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『その男、椎名』第2章–3 長編小説

『その男、椎名』第2章–3 長編小説

 

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     †

 

「よーし、もっと新発見が出てきそうな気がしてきたぞ。よし四人目、この客のことはある程度憶えてるよ。というのも、あの日の中で一番たくさん会話した客だからなんだ。四十代くらいの人で仕事は自営業。派手な服装の人でさ、確かジャケットもズボンも原色だったな、さすがに色までは憶えてないけど」

「たくさん会話したといいましたが、具体的にはどんな内容でしたか」

「話し好きそうな人で、向こうからタクシー業界の景気はどうなのなんて訊いてきて、俺が神奈川の葉山から来たって教えたら驚いてね。東京ほどじゃないけどまあまあ売上げはあがってる、特に今日はクリスマス特需でつきがあるって話したら、向こうも今日はこれからデートなんだっていって。家族はって訊いたら独身だっていってたな。お台場近くのホテルのレストランで食事するっていってたかな。へえ、本当にお台場でめし食う人もいるんだって、俺も妙に感心しちゃったの」

「東京で食事することはあまりありませんか」

 一拍おいて考えてから漆原は答えた。

「そりゃねえ、いくら東京の隣県だといっても、葉山からだったら横須賀も横浜も近いから。わざわざ東京まで、何か食べるために足をのばすってことはほとんどないよね。若い人たちなら違うのかもしれないけど。それに東京の名店と遜色ない店だってたくさんあるし」

 言葉の端々から神奈川に誇りを持っているようすが窺えた。

「中華街とかもありますしね」

「ああそうね。けど中華街も昔に比べると、すっかり観光客相手って雰囲気に変わっちゃったから。とにかくまあその客はのりがよくでいろんなこと、デートの予定から仕事のことから、生まれ故郷のことまで喋ってくれたよ。そうそう、確か四国の有名な川沿いの町に生まれたって……」

四万十川ですかね」

「あ、そう。そこで高校卒業してすぐに町を飛び出して東京へ来たって。で、すごく印象に残ってるのが、それ以来一度も古里に帰ってないってこと。信じられる? だって、多分二十年以上も帰省してないんだよ、彼。俺なんて葉山で生まれ育って、そのまま約五十年、ずっとこの町に住みつづけてるのにさ」

 彼はそこで目線を床に落とすと沈んだトーンでいった。

「きっと彼、古里で何かあったんだろうな。もう二度と帰りたくないって、強くそう決心させられるような何かがさ」

 必ずしも全ての人がそうではないものの、椎名が話を聞いてきたものでも故郷を忌み嫌う人間は、多くの場合地元で何らかのトラブルや問題を抱えていた。そして東京へ出てきて雑踏の中に身を置き、匿名性を確保して、故郷での過去を封印するのだ。

「でも考えようによっちゃ、独りで東京に出てきてそれ以来、実家にも誰にも頼らずに生き抜いてきたんだから偉いよね。運が悪くて途中でこの世を去る人だっているわけだからね」

 しんみりした様子でつづける。

「そんなわけで、四人目のことはよく憶えてるけど、あえてここで話すような意味のある内容じゃなかった。でもいろいろ思い出してきたことで、俺の記憶が活性化してきた気がするよ」

「それはよかったです、その調子でお願いします」

「というわけでいよいよ五人目、あの女の人のことだけど……」

 漆原はそこで不意に言い淀んだ。背筋をぴんと伸ばし、腕組みをして真顔になった。

「四人目の男を下ろして地元に戻ろうと思って、あの女の人が手をあげてるのを見つけて拾ったんだけど、実はあのとき迷ったんだよね」

「迷った。何を迷ったんです」

「本音をいうと、乗車拒否しようかとも考えてたの。考えてたっていっても、客を見つけて停まるまでの間のことだから本当に一瞬のことなんだけどね」

 少々決まりの悪そうな顔つきだったので、椎名は相手が話し出すのを待った。

「もうさんざん喋ってるけど、凄く売上げが上がった日だったからもういい加減いいやって感じで。それに疲れもあったしこの客はパスして、このまま地元へ帰っちゃおうかって思ってたの」

