●四・五人目 瀬川春子/水道検針員 神匠/大学生・新聞配達員
場所/公共施設待合ロビー
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今回、新聞記者を名乗ることにしたのは、インタビューの相手が新聞配達をしていることも理由のひとつだった。
神匠(じん・たくみ)は瞳を輝かせて、ためつすがめつ椎名の偽の名刺を眺めていた。やがて感極まったというようにいった。
「事件記者なんていう職業があるんですね。初めて知りました」
「職業名というか」
椎名はカバンからICレコーダーを取り出しながら答える。
「自分がやってる仕事の、またはやりたい仕事の方向性を表しているというか、まあ曖昧なものですから」
全く疑問を挟んでいないらしい純粋な目で匠がいう。
「それじゃもしかして僕がこれから話す内容も、新聞とかに載る可能性があるってことですよね?」
どう答えるべきかしばし逡巡した。良心がしくしく痛んでくる。
「録音させてもらっても構いませんか」
神と、名刺を受け取ってからずっと黙っている瀬川春子に向かって告げた。
「もちろんです! どんどん録音してください」
瀬川もこくりと頷いた。椎名はレコーダーのスイッチを入れてマイクを二人のほうに向けた。
「それじゃ最初に神くんのことについて少し聞きたいんだけど、新聞配達の仕事をしてるんだったね」
「はい、僕の場合は新聞給費奨学生といって、アルバイトみたいな感じなんですけど、いちおう社会人の扱いにはなってます。社会保険にも入ってるし所得税も払ってますから。でも自分としてはあくまで大学生だと思ってます。お世話になってる販売店さんには申し訳ないですけど。経済学部です」
「昼は大学に通いながら仕事として新聞配達してる、そういう理解でいいのかな」
こくりと頷く。
「自分で大学生だといいましたけど、でも時々本当にそうなのかなって感じることもあるんですよね。朝刊と夕刊両方配達して集金業務もあったりするので、本当に生活時間の六割か七割がバイトに取られてる感じなので」
眉が八の字になった。困ったような顔つきだ。
「普通の大学生、文系のって意味ですけど、大体の人は三年までに必修の単位を取り終えて、四年に入ったらすぐに終活をはじめます。でも僕の場合は早朝とか夕方の遅い授業は履修できないことも多いから、四年になっても結構たくさんクリアしなくちゃいけない必修単位も多くて」
「こうして詳しく話を聞いてると本当に大変そうですね。休みだって休刊日ぐらいしかないんだろうし、しかも学生として授業も受けなくちゃならないわけだから」
「自分でいうのもあれですけど、若くて体力があるからまだやってられるんだと思います。こんな短い睡眠時間で働いてられるのも……あ、これ販売所のことを悪くいってるわけじゃありませんから。所長はじめ先輩の皆さんにはほんとに良くしてもらってるし、テスト期間になればいろいろ時間や仕事も融通つけてくれるしで、もう感謝感謝で、本当に感謝の気持ちしかないです。寝る時間が短いっていっても毎日五時間くらいは眠れてますし、課題やレポート提出が重なったりすると三、四時間ってこともありますけど、でも大丈夫です。休日に寝だめがきくタイプなんで」
なんだか椎名に対して言い訳をしているような調子で、彼は笑顔を作った。目の下には青黒いくまができていて、髪もややぼさぼさ気味だ。一方で、確かに若いだけあって肌の色艶は良くぴかぴかで、そのアンバランスさも好ましい。
「なんかすいません、自分のことばっかり喋っちゃって」
「いや、それでいいんです。話を訊くためにインタビューしてるわけだから」
「でも僕の日常っていうか、大学やバイトの話だけしてても……だって椎名さんはあの事件の第一発見者としての目撃談を聞きたいわけですよね」
大学生でまだ若いというのに随分と人に気を遣う若者だった。青年期に経験した苦労が人をやさしくするのなら、それもあながち悪いことではない。椎名はいった。
「インタビューというのは、これはあくまで個人的な考えだけど、訊き出す話の内容はもちろん重要だけれども、その話者がどういう人物かってことも案外重要なものなんです」
「へえ、そういうものですか」
これ以上余計な気遣いをさせないために、椎名はあえて笑みを頬に貼りつけていった。
「相手がどのぐらい正直に話してくれるか、あるいは多少は話を盛りやすいタイプなのか。あ、失礼」
椎名が軽く頭を下げると、匠は笑って手のひらを左右に振った。
