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『その男、椎名』第3章-2

『その男、椎名』第3章–2 長編小説

 

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 そこにランチがやってきた。美絵はうれしそうににこにこ笑うと「うわっ、豪華」と大きな声をあげた。

「こんな贅沢なランチ、すごい久しぶり。いただきまーす!」

「ゆっくり食べながらでいいですから」

 美絵はまず千枚漬けらしき漬け物を箸でつまむと口に入れた。コリコリと旨そうな音が響いた。丸顔だが顎は随分と丈夫そうだ。本当に幸せそうな顔だった。

「花穂さんの最初の印象はどうでしたか。あくまで美絵さん個人が感じた花穂さん、ということで構わないので」

 身欠きニシンをひと口かじり、五目ご飯を食べ、充分に咀嚼し、しっかりと飲み込んでからおもむろに答える。

「ひと言でいうとしたら、ミステリアスな女かな」

 意外な答えだった。沢崎や漆原の印象とはだいぶ異なっている。

「お二人は随分仲がよかったということでしたけど、そんなに付き合いが長いのにミステリアスだった?」

 真顔になって頷く。

「待ち合わせて店で話したりしてるときでも、誰かから連絡が入って帰っちゃうことがあったの」

「まだ恋人はいなかったわけだから、別の友だちとかでしょうか」

「花穂ちゃん、会ってる友だちを置いて他の友だちに会いにいくような、そんな子じゃなかったです。それに、いつも同じ相手からだったのか、それとも違う人からだったのか、それもわからなかった。誰からなのって何度か訊いてみたこともあったけど、その度にはぐらかされて。うんちょっとね、とかいって」

「誰なのかは教えてくれなかったと」

「でも、それ以外のことはわりとよく話してくれたよ。育った家庭が結構大変だったこととかも。わたしは東京生まれだけど、花穂ちゃんは新潟の十日町市の生まれでね、初めて聞いたときはわたし思わず訊いちゃったの。それって町なの? 市なの? どっちなのっていって」

 ふふっと思い出し笑いをしてから、ちりめん山椒に取りかかる。

「家庭が大変だったということでしたけど、具体的にはどんな風に?」

 上目遣いに椎名を見てから、少し迷っている感じでいう。

「うーん、でもこんな話しちゃっていいのかなあ。だってこういうのってすごくプライベートというか、個人情報みたいなことじゃない? あ、そうか、花穂ちゃんもういないのか……」

 そういうと不意に彼女は箸を持ったまま俯いた。少しして、ぽたりぽたりと彼女の膝の上に涙が滴り落ちた。人は、さまざまなことから人の死を実感する。

 箸を握りしめた手を膝に置いて泣いている間、椎名は声をかけずに待った。

「ごめんなさい。もう大丈夫」

 涙を拭うと彼女はいった。

「えっと、それでわたし何の話してたんでしたっけ」

「花穂さんの実家が大変だったと」

「そうだった。実家が農家でお米を作っていたっていうから、ほらコシヒカリが有名じゃないですか。だから、すごいねっていったら、まだ花穂ちゃんが小さい頃にお母さんを病気で亡くして、だからお父さんが男手一つで花穂ちゃんと妹さんを育ててくれたのって、そういってました。すごく感謝してたけど、でも高校卒業するまで経済的にものすごく大変だったって」

 そこで急に声をひそめる。

「あの子ね、高校時代から学校に隠れてアルバイトしてたみたい」

「高校生のバイトなんて、いまは特に珍しくもないんじゃないですか」

「だってあの子がやってたのはスナックのアルバイトだよ?」

 風営法とは無関係に、それは確かにいけないことだろう。しかし現代は、もっとひどいバイトに手を染める女子高生だっている。

「花穂ちゃんの顔はご存知ですよね」

「ええ。写真だけですが」

「雪国育ちらしい色白で、シンプルっていうかすっきりとした顔立ちだったでしょう。普通は美人の人って、綺麗なタイプと可愛いタイプとに別れるものなんです。なのに、花穂ちゃんは綺麗なのに可愛いんだもん、ずるいよね。でもああいう顔って、化粧ひとつでがらっと印象が変わっちゃうの。だから何度か学校の先生が店にきたこともあったけど、全然気づかれなかったっていってたな」

「それはすごい。ということは化粧も巧かったんですか」

「うん、メイクがすごく上手だった。さらっとしてるから男の人には簡単に見えるけど、実は高等テクが必要なナチュラル系メイクから、それこそ夜の女風メイクまで自由自在だった。わたしがやったらゲームのキャラクターみたいな顔になっちゃうのに」

