●16 うんちくんとウンコちゃん、故郷をめざす。そして……
彼と彼女は、自分が生まれた上流をめざして、川をさかのぼりはじめた。文字どおり決死のそじょうだった。
最初にあらわれたのは、下流にあるえん堤だった。もう何年もの間、季節の変化に合わせてオホーツク海やアラスカ海を行ったり来たりしていた彼らは、おどろくほどの遊泳能力を身につけていた。
彼と彼女は、これをクリアした。
次にあらわれたのは中流域の、はげしく速い流れだった。それまでは幅の広いゆったりした流れだったが、その場所は左右に巨大な岩がせりだしていて川幅がせまくなっていた。同じ量の水が流れていれば、川幅が広ければ流れはゆるやかに、せまくなれば速くなるのは道理である。
彼は一回でそこを突破することができた。彼女は、三回目のトライでようやく成功した。しかし、この難所をくぐり抜けるために奪われた体力は、想像以上のものだった。そのすぐ上にはゆったりとした流れがあった。その広いプールで彼らは、しばし休息した。
彼と彼女は、ここもクリアした。
彼と彼女の体はボロボロになっていた。そのうえ川に入ってからは一度もエサを口にしていない。本能がそう命じている。体力はひとつの難所をクリアするごとにどんどん削られていき、一方で乗りこえるべき壁は少しずつ高くなっていった。
最後にあらわれたのは、最難関ともいうべき滝だった。ラスボス登場である。しかし滝の直下には、幸いなことに深い滝壺があった。
水中を泳ぐ動物が滝のような場所を乗り超えるための条件は、落差というより、滝壺の深さと長さにある。例えば、海でトビウオが100m以上もの距離を滑空できるのは、水面を離れる前の海中で、長い助走をとっているからで、それと同じ理屈である。
その滝壺には充分な深さと、適度に休みをとれる広さもあった。挑戦は何度もつづいた。滝壺の浅いところで泳ぎ出し、はげしく落ちこんでいる滝壺から滝に向かって、何度も何度もチャレンジをつづけた。泳いでは休み、休んでは再挑戦することをくり返した。
一日、二日……そしてとうとう三日目、滝を最初に乗り超えたのは彼女のほうだった。まだこのさきに進まなければいけない、その強い思いが彼女をかりたて、全身をむち打っていた。彼が滝を超えて上流へ進むことができたのは、それから二日後のことだった。
彼と彼女は滝もクリアした。
「……ここだ、まちがいない」
彼はつぶやいた。すっかり疲れきってはいたものの、表情はふしぎな生気に満ちていた。
「やっと……着いたんだね」
その日はたっぷりと休息をとることにした。彼と彼女は、深い深い眠りに落ちた。
彼はライオンの夢を見た。
彼女はお姫様の夢を見た。
翌日−−。
彼と彼女は川の底を念入りに調べあげた。子孫が生き残る可能性をより高くするためには、きれいな湧き水の出ているところを選ばなければならなかった。何カ所も川床のようすを確認したすえに、ようやく納得できる場所を見つけた。
彼女はしばらくその周辺をウロウロしていたが、とつぜん体を横にたおすと尾びれを上下に動かし、小石をはね飛ばしはじめた。水の流れをうまく利用して大きめの石も飛ばし、川の底にくぼみができてきた。
川床には深さ40cm、長さ1mほどもあるくぼみができあがった。少しすると彼女はそこにそっと身を沈めた。彼もそのとなりに身をよせた。
すでに彼と彼女の全身は傷つき、血がにじみ出ているところさえある。しかし、そんなことなどまるで気にならなかった。子孫を残すため、自分たちの遺伝子を次代へつなげていくための、最後の大仕事だった。
彼と彼女は生涯最大の仕事を終えた。そして、そのときが訪れた−−。
彼と彼女は、きよらかな川のほとりに身を横たえている。
「オレたちの一生も、そろそろ終わりに近づいてるのかもしれない」
「……そうだね、すごく疲れたよ」
川はうっそうとした森につつまれていて、その間からまっ青な空が見えた。
「わたし、うんちさんと出会えてよかった」
「オレもだ。ウンコちゃんに会えたおかげで……あ! 呼びかた、まちがえた」
彼女はとても楽しそうにクスクスと笑った。
「なつかしい……ねえ、最後にもう一度だけ、むかしの呼びかたで呼びあいっこしてみようか?」
彼はもじもじした。いまさら若いころの呼びかたを口にするのは、すごくはずかしかった。
「うんちくん」
やさしいやさしい声で、彼女がいった。彼はだまったままだった。
「……ねえ、わたしのことは呼んでくれないの?」
「……ウンコちゃん」
「あたしときみはやっぱり、ウンコさんとうんちくんっていうより、このほうがしっくりくるんだね……あ! いまになって、わたし初めて気づいた」
どんな重大なことに気づいたのだろうと、彼はことばのつづきをまった。
「いままでわたし、うんちくんから告白されたことなかった」
「こ、告白って、なんの?」
彼女は何かいいたそうにしたが、ふいに息が苦しそうにあえぎはじめた。
「どうしたの、だいじょうぶ?」
彼女は少しの間息をととのえるようにしてから、こういった。
「死は哀しいだけのことじゃないよ。精いっぱい生きてきた、その最後のあかしとして長い眠りにつくことをゆるされる、そういうことなんだよ。だからわたし、いま哀しくなんかないの。こうして、となりにいてくれるもの」
彼は目じりにたまったしずくがこぼれないよう、けんめいに我慢した。
「もし、ひとつだけ哀しむことがあるとしたら、告白されないこと」
彼は目をとじた。自分のなかに力をためて、彼女だけに聞こえるように小さな、ささやくような声で告げた。
「ずっと……好きだった」
彼女の目じりがかすかにさがった。ほほえんでいた。そう、このやわらかな笑顔が好きだったんだ、と思った。
「……わたしも、好き」
「オレはきみのことが好きだったし、いまも、これからもずっとずーっと大好きだ。忘れないで」
彼女の口が、(ありがと……)といったように見えた。けれど、その声はもう聞こえてはこなかった。
「ダメだ、オレよりさきに眠っちゃダメだ!」
彼女の目から、ひと筋のしずくが流れおちた。口もとには充ちた笑みが浮かんでいた。
最期に彼女は、ふーっ、と長い息をはきだした。
そのとき彼は、からだから少しずつ少しずつ力が消えてゆくのを感じる。眠っているようにやすらかな表情の彼女のとなりに、身をよこたえて目をとじる。
脳裏には、たくさんのできごとや思い出が、一篇の映画のように流れている。
いっしょに川をくだり、初めて海を見てその大きさにびっくりし、無謀とも思える冒険の旅にでたこと。旅の途中で国際交流をしたこと。天敵におそわれそうになって九死に一生をえて助かったこと。そしてあのでっかいザトウクジラとは、もっといっぱいいっぱい話をしたかった−−。
どれもこれも全部楽しかったなあ……そうだ、オレは空も飛んだじゃないか! 彼はそこで、ふっと笑った。ふりかえってみれば、いいことも悪いことも、そのすべてが懐かしい思い出だ。
澄んだ川のほとりで、かすかに笑みを浮かべたうんちくんとウンコちゃんは、ぴったり寄りそったまま、長い長い永遠の眠りについた。
そして翌年−−彼と彼女が最期をむかえたその故郷の川で、子どもたちが生まれた。仔うんちと仔ウンコたちは、春の雪解け水にのって川をくだり、遠くはるかな海をめざした。
(終わり)