●13 うんちくん、〈うんちさん〉になる
季節はめぐりゆく。
夏は、暑さをしのぎやすいベーリング海、冬はエサがたっぷりのアラスカ海、という行ったり来たりを何年かくり返した。
そろそろ夏がはじまる季節だった。はじめて海へ出てやってきたときとおなじ、ベーリング海に彼らはいた。エサは食べてはいるものの、前みたいに口からはみ出るほどたらふく食べる、ということもなくなっていた。
ちょうど頭のてっぺんに太陽がのぼっていたので、水深1メートルほどの深さにもぐって、暑さをやりすごしながらウトウトしていた。
「ねえ、ウンコちゃん。このごろさあ、なんとなくオレ成長してきたってかんじがしてるんだ」
ウンコちゃんは小さくうなずくと、うんちくんをじっと見つめた。
「わたし、ちょっと前から考えてたんだけど、もうその呼び方、やめにしたほうがいいんじゃないかな」
「なんの話?」
「わたしは〈ウンコちゃん〉、そして、きみは〈うんちくん〉。おたがいにこの呼び方って、すごく子どもっぽいと思うんだ」
予想もしていなかったことを急にいわれて、うんちくんはとまどった。わけもなくきまりが悪くなってきて、彼女から目をそらして答える。
「そうかな。オレは別に、このままでも……」
「だいいちもう、うんちくんなんて呼びかたは似合わないよ。だってきみは、もう充分におとなじゃん」
「おとな? オレが?」
人間であれば鏡というものがあるが、彼は自分のいまの姿を自分で見られないことが歯がゆかった。
「自分でも知らないうちに、自分の呼び方が変わってたこと気づかなかった? 前までは自分のことを僕っていってたのに、いまはオレっていってるじゃない」
いわれてみれば、たしかにそうかもしれないと彼は思った。ずいぶん長いこと、僕なんてことば、使ってないような気もする。
「そういわれてみればウンコちゃんも、あたいっていってたのに、いつの間にかわたしに変わってるな。わざと自分の呼び方を変えたの?」
彼女はアンニュイな感じで首を横にふった。
「わざとじゃない。自然にそうなったの。それが成長するってことなんじゃないかな。それにいつだって、男子よりさきに成長するのは女子のほうだもん」
「そうなの? でも、からだはオレのほうが大きいような気が……」
「からだの話じゃない。きもちとか心の話をしてるの」
彼女は海中をユラユラとたゆたう海藻を見ながらいった。
「きみがまだ子どもだった頃、ウンコよりもうんちのほうが上だって思ってたでしょ?」
バレていた。彼女のいう通りだ。あのころ彼の中には、まちがいなく自分たちのほうが上だという意識があった。理由もなく。
「けど、いまではもうそんな意識はすっかり消えてなくなった。ちがう?」
「よくわかるな、そのとおりだよ」
なにげなくウンコちゃんのほうを見ると、彼女はじっとこちらを見つめかえしていた。何か決意のようなものが、そのひとみに宿っているように、彼には思えた。
「きみも、わたしも、変わりはないんだよ。でも同時に、きみとわたしはちがってる。そうじゃない?」
彼はこくりとうなずいた。彼女のことばは、何から何までいいあてているという気がした。
「ウンコもうんちも同じ。でも、わたしときみはちがう。みんなちがって、みんないい。人類はひとつ、ウン類もひとつ、そして世界もひとつ」
「……?」
途中から話がわからなくなっていた。
「うんちはウンコ、ウンコはうんち。わかる?」
「…………?」
うんちはウンコ、ウンコはうんち……なぞの呪文のように頭で復唱してみたが、まるで禅問答の謎かけのようだった。
「よくわかんないけど、つまり、ウン類はみな兄弟姉妹……みたいなことかな」
彼女はケラケラと、楽しそうに声をあげて笑った。
「あたらずとも遠からず、ってところかな」
うんちくんが無意識にいだいていた小さな違和感は、広いこの海でともに命がけ一生けんめいに生きるうち、きれいさっぱりと消えていた。
「わたしはこれから、きみのことを〈うんちさん〉って呼ぶことにするね。わたしのことは、きみの好きな呼び方で呼んでいいから」
少しだけ考えてから彼は答えた。
「それじゃ、ウンコさんでいいかな?」
彼女はにこりと笑った。どうやら正解だったらしい。
「どっちも〈さん〉がつくけど、でも〈うんち〉と〈ウンコ〉のところはちがってる。ほんとうはわたしたちにも、名字があるとよかったんだろうけど、それはそれでまた面倒な問題もあるみたいだから、とりあえずそれでいきましょうよ」
彼と彼女はほほえみ合った。どこか深いところで、はじめてわかり合えた気がした。そして呼び名が変わったことで、うんちくんはひと皮むけたような思いがした。
彼と彼女が成長したことで互いの呼び名を変えたことは、とてもよろこばしい。ただ、残り少なくなってきたこの物語を進めていくうえで、多少なりとも愛着のある三人称として、以前と同じく〈うんちくん〉〈ウンコちゃん〉と記すことをお許し願いたい。
−−そしてしばらくたったころ、彼女がポツリともらしたことばを、うたた寝していた彼は聞いていなかった。
「時間はもう、あまり残されていないのかもしれない……」