるぞ」
 壊れたブザーをぶら下げたままのバッグを抱えてスクーターを発進させた。バックミラーで確認すると、遥か遠くに道路に倒れた女の姿が見えた。手と脚が、何となく妙な具合にバラバラになっている気がしたが、それ以上深くは考えないようにした。
 後ろ髪を引かれるという感覚にも似た嫌な気持ちがこみ上げてきた。あれは頭を強く打った音だ。間違いない。大丈夫だろうか。
 いや、いまは考えるな。そう言い聞かせて雑念を振りはらい、頭を低く構え直してスピードをあげた。メーターは見る間に五十、六十と目盛りをあげてゆく。
 遥か遠くで何かの音が聞こえたような気もしたが、気のせいだと自分に言い聞かせながら走った。古ぼけた街路灯が、猛烈な速さで近づいては背後へと消えていった。何本目かの四つ角を過ぎた脇道の角に、目印と決めていた酒屋が見えてきたので、手前でスピードを緩めて徐行しながら右に曲がり、さらに暗い道を進んだ。
 成功だ。完璧とはとても呼べない出来だが、とりあえずバッグを奪うことはできた。同時にこれで、万一捕まったら明らかに手が後ろに回ることを、確実にやってしまったのだという後悔もあった。いまさらどんなに反省してももう後戻りはできない。
 トオルが後ろから指を指して、右のさらに狭い道へ入るように指示している。トオルにとって引ったくりは初めてではなかった。経験者である。
 時間帯は夕方、会社勤めの人間たちが帰ってくるには少し早く、買い物帰りの主婦が行き交うにはやや遅い、微妙な時間帯。狙いを付ける人物像は、小金持ちふうの中年のおばさん。場所は地下鉄駅と閑静な住宅街とを結ぶ、人通りの少ない小道。
 奴の過去の引ったくりの経験値を総動員して、もっとも成功する確立の高い組み合わせにしたのだ。逃走経路も事前に下見しておいた。せせこましいこの道をまっすぐ五十メートルほど進むと一方通行があって、それを逆走すれば大きな通りに抜ける。「原付バイク逆走可」の道ということまで確かめてある。
 あそこまで行けば、あとは……。と、暗闇の中で、不意に赤い光が見えた。
 心臓がしゃっくりをした。反射的に、アクセルを戻してブレーキレバーを握る。二人の身体が前につんのめり、前輪がスリップしそうになるのをこらえて停車させ、即座にエンジンを切った。
 角の手前でバイクを降りた。二人で歩いて行って塀の角から頭だけ出し、通りの先をこわごわ見る。毒々しいほどまっ赤な明かりが、くるくると回転していた。黒々とした周囲の木立ちのスクリーンを舐めるように、回転灯が映し出されていた。
 二、三十メートルほど先に警察車両が停まっていた。
 なんでだよ。よりによってどうしてこんなとき、こんな場所にパトカーが? 頭の中を疑問符がぐるぐると回った。ヤバイとかバカなとか、夢遊病者どうしのような意味のない会話を交わした後、二人はスクーターを押しながら反対方向へと逃げた。

       ●

 茂みにもぐり込んだときはもう全身が汗だくだった。汗でTシャツがぐっしょり濡れていた。
「もう、俺、駄目」
 草だらけの地べたに腰をおろして、トオルが言った。すっかり息があがっている。
「おれも。死にそう」
 無我夢中で、いったいいま自分たちがどこにいるのかすら分からなかった。最初の路地に一台、大通りに出たところで二台、慌てて迂回した途端、その先数百メートルの付近で、二車線を塞ぐように一斉検問が行われていた。
 その後も逃げようとする先々に、うんざりするほどのパトカーや警官がいた。いったい総勢で何人の警察官と何台の警察車両が、この周辺一帯に配備されているのだろうと思った。逃げに逃げているうち、道路に沿って金網のフェンスがつづいている場所に出た。進んでも戻ってもパトカーがいる。
 行き場所を失い同じ辺りをうろうろしていると、子どもたちが開けたのか一ヵ所だけフェンスの網が大きく破れていたのを見つけた。最後は仕方なく裂け目から笹藪へ飛び込んだのだ。エンジンを切ったスクーターも無理やり引っ張り込んで隠した。
「どういうことだよ」トオルが過剰とも思えるほどの小声で言った。「わけがわかんねえ」