 いってから自分で想像したのか、ぷっと噴き出す。

「それでわたしが偉いなあって感心したのは、バイトでもらったお金は自分の服とかおやつとかには一切使わないで、全額お父さんに渡してたんだって。高校生なのに」

「全部?」

「それで、お父さんから最低限のお小遣いだけ貰って。お小遣いといっても教科書代とか体育で使う体操着とか靴代とか、そういう絶対必要な物の分だけ貰ってたみたい。でもこうして改めて話してみると、つくづく花穂ちゃんって偉いなって思わされるな」

 肩を落としてしんみりした様子で、自分の手元の箸を見つめている。

「だめだ、また泣きそうになってきた」

 と、いつから起きていたのか急に赤ちゃんが泣き出した。美絵は思いのほか素早い動きで抱き上げると、椎名に向かっていった。

「多分この泣き方、おしめかミルクだと思うんです。トイレかどこか借りて済ませてくるので、すみませんけどその間にご飯食べてもらっててもいいですか。そんなに時間はかからないはずなので」

 どうぞというと、彼女は店の人に告げてどこかへ消えた。

 商売柄ご飯を食べる速さには自信がある。口を動かしながらインタビューのこれからの流れを整理しておくことにした。

 人から話を訊き出すとき、椎名には大きく二通りのやり方があった。一つは、相手の気分を良くさせるためにできるだけ流れを邪魔しない方法だ。それが時系列に沿った話であれあちこち飛ぶ話であれ、自分が主導権を握っていると相手に思い込ませておくことができる。

 もう一つは、敢えて話の節目節目で楔を打ち込んだり、意外な質問をぶつけることで流れをぶつ切りにし、こちらが訊き出したい方向へと導くやり方だ。強引とも見えるやり方だから人によっては怒り出す者もいるが、そうなればなったでしめたもので、より相手の本音を引き出すチャンスが増える。

 今日は前者で行こうと考えながら、冷めたランチを食べ終えた頃に美絵はすっかり機嫌が戻った赤ちゃんを抱いて戻ってきた。

「すみませんでした。お待たせしてしまって」

「ちょうど完食したところです」

 椎名のお膳が空になっているのを見て、彼女はまた目を丸くした。

「速いですね、もう食べちゃったんですか」

「どっちでした?」

「何が?」

「おしめかミルクといってましたけど」

 ああ、という形に唇をつくってからいった。

「おしめでした。出るときにちゃんと新しいのに替えてきたばかりだったんだけど」

 その顔はすっかり母親のそれに変わっていた。美絵は赤ちゃんをそっと床の上に寝かせた。ほのかに甘いミルクの香りが、ぷんと匂った。

 赤ちゃんはぎゅっと握り締めた小さな手と、ハムのように丸々と太った丈夫そうな脚をしきりに動かしている。

「花穂さんと最後に会ったのは、いつ頃のことですか」

 椎名が尋ねると彼女は一瞬はっとした顔になり、それから全身を強張らせた。

「よく憶えてません。ごめんなさい」

 別に難しい質問ではないはずなのだが、美絵は俯いてごめんなさいとくり返した。この質問と彼女の反応に、椎名は栞をはさんだ。

 僅かばかり残っていた食事を食べ終えると、美絵は少しの間、赤ちゃんに指を握らせて遊ばせていた。椎名は話の要点を箇条書きにしてまとめ、万年筆でノートに書き出した。

「さっきの話だと、美絵さん家族は京都に来て一年半ということでしたが、花穂さんとはこちらに来てからも連絡を?」

「以前のようには全然」

 彼女は力なく首を横に振ると、言い訳めいた調子でつづけた。

「わたしが悪いんです。子どもが生まれてからはほとんどメールに返信もできなくなって、しかもその少しあとで引っ越しちゃったから、ますます連絡をとらなくなったの」

「花穂さんのほうから連絡はあったんですか」

「ありました。でもメールを出してもあまり返事をくれない相手にって、徐々に出さなくなるものでしょ。わたしだってそうだもん。だから花穂ちゃん、気を使って少しずつフェードアウトしてったんだと思う。わたしが悪いの、全部」

 自分を責めるように声を絞り出した。まるで音信が途絶えたあとに彼女が亡くなってしまった非の一端は、自分にあるとでもいいたげだった。

「二人の間柄は、どちらかというと美絵さんがリードして花穂さんがついていくという感じだったんでしょうか」

「うーん、どうなんだろう」

 首を曲げて考えている。

「全部がそうだったわけじゃなくて、例えば今日はどの店にするとかそういうのは、比較的あの子が選ぶことが多かった気がするけど」

 椎名は沢崎へのインタビューで聞いた、レストランで失敗したというエピソードを思い出した。あのことがあって、美絵が洒落たレストランを選んだりしないように、自ら店を提案していたという可能性もあったかもしれない。