「それもある程度把握しておかないと、インタビューの土台そのものが揺らぎかねないからね」
「すごいです、やっぱり。新聞記者の人ってもう尊敬しかないなあ。実は僕、中学校の頃から新聞を読むのが好きで、それもあって自力で大学へ行こうと思ったときにいまの仕事がいいなと思ったんです」
椎名は鼻の頭を小指でコリコリと掻いていった。
「そんなわけで、もう少しだけ大学や仕事の話を聞かせてもらってもいいかな」
最初に挨拶してから、ずっと黙って二人のやりとりを聞いていた瀬川春子が唐突に割って入った。
「あの、つかぬ事を伺いますけど、椎名さんは事件記者さんということですが、立場としては会社員なんでしょうか。それとも契約社員とかフリーとか、そういう?」
椎名は彼女のほうに向き直って答えた。
「立場としては契約社員というかたちです」
あらかじめ用意していた答えを告げると、瀬川はわずかに笑顔を見せていった。
「そうなんですか。お若いのに少し不安定な立場なんですね。実はわたしも外部委託企業の契約社員なものだから。仕事の中身は椎名さんと随分違いますけど、似たような雇用形態です」
「本当に増えてますからね、正社員以外の立場が」
「わたしなんか、もう子育てが終わったからパートみたいな仕事でも構わないけど、お若いのに契約社員じゃ結婚なんかだってそう簡単には踏み切れないわよねえ……あら、わたしったら差し出がましいこといっちゃって、ごめんなさい」
苦笑いを浮かべて椎名は片手をあげた。
「いいんです、気にしないでください。ところで、瀬川さんはいつ頃から水道検針員の仕事を?」
瀬川は人差し指を顎にあてて少し考えた。
「そうですねえ、下の子が高校二年のときだったから六、七年前かしらね。短大を出てからわたしもずっと働いてたんですけど、二人目の子どもができたらさすがに共働きは難しくなって、しばらく専業主婦をしてたんです。子どもたちがつづけて独立してからは暇を持て余すようになっちゃって、夫に働きたいっていったら、いいんじゃないかっていわれて、それで」
「理解のあるご主人でよかったですね」
彼女は鼻にしわをよせて笑った。人の良さそうな笑顔だった。
「わたしは元々外に出るのが好きなたちだったし、前は事務職だったんですけど、一日中机にかじりついて数字と睨めっこしてるのは性に合わなかったんですよ。だから再就職を考えたときは、ぜひ外に出て働ける仕事がいいなって思ってたの」
「それじゃいまのお仕事はぴったりだったわけですか」
瀬川はそこで、しばし考えてからこういった。
「外に出るという意味では、まあそうですね。ただ、ああいう仕事も結構苦労は多くて。人様の敷地内におじゃますることになりますから、在宅とか留守にかかわらず必ず声がけするようにとか、こまごまとした決まり事がいくつかあるものだから」
「へえ、そうなんだ、知らなかったです」
神がそんな感想を呟いた。事件後に何度か顔を合わせているのか、どこか気安い雰囲気が二人の間にはあった。
「僕らも敷地の中にあるポストまでいきますから同じようなものかなと思ってたけど、声がけしろとはいわれません」
「それはそうよね、時間帯が違うものね」
瀬川はそこで隣の神をちらと見た。
「でもあなたを見てると羨ましいわ、母親として」
神は少し面食らったような表情を浮かべた。
「羨ましいなんて初めていわれました。一体僕のどこが羨ましいんです?」
「だって地方から東京へ出てきて、ただでさえ慣れない生活環境の中で暮らしていくだけでも大変でしょうに、さらに大学の学費まで自分で払ってるわけでしょう。本当に偉いと思うわ。母親として考えたら素晴らしい息子さんだと思うもの」
瀬川は椎名に目線を戻してつづけた。
「それに比べたらうちの息子たちなんて、あ、男二人兄弟なんですけど、アルバイトは大学時代にちょこちょこしてましたけど、お金なんて服や飲食に使うだけで家計のことなんて何ひとつ考えちゃくれなかったから」
そういうと瀬川は再び神を見て、偉いわといった。
「そんなことないです。全然そんなことありませんって。瀬川さんの家はお子さんを大学に通わせるだけの余裕があった、僕の家にはそんな余裕はなかった。それだけのことですよ」
どこか達観したような笑みを浮かべていう。
「人に話すと皆さん同情するのか褒めてくれますけど、でも僕はこういう境遇で本当によかったと思ってるんです。他の人より苦労した経験はきっと人生の糧になるはずですし、将来間違いなく役に立つはずだと考えてますから」