 引ったくりの計画はうまく成功したはずだ。なのにどうして警察が非常線を張って……非常線? まるで、凶悪極まりない何かの事件が勃発し、警察が緊急出動している。そんな感じだった。いくら考えても、たかが引ったくりにパトカーが何台も出てくるとはどう考えてもおかしい。
 そこまで考えて、どうも話の筋道が違っている感じがしてきた。顎の先に垂れてきた汗を手の甲で拭いながら、リョウは思いついたことを口にした。
「大怪我したのかも」
「誰が?」
「さっきのあのおばさんが転んだときに。そういえばバッグを引ったくったとき、あのおばさん、倒れて頭を打ったようにも見えた」
「まさか、たったあれぐらいのことで」
「けどお前、蹴り入れてただろ。あのとき」
「くそっ。なんでこんなに蚊がいやがるんだ、ここは」
 トオルは、どこかをぼりぼりぼりと勢いよく掻きむしっている。
「藪蚊がいるんだ、きっと。藪の中だから」
「あたり前のこと言うな、このバカ」
「人に当たるな」
「なんだって、こら」
 興奮して声が大きくなった。
「聞こえるぞ、お巡りに」
 遠くで犬が吠えた。何かで見た警察犬の姿を思い浮かべ、ぞっとした。しばらく黙ったあとでトオルがぼそりといった。
「頭をぶつけると死ぬかな、やっぱり」
「知らないよ、そんなの。とにかくなんか致命的な大けがで死んじゃって、それで警察が殺人事件ってことで……」
 殺人犯。頭に浮かんだ単語はそれだった。あまりに現実離れしすぎてる。たかが引ったくりをやっただけで、食い下がってくる女を振り切ろうとしただけで、たったそれだけで、自分は人殺しになろうとしているのか? しかしいったん浮かんだその考えは、頭蓋骨の内側に執拗にへばり付き、拭おうとしても消えようとしなかった。
 と、そこまできてようやくリョウはおかしいと気がついた。突然のことですっかり二気が動転してしまっていた。
「いや、やっぱりおかしいな。いくら何でも早すぎる」
 トオルが救いを求めるような目でこっちを見た。最初にパトカーを見つけた時点では、引ったくりをしてからまだ数分しかたっていなかった。バッグを奪って、おばさんが転んで、万が一大怪我--または考えたくないが死亡--したとしても、あんな素早さで検問を配置できるわけがない。
 しかしいまここで、そんなことを考えても仕方がない。もっといえばどうでもいい。重要なのはそっちではなく、この状況をどう切り抜けるかだ。
「財布から金を抜き取っておこう」
 唐突にトオルが言った。
「いつまでもバッグごと持ってたら、捕まえてくださいって言ってるようなもんだ」
 なるほど、と驚きつつ感心した。さすが引ったくりのプロだ。これほど追い込まれた状況の中でまだ金に執着しているところがすごい。さすがにこいつは手慣れてる。まるで犯罪者だと思った次の瞬間、顔から熱が引いた。自分だって立派な犯罪者なのだ。
 異変に気がつき、隣を見た。トオルがバッグの留め金を外したまま、固まっている。
「どうした?」
「ヤバいって、これ。ぜってーヤベえ!」
 思わずバッグの中を覗きこんだ。紙だらけ。初めはそう見えた。
 紙に見えたのはすべて一万円札だった。まるでショーウィンドウに飾られたバッグの中に、中を膨らませるために詰めた紙屑みたいだ。ぐちゃぐちゃに押し込まれていて、いったい何枚あるのか見当もつかないほどだ。何百枚? それとも千枚単位か?
 背中と顔に変な汗が噴き出してきた。沈黙のままトオルと顔を見合わせ、ふたたびバッグの中身に釘付けになる。
「どうなってんだ」
「どうなってるって、どうする?」
「どうすりゃいい?」
 だが、解決策は思い浮かばなかった。これが五万、十万という額だったら小躍りしたに違いない。しかし不思議なことに、手に持ちきれないほどたくさんの金だとわかったとたん、逆に怖ろしくなってきた。これほど大量の札束をどうやって山分けすればいいのか。少なくともリョウはこれまでの人生で、自分の財布に入りきらない大金など手にしたためしがない。
 嫌な味のする生唾を呑み込んだとき、遠くに小さな光が見えた。草むらの間からちらちら見えるライトは、舗道を進みながら何かを探しているようだった。身体が硬直し、中腰になって視線を暗闇に固定した。一筋の明かりが、ふらふらとさ迷うように暗がりで揺れていた。懐中電灯だ。警官が自分たちを探しているのか?
