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『その男、椎名』第3章-3

『その男、椎名』第3章–3 長編小説

 

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 椎名はノートを開いて事前に書いておいた質問を探し、まだ訊き洩らしている項目をいくつかチェックした。

「花穂さんが同じ会社にいた最初の頃二人とも恋人はいなかったとのことでしたが、その後はどうだったんでしょう」

「もちろんわたしには興味はないでしょうから、花穂ちゃんのことね」

「できれば」

 彼女は天井を見上げ、少し考えてから答えた。

「入社して半年くらいたった頃かな、最初の彼氏ができたのは。同じ会社だけど別の部署にいた男の人で、四、五歳年上の人でした。さっきもいった通り、花穂ちゃんはもてたから言いよってくる男は多かったみたい。でもねえ」

 そこで美絵は不意に眉根をよせて表情を曇らせた。

「ああそうだ、あの子の弱点というか、私がどうかと思ってたところがもう一つありました。花穂ちゃんって男運が悪いというか、見る目がないというか。その年上の彼氏、男性社員の間じゃ有名な遊び人でね。あとでわかったことなんだけど、彼氏ができて付き合ってるって聞かされたときは、もう後の祭りで」

 まるで、そのその男がいるかのようにテーブルを睨みつけてつづける。

「彼からは、社内恋愛だから秘密にしておこうっていわれたけど、美絵ちゃんだけには教えたくて。でも黙っててねって。何のことはない、そのほうが相手の男にとって都合がいいってだけの話です」

「なるほど。公にしないほうが、他の女性にも手が出しやすいというわけか」

「そう。花穂ちゃんも仕方なくとはいえ、高校のときにスナックでバイトしてたくらいだから、純情とか奥手とかいうつもりはないけど、男とのそういう駆け引きみたいなのは、多分すごく下手なタイプだったと思う。だから、まんまと相手の手のひらで踊らされてたんじゃないのかな」

 短くメモを取ってから椎名は訊いた。

「その彼とはどれぐらいつづいたようでしたか」

「よく憶えてはいないけど、一年も保たなかったんじゃないかなあ。別れたとき花穂ちゃんはそれなりに落ち込んでたけど、わたしは内心ほっとしてたもん。付き合ってる最中に、まさか遊び人だから別れたほうがいいよなんていえないじゃない? だからその報告を聞いたとき、ああよかったなって思った」

「その彼と付き合う前と後では、花穂さんに何か変化のようなものはありましたか」

 意外なことを訊かれたというように目を見張って彼女はいった。

「変化……変化ねえ。何か当時の私が感じた違いなんてあったかな。花穂ちゃんが、あれ? と思うくらいに変わったのは、その次の彼氏と付き合いだしてからかな」

「同じ会社の人ですか」

「まさか」

 やはりまだ不快そうな様子だ。

「別の会社の人だったみたい。ていうか、仕事とは全然関係ないところで知り合ったっていってました。ちなみに、その前の彼氏の噂を私もいろいろと聞いてて、目からうろこの話があったことをいま思い出しました。もてる男というかその遊び人のことで、へえって感心させられたのが、同時に複数の女性とは付き合わないというところ」

「ふうん、それは意外だな。それは遊び人とは呼ばないんじゃないですか」

「ですよね、わたしも聞いたときはそう思いました。でも、もてる男が上手なものって何だかわかります?」

 いくつか候補が頭に浮かんだが、椎名は敢えて首を横に振った。すると彼女は得意げにこういった。

「別れ方。女性との手の切り方が上手いの。さっきの男でいうと、一人の女性に全力を尽くして集中して、飽きたらすぐ別れる。で、すぐ次を見つけてまた集中してって、これを延々繰り返してるわけ。まったく男ってのはしょうがない人種だよなあ」

