●六人目 堂園寛樹/バー経営者
場所/『Bar オーバル』
薄暗いバーだった。オーナーの堂園はカウンターに両手をつき、苛立ちを抑えつけるような調子でいった。
「ですから、警察にもう何度も同じこと話してますけど、僕は犯行が行われたとされる前後は日本にいなかったんです。それを証明してくれる人だっていますし、その人も警察から事情聴取されて、そのときのことも詳しく話してくれました」
「もしよければ、どこにどなたといたのかについて簡単に教えていただけませんか」
「十二月の二十三日から二十六日まで、三泊四日で海外へ行ってたんです。一緒に行ったのはいま付き合ってる女性」
「海外というと、どちらへ」
小さく舌打ちをして彼は答えた。
「バリ島ですよ」
「寒い日本を脱出して、南のリゾートでクリスマスを過ごそうとしたわけですか」
「わかったでしょう。アリバイが、しかも完璧なアリバイがあるんです、僕には」
椎名はゆっくりと深く頷いてみせた。犯行時刻のアリバイに関していえば、警察よりも一般人のほうが疑う傾向が強い。そのアリバイは偽装したものではないのか、と。
しかし実際の捜査では逆だ。容疑者がその時刻明らかに異なる場所にいたという事実、あるいはそれを証明してくれる第三者が存在する場合、捜査本部はその人物を容疑者リストの下位へと移動させる。もしくはリストから消去する。現実の事件におけるアリバイとはそれほど大きな意味を持つものだ。
「私がお尋ねしたいのはアリバイのことじゃないんです。さらにいえば堂園さん、あなたを犯人かもしれないと疑っているわけでもありません」
堂園は椎名が差し出した名刺の表、そして次に裏をしげしげと見てから訊いた。
「それじゃあ、興信所の探偵さんがなぜわざわざ私のところへ?」
「被害者のことで、いくつか伺いたいことがあったからです」
彼が顎を引くような仕草を見せたので椎名はいった。
「金銭的なこととか」
彼は首をひねって見せて、意味がわからないという答えの代わりにした。
「花穂さんと付き合っていた当時、例えば食事するときなどにお金を払っていたのは堂園さんでしょうか。それとも割り勘でしたか」
「冗談じゃない、ちっぽけな店とはいえ僕は経営者だ。年下の恋人にデート代やら食事代やらの金を払わせるわけがないでしょう。うちは小さなバーだけど客筋はいいし、それぐらいの経済的な余裕はあります。それに僕は独身だから、金のかかる家族がいるわけでもない」
少し踏み込んだ質問をぶつけてみる。
「それでは、花穂さんにお金を貸したことはありませんでしたか」
不意打ちだったのか、彼は身体を後ろに反らして目を見張ってみせた。
「随分と不躾な質問だ。でもまあ、ありましたよ。それが何か?」
「そのお金は戻ってきましたか」
少し間が空いた。どう答えるのがこの場ではベストなのか、考えているのかもしれなかった。
「いや。彼女は返すといったけど僕が気にしなくていいっていったんですよ。それに、それほど大きな額でもなかった」
「これは大事な質問なので思い出してほしいんですが、一回にどれほどの金額を、都合何度ぐらい貸したんでしょう」
頭の中で詳細を思い出しているらしかった。
「一度に二十万から四十万ほどの額を、多分四、五回じゃなかったかな」
最小で八十万円、最大で二百万円。随分と幅がある。儲かっているバーの経営者の金銭感覚とはこういうものだろうか。
「花穂さんはなぜお金を借りたいのか、そのわけは話してくれましたか」
「詳しい中身をいちいち話すことはなかったですね」
「でも一回の金額としても、総額としても結構な額じゃないかと思うんですが」
口をへの字にして、堂園は少し迷うようなそぶりを見せた。そして仕方がないという感じでこういった。
「花穂がいつもお金を必要としてた理由は薄々わかってましたから。彼女には田舎に妹がいて学校に通ってたんです。その学費のほとんどを彼女が負担してたようだった」
金城美絵へのインタビューを思い出していた。高校を卒業したら何かの学校に通いたがってるという話だった。
「学校というと?」
「確か看護学校だといってました。彼女たち姉妹、小さい頃にお母さんを病気で亡くしてるでしょう。だから妹のほうは将来看護士になって、お母さんみたいな病気の人を助けてあげたいって小さい頃からいってたらしくてね」