優等生らしい発言だった。しかし、やや優等生的に過ぎる。まだ若いというのに人間が完成してしまっている印象がある。鼻の頭をコリコリ掻いて椎名はいった。
「一生懸命頑張る苦学生。苦学という言葉がいまあるのかどうかわからないけど」
「年輩の方には時々そういわれることがあります」
爽やかな笑顔でそう答える。彼の笑顔は本心からのものというより、顔に〈笑顔〉という膜を貼り付けたように見えなくもない。それが少し気になった。
「それじゃそろそろ発見当日のことについて話を訊きたいんですが、いいでしょうか」
神は顔をあげると困った顔つきに変わっていった。
「その前に椎名さんにぜひ聞いておきたいことがあるんですけど、だめですか」
「何でも訊いてください、答えられる範囲でお答えします。心にわだかまりがあって身の入らないインタビューになっても困りますから」
「この事件ってまだ犯人が逮捕されてませんよね。どうしてなんでしょう」
質問の意図が掴めなかった。
「どうして、とは?」
「だってこういう事件って、案外すぐ犯人が捕まるものなんじゃないですか」
薄く笑ってから椎名は答えた。
「確かに毎日のように事件は起きて、毎日のように誰かが逮捕されてるという印象はありますね。警察は通常なら、証拠を取っかかりに捜査が動きはじめることが多いんです。それが現場に遺された証拠でも、関係者の証言だとしても同じですが、いずれにしても動き出すためには取っ掛かりが必要です。事件が起きた、さあどっちの方向へ捜査を進めていこうかというわけです。ところが」
椎名はまだキャップを取っていない万年筆を指でいじりつつ、少し間をとってつづけた。
「今回はそれが極端に少ない。事件解決の鍵となりそうな、わずかな物証はなくはないんです。犯人ではないかと目星を付けてる人物は何人かいるようですが、いずれにせよ決め手に欠けると、捜査本部ではどうもそう考えてるふしがあります。事件の動機や人間関係など、背景も含めてまだ不明な点が多すぎるんです。今回の事件は、だから難しいんだと思ってます。下手をすればこのまま迷宮入りする可能性も高いんじゃないかと、個人的には考えてるぐらいで」
神は真剣な表情で頷くと、椎名に先を促すように手で示した。
「まず、私が調べて知っている範囲の当日朝の状況を、これからざっと話します。事実関係に間違いがないかどうかの確認してもらうためです。事実に誤りがあったり、それは自分じゃなくて相手のことだというようなことがあれば、できたらその場ですぐに教えてもらえると助かります。よろしいですか」
二人は同時に頷いた。神はやや上体を前に傾け、瀬川はバッグから取り出したハンカチをぎゅっと握りしめた。椎名はノートを開いていつでもメモをとれる準備をした。
「それでは厳密な意味での第一発見者である瀬川さんから。十二月二十七日の早朝、といっても大雪の影響でさまざまなところで影響が出て混乱してましたけど、瀬川さんは普段通りに出社して検針の仕事に出かけられた。その数日前に電話が入っていて、漏水の可能性があると思われたその一軒家の空き家に、その日朝一番で行く予定だった。ここまで間違いありませんか」
瀬川はこくりと頷いた。顔が強ばっていた。
「そして犯行現場となった一軒家へ到着したのが、だいたい八時二十五分前後。そして検針するために家の裏手にあるメーターの所へ行こうとしたとき、溶けつつあった雪の下から女性の足が出ているのを……」
「ちょ、ちょっと待ってください」
瀬川は片手を上げてそういった。見れば顔色は真っ青に変わっていた。椎名はそこで、彼女が発見直後に気を失ったという事実を思い出した。迂闊だった。もう少し相手に心の準備をする時間を与えるべきだった。
「すみませんでした。それでは神さんの確認を先にさせてもらって構いませんか」
神に向き直ってそう伝えると、彼は小さく「はい」と答えた。
「神さんは新聞配達に出かける時刻が、こちらも大雪の影響でいつもより大幅に遅れてしまった。そのせいで当日はいつもよりずっと遅い八時三十分前後に、その一軒家の近くを通ることになった。いつもは何時ぐらいに出発するんですか?」
「いつもは大体三時に起きて、まずトラックで配られた新聞とチラシを受け取ってから、販売所のみんなでチラシの折り込み作業をします。雨や雪が降りそうなときはビニール袋への封入作業も。昔はほとんど手作業だったそうですけど、いまは機械がやってくれるので手間そのものは大したことありません。けど、あの朝は積雪のせいでトラックの到着自体が一時間半近く遅れてしまって、結局その後の作業が全部遅れることになってしまいました」
