世界の裏庭

読書、映画、創作、自然など

『その男、椎名』第4・5章-3

f:id:tsukimorisou:20200710084911j:plain

 

 

「それってもしかして、僕が警察に一一〇番通報の電話をしてたときの声じゃないですか? 人間って気絶してても耳は聴こえてるもんなんですね」

 瀬川はそこで慌てて片手を左右に振ってみせた。

「だからほら、夢か現実だったのか自分でもわからなかったから。でも何だか話し合ってるというか会話してたような憶えがあるの。男の人どうしで」

「それ、最初に到着した警官と僕が喋ってたときじゃないですか」

 食いつくような神の質問に、彼女は腰が引けたような体勢になった。

「ごめんね、それもわからなくて」

 やや混乱してきたようだったので、少し間をとってから椎名は訊いた。

「その会話の中身を憶えていませんか? 断片的な単語や言葉でも構わないので」

 瀬川は両腕を抱え込むようにして考えていた。神がいった。

「そういえば最初に到着した警官の人が、瀬川さんを抱き起こそうとして声をかけましたけど、そのことは憶えてます?」

「ううん、それは全然知らない。それでね、さっきの会話のことですけど、どちらかの人が何度かマッチって言葉をいってた気がするんだけど……やっぱり、きっと夢を見てたのね」

 椎名は息が止まりそうになった。逸る気持ちを懸命に抑えた。ここで焦ってはいけないと言い聞かせる。

 何もいわずに先を促すつもりで神を見た。彼は言葉を選んで慎重にいった。

「亡くなってた女の人の横にマッチが落ちてたみたいで」

「落ちてたみたい?」

 椎名が繰り返すと、彼はあやふやな感じで頷いた。

「その警官の人が、女の人の足元の溶けてきた雪の所を指さして、僕に訊いたんです。これは君の物じゃないのかって。それと煙草を吸うのか、とも。僕は煙草なんて吸わないし、もちろんマッチなんか持ってないので警察の人にはそういいました。いま瀬川さんがいったマッチというのは、そのことじゃないかな」

「どういう流れでマッチの話になったんですか」

「僕が通報するまでのことをざっと伝えて、警察の人がいますぐにでも現場保存したいんだけど道具がないっていって、その後だったと思います。何だこれは? みたいなひとり言をいって地面を指さして」

 椎名はノートに〈マッチを警察官が発見〉と書き込んだ。それから瀬川に向かって再度尋ねた。

「その他に何か聞いた記憶は?」

「他にも声は聴こえてたような気はするんですけど、何しろ頭も記憶も当時のことは何だか濃い霧の向こうの出来事みたいで、何もかもがいまでも朦朧としたままなので。そのくせ一つひとつの細部はくっきりと鮮明で……すごく変な感じなんです」

「それでは次は、病院で目が覚めた後のことも簡単で構いませんので教えてもらえますか」

 一瞬表情が強ばったものの、徐々に微かな笑みへと変わっていく。

「目を開けたら白い天井が見えました。そばにいた看護婦さんが意識が戻りましたって大きな声でいって、廊下へ出ていったんです。するとコート姿の男の人たちが二人か三人部屋に入ってきて、すぐに事情を訊かれることになって……あとはここまでお話してきたような内容のことをお話ししただけです。刑事さんたちが相手でしたから、もっと詳しく根掘り葉掘り何度も何度も同じようなことを訊かれましたけど」

 そういって苦笑いを浮かべた。椎名は万年筆のキャップを閉めていった。

「瀬川さんはそのマッチは見ていないんですね」

「ええ、警官の人が来たときは気を失ってましたし、その女性のほうは怖いので見ないようにしたから」

「そのマッチって」

 急に神がいった。

「何か重要な証拠か何かなんですか?」

 椎名は万年筆の頭を指でこすりながら答えた。

「重要なのかどうかは私には判断できないですが、現場に落ちていたということは遺留品として鑑識が、きっといろいろな方法で分析したはずです」

 神は腕組みしていった。

「マッチって近頃はあまり見かけなくなりましたけど、でも僕はあれをぱっと見てマッチとはわかりませんでした。マッチって普通、箱の中に小さい木の軸みたいなのが入ってるじゃないですか。でもあれは何ていうか四角い紙でできてるような感じの……」

