世界の裏庭

読書、映画、創作、自然など

『その男、椎名』第4・5章-2

f:id:tsukimorisou:20200710084512j:plain

 

「その場で気絶したわたしが、その前後の記憶が途切れていたわたしがこんなことをいっても説得力ないかもしれないけど、気を失う前に若い男性、つまり神さんと二言三言言葉を交わしたはずなんです。その後で気を失ったと思うんです。だって交わした言葉、憶えてるんですよ?」

 混乱状態の目撃者の証言が食い違う。事件の関係者から話を訊き出そうとするとき、よくあることだった。椎名は水を向けてみた。

「どういう会話のやりとりだったんでしょうか」

「その人に、つまりあなたに」

 神のほうに上体を向けていった。

「これって人かしらって訊いたと思うの。だって本当にわからなかったから。だって、人間だとしたらあまりにも……」

「肌が真っ白だった?」

 かくんかくんという感じで首肯する。

「神さんはこのこと、憶えてますか」

 彼は首を横に深く倒して考えながらいった。

「憶えてないんですよねえ、僕。そのとき会話したこと」

 今度は瀬川に尋ねる。

「それで神さんは何ていったんですか」

「さあ、わかりません。そう答えた気がします。それで次にわたし、すっかり混乱してたものだから、あなたが犯人? って訊いちゃったんです」

 少し考えて椎名はいった。

「興味深い話ですね。それで答えは」

「そんなバカな! って。そういったと思います、ちょっと怒ったような顔で」

「それで終わりですか、瀬川さんが気を失う前の会話は」

 瀬川は首を横に振った。

「もうひと言、今度は神さんのほうからわたしに訊いてくれたのよね。どうしたんですかって」

「それは憶えてるんです。確かにそういいました。それで大丈夫って答えた次の瞬間、気が緩んだのかぐにゃってなって……」

「違うの、そうじゃないの」

 瀬川はハンカチを持った手を左右に振った。

「大丈夫って答えたとき、雪の下にあった足が動いたの。ぴくって」

 三人の時間が止まった。

 ややあって、神が「こわっ」と呟いた。

「あとで警察の人から聞いた話だと、積もって固まってた雪が溶けてそれで動いたんでしょうっていってましたけど」

「足が動くところを神さんは見たんですか」

「いや、僕は見てませんね」

 瀬川が言い訳するような調子でいった。

「彼の横から足が覗いてましたから、彼からは見えてなかったはずです」

 椎名は短くメモして、それから再度確認した。

「それを見て瀬川さんは気を失ったわけですか」

 また、かくかくと頷く。椎名は神に訊いた。

「つまりこの後の現場で起きたことを知ってるのは、神さんだけということになりますね」

 生真面目そうに頷く。

「冷静だったつもりでしたけど、やっぱり僕もパニクって記憶が混乱してるのかもしれないです。実際この時点で、僕はあそこに被害者の人がいたこと自体気づいてなかったですから」

 彼はしばし顔を上にあげ、記憶を整理しながら話しているような様子だった。

「僕の感覚としては、ちょっと盛り上がった雪の横で女の人が地面に座ってて、それで声をかけたら突然気絶してしまった。そんな感じでした。ほんとに何が起きてるのかわからなくて、それでどうしようかと思って周りを見回してるうちに、人の足みたいなのが目に入って……でもそれでもまだ僕は人形か何か、例えばマネキンが捨てられてるとしか思ってなかったんです。そんなことより、目の前で気を失ってしまった女性のほうがよっぽど気がかりだったので」

 神は前屈みの姿勢になり、組んだ自分の両拳に語りかけるような調子でつづけた。

「でも少しずつ少しずつ、ほんとにゆっくりですけど状況が理解できてきたんです。いま目の前で起きてるらしい現実に、自分の気持ちがやっと後から追いついてきたっていうか」

 ここは大事なところだ。急かさないで相手のペースに合わせるべきだった。

 神は一度背筋を伸ばして居ずまいを正すと、ごくりと生唾を呑み込んだ。痩せているわりには大きな喉仏が上下に動いた。それから息を整え、舌で唇を湿してからおもむろに口を開いた。

「これは人間の足なんだって思いました。本物の人間の足だって、不意にわかったんです。きっとこの女の人は倒れている女性の足を発見して、びっくりして腰を抜かしてそれで僕に助けを求めようとしてたんだって。まるで映像を逆回しにして再生するみたいに、唐突に自分が置かれてる状況が把握できたんです」