「そうですか。花穂さんが経済的に苦労してた理由は、妹さんの看護学校の学費を用立てるためだったと」
彼は眉間に深いしわを刻み真顔でいった。
「確か二歳違いだと思ったけど、花穂だって働きはじめて二年か三年かそこいらだから、たいして給料だって高くないはずだ。そんな状態で妹の学費の面倒を見るっていうのは、相当大変だったんじゃないかな」
「そんな状況を察していたからこそ、堂園さんは返済を求めないお金を貸したわけですか。ある意味では、その学費の一部を堂園さんが負担していたことになりますね」
彼は無言で頷いた。
「貸した人間がもう気にしてないといってるんだから、お金の話はもうこれぐらいでいいじゃないですか」
堂園はぱんと小さく手を叩くと、つくり笑顔でつづけた。
「そんなことより警察がどうして僕を疑っているのか、つまり花穂に手をかけたかもしれないと考えているのか、そこがよくわからない」
椎名は少し考えてからいった。
「警察は物量作戦ができるんです」
「いったい何の話ですか」
「ですから、警察が堂園さんをなぜ疑っているのかという話です」
ああ、という口の形をつくる。
「警察官と探偵は、というか警察と興信所は、いってみればNHKと民放みたいな関係にあると思うんです」
数秒考えてから彼はいった。
「お役所と民間企業という意味?」
「ええ。第二の税金のように徴収した潤沢な受信料と人材を投入して、NHKなら溶けゆく北極の氷の様子を四年かけて撮影できるでしょう。けど、民間にはとてもそんな悠長なロケは無理だ。費用の上限は当然決まっていて、しかもロケに出せる人員にも限りがある。興信所も同じです」
椎名は親指で自分の胸を指した。
「超のつく零細企業だから、とても物量作戦を展開できる余裕なんかありません」
今度は堂園が椎名の胸のあたりを指さした。
「利益を上げなくちゃいけない」
「そう、食っていくためにね」
椎名は苦笑いを浮かべてつづけた。
「話を戻すと、警察は糸目を付けずに大量の人員を投入することができる。もちろん重大事件の場合はということですが。通常はそれに比例するように容疑者の数も多くなっていきます。でも容疑が晴れれば一人ずつリストから消していけばいい。それだけのことだと思います」
顎に手をあてて少し考えてから堂園はいった。
「つまり僕は元恋人という立場で疑われてはいるけれども、最重要の容疑者というわけじゃない。そういう意味にとっていいのかな?」
「あくまで参考人程度じゃないかと思います。これはあくまで私の憶測に過ぎませんけど。なので、私に対してもあまり構えずに、花穂さんのことを気楽に話してもらえると助かります」
「実は一度、結婚に失敗してるんだよね」
彼は唐突にそんなことをいった。
「若すぎたのかな、僕も相手も。まだ二十代後半だったから互いに自分を主張するばっかりで、相手を許すというか受け入れるってことができなかったのかもしれない」
途中からは自分に言い聞かせるような口ぶりに変わった。
「まだ傷が浅くてすんだのは、子どもができる前だったからだと思う、幸いなことに。だからなのかどうかわからないけど、それ以後つき合う女性は、結婚を口にしなさそうな人ばかり選んでた。ずるいやつだって思われるだろうけど」
「花穂さんもそんな一人だったわけですか」
小指で額をコリコリ掻いていう。
「少なくとも僕にはそう見えた。ただの勘だけど。でも少なくともこれまでは、不思議にこの勘が外れたことはなかった。でもその中の一人が、今度の事件で亡くなってしまった」
椎名はカウンターの上の埃を払う仕草をして、少し間をとって尋ねた。
「想像もつかないのでお訊きしたかったんですけど、恋人だった女性が亡くなったと知ったとき、どんな感情が湧き上がってくるものなんでしょう」
グラスを磨きはじめていた堂園は手を止めた。そしてしばし考えてこういった。
「例えば、病気とか不慮の事故で亡くなったなら、僕は経験したことがないからこれはあくまでも想像でしかないけど、悲しむんじゃないかと思う。もの凄く。でも花穂は人の手で命を奪われたわけです。言葉でどう表現すればいいのか、未だに自分でもよくわからないんだけど」
唇を噛んで言葉を探しているように見えた。
「あえて近い心情を表現するとすれば、悔しい。親しかった人間が若くして亡くなるってことは、すごく悔しいことです」
悔しい。
