世界の裏庭

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『その男、椎名』第6章-2

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 椎名は腕時計で時刻を確認した。このバーの開店時刻は十八時、いまは十六時二十五分。まだ一時間半近くあった。料理屋であれば仕込みに時間がかかるのはわかるが、バーだから出すのはせいぜい酒のつまみ程度だろう。

 ようは開店時刻が迫っているというより、自分を追い出したがっているのだ。彼を苛つかせる冷静さを失わせる目論みは、ここまでのところ上手くいっている。

「事件が起きた日のことで、もう少しだけ話を訊かせてもらえませんか」

「本当にあと少しで終わると約束してもらえるなら」

「事件当日の十二月二十四日、花穂さんはこの店に来たんですよね」

 椎名はノートを取り出して、万年筆のキャップを外した。堂園はちらと椎名の手元に視線を寄こした。

「来ました。今日のあなたのように開店の準備をしているときに」

「突然訪れたんですか。それとも事前に連絡があった?」

「連絡はなかった。急にやってきたんです」

「用件は何だったんでしょう」

 しばしの間が空いた。グラスを布でこする微かな音がするだけだ。静かな声で彼はいった。

「さっきから気になってたことなんですけどね、よくよく考えてみると僕にはあなたの質問に仕事の時間を割いてまで答える義務があるんだろうか。刑事でも捜査関係者でもない、興信所という民間企業の社員に過ぎないあなたに」

 再度、彼は一瞥をくれた。

「確かに私の質問に答えなくちゃいけない義務は、堂園さんにはありません。ただ、答えていただくことで明らかにメリットはあると思いますが」

 彼の一瞬の躊躇が、グラスを磨く手の動きを止めた。

「メリットとは妙なことをいう。あなたの問いに応えることで、僕にどんなメリットがあるっていうんだろう」

「さっきもお話した通り、私には捜査に関する情報をごく一部ですが入手できる裏のルートがあります。そして捜査本部における捜査はいまのところ、正直にいって手詰まりの状態にあるようです」

「手詰まり」

 相手の不安をあおるため、椎名は黙ったまましばらく間をとった。堂園の目線がせわしく左右に動いている。

「犯人の目星はついていると、少なくとも本部では考えている。なのに逮捕拘留できるだけの物証はなく、犯人と思しき人物からの供述も取れていない。そして他に決定的な手がかりのようなものも見当たらない。まさに膠着状態です」

「その目星のついてる犯人って、まさか……」

「もちろん、あなたのことです」

 椎名は手のひらを上に向け、謙譲の意味を込めて彼を指した。

「警察でのあなたの扱いは、想像するところでは多分まだ参考人としての事情聴取程度、任意での取り調べということになってると考えますが、どうでしょうか」

「そうです、もちろんそうですよ。だって僕は花穂と昔付き合っていたということだけで、話をしているんですから」

 椎名は組んだ両手を口の前に持っていき、俯き気味でいった。

「警察の本心はそうじゃないと思います」

「僕のことを多少疑っているのはわかってるつもりだ。それらしきことも警察の人からはいわれたから」

「こういっては何ですが、警察が堂園さんを疑っているのは多少じゃないはずです。捜査本部にいるわけじゃないので推測ばかりで申し訳ないですが、捜査本部では堂園さんを本ボシ、つまり真犯人として捜査を進めてるはずです」

 驚いたように目を見開きながらも彼の手は止まらなかった。

「その恋人の女性に限らず、堂園さんの周囲の人たちからも間違いなく事情を訊いてるはずです。いまはじっくり外堀を埋めている状態で、嵐の前の静けさのようなものでしょう」

 椎名は今度は顔を上げ、正面から彼を見据えていった。

「限りなく黒に近い灰色、それがあなたがいま置かれてる立場なんです。そこのところを見誤ったままだと自分で自分の首を絞めることになります。真綿で首を締めつけてゆくようにゆっくりと、しかし確実に少しずつ少しずつ」