椎名はそこで瀬川の顔を盗み見た。まだ動揺から立ち直ったようには見えなかった。
「発見現場は空き家でしたね。普段なら人が住んでいない家に新聞は配達しないと思うんですが、なぜ神さんはそこへ?」
「そう、いつもだったらあの道は通らないんです。けど、配達ルートでいつも通ってた道に、雪かきで集められた雪が一メートル近くの高さぐらいまで積み上げられてて、とても自転車で通り抜けられる状態じゃありませんでした。それで、しょうがなくあの裏通りの細い道を抜けていくことにしたんです」
椎名は万年筆のキャップを開けて、ノートに〈いつもと違う配達ルート……これも大雪の影響〉と書き込んだ。
「それでその裏通りの細道を通っていたときに」
神は瀬川のほうをちらと横目で見た。
「瀬川さんの声が聞こえてきたんです。その時点ではもちろん、瀬川さんだとはわかっていませんでしたけど」
「どんな感じの声でしたか」
「声というか、悲鳴に近い感じでした」
彼女はわずかに顔を上げると恥ずかしそうに笑みを浮かべた。頬には少し赤味が戻ってきているようだ。彼女のためにもう少し時間を稼ごうと判断したのか、神はつづけてこういった。
「雪のせいか、通りや街はいつもよりかなり静かだったのを憶えてます。だからその声は凄く響いたんです」
瀬川はなおも照れくさそうにハンカチを口許にあてた。
「いったい何ごとだろうと思ってびっくりして自転車を止めて、辺りの様子を窺いました。するとすぐに今度はさっきより大きな悲鳴が聞こえて、今度は空き家の裏のほうからだとわかったので咄嗟に行ってみようと思って」
「怖いとは思わなかった?」
意外だという顔を向けた。
「怖い? どうしてですか」
「私が調べたところによると、神さんは以前も……」
言葉に出す前に、椎名はもう一度瀬川の顔を見た。口にあてられていたハンカチは再び膝の上に置かれていた。
「同じような現場に、以前居合わせたことがあると聞きましたが」
神が驚いたような表情を浮かべ、その横顔を瀬川がじっと見つめている。
「驚きました。椎名さんって本当に凄腕の記者さんなんだなあ。僕が前にも一度、同じようなことで警察に通報したことまで調べてきてるなんて。凄いです」
「実は、最初に現場に駆けつけた警察官の人にもインタビューをしたんです。それで発見時の話を聞いたとき、ついでという感じで話してくれただけですよ」
食い入るように神の顔を見つめていた瀬川が、とぎれとぎれに尋ねた。
「あなた、以前も発見したことがあるの? その、亡くなった人の……」
神が無言で頷いた。彼女はよほど予想外だったらしく、何か恐ろしいものでも見るように上半身を引いた。
「なんか、すみません」
神が急に小さくなって謝った。
「いや、別に誰かに謝るようなことじゃないですよ」
椎名はフォローのつもりでいった。
「偶然にしても相当珍しい偶然だとは思いますが、前のときは行き倒れのホームレスの人だったそうだし、別にあなたが犯人だったというわけじゃないんですから」
椎名が何気なく口にした犯人という言葉に、二人は同時にぎょっとした顔を向けた。
「場をわきまえない発言でした、すみません」
気まずい空気が漂った。咳払いをひとつして椎名はつづけた。
「話を戻しましょう。声を聞きつけて神さんが現場に駆けつけたとき、どんな状況だったんですか」
神は記憶を巻き戻すように宙を睨みつけていった。
「家の裏側へ行ってみると女の人が、瀬川さんのことですけど、雪の上にぺたんと尻餅をついて座ってる姿が目に飛び込んできました。それで僕が、どうしたんですかって訊くと瀬川さんはびくっと振り返って、僕の顔を見た途端、ひっていうような息を吸い込むような音をたてて、横にこう……」
神は瀬川の反対側に上体を折り畳むようにしてつづけた。
「ぐにゃりという感じで倒れ込んだんです。状況が状況だっただけに、僕にもいったい目の前で何が起きてるのかさっぱり見当つかなくて」
彼はそのときの心境を思い出したのか、また困ったように眉を八の字の形にした。じっとテーブルの一点を見据えていた瀬川は、不意に顔をあげると椎名をじっと見つめてこういった。
「そこが、ちょっと違うんじゃないかと思うんです」
いったん口を閉じると、彼女はハンカチをぎゅっと強く握り直した。