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【おとなげない童話・ん】●15 うんちくん、いよいよ故郷の川へ

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Photo by pixabay


●15 うんちくん、いよいよ故郷の川へ

 

 うんちくんとウンコちゃんは、一生懸命泳いだ。ベーリング海をはなれ、太平洋の北がわにある海を、故郷へとむかっていた。

「ウンコちゃん、もうずいぶん泳いできたけど、つかれてない?」

「まだへいき。だって、あまりのんびりしてもいられないから」

 彼女はせっぱつまった感じでそう答えた。しかし、となりで泳いでいるからだが、ユラユラと左右にゆれはじめている。

「今日はもうこのへんで休むことにしよう。あまり飛ばしすぎるとと、あとでへばってくるからさ」

「わかった、じゃあそうしましょうか」

 以前のように、やみくもにエサを追いかけて体力をへらさないように気をつけていた。昼は、プランクトンやイカなどが見えたら、あくまでこのさきのことを考えて、栄養をとるとために食べて、夜はぐっすりねることにしていた。

 そんなふうにして彼らは故郷をめざした。

 旅立つときは、母が教えてくれたとおり、本能にしたがって東の海へむかった。しかしいま帰るべきところは、彼らにははっきりとわかっている。ひたすらあの場所へたどり着くために−−。約3000kmもの壮大な旅だった。

 

 ある日、ウンコちゃんがいった。

「ここから、少し南へむかいましょう」

「どうしたの?」

「太陽がのぼってくる位置が変わってきたの」

 ここで少しばかり、回帰本能について説明しておきたい。

 生まれた母川を探し出す彼らの能力の高さは、すでにさまざまに研究された事例から明らかになってきている。ただ、いまだにはっきりこれだと断言できる一つの能力はなく、生まれもった、あるいは後天的に身につけた、いくつかの能力を組み合わせて回帰するのだと考えられている。

 まず一つ目は、〈太陽コンパス〉。これは太陽の位置や運行の軌跡を記憶しておき、自分たちがいる現在地を割り出していく能力とされる。

 二つ目は、〈地磁気〉の感知。地磁気はその名のとおり、地球に存在する磁場のことで、磁石ではNが北極をさし、Sが南極をさすというあれのことだ。地球そのものが磁石になっており、彼らの体内にはこの地磁気を感知する器官があるといわれている。

 三つ目が、よく知られた〈嗅覚〉である。広い海を渡るときには一と二の能力を、そして陸地が近くなると、この第三の能力を発揮する。考えられているのは、彼らが稚魚のときに記憶していた「川の匂い」を頼りに、自分が生まれた川、いわゆる母川を探し出す。

 ことばにするのは簡単だが、まさに信じられないスーパーな能力としか表現しようがないものだ。

 

「あっ! 見て、あれってもしかして陸じゃない?」

 ウンコちゃんの声がはずんだ。

 海の中からはもちろん見えないが、ちょっと顔を出して確認したらしい。うんちくんも海面から顔を出してみて、彼女がしめすほうに目をやった。

 見えているのはまだずっとさきだったが、ようやく陸地の近くまで来ることができたようだった。

「ほんとだ。オレたち、やっと帰ってこれた!」

「いよいよだね」

 彼らは顔を見合わせた。でも彼女は、すぐに表情をひきしめた。

「でも、まだ安心するのははやいよ。陸が近くなるってことは……」

「天敵のすがたもふえる可能性があるってことだ」

「そのとおり」

 感心しているうんちくんの顔を、ウンコちゃんはまじまじと見た。

「なんかうんちさんの顔、まるで別人みたいに変わってきた」

 鼻のことをいっているというのは、さすがに彼にもわかった。故郷が近づいてきたころから鼻はさらにとがって、さらに大きく曲がってきたのだ。いまでは自分の目でも確認できるほどである。

「ウンコさんも自分で気づいてる? 体の色がすごいことになってるぞ」

 彼女だけでなく、彼の体色も〈ぶなけ〉とよばれる婚姻色へと大きく変化しつつあった。体の横の部分が、まるでブナの木の紅葉のように見えるからとの説もあるが、定かではない。

 いずれにしても、彼らの本能は、この長い旅がそろそろ終盤に近づいてきていることを、彼ら自身に告げていた。

 

 河口についた。生まれ育ったあの川が、海に注ぎこむ場所だった。

「……ここだ」

 うんちくんは、しずかな声でいった。ウンコちゃんもうなずいて答えた。

「ここだね……まちがいないよ」

 嗅覚は、流れてくる淡水のなかにわずかに含まれたさまざまな成分が、彼と彼女の生まれ育った母川であることを、はっきりと伝えていた。

 河口は、海水と淡水とがまじり合う汽水域で、長く海水で暮らしてきた彼らは、しばしこの水域で淡水に体を順応させる必要があった。

「もうすぐ夜になる。さあ、しっかり体を休めよう」

 彼女は無言のままうなずいた。

そしてこれ以後、彼らがエサを口にすることは一切ない。

 あとは、その一生の最後におとずれる役割を果たすため、残された命を燃やし尽くすだけ−−。