 グラスを磨く手はとうに止まっていた。〈グラスを磨く人〉という彫刻作品のように、彼の身体は完璧に静止していた。

「さっき話したメリットの話に戻しましょう。そんな状況下に置かれている堂園さんだからこそ、私のインタビューを受けることでメリットが生まれるわけです」

「インタビュー? これが」

「私はただの探偵です。捜査する権限も資格もないし、あなたから事情聴取する権利もない。法的な立場から見れば、あるひとつの事件に群がっている野次馬の一人に過ぎない、そんな存在かもしれません。でも私は、私だけが知り得た情報を持っています」

 椎名は両手をカウンターにのせ、背筋を伸ばして告げた。

「私はこれまでさまざまな事件関係者にインタビューしてきました。そしていま私が感じてるのは、事件を解決するための方向へちょっとずつではありますが近づいているということ。その手応えが確かにあるんです」

 言葉の意味が相手の頭に沁み込むのを静かに待った。堂園の手は微かに震えていた。

「堂園さんが私に協力してくれることで犯人が、つまり堂園さん以外の本当の犯人が、あの寒い大雪の日に花穂さんをあやめた人物が、新たな容疑者として浮かび上がってくる可能性が非常に高くなるんです。あなたにとってこれほど大きなメリットが他にあるでしょうか」

 彼は持っていたグラスをラックに戻した。広げた両手をカウンターにつくと、うなだれたまましばらく何事かを考えていた。

 やがてカウンターを回り込むと一つ離れたスツールに腰かける。

「わかりました。椎名さんのいう通りなのかもしれない。ただの任意での事情聴取だというわりには何度も呼び出されているし、刑事が連絡もなくちょくちょくこの店へ来る理由もよくわかりました。協力しましょう。ただし」

 堂園はいったん言葉を切ると、上体だけを椎名に向けていった。

「何をもってあなたは手応えがあるというのか、よければその根拠をぜひ教えてほしい」

「私が知っていること、考えていることを全てお話するわけにはいきませんが、一つだけ確かなことがあります。それは、あの日花穂さんがこの店へ来てブックマッチを持ち帰ったこと、それが極めて重要な鍵を握ってるということです。私はそう考えてます。ですからあの日あった出来事、会話、感じたことを、伝聞のかたちじゃなくて直接堂園さんから訊きたかった。それが真意です」

 彼はカウンターに肘をのせ、背筋を伸ばして正面を見た。それからやや芝居がかった口調でいった。

「わかりました、お話しましょう。やってもいないのにいつの間にか僕が犯人に仕立て上げられるなんて、たまったもんじゃない。考えただけでもぞっとする」

 彼はスツールごと椎名のほうに向き直ると、首をすくめるような仕草をした。日本人には似合わない仕草だが彼は堂に入っていた。

「さあ、何でも訊いてください、僕が知っていることは全部、洗いざらいお話しましょう。だからぜひ、本当の犯人を探し出してほしい」

「最初に教えてもらいたいのは、花穂さんがここへ来た理由です。開店中であれば急に昔の恋人が、あるいはその店が懐かしくなって立ち寄ったということもあるでしょう。しかし準備中と知りながら彼女は訪れてるわけですね。ということは普通に酒を飲みにきたわけじゃなくて、堂園さん、あなたに会いにきたということになります」

 反応を見逃さないように椎名は相手の顔をのぞき込んだ。堂園は背筋を伸ばしたまま数秒、虚空を見つめた。

「それがよくわからないんです。警察からも何回も訊かれたんだけど、あの日のことをいくら思い返してみても、花穂がなぜあの日店に顔を出したのかその理由も目的もわからないんです。本当に」

「店に花穂さんがいたのはどれぐらいの時間でしたか」

「小一時間ほどじゃなかったかな。付き合ってた当時の想い出話とか、最近の出来事とかそんなよもやま話ばかりでした」

「アルコール類は一切口にしなかった?」

 眉根を寄せて少しきまりの悪そうな顔になった。

「飲みましたよ。一杯だけ」

「もしかして、飲んだのは日本酒じゃないですか」

 ゆっくりと上げた彼の顔に、微かな驚きの色が広がった。

「よくわかりましたね。そうです、彼女が飲んだのは日本酒でした。といっても彼女が注文したわけじゃなくて、最近僕が気に入ってる東北の地酒があって、ちょうど店にあるから飲んでみないかと水を向けたら、飲みたいといってよろこんで」