「二人で旅行へ出かけるときなんかは、どちらが場所とか宿の手配をしてたんですか」

「旅行?」

 美絵が素っ頓狂な声をあげた。赤ちゃんがびっくりして母親の顔を見て、何を感じとったのかけたけたと声をたてて笑った。

「花穂ちゃんと泊まりがけで旅行へ行ったことなんてないですよ。あ、そうか、大事なことを話し忘れてました。あの子ちょっと、何ていうかお金に執着してるところがあって。それが花穂ちゃんと付き合ってて、唯一気を遣うところだったかも」

 当時のことを思い出したのか、不満げに下唇を突き出した。椎名が話を引き取った。

「でも地方出身者が東京で独り暮らしをはじめれば、それはある程度しょうがないところかもしれません。私も経済的には苦労しました、学生時代のことですけど」

 不平そうな彼女の表情は崩れなかった。

「どうせわたしは東京の実家暮らしだから、お金の面では楽だっただろう。そういいたいんでしょう。わかってます、そんなことは。確かにあの子に比べたらかなり楽だったでしょうね。でもその分、いまはすごく苦労してるんだから」

 理屈にならない理屈で反論してくる。椎名は慎重に言葉を選んで尋ねた。

「最初に美絵さんにお訊きしたいことがあると話しましたが、実は花穂さんの経済的なことだったんです」

「お金についてのことですか?」

「ええ。花穂さんがお金に困っていたとか、何かお金に関することで知ってることがあるんじゃないかと思って」

 美絵は唇をきゅっとすぼめると、厳しい表情でしばし考えていた。

「確かに花穂ちゃんのお金に対する執念みたいなものは、いまから考えてもやっぱり普通じゃなかったなって思います」

「執念」

 険しい顔つきのまま頷いてつづける。

「わたしだって年に一回か二回は、花穂ちゃんと温泉とかに行きたいと思って何度か誘ってみたんだけど、そのたびにいろいろ理由をつけて断られて。あとはもう誘うのをやめちゃった。それでも最初の頃は、単純に旅行が好きじゃないのかなくらいに思ってました。中にはそういう子もいますから。けど付き合っていくうちに、ああそうか、花穂ちゃんはお金を遣うのが嫌なんだなってわかってきた」

「けちだったという意味ですか」

「そういわれればそうなのかもしれないけど、一般的なけちというのとはちょっと違う気がします。ここは花穂ちゃんの名誉のためにもいっておきます」

「でも一般的にはお金を遣いたがらない、必要なのに出し渋る、そういう人のことをけちと呼ぶんじゃないですか」

 美絵は胸の前で自分の両肘を押さえて考えていた。

「出さなきゃいけないのに出し渋るとか、そういうことはなかったんです。食事のときもお酒を飲むときも、いつも普通に割り勘してて平等だったし。自分が少し多めに飲んだと思ったときは、ちょっと多めに出してくれたりもしましたよ。花穂ちゃん、新潟の人だからかもしれないけどお酒に強かったんです。わたしも女性にしては飲むほうだけど、あの子には全然かなわなかったもの」

 少し考えてから椎名はいった。

「花穂さんが好きだったのは日本酒ですか」

「すごい、よくわかりましたね。若い女性だとワインとかカクテルだと思いませんか、普通」

「私のこれまでの経験からすると、酒豪と呼びたくなるほど酒に強い女性は、例外なく日本酒好きでしたね。他のアルコール類ももちろん飲めて、その上で日本酒が一番好きという」

 彼女は人差し指を何度も椎名に向かって突き出した。

「それそれ、まさに花穂ちゃんはそのタイプだったの」

「そうなると二人で行く店も必然的に、和食や和風の居酒屋とかが多くなったんでしょうか」

「そうなりますよね。でもわたしも和食が好きだから、焼き鳥屋さんとかもんじゃ屋とか。その点でも気が合いました」

 ふと気がつくと、赤ちゃんは再びすやすやと寝息をたてていた。赤ちゃんは寝るのが仕事と聞いたことがあるが本当だった。

 しばし何かを考えていた美絵がいった。

「さっきのけちの話ですけど、いま考えてて気づいたんですけど、花穂ちゃんはやっぱりけちじゃなかったですよ。不必要なものといったら言い過ぎだけど、人が暮らしていく上で最低限の物や事にはきちんとお金は遣います。でも、これは無くたって生きてはいけるよねっていう物事に、自分のお金を遣うことに抵抗を感じてたんじゃないかな」