「病気とか自然災害で身近な人を亡くした人はどうなのかわからないけど、その場合は憎しみをぶつける相手がいないでしょう。これって精神的にとてもきついんじゃないかと思うんです。でも事件の場合は違う。必ずそれを引き起こした犯人がいるわけですよ。誰かは知らないけど、その相手が判ったら憎むだろうね、そいつを」
再びグラスを磨きはじめた。時々グラスを光で透かし見て、わずかな曇りも見逃さないというように丹念にチェックしている。いま語った内容とは裏腹に、至極冷静な仕草だった。
「深夜にかけて営業するこういう店をやっていると、結構さまざまな揉め事に巻き込まれることも多いものでね」
堂園はそこで煙草に火をつけた。高価そうなライターで、開くときの金属音が壁に反響した。
「警察や、あなたのような興信所の探偵さんからあれこれ訊かれたのも、一度や二度じゃない」
「喧嘩や傷害沙汰の関係者として、または目撃者として事情を訊かれることに慣れてるというわけですか。どうりで」
彼は金属製の灰皿に灰を落とし、ちらとこちらを見ていった。
「どうりでとはどういう意味ですか」
「普通は事件について訊かせてほしいと申し入れると、大抵の人は腰が引けたり、逆に過剰に警戒されることが多いものです。でも堂園さんはどこか落ち着いていらっしゃる。というか、堂々としているように見える」
「そんなことはありませんよ。どんなことを質問されるのかと内心はびくびくもんです。その証拠に」
指に挟んだ煙草を示した。
「普段は吸わないこれにこうして火をつけたのも、動揺していることの動かぬ証拠といってもいいぐらいだ」
「こんな風に素直に心情を話してくれると、一般的には正直な人という印象を受けるものです」
片方の眉を下げた怪訝そうな表情で、堂園は煙草をひと口吸った。
「でも、実際にはその逆かもしれないと考えることもできる。不利なことはいわない自信がある、自分には鉄壁のガードがある、そんな気持ちの裏返しと考えられなくもない」
「鉄壁のガードとは?」
「しいていえば、アリバイということになるでしょうか」
苦々しげに舌打ちをすると吐き捨てるようにいった。
「ずいぶんとひねくれたものの見方だ」
「言葉や気持ちの裏を読むのも仕事のひとつでして」
「不利なことも何も」
彼は不機嫌そうに唇の片側を吊りあげ、煙草を灰皿に押しつけて消した。
「僕は本当に何もしていないわけだから、有利な発言も不利な発言もない。ただ実際にあったことや起きたこと、目にした事実をそのまま警察の人に話しただけだ。さっき警察では僕がただの参考人程度だといったけど」
下から覗き込むように睨んでくる。
「何だか凄く、あなたの言葉の端々から僕を疑ってる気配を感じるんだけど、気の回し過ぎでしょうかね」
一拍おいて椎名は答えた。
「気の回し過ぎだと思います。多分」
「多分、ね。その言い方に棘を感じるんだなあ、嫌みをいわれている気がして」
分厚いカウンターを挟んで立つ彼の背後には、逆さ吊りにされた無数のグラスが並び、ダウンライトの微かな光を集めて輝いていた。都会の真ん中に突如現われた大きな蛍の群れが、店の主である彼を何かから守っているようにも見えた。
「私は根がへそ曲がりなもので、よく相手に誤解を与えてしまうタイプなんです。感情を害してしまったのなら誤ります。この通り」
会釈をするように椎名は軽く頭を下げた。今回の相手には、これまでとは違うやり方で臨もうと考えていた。友好的に話をしようとははなから考えていない。
要所要所で相手の発言に楔を打ち込み、話の流れを切っていく心積もりだった。それで相手が苛立ってくれれば思う壷だ。
「マッチについて教えてもらっても構いませんか」
堂園は一瞬片眉をぴくりと上げ、虚を衝かれたという顔つきになった。
「どうしてそのことを知ってるんです? 刑事さんから聞いた話では、そのことはマスコミにも発表していないし、捜査関係者しか知らない事実だって……」
相手の言葉を遮って椎名はいった。
「どんな組織にも穴は空いてるものです、大小は別として。興信所というのは、社会の表側とは異なる情報の回路を持ってます。裏側に回れば警察組織と非常に近い立場にあるといってもいい。持ちつ持たれつというか。退職した刑事さんを顧問として迎え入れる会社もあるくらいで」
「ああ、そういうものか。それは初耳だな。つまりそういうルートを使って、興信所ってのは捜査情報を入手できる立場なんだ」