「でも、結果的には車を停めて彼女を、岸田花穂さんを乗せたんですね。さしつかえなかったら理由を教えてもらえますか?」

 額をコリコリ掻いて照れ笑いを浮かべる。

「あのときも、あのあとも考えたんだけど、やっぱり欲なんだよね。人間の欲って限りがないもんだなって、つくづく感じさせられたよね。あんなに売上げあげた日でも、いやそんな日だからこそか、もっともっとって欲の皮が突っ張っちゃうんだ。だからまずは停まってみて、行き先を聞いて逆方向だったら、実はこれから神奈川まで帰るんですみませんって謝って、それから帰りゃいいやと思って」

「ところが、漆原さんが帰る方向と同じだった」

 先回りしていうと、彼は真剣な表情でうなずいた。

「人間の欲望にはきりがないっていったけど、そういう奴のことは神様がきっと見てて、天罰を下してやろうと考えるんだろうな。だからその後にこの世からいなくなっちまう人を、最後に乗せた運転手として俺が選ばれたのかもしれない、なんてさ」

 神社仏閣巡りが趣味なだけに、いろんな出来事には因果関係があると考えるタイプなのかもしれない。

「単なる偶然だった、そう考えたほうがいいんじゃないでしょうか。もちろん、あまりいい偶然とはいえないかもしれませんが」

「そんな風に気楽に考えられたらなんぼか気が楽だというのはわかるよ。俺だって、もともとこんな根暗な男だったわけじゃないから。物事を後ろ向きに考えるようになったのは、多分女房を亡くしてからなんだ。この話になると長くなっちゃうから、いまは省くけどさ」

 意味もなく指でもてあそんでいたスプーンをソーサーに戻してつづける。

「話を戻すと、あの女の人、歩道に立って手をあげてる姿が美しかったんだ。だからついつい魅入られるように車を停めちゃったんだ」

「岸田さんが美人だったから。それが停車した理由だったんですか」

 漆原は首を傾げて、うーんと唸った。

「美人もそうなんだけど、なんていうか佇まいがきれいだったというか、全体の雰囲気というか、とにかくそれが理由。それで停まって後ろのドアを開けてすぐにあの女の人」

「すみません、ちょっと確認させてください。さっきから漆原さんは被害女性のことを、名前じゃなくてあの女の人と呼んでいますけど、もしかしてなるべくそう呼ぶことで客観性を保ちたい、事件との関わりを深くしたくない、そう考えてるんじゃありませんか」

 すぐに返事をせずに、彼は腕組みしたまま椎名をじっと見つめた。そして、ふっと息を吐いてからいった。

「そんなこと考えたこともなかったけど、そう、俺ずっと名前を呼んでなかった?」

「はい、一度も」

「そうだとしたら、あんたのいう通りかもしれないな。名前を口にするとあの女の人、岸田花穂さんといったっけ。その存在がよりくっきり思い出されてきて怖いというか、自分が乗せたお客さんがその直後に本当に亡くなったんだなって、さらに思い知らされそうというのかな。だから無意識に名前で呼ぶのを避けてたのかもしれない」

 ふうん、と彼はあらためて自分の内面を確認するようにいった。

「なるほどね。いま初めて気づいたよ。椎名さん、あんた若いけどなかなかどうして人間の心理に明るいんだな。本人も気づいてない、意識の底のほうにある気持ちを言い当てちまうんだから」

「お褒めいただいてうれしいです」

 やや冗談めかして答えたが、彼はにこりともせずにこういった。

「あんた、結構腕のいい刑事さんなんだろうね。何となくわかるよ。こうやって人の話を訊き出しながら、相手の心情まで汲み取れるんだから。どんな商売でもできる奴ってのはさほど違いはないもんでさ、俺たち運転手仲間でもそう。結局仕事ができるのは、人間の心が分かる奴。ほんとだよ」

 気恥ずかしくなってくるほどだったが、できない刑事よりできる刑事のほうが相手の気分もいいだろう。そう言い聞かせて黙っていた。

「そうとわかれば逃げてばかりいてもしょうがないから、名前で呼ぶことにするよ。その