「ブックマッチっていうそうです。そして神さんがいった通り紙でできてます。箱に入った普通のマッチは一本か二本使っても数が減ってるかどうかわかりません。製造元を突き止めて出荷時の本数を調べればわかるとは思いますが。でもブックマッチというのは、開いてみると使用済みか未使用かひと目でわかるんです。使用済みで指紋や体液が付着してれば、DNA鑑定で個人を特定することもできます。でもいまどきそんな間抜けな犯人はほとんどいないでしょうね」

 神が感心したようにいった。

「けど、そういう意味じゃやっぱり重要な証拠になるわけか。そう考えると現場で最初に発見したあの警察の人、結構優秀だったってことですね」

 沢崎は確かに有能な警察官で、将来刑事になりたいと語っていたことを椎名は思い出した。刑事に昇任するためには署長の推薦が必要で、そのためには日頃の職務に対する態度が重視されると聞く。

 今度の事件が見事解決した暁には、彼の立場も大きく変わることになるかもしれなかった。

「立ち入ったことを訊くようですが、お二人とも仕事中に事件に遭遇されたわけですよね。その前と後で、多少なりとも仕事に影響が出たということはありませんでしたか」

 瀬川と神は視線を交わしてから、互いに相手を窺うようなそぶりを見せた。最初に口を開いたのは神だった。

「こんな言い方すると誤解されるかもしれませんけど、僕は前にも一度同じような目にあってますからね。最初のは事件じゃなかったですが、仕事への影響というのはあまり感じなかったです」

「それじゃ最初のときはどうでしたか」

 首をひねって数秒考えてから彼はいった。

「ありましたね。といっても仕事とか職場の人の態度が変化したとかそういうことじゃなくて、僕自身が変わったというか」

「神さん自身の内面に変化があった?」

 真剣な面持ちでしっかりと頷き、それからいった。

「人って本当に死ぬんだって思ったんです」

 真意を量りかねたので黙っていると、彼はこうつづけた。

「もちろん、人がいつかこの世からいなくなるってことは知ってました。あくまでも一般論として。あのとき遺体を発見するまで、僕は人間の遺体というものを見たことがなかったんです。肉親や親戚を含めて、一度も。だからその事実を生身で、実際に肌で感じた初めての経験だったんです。僕たち若い人間は、自分の死なんてあまりに遠い話だと考えてるから現実味がないんですよね。でもそれを突然目の前に突き付けられた気がしました」

 彼はそこで唇を湿した。

「自分の好きなように生きようって、僕はそう決めました。自分なりに将来の夢を真剣に考えて、そのために全力で努力しようって考えるようになったのも最初の経験をした後からのことです。そういう意味ではあの出来事は影響がありました。というか、ものすごく大きな影響を僕に与えました」

 いったん事件に関わってしまえば、事情聴取はもちろん警察官が代筆する調書の確認など、否応なしに煩わしい作業に巻き込まれてしまう。大抵の事件関係者はうんざりしてしまうものだ。

 それなのに彼は後悔していないどころか、良い意味で影響を受けたと言い切った。事件を担当する刑事も、これだけ協力的であればさぞ感謝しているに違いない。

「わたしは」

 唐突にそういったきり瀬川は口ごもった。急かさずに椎名も神も待った。

「わたしも影響はありました。でも神さんとはまるで逆です。怖くなっちゃったんです、とても」

「何が怖くなったんですか」

 両手でハンカチを握って膝の上に置き、下を向いたままいう。

「仕事で人様の敷地に入っていくことがです。また薄暗い裏庭におかしなものが……あ、おかしなものなんて失礼ですね、ごめんなさい」

 誰に対しての謝罪か不明だが、彼女はぺこぺこと頭を下げている。椎名はいった。

「恐ろしい思いをしたのに似たような場所へ行かざるを得ないんですから、瀬川さんの反応はごくあたり前のものだと思います。悪いのはこんな変な質問をした私のほうです」

 申し訳ありませんと椎名も頭を下げた。

「会社では気を遣ってくれて、あの直後から十日間ほど有給休暇を取らせてくれたんです。そのことはすごく有難かったんです。けど、変に休んじゃったものだから休暇明けで最初の検針へ出かけたとき、あの現場とよく似た一軒家の前で足が竦んじゃったんです。仕事なんだから、責任があるんだからここだけ検針しないで済ませるわけにはいかないでしょうって、自分に言い聞かせて」