「申し訳ないです」

「椎名さんにはあまり関係なさそうな話だと思うので、誤る必要ないですよ」

 椎名を一瞥して皮肉をいうと、美絵はにんまり笑った。

「次に付き合った彼女のことは、実はわたし、あまり詳しくは知らないんです。というのも、最初の男と別れた後に、わたしは慰めのつもりでそいつの悪い噂を二、三話して、非難してやったのね。でも花穂ちゃんはまだ未練があったみたいで、きっと元彼の悪口をいわれたと思ったんだと思うけど。だから、次の彼氏ができてからはあまりその人のことは教えてくれなくなった」

「次の彼氏そのもののことじゃなくても、花穂さんの憶えてる範囲で構いませんから何かないでしょうか」

「その新しい彼氏も、これがまたねえ。花穂ちゃんを通してしか知らないし、ほとんど話してくれなかったから断言するわけにもいかないけど、何ていうかダメ男の匂いがぷんぷん漂ってた」

「例えばどんなところが」

「こまごましたことはもう忘れちゃってるけど、ひとつ強く印象に残ってるのが、付き合いはじめてそんなに時間も経たないうちに、その男、花穂ちゃんのアパートに転がり込んできたっていうんです。信じられます?」

「転がり込んできたっていうのは、彼が自分の住まいを引き払ってという意味でしょうか」

「多分そうだと思います。花穂ちゃん、来ちゃったものはしょうがないよなんて、ちょっとうれしそうな辛そうな、複雑な顔して笑ってたけど。部屋とかすごくきれいにしてたから、そういう意味でも本心では歓迎してなかったと思うんだけど」

 うんざりしたように溜め息をつくと、彼女は苦笑してつづけた。

「ひと頃ダメンずウォーカーってはやったじゃないですか。あの言葉を聞いたとき、わたし真っ先に花穂ちゃんのことを思い出しましたもん。典型的なダメ男を渡り歩くタイプって、本当にいるんだなあって思って」

「そういうタイプの女性は比較的美人で、しっかり者が多いって聞いたことがあります。話を聞く限り条件的にはぴったりですね。そういえばさっき、次の彼氏ができてから花穂さんに変化があったといってましたが」

 美絵はまた顔を曇らせた。

「うん、大きく変わったみたい。みたいというのは、わたしが実際に見たわけじゃないから本当のところは知らないというか。花穂ちゃん自身の性格とか態度とか、そういう部分が変わったわけじゃなくて、彼女の生活スタイルが変化したの。あの子、会社に勤めながら夜の仕事をやりはじめたみたいだった」

「夜の仕事。副業のアルバイトをしてたということですか」

 黙ったまま頷いた。

「そのこともやっぱり男が関係してたと、美絵さんは考えたわけですか」

「もちろんそう。だってさっきも話したように花穂ちゃんはお金の遣い方も質素だったし、アパートだって当時の相場としても安い家賃の部屋に入ってたし、お給料は安かったけど料理も自炊してたし、倹約してたと思う」

「夜のバイトをしなけりゃならないくらい追い込まれるほど、経済的に困窮してはいなかった?」

「と、思います。温泉も付き合ってくれなかったしね」

 美絵は片方の口許だけを上げて、ちょっと嫌みな感じで笑った。

「その転がり込んできた男のせいだとしか思えないでしょう。だって他に理由なんて見当たらないんだもの」

「夜のバイトについて、具体的にどんなところで働いてたか尋ねてみたことはありましたか」

「いえ、知らないです。というのは、夜のバイトのことはわたしの想像というか、推測? だから」

「花穂さんが直接美絵さんに話したわけじゃない?」

 肩をすぼめるようにして「ええ」と答える。

「でも間違いないと思う」

 少し考えて椎名はいった。

「それは例えば、ちょっと化粧が濃くなったとか、服やアクセサリーが派手めに変わったとか、そういうところから想像したわけですか」

 彼女はぶんぶんと力強く首を横に振った。

「そんなわかりやすいこと花穂ちゃんはしませんよ。あの子、賢かったし用心深かったから。最近は会社勤めしてても副業を許可するなんて話も聞きますけど、あの頃うちの会社は就業規則で禁止されてました。だから花穂ちゃん、会社にも、そして万一を考えてわたしにも絶対ばれないようにかなり気を遣ってたと思います。そのことに気づいてたのも、きっとわたしだけ」