「一瞬で?」

「はい、一瞬で」

 当時の生々しい記憶を思い出したのか、神の顔が徐々に紅潮してきた。

「それで僕、迷いました。一一〇番通報が先か、それとも救急車のほうを早く呼ぶべきかって」

 顔に微苦笑のような表情が浮かぶ。

「考えてみれば、雪に埋もれてる女の人のほうはもう亡くなってるんだよなって思って。とにかく警察に通報したときに女の人がもう一人倒れてるって伝えれば、救急車も手配してくれるに違いないって考えました」

 やや間をとってから椎名は告げた。

「遺体を発見した現場にいる人としては、随分と冷静だ」

「そうですね。後から自分でもそう思いましたし、警察の人からもいわれました。でもよくよく思い返してみると、やっぱり僕は僕なりにパニクってたんです。通報しようとして最初にディスプレイで押した数字が一一九だったんですから。一一〇番通報するつもりだったのに」

「なるほど。混乱してるときにやりそうな勘違いだ」

「冗談なのか本当なのか知らないけど、ありますよね。一一〇番って何番だっけっていうのが。とにかく発信寸前で気がついて、それから慌てて一一〇番にかけました。空き家の位置を伝えて、女の人の足みたいなのが雪の間から見えてて、すぐそばにいた別の女の人が気を失って倒れてますって。でも口頭でうまく説明するのが難しくて、相手の警察の人に状況を理解してもらうのに少し時間がかかっちゃいました」

「最初に現場に来た警察官はどんな対応でしたか」

「まだ若い警官の人でしたけど、自転車で来たんです。すごく急いで飛ばしてきたみたいで、到着したときは息を切らしてました」

「神さんが通報してからどれぐらいで駆けつけましたか」

 少し考えて答える。

「正確な時間はちょっと憶えてませんけど、せいぜい二分か三分ぐらいじゃなかったかと思います」

「早いね」

「ええ、早かったです。というのもその警官の人は、たまたまその周辺を自転車でパトロール中だったみたいで、無線で緊急連絡が入って一番で駆けつけることができたっていってました」

「警察官が到着した後はどうなりましたか」

「通報したのとだいたい同じような内容を伝えました。悲鳴を聞きつけたことと、家の裏側にいってみたら女性が気を失って、それから別の女性の足を見つけて一一〇番しましたって」

「警察官の人の反応は?」

「急いで現場を保存しなくちゃいけないから、家の道路側へ行って待っててほしいといわれました。それで次に警官が到着したらすぐ裏手に回るよう伝えてほしいと。それで到着を待ってる間に販売所へ電話を入れたんです」

「販売所に?」

「ええ、この後事情を訊かれるとかでしばらく時間を取られるだろうから、このままだと新聞の配達が遅れるって連絡しようと思いました。前日の雪でも、お客さんから遅配の苦情電話がいくつも入りましたから。いまのうちに事情を知らせておいたほうがいいと咄嗟に判断したんです」

 若いのに、つくづく落ち着いた行動をとれる青年だ。

「やはり以前に同じような体験をしたからかな」

「きっとそうだと思います。ホームレスの人を見つけたときも、それからいろいろ事情聴取っていうんですか? それを受けて開放されたときには二、三時間経ってましたから」

「販売所の人も驚いてたでしょう」

 彼は顔をくしゃくしゃにした。

「みんなに不思議がられました、どうしてお前だけそんな場面にしょっちゅう出くわすんだって。でもそんなこといわれたって、僕が自分で選んで事件や事故に遭遇してるわけじゃないし」

「それに今回の事件では、厳密にいえば第一発見者じゃなかった」

 慰めるつもりでいってみたのだが、実際口にしてみると気休めにもなっていなかった。彼は瀬川の横顔を、ちらと盗み見してからいった。

「それで販売店への電話が終わるとすぐに最初のパトカーが到着して、直後から警官もパトカーも続々とやってきました。その頃になると野次馬の人だかりも大勢できてて、テレビのニュースなんかでよく見る黄色いテープが広く張られてて、とにかくもう周辺一帯が大騒ぎになっててびっくりでした」

 騒然とする現場の様子は容易に想像できた。椎名は瀬川に向き直って尋ねた。

「瀬川さん、少しは落ち着きましたか?」

 気を取り直したように彼女はいった。

「ええ、もう大丈夫です。ごめんなさいね、心配かけちゃって」

 椎名は首を振って、なるべくゆっくりした口調を心がけていった。

「一般の方がそういう現場に、しかも重大事件の発生現場に居合わせたら、激しく動揺したりパニックになったりするのは当然のことです。しかも私みたいな見ず知らずの相手に、ほじくりかえすように思い出させられるのもとても嫌だと思います。会うことに承諾してもらいありがとうございました。そして改めて謝罪します、申し訳ありません」