 恐る恐る窺うような感じで神が訊いた。

「それで、どうしたんですか」

「十分か十五分くらい迷ってたんだけど、意を決して裏庭のほうに回ってみたの。そうしたら足元から何かが飛び出してきて」

 固唾を呑んで言葉を待った。

「猫だったの。きっと野良猫が、わたしが近づいたのに驚いて隠れていたところから逃げようとしたんじゃないかと思う。わたし、本当に心臓が止まるかっていうぐらいびっくりしちゃって」

「でも」

 いいにくそうに神がいった。

「気を失わなくてよかったです」

 今日何度目かの、微妙な空気に包まれた。

「もう無理って思いました。だからわたしいま異動願いを会社に出しているんです。どうにか外勤じゃなくて内勤の仕事に回してもらえないでしょうかって」

 彼女はそこで小さく溜め息をついた。

「でもね、わたしはそもそもメーターの検針員として採用されてるわけだし、正社員でもないし、無理な異動願いだっていうことは最初からわかってはいるんです。会社の上司もいい人で、わたしが事件に関わったことで精神的なショックを引きずってることはわかってくれてるから……結局のところ、わたしがわがままなことをいってるだけなのかもしれません」

 瀬川は顔をあげないまま呟いた。

「でも怖いんです。本当に」

 言葉の接ぎ穂が見当たらなかった。事件の波紋がこうして静かに時間をかけて、ゆっくり拡がっていくこともあるのだ。

 酷なことを強いている意識はあったが、最後に一つだけ確認しておきたいことがあった。椎名はノートの当該個所を見ながら告げた。

「発見したときのことをもう一度確認させてください。瀬川さんは神くんに、最初は〈人間かしら〉と尋ねたと話してくれました。そして次に話してくれたとき、〈マネキンや人形じゃなく本物の人間の足だとすぐに直感した〉とおっしゃってます」

「あら、そうでした?」

 気づいていたのか神が何度か頷いた。

「ショッキングな場面に遭遇して、記憶が混乱するのはよくあることなので仕方がないと思います。一方で、神くんは最初に足を見たとき、人形か何かだと思っていたといいました。これは私の想像ですが、神くんと一緒に何度か事情聴取を受けるうちに彼の証言に引っ張られてしまった可能性はないでしょうか。無意識の同調圧力というか」

同調圧力

 彼女はくり返した。

「瀬川さんは第一発見者だった。非常に重要な証人です。多分知らないうちにそれがプレッシャーになって、同じ第一発見者の神くんと話が違っていたら良くない、無意識にそう感じて証言内容を合わせようとしたんじゃないでしょうか」

 彼女は手に持ったハンカチをしばらく見つめていたが、やがて顔を上げて答えた。

「最初の直感で、本物の人間だとわかっていたと思います」

 そこでしっかりと一度頷いてみせた。

「そしてその直後、いくらなんでもそんな場面に自分がいるわけがないって、そんな非現実的なことはあり得ないって、自分にそう言い聞かせたのかもしれません。そして何度か話を訊かれるうちに、自分の記憶を知らず知らず塗り替えてしまってたのかもしれないです」

「ありがとうございました。また嫌なことを思い出させてしまってすみません」

 恐ろしい記憶をなかば強制的に語らせてしまった申し訳なさがあった。このインタビューの後味の悪さを少しでも払拭させたくて、椎名はレコーダーのスイッチを切って笑みをつくり、彼女に訊いた。

「そういえば、瀬川さんのお子さんはもう独立されたとのことでしたが、どんな仕事をしてらっしゃるんですか」

 全身に張り巡らされていた緊張の糸が、ふっと弛むのが見えた。目尻のしわが深くなった。

「上の子のほうは公務員になりましてね、都庁の職員なんです」

 誇らしげな顔つきだった。

「へえー、それはすごいですね」

 神が当たり障りのない相槌を打った。本心なのかよいしょなのか椎名にはわからなかった。

「景気が上向いてくると公務員の人気が低くなるなんていわれますけど、やっぱり長い目で見れば親としては安定した職業についてくれるのが安心だから、一番」

「そうですね。私もそう思います」

 椎名が頷くと、彼女から徐々に笑みが消えていって最後には眉根を寄せた。

「心配なのは下の子のほうなんです。ゲームを作る仕事をしたいとかいって会社に入ったのはいいんですけど、正社員じゃないっていうんですよ。椎名さんの前でこんなことをいうのも失礼かと思いますけど」