「美絵さんがそこまで確信するんだから、根拠みたいなものはあったんですね」

 まじめな表情で椎名を見つめていった。

「それまでは平日の夜たまに、週一ぐらいでお店によってお茶を飲んだりしてたんですけど、その頃から毎回断られるようになったんです」

 彼女は片手を上げて制すると、椎名の質問を先読みしていった。

「彼氏ができたからっていいたいんだと思うけど、違います」

「ご明察です」

 意味がわからなかったのか、彼女は小首をかしげたままつづけた。

「というのはその彼氏は夜の仕事、確かバーか何かで働いてるっていってたから、会社が終わって急いで部屋に帰る必要なんてなかったの。だから他に理由があるんだろうなって考えて、それ以降はお互いの休日が合うときだけ会うようになりました。ただね」

 彼女は唇を噛んでしばし言い淀んでからこういった。

「あの子の周囲の空気が、何となく汚れていくような気がしたことがあるの。さっき既婚と独身の話でいったみたいに、身なりじゃなくてあくまで雰囲気というか、わたしの印象に過ぎないんですけど。それと、これは花穂ちゃんが一度うっかり口を滑らせたからわかったんだけど、その彼と知り合ったきっかけは多分インターネットだと思う。あの子、当時ネットにすごくはまってるっていってたから」

「いまから十年ほど前……SNSはいまほどじゃなかっただろうけど、ネットそのものは充分普及してましたね」

「パソコンそのものが会社で必須だったから、わたしたちも必死で憶えました。それにわたしは参加したことないけど、オフ会なんかも結構盛んな時代だったんじゃないかな。だからそんなことがきっかけで知り合ったのかも」

 椎名は美絵の表情を盗み見た。少し疲れたような顔だった。

「これは美絵さんに話そうかどうしようか迷ったんですが、せっかくいろいろ教えてもらったのでお礼のつもりで教えておきます。今回の事件で警察が犯人と睨んでいる人物の一人に、バーのオーナーという男がいるんです」

 美絵は反射的に顔をあげた。眉間にしわをよせてこちらを睨んでくる。

「それじゃ、その男が花穂ちゃんを……」

「それはまだわかりません。私が小耳にはさんだだけの話ですし、まだ犯人が逮捕されたという報道もありませんから」

「そうか、そうですよね」

「ところで美絵さん」

 真剣な表情でこちらを見つめる彼女にいった。

「私に何か嘘をつきませんでしたか」

 栞をはさんでおいた彼女の態度が気になっていた。

「最後に花穂さんと会ったときのこと、本当は憶えてるんじゃないですか?」

 途端に彼女の目が左右に泳いだのを見逃さなかった。

「嘘をつくのが上手じゃない人は、下手に嘘をつこうとしないほうがいいと思います」

 顔を上げ、まなじりを決して彼女はいった。

「憶えてます。とても忘れられないくらいリアルに」

 崩していた膝を正座に変えて彼女はいった。

「話を聞いても引かないでくださいね。実はわたし、霊感が強いんです」

 この流れでそうですかと相槌を打つのもおかしいし、どんな返事が正解なのかわからなかったから椎名は黙って頷いた。

「最後に花穂ちゃんと会ったのは、花穂ちゃんが亡くなった後のことでした」

「会ったというのは、夢枕に立ったとかそういうことではなくて?」

「夢に出てきたとかそんな話じゃないです。会ったのは夜だったけど、わたししっかり起きてましたから」

 こういう話は、彼女が話しやすい順序、心情で話してもらうのがいいと椎名は判断した。

「その話、教えてもらっていいですか」

 微かに怯えが浮かんだ目を一度つぶり、再度開けてから彼女は話しはじめた。

「あれは、わたしが花穂ちゃんが亡くなったって知らされる前のことです。花穂ちゃんが亡くなったのはクリスマスだったでしょう? その年末年始は東京のわたしの実家で過ごすことにして帰省したんです。旦那の沖縄の実家へも何度か行きましたけど、あっちは全国から暖かいお正月を過ごしたいっていう人たちがたくさんくるから、人が多くて疲れるんですよね」