 本心だった。彼女も首を横に振ると気丈にいった。

「被害者の女性、岸田花穂さんとおっしゃいましたね。若くして亡くなられたその方の無念を晴らすために、犯人を捕まえてちゃんと罪を償わせるお役に立てるのなら、わたしが少し辛い思いをするぐらいどうってことありませんから」

「それじゃ瀬川さんの話しやすい順序で構いませんので、お願いします」

 目顔で頷くと彼女は話しはじめた。

「まず空き家にいったときのことからお話します。雪の上にはわたし以外の足跡はついていませんでした。これは刑事さんに何度も確認されましたけど、間違いありません。だから積もったまっさらな雪の上を歩いて家の裏側に回りました。メーターがそっち側にあったので。それで日陰になってる裏庭まで入っていったところで、ちょっと違和感があったんです」

「違和感。具体的には?」

 彼女は小首を傾げて言葉を探している風だった。

「雪が少しだけ盛り上がっていたんですよね。もちろん前の日から道や庭のあちこちに、屋根から滑り落ちた雪が結構積もったりはしてましたけど、それとはどこか違う感じがしました。何ていうか、こう」

 瀬川は両手を使って小さな山を作るような仕草をした。

「小山のように尖ってなくて、雪が平べったいそのまま盛り上がってるというか。それで何気なくそっちを見ていたら、その平べったい小さな雪の一部分だけに、朝日があたってたんです。ほとんどが日陰になってた裏庭で、そこだけ陽射しがあたって雪が溶け出しちゃってて……」

 そこで瀬川はいったん、ぎゅっと目をつむった。できれば二度と思い出したくない光景を、記憶の底から無理やり力づくで引きずり出そうとするかのように。

「足が見えました」

 椎名を通り抜けたどこかの一点に視線を固定して彼女はいった。

「女性の足でした。白い雪の下から、革のブーツと膝の下あたりまでが見えてました。マネキンや人形じゃない、本物の人間の足だとすぐに直感しました」

 瀬川は言葉を切ると、しばしの間俯いて呼吸を整えていた。

 椎名は首をかしげた。事件の解決に直接つながるような証言ではないものの、居心地の悪さを感じる齟齬があった。

「そういうのって本能的にわかるものなんだなって思い知りました。それでわたし、途端に頭の中が空白になったっていうか、何ひとつ考えられなくなって。自分では悲鳴なんてあげた憶えはないんですけど、あとから聞いたら何度か叫んでたらしいです」

 神が、瀬川と椎名を交互に見た。

「それで腰が抜けたというのか、急に体中の力が抜けちゃったみたいになって、その場にぺたんと座り込む感じになったみたいです」

「頭は真っ白だったものの、その時点ではまだ気を失っていなかったわけですね」

「ええ、意識はしっかりありました。ただ身動きができないというだけで。そこへ男の人が」

 いったん神を見てつづけた。

「神さんが来てくれたんです。もう頭の中はぐちゃぐちゃのくせに、奇妙なことなんですけど別のことを考えてるんです。この女性はきっと誰かに……だとするとこの男の人が犯人かもしれないって、きっとそうだ。もしかしたらわたしも危ないって。いまから考えるとひどい妄想なんですけど」

「その極限の恐怖心のせいでとうとう気絶してしまった?」

「もちろん恐ろしかったことには間違いないんですけど」

 彼女はいったん頷いてから、わずかに首をかしげた。

「動けなかったところに人が来てくれて、犯人じゃないとわかってほっとしたというのもあったのかもしれません。もの凄く怖いっていう極限の緊張から、正反対の安堵の気持ちになったというか……」

 椎名は話を引き取った。

「日常では経験しないほど大きすぎる、精神的な落差が一気にやってきた結果、そういう状態になってしまった。瀬川さんとしてはそう考えていらっしゃるわけですね」

「と思います。自分で後から分析してみれば、ですけれど」

「そしてその後は、救急車で搬送された病院で目覚めるまで記憶が途切れてるわけですか」

 彼女は今度は、さっきとは逆の方向へ首をかしげた。

「これは気を失ってる間に見た夢や幻覚なのか、それとも現実のことだったのか、自分でもよくわからなくなってるんですけど」

 そんな断りを入れて彼女はつづけた。

「声が聞こえていた気がするんですよね。男の人の声が」

 黙って瀬川の話に耳を傾けていた神が、「すげぇ」と唸った。