 上目遣いで椎名を見て、軽く会釈してからいった。

契約社員なんです」

 三人の間に重苦しい空気が漂った。

「椎名さんも同じような立場だと思うので伺いたいんですけど、やはり、あの、あれでしょう?」

 いいにくそうに、しかし意外にはっきりとこうつづけた。

「会社員としても社会人としても、不安定な立場ですよね」

 答えないわけにはいかない雰囲気だったので、仕方なく答えた。

「正社員に比べて、という比較でいえば確かに不安定と思われてもしょうがないとは思います。でも……」

「椎名さんはおいくつ?」

 不意打ちの質問に面食らったが、子を思う母の熱意に気圧されて反射的に答える。

「二十九歳です」

「結婚はしてらっしゃるの?」

「あ、いや、まだ」

 矢継ぎ早に質問をくり出した彼女は、そこでごく控え目に溜め息をついた。やっぱりね、と顔に書いてあった。

「もちろん結婚しない理由にはいろいろあることは、わたしも二人の子の親なので知ってるつもりです。でもやっぱり経済的な問題とか立場が不安定とか、そういう背景もひとつにはあるんじゃないでしょうか」

 説得力がありすぎる尋問、というか誘導尋問に答える言葉が見つからなかった。

「日本では全労働人口の約四割近くが非正規雇用だと、いつか新聞で読みました」

 椎名に対するフォローのつもりか、今度は神がそんなことをいった。

「いまの僕の立場は勤労学生ということになるのかもしれません。自分でいうのも何ですけど、一生懸命必死で働いてます。それこそ大学生という立場を維持するために。でも時々思うんです。学生でありつづけるために頑張って働いて、そのためにゼミにも入れずレポートのために睡眠時間をさらに削って、何だかこれって本末転倒だよなって」

 今度は少し苦めの沈黙が降りた。神は握り締めた両拳を膝に置いたままつづけた。

「そのせいで大学の成績が芳しくなくて、結果的には就活でも苦労して、挙げ句の果てに非正規雇用という立場になったりしたら、いったい自分は何のために大学の四年間辛い思いで頑張ったんだろう。そんなことを考えたりすることもあるんです」

 彼はそこで顔をあげた。

「でも僕、夢があるんです」

 その顔には、最初に会ったときと同じ輝きが戻っていた。

「貧困や飢えで苦しんでる世界中の子どもたちを、助けてあげたいんです」

 虚を衝かれた。瀬川も同じ思いだったのか、口をぽかんと開けて神の横顔を見つめていた。

「だから若いうちはあちこち世界を回って、子どもを救うための経験やノウハウをいっぱい身につけて、最終的にはこの国の困ってる、苦しんでる子どもたちを助けてあげたい。そう思ってます」

 彼は一度口を閉じ、意を決したようにいった。

「だってこの国は、僕らのように困ってる若者や子どもに手を差し伸べてなんかくれやしないから。大企業とか既に両手から溢れるほどのお金を手にした人たちの冨を、さらに増やすことにしか興味がないように僕からは見えます。だったら僕のような人間が、そして僕みたいな体験はしてないにしても、同じような志を持った人たちが手を結んで子どもを救えるはずだ。絶対にやってやる、それが僕の夢です」

 椎名は目をすがめるように彼を見た。眩しいものでも見せられているように。さらに神はつづけた。

「瀬川さんの息子さんも、もしかするとゲームで世界を制したいっていうような、そんな途方もない夢を持ってるのかもしれませんよ」

 いたずらっぽく目許に笑みを浮かべている。かくんかくんと彼女は頷いた。

「確かに同じようなことを息子がいってました。世界中の何十億人もが楽しんでくれるようなゲームを、いつか自分で作ってみたいって」

 今度は神のほうが、こくこくと頷く。

「僕らの世代はデジタルネイティブです。生まれて物心ついたときからネットで世界とつながってる世代なんです。だから肌感覚として、ごく普通に世界とじかにつながってる感触があるんですよ」

 眼を細めて懐かしそうにいう。

ポケモンのゲームで初めてインドの子とレアなモンスターを、ワイファイ経由で交換したのは小学生のときだったかなあ。初めてゲームを買ってもらったときは飛び上がってよろこびました。例えじゃなくて、実際に」