 赤ちゃんの柔らかそうな足を指で撫でながらつづける。

「それでお正月の何日だったかな。わたしのパート先は長期休暇はしっかり休業ですけど、うちの人は年末年始もクリスマスもかき入れどきで、どうせほとんど休めないからあとで合流するということで。実家に泊まって二日目、明日は旦那が来るっていう前の夜のことでした。うちの子も両親も寝ちゃったけど、せっかくのお正月くらい夜更かししたいって思って」

「気持ちはわかります。私も休日の前の晩は、つい深夜まで酒を飲みながらだらだら過ごすのが癖になってます」

 彼女は同好の士を得たという感じでにっこり笑ったが、それでもまだ頬は強張ったままだった。

「夜の十一時を過ぎた頃だったと思うけど、トイレに立ったんです。それで用を足してトイレの横にある洗面台で手を洗ってから、顔を上げて何げなく鏡を見たの」

 いったんそこで言葉を切ると、両手のひらを合わせて口許に持っていき、しばし沈黙した。

「息が止まりそうになりました。わたしの後ろに花穂ちゃんが立ってたから」

 多くの人から話を訊いていると、時折この手の話をする人に出会うことがある。そんなとき、頭ごなしに否定したり懐疑的になったりするのは得策ではない。椎名は素直に耳を傾けることにしている。

「花穂さんは、どんな様子でしたか」

 そのときの記憶にすっかり入り込んでいたのか、彼女はやや虚ろな目でこちらを見ていった。

「花穂ちゃん、すごくきれいだった。いままで見てきた中で一番っていうくらい。でも同時に、とっても悲しそうだった」

「何か会話のようなものはあったんですか」

「会話?」

 一体何をいっているのだという調子でいう。

「心霊体験してるときって口で喋らなくても意思疎通ができるんです。経験したことない人には信じてもらえないと思うけど」

 少し考えてから椎名は告げた。

「信じます。経験がないからわかりませんが、美絵さんの話は信じます」

 それでも彼女の頬が緩むことはなかった。

「実際には会話してないですけど、会話の形式で話します」

 椎名は無言で頷いた。

「花穂ちゃん、最初にいったんです。振り向かないでねって」

 奇妙な間が空いた。互いに窺い合うような気配が漂う。昼日中の明るい店内だというのに、背中を冷気に撫でられた心持ちがした。

「怖いですね」

「うん、怖いよ、もの凄く」

 彼女は両腕で自分の肩を抱くような仕草をした。

「動かないでなんてわざわざいわれなくたって、わたしはもう金縛りみたいに身動きできない状態だった。それで花穂ちゃんがいったの。いろいろ迷惑かけちゃうけどごめんね、って」

「事件が起きて警察から事情を訊かれたりして、美絵さんに迷惑をかけることになる。そういう意味でしょうか。もちろん事件を知ったあとで考えてみれば、ということになるでしょうが」

「わたしにはわかりません。警察の人が話を訊きにきたのはその少しあとだったから、もしかしたらそういう意味かもしれない。それで最後に、さよならって」

 少し考えてから椎名は尋ねた。

「この話、警察には?」

「まさか、話してませんよ。だって頭のおかしい女と思われるじゃないですか」

 詰めていた息をふうっと吐き出してつづける。

「さっきもいったように、結局花穂ちゃんとの仲はわたしが途絶えさせたようなものでしょう。だからあの子、どうしても伝えたいことを話しにわざわざ会いにきてくれたんじゃないかと思うの、実家まで」

「花穂さんは、美絵さんの実家に行ったことは?」

「東京にいた頃に何度かわたしが呼んで、遊びにきたことがあります。だから場所は知ってるんです」

 仮に霊魂というものが存在するとして、その存在は住所の有無で行けたり行けなかったりするものだろうか。神社で願い事をするときは、名前と住所を念じなければ神様に伝わらないと誰かに聞いたことがある。その意味では霊魂も同じなのかもしれない。