「花穂さんは酒に強くて、しかも日本酒が大好きだと他の方から聞きました」

「驚いたな、事件とは無関係なそんなことまで知ってるとはね。うちの店はこの通りバーだから、ウイスキーをはじめとする洋酒やカクテルを中心にやってますが、実はメニューにはない日本酒も置いてるんです。僕が地酒好きなものだから」

「裏メニューというやつですか」

 そうそう、と笑って頷く。

「メニューには書いてありませんから、初めてのお客さんや知らない方は注文しません。あくまでごく一部の、僕と親しいお客さんにしかお出ししないことにしてます」

 椎名は壁に並んだグラスを改めて眺めていった。

「壁のあの隅っこのほうに、どう考えても洋酒やカクテルには合わないようなグラスがあるのを見て、花穂さんからの連想でもしかしたらと思ったもので」

「よく見てますね。うちの店に初めて来て、日本酒が置いてあることを見抜いたのはあなただけですよ。やはり仕事柄、鋭い観察眼をお持ちだ」

 心底感心したという調子でいうと、彼はそれから少しだけ目をすがめた。微かな警戒の色が浮かんでいる。

「花穂さんはその地酒を一杯飲んだ。堂園さんも付き合ったんですか」

「もちろんですよ。僕も彼女もアルコールには強いほうだから。純米酒の平均レベルが特に高い、宮城県の地酒に最近はまってるのでつい。もっとも僕は開店前に、トニックウォーターでたっぷり口をすすぎましたが」

「旨い地酒を楽しみながら昔の話をあれこれしたと」

「ええ、他愛もない話ばかり」

「最近の話は花穂さんはしませんでしたか」

 しばし彼は口をつぐんだ。

「そういえば、ほんのちょっとだけだけど話してました。いま付き合ってる男がどうとか」

「具体的にはどんなことを」

「僕の記憶では、きちんとした相談事とかそういう感じじゃなかったと思います。彼女はあの通り物事をはっきり口にするというタイプじゃないし」

「いまの恋人についての悩みを昔の恋人に相談に来てはみたものの、なかなか言い出しにくかったのかもしれませんね」

 堂園は腕組みをして首をひねった。

「うーん、彼女の内心まではちょっと想像できないなあ。とにかく具体的な相談をされたわけではなかったというだけで」

「堂園さんと花穂さんは、別れた後も時々会ったりは?」

「いや、別れてから花穂と会ったのはあの一度きりです。さっき話したように僕にも付き合ってる女性がいましたから。だから彼女の恋人のことについてはその程度だけで、それ以上の話にはならなかった。それに今度相談に乗ってほしいといわれたわけでもなかったから何とも」

 組んでいた腕をほどき、前屈みになってつづける。

「ちょっと考え込むような感じではあったものの、それほど深刻に悩んでるという風には見えなかったけどなあ。これも警察に話したことですが」

「恋人のことで相談しに来たわけじゃないとしたら、花穂さんが突然店に来た理由は何だったのか、そこが謎ですね」

 質問とも自問ともつかないその言葉は、仄暗い店の虚空をしばらく漂っていた。椎名は改めて店内を見渡してみた。

 縁に円筒形の真鍮が施された厚みのあるカウンターが、このバーの核となっていた。他には二人掛けのボックス席が二ヵ所、壁際においてあるだけの小さなバーだ。ただ、何が理由なのかはわからないが妙に居心地のいい空間だった。

「質問を変えます。花穂さんと堂園さんが付き合いはじめたのは、どんなきっかけからだったんでしょう」

「うーん」と、彼は苦笑いを浮かべてちょっと困ったような顔になった。片方の眉が下がって少し情けない表情だった。

「それ、どうしてもいわなくちゃいけませんか。事件そのものとはあまりにかけ離れた質問にも思えるんだけど」

「かけ離れているのかどうか、それを確認する意味でもぜひ教えてもらえると助かるんですが」

「参ったな。こういうのって当事者どうしは気にしないんだけど、第三者に話すのはすごく恥ずかしいことのような気がして。ほら僕ももうすぐ四十になるし、いい年して何やってるんだって思われそうで」