 彼女の言葉を咀嚼して呑み込んでから、椎名はいった。

「待ち合わせての食事もお酒も、家か外かの違いだけでどっちにしても摂取しなくちゃならないものだから?」

「お酒はなくても生きられるけど、でもお酒好きにとっては夕食の一部ですから」

 舌を出して彼女が笑った。

「同感です。旅行にいかなくたって、温泉に入らなくたって命に別状はない……やや極端なものの考え方にも感じますけど、花穂さんの子ども時代の話を聞いて想像すれば、それも無理からぬことかなと思えてきます」

「うん。わたしもさっき自分で話しながらそう思ってました。バカだなあ、わたしって。花穂ちゃんと遊んでた頃は、こんな簡単なことにも気づけなかったなんて」

 そこではっと何かを思い出した顔つきになって美絵はいった。

「そういえばいつか、妹さんが高校を卒業したら何かの学校に通いたがってるのって、彼女がぽつりと洩らしてたことがありました。そんな事情もあったのかな」

 赤ちゃんに向けていた視線を、ちらと椎名に戻していう。

「椎名さんってちょっと不思議」

「そうですか? あまりそんな風にいわれたことはありませんが」

「目つきが鋭いというか、相手のことはよく観察してるのに、でも気遣いできるというかどこか優しいというか」

「目つきが悪いとはよくいわれるので、それは昔からコンプレックスですけど、優しいといわれた記憶はこれまでの人生でもほぼありませんね」

「見る目がないんだよ、周りの人に。ところで椎名さんって独身でしょう」

 身体を心持ち後ろに反らせて驚きを伝えた。

「どうしてわかりました?」

「わたしも独身の頃はそんなのわからなかった。ほら、よく不倫してる女の人が、相手の人が結婚してるなんて知らなかった、全然気づかなかったっていうと、そんなばかな、そんなことあるわけないっていうじゃないですか。でも、そんなことあるんですよ、実際には。結婚してみて初めてわかるようになったの、男の人が既婚者か独身かって。知りたい?」

 椎名は首筋をコリコリ掻いてお願いした。

「教えていただけると助かります、私の将来のためにも」

 にっこりと、今日一番の笑顔を見せて彼女はいった。

「結婚指輪」

 椎名は沈黙を守った。美絵も椎名を見すえて口を真一文字に結んでいる。

 睨めっこは五秒とつづかなかった。根負けしたのは彼女のほうだった。

「引っかからなかったかぁ」

「残念でした」

「腹立つわ。なんか全てお見通しみたいな感じで」

「本当のところを教えてもらえますか」

「崩れてるの」

 美絵は唐突にそんなことをいった。

「既婚者はどこか雰囲気が崩れてるんだ、全体の。服装とか身だしなみとかそういうことじゃなくて、空気感の問題というか。それに比べると独身の男性っていうのは、どこかカリッとしてる感じなの」

 椎名が首を傾げていると、彼女は楽しそうに笑った。

「何を言われてるのかわからないっていう椎名さんの気持ち、すごくわかります。でもこれは他に言葉にしようがないんです、あくまでわたしの感覚的な問題だから」

 椎名はまじまじと自分の服装を再点検してからいった。

「念のために確認しますけど、外見や身だしなみのことじゃないんですね」

 ごく軽い感じで首を横に振る。

「例えていうと、既婚者は全体の輪郭がぼやけてるっていうか。独身者は輪郭がきりっとしっかり見える、そんな感じ。曖昧な表現で悪いとは思いますけど、わたしにはそう見えるの。少なくともこれまで一度も外れたことないです」

「ということは、わたしの輪郭はしっかり見えてる、と」

 深く頷く。

「でもそれだと、どっちにしても本人には気づきようがないということになりませんか」

「そうなるでしょうね」

「ということは、独身オーラを消す術は私自身にはない?」

「と、思います」

 小さく溜め息をついてから尋ねてみた。

「女性の場合はどうなるんですか」

「女は私にもわからないです。だって女は化けるように生まれついてるから」

「化ける?」

「化粧は、よそおって化けるって書くじゃないですか」

 けらけらと、赤ちゃんとよく似た声で彼女は笑った。笑いが収まったところを見計らって椎名は告げた。

「花穂さんのことで、ちょっと突っ込んだ話をお聞きしたいんですが構いませんか」

 美絵は真顔に戻ると「もちろん」といった。

「だってそのインタビューのために来たんでしょう、わざわざ東京から」