「会社で出会ったわたしと花穂ちゃんはすぐに意気投合したっていいましたけど、霊感体質だっていう共通点があったのも大きかったのかもしれない。こういうことってわたし、基本的に他人には話さないようにしてるし、特に知り合って間もない相手に告げるのって勇気がいるじゃないですか。それでお互いにそうなんだ、ってなって」

 美絵に笑顔が戻った。隠していたことを話してすっきりしたという顔だった。

「不思議。椎名さんのインタビューを受けたことで、花穂ちゃんとの間であったのに気づけなかったことに気づけたんだもん」

 椎名をまっすぐに見据えていった。

「これってすごいことです。さすが人の話を訊くプロだけありますね」

 後ろめたさと照れ隠しもあり、深々と頭を下げて椎名は「恐れ入ります」と答えた。

「会社時代の話に戻ると、あの頃はまだ若かったからお金をぽんぽん遣って遊んだほうが楽しいって思ってた。いまもまだ若いっちゃ若いんですけど、そういう浮ついた考えしかなかったから、何だか悪いことしちゃったなってつくづく感じさせられました。椎名さんと話してて、あの頃の二人に戻れたら花穂ちゃんに謝りたいって、気づいてあげられなくてごめんって」

 しんみりモードに入りそうだったので椎名はいった。

「でも花穂さんには実家で会えたじゃないですか。言葉にしなくても伝わるんだから、きっと伝わってるはずです」

「そっか、そういえばそうだね」

 納得顔で何度か頷いたが、やがて美絵は顔を上げていった。

「考えてみたらだめじゃん。だってわたし、気づいたのが今日なんだから」

「ばれたか」

「危ねー、良い話っぽくまとめられてもう少しで騙されるとこだった」

 含み笑いで睨みながら彼女がいった。そのとき不意に、赤ちゃんがきゃっきゃっと楽しそうな笑い声を上げた。その声と様子を見ていた美絵がいった。

「どうしたの、何か見えるの。そこに誰かいる?」

 そう問いかけてから彼女は、赤ちゃんが見つめている店の天井を見上げた。

「この子、時々こうやって天井とか壁とか見つめて笑うの。霊感が強いのが遺伝しちゃってたらやだなあって思ってるんだけど」

「霊感が強いのは嫌ですか」

 彼女は眉をひそめて小声になった。

「そりゃ嫌ですよ。見なくていいものが見えたり、聞かなくていいものが聞こえてきたり。やっぱり普通が一番。でも、亡くなった友だちに一度だけ会えたのは良かったかな」

 それから彼女はスマホを見ていった。

「うわっ、もうこんな時間。そろそろ行かなきゃ」

 赤ちゃんと自分の支度をすませると、彼女は背筋を伸ばして改まった。

「椎名さん、なんか、ありがとうございました。花穂ちゃんとのことを話しているうちにいろいろ思い出せて、昔は気づけなかったことにも気づくことができた」

 椎名も礼を述べて、最後に謝礼の封筒を差し出した。

「えっ、そんな!」

 驚きとよろこびが入り混じった顔になり、美絵は手を伸ばしかけた。と、迷うだけ迷った末にその手を引っ込めた。

「やっぱりこれを貰うのはやめときます。ていうか、我慢します。高いランチを奢ってもらったし、今日のインタビューの経費も椎名さんの自腹だっていうし、これ以上は申し訳ないもの。それに……」

 言葉を探すように視線を宙にさまよわせ、それから彼女はふっと表情を緩めて愛らしい笑顔になるとこういった。

「これを受け取っちゃったら、花穂ちゃんとの思い出のあれこれを穢してしまう気がします」

 彼女は立ち上がって赤ちゃんを抱き上げると、椎名に向かってこくりと会釈した。出ていく金城美絵の背中を見送った。抱っこされた赤ちゃんがこっちを見ていた。元気に両手をばたばたさせていたから、椎名も小さく手を振り返した。