「正確にいえば捜査情報の一部です。それも本当のごくごく一部に過ぎません。警察組織の情報管理能力は高いし、極めて堅牢ですから。とにかくそんなわけで、犯行現場の花穂さんの遺体のそばにマッチが落ちていた事実を、なぜか私は知ってるわけです」
「ブックマッチ」
堂園が静かに訂正した。
「ということは、そのブックマッチにうちの店名が印刷されてた事実も、もちろんご存知なんだろうね」
椎名は相手から目を離さずに頷いた。
「探偵さんは何もかもご承知か。大したもんだ」
皮肉たっぷりにそう呟くと、彼は一本しか入っていない灰皿を洗いはじめた。
「もしよければ、その名入りのブックマッチの実物があるのなら見せていただきたいんですが」
シンクに落としていた視線を、彼は一瞬レジの下に飛ばした。そして唇の端をあげてから洗った灰皿をタオルに伏せて置くと、微かに笑みを浮かべていった。
「もう置いてないんだ。残念でした」
堂園はカウンターの入口近くを顎で示した。
「以前はそこに一個灰皿が置いてあって、そのブックマッチをいつも山盛りに入れてたんだけど」
さっき視線を走らせたのはカウンターの下のほうで、彼がいま顎で指したのはカウンターの上だった。椎名は内心で頷いた。
「客が自由に持ち帰れるようにしてあったわけですか」
「そう。いまどきオリジナルでブックマッチを作ってお客さんに差し上げるなんて、旧式で酔狂なサービスをやってる店なんてほとんどないから。店のマッチがあること自体気づかないお客さんがほとんどだし、お会計のときに目について珍しいからとお持ち帰りになる方も多かった。だから僕としてもできればつづけたかったけど……」
「事件の後にサービスをやめてしまった?」
先回りして椎名がいうと、嫌そうな顔で彼は小さく頷いた。
「そりゃそうでしょう。こっちはいまどき珍しいサービスだからと思って、よかれと思ってやってることだったのに、そのせいで大変な厄介ごとに巻き込まれる羽目になったんだから。大した額じゃないとはいっても、費用を使ってまでやっていることで自分が迷惑をこうむるんじゃ全く割に合わないでしょう」
「なくなって残念がっている客もいるんじゃないですか」
慰めのつもりでいってみると、堂園はうっすらと笑みを浮かべた。
「いまの時代、どんな物にもコレクターという人種が存在します。だから以前はそういう人が噂を聞きつけて店に来ることもありました。来れば一杯二杯でもオーダーしてくれるから、そういう意味ではうちの店ならではのサービスとして営業に貢献してくれてたといえるでしょう、非常に微力とはいえ。だからコレクターの人たちも残念だろうけど、僕自身としてもすごく残念なことなんですよ。だって店をはじめたときからつづけてきたことだから」
そういって堂園は店内をぐるりと見渡した。椎名はいった。
「いまやネットの時代ですし、ネット上で何でも売り買いされるから、ブックマッチのコレクターが集まるサイトなんかもあるのかもしれませんね」
「僕はパソコンやスマホをよくいじるほうじゃないのでよく知りませんが、そういう話を耳にしたことはあります」
「そういうマニアの間やネットショップでもそうみたいですけど、やはり使用した物よりも未使用のほうがずっと高値で取り引きされるそうですね」
「それはそうでしょう。うちのお客さんで骨董品集めが趣味の方がいて、教えてもらったことがあるんです。例えば、すごく古い時代に作られた名品の焼き物の茶碗でも、本体だけ残っている場合と、箱や箱書きっていうのかな? それが一緒に残っているのとでは、場合によっては倍も値段に差が出ることがあるそうです。茶碗だけだと三百万円の代物が、箱書き付きだと六百万という感じで」
椎名は驚いた顔を見せてから、こんな質問を投げてみた。
「その流れでいけば、堂園さんの店のブックマッチも、使用済みは一万円、未使用の物は二万円という可能性もありますね」
「まさかそんなことは……」
「被害者と関わりがあった店のブックマッチということで、プレミアムが付いて」
彼の顔に浮かびそうになった笑いが瞬間凍結され、それから徐々に不愉快そうな表情へと解凍されていく。堂園は頭を左右に振っていった。
「わからないな。あなたは一体僕から何を訊き出したいんですか。そろそろ店を開ける準備をしなければいけない時間なんですがね」