「どうする?」
「『ヤバい×二』だ」
 思わず後ずさりした。音を立てないよう、すり足でじりじりと後ろへ進んだ。左の足先が、急に地面を離れた。反射的に引っ込め、そっと振り返る。
 崖だった。遥か眼下に広大な公園が拡がっていた。煉瓦を敷き詰めた歩道に沿った街路灯が、光の帯となって延びている。目線を上げていくと、ちょうど反対側の丘の上に煌々と明りが灯る建物が見えた。
 ここから地面までは、かなりの高さがあるはずだ。ビルにすれば三、四階分ぐらいか。垂直ではないが傾斜もかなり急だ。滑り降りたとしてもただではすまないだろう。
「下に降りるか」
「下ってお前、崖じゃないか」
「大丈夫だ。ほら」
 リョウが指さす先をトオルが見た。崖の縁に並んで立った木々の太い枝から、何本もの蔦が垂れ下がっていた。
「これで降りられるんじゃないか」
「マジか……おれは無理だ。草むらの中を逃げる」
「逃げてどうする?」
「逃げて……逃げて、逃げまくる」
「これ以上道路をあっちこっち行ったところで、お巡りだらけだ。もうたっぷり逃げ回ったろ」
「無理だろうが何だろうが、俺はまだ逃げる」
「金は?」
「おまえが持て」
「やだよ。そっちが持ってろ」
 せっかく手に入れた大金を譲り合うのも妙な話だが、物量的な問題以上に、予想をはるかに超えた札束にビビっていた。
 揺れる光はゆっくりと、しかし確実に近づいている。逃走してきた経路を振り返ると、どうも広大なこの公園の東側に重点的に警察車両がいた気がした。自分たちは追い詰められた鼠のようにフェンスの茂みに隠れているが、公園を横切って向かい側に見える建物までたどり着けば、こっちほどじゃないんじゃないか?
 さしたる根拠はなかったが、同じところをぐるぐる逃げ回るのだけはもうごめんだ。
「決めた。おれは降りる」
 犯行計画を立てて以来、初めてリョウは自分の主張を口にした。これまでは経験者であるトオルの意見を一方的に鵜呑みにしてきたが、これ以上は譲れない。大きなため息をついて、トオルはぽつりと洩らした。
「おれ、高所恐怖症なんだよ」
「こんなに暗いんだ、どうせ下なんか見えやしないって」
「おれ、やっぱり行けねえ」
「それじゃ、ここでお別れだ」
「これ、持ってけ」
 トオルが札束を一つ、渡して寄こす。しぶしぶ受けとり、尻のポケットに突っ込んだ。
「次に会ったときは山分けだぞ、いいな」
 わかったと答えると、トオルはがさごそと音を立てて草の中に消えた。一人になった途端に疑問が沸いた。
 確かに蔦は丈夫だろうけど、人ひとり支え切れるほど強いものだろうか。しかもこの暗闇だ。あまりにも危険じゃないか?
 懐中電灯の光は十メートルほどに近づいていた。光の筋が草の間をかき分けて滑り込んできては探している。迷っている暇はなかった。左手でフェンスをつかみ、目の前にぶら下がっている蔦を右手で持った。強く握りしめてから眼を閉じ、胸の中で呟く。

 神様、落ちませんように。
 崖から足を下におろし、胸で上半身を支えた。腹を決め、心の中で一、二の三と数え、身体を投げ出した。ふっと重力が消え、体重がずしりと両手のひらにかかった。ぎぎっと枝が軋み、たわむ感触が伝わってくる。足の裏が崖の斜面についた。
 ほっとした。次の瞬間、靴がずるりと滑った。蔦を持つ手に力を込めた直後、頭上でバキッと枝の折れる音がした。