 親指で顎の下をコリコリと掻いてつづけた。

「実は花穂と知り合ったのは、ネットのサイトがきっかけなんです」

 堂園は本当に照れてはにかんだ。

「でも勘違いしないでください。いわゆる出会い系サイトとかそういうのじゃなくて、ちゃんとした趣味のサイトです」

「趣味というと」

「地酒好きが集まって、自分の好きな各地の地酒とかお勧めの酒を紹介し合うところです。さっき話したように僕はほとんどパソコンもスマホもいじらないんですが、地酒に関係するサイトだけは、情報収集の意味もあって時々覗いたり書き込んだりして楽しんでるもんだから」

「ああ、そういうことでしたか。ところで堂園さんと花穂さんは一緒に暮らしたことはなかったんですか」

「同棲という意味ですか」

 椎名が頷くと、彼は苦笑いを顔に貼りつけて立ち上がった。カウンターを回り込んで中へ入る。

「何だか話しにくい質問が増えてきたんで酒が飲みたくなってきたな。あなたは、椎名さんは何か飲みませんか?」

「まだこの後仕事があるので……」

 躊躇したのは一瞬だけだった。

「強い酒じゃなければ」

 堂園が破顔した。

「なんだ、断られるのかと思ったら飲むんだ。付き合ってもらって有難い。何かご所望の酒でもあれば伺いますが」

「度数が強くなければ、好き嫌いはあまりないので何でも。そこはプロにお任せしますよ」

 彼は両手を腰に当ててしばし考えた。

「ここまでの話の流れでいけば当然地酒になりますけど、さすがに椎名さんは仕事中に匂いがしたりするとまずいでしょう。ハイボールでいいですか」

 無言で頷くと、堂園はさすがの手さばきで素早くウイスキーと炭酸水を混ぜ合わせた。コースターとグラスの一つを椎名の前に置く。

「花穂の魂に」

 彼が静かにそういったので、互いにグラスを小さく掲げて献杯した。重みのあるグラスだった。口に含むと弾ける泡とともに仄かに煙臭い香りが立った。アイラモルトだ。

 口の中で転がしていた液体を飲み干すと堂園がいった。

「花穂と一緒に暮らしたことはありません。彼女のほうからも僕からもそんな話にならなかったし、ついでにいえば結婚の話も一度も出たことがなかった」

「堂園さんにはその気は全然なかったんですか」

 彼は矢継ぎ早に二口目を飲んでいった。

「僕は他人と一緒に同じ家に住むことはできないだろうと、自分では思ってます。自分が無意識に引いた線の内側に、侵入者が入ってくることが許せないたちなんでしょうね。一度失敗した結婚生活でしみじみそう実感しました。誰かと同じ空間で寝起きするのは無理、そういう性分なんだってわかったんです。この感情、理解してもらえますか」

「何となくは」

 椎名もひと口飲んでつづけた。

「私も独身ですから気持ちはわからないでもないです。でもいまの二十代三十代の男って、多かれ少なかれそういう気分があるんじゃないでしょうか。昔の人たちと違って小さい頃から個室で育ってますからね。無意識のうちに、個室の狭い縄張り意識みたいなものが気持ちのどこかに残ったままなのかもしれない」

「狭い縄張り意識か。なるほど」

 グラスを持った手の甲で鼻をこすると、彼は薄く笑った。

「案外当たってるかもしれないな。僕はあれこれ理屈をつけて自分のポリシー、自分の個性だと思い込んでるけど、根っこの部分にあるところは意外にみんな似ているのかもしれません。さまざまな人や物事とどうにか折り合いをつけられる人間と、どうしてもつけられない人間がいるというだけの話で」

 一人で納得している。そこで思い出したように堂園がいった。

「いまもオフ会って言葉があるのか知らないけど、その板の人たちで集まって地酒を飲もうよってことになったんです。それが僕と花穂との初めての出会い」

「すぐに意気投合したんですか」

 その問いに彼は首を傾げた。