 そして瀬川を見てつづける。

ゲームクリエーター、みんなに夢を与えられるいい仕事だと僕は思います。徹夜も多いしいろいろ大変なことも多い仕事だって聞きますけど、好きなことなら大丈夫。どんなことだって乗り越えられますよ、きっと」

「そうだったらいいんだけどねえ」

 半分希望、半分不安という感じで思案投げ首の瀬川に対して、神はなぜか満面の笑顔だ。

「案ずるより産むが易しっていうじゃないですか。それに息子さんはもうちゃんと働いてるわけだし、疑うより信じてたほうが人間って前向きになれます」

 二人の会話を聞いていると、どことなく仲のよい母子に見えなくもない。

「瀬川さん、神さん、今日は長い時間お付き合いいただき申し訳ありませんでした」

 椎名は二人を交互に見て告げた。

「お二人の貴重な話を無駄にしないためにも、今回のインタビューを何とか事件解決に生かしたいと思ってます」

 今日は最初から謝礼は用意していなかった。第一発見者二人が金銭を受け取るとはとても思えなかったからだ。

「被害者の岸田花穂さんと、その親ごさんのためにも、事件が解決したというニュースを見る日を心待ちにしております」

 瀬川が深々と頭を下げたので、椎名も同じように返した。

「僕からもぜひお願いします。瀬川さんと僕が話したことが、解決につながることを心から祈ってます。もし新聞の見出しで見つけたらうれしいだろうなあ、自分がこれに関わったんだぞってすごく興奮すると思います。僕もその日がくるのを楽しみにしてますから」

 二人は立ち上がると同時に会釈し、出ていこうとした。

「神くん、ちょっといいかな」

 椎名が呼び止めると二人が振り向いた。戸惑っている神を見て、気をきかせたのか瀬川が再度会釈して出口に向かった。

「何か?」

「これは事件のインタビューとは無関係な話だし、余計なお世話かもしれないけど」

 彼は真剣な目つきでこちらを見た。

「私が想像もできないほど神くんは頑張ってると思うんだ。でもその立派な苦学生というレッテルに、きみ自身が縛られてるんじゃないかと気になった。そのレッテルは世間が勝手に貼ったものに過ぎない。神くんも、ときには懸命に頑張る苦学生の仮面を外して本心を言ってもいいんじゃないかと思ったから」

 面食らったというように彼はまじまじと見つめている。

「たまには友だちと徹夜で酒を飲んでばか騒ぎしてみたい、とか」

 数秒の沈黙の後、強張っていた彼の表情がわずかに緩んだ。

「僕だって、僕だって椎名さんがいうように、夜の時間が自由に使えるんだったら友だちと思いっきりばか騒ぎしてみたい」

 彼はそこでいったん俯いてから、再度顔をあげていった。

「僕がいま一番やってみたいこと、何だかわかります?」

「何だろう」

「合コンです」

 彼の顔に満面の笑みが浮かんだ。少し間の抜けた若者らしい表情だった。

「かわいい女の子たちと僕の友だちとで居酒屋に集まって、バカな話をしたりエッチな話題で盛り上がったりしてみたいんです」

「その話を友だちにいってみたことは?」

 首を左右に振り、苦笑と悲しみが入り混じった顔になる。

「どうせそんな時間も取れないし、そんなことは僕には無理だって……」

「友だちに話してみるといいよ、新聞販売所の人たちにもね。こんなばかなことがしてみたいんだってストレートにさ。あまり長く欲望を抑えこみすぎてると、欲望そのものが消えて無くなっちゃうよ。欲望は成長の糧にもなると思う」

 しばし考えてから、神は力強くこういった。

「そうですね、話してみます。友だちとか先輩に、もうちょっと本音を」

「ばかなことができる、それが若者の特権だ。老婆心ながら」

 神の肩をぽんと叩いて椎名はいった。

「呼び止めて悪かったね」

「何だかちょっと気持ちが軽くなりました」

 ありがとうございましたと一礼すると、彼は若者らしいきびきびした様子で立ち去っていった。人混みに紛れていく背中をガラス越しに見届けながら、椎名は次のインタビュー相手へと思いを巡らせはじめていた。

 次の相手ーーそう、いよいよ最も重要な人物に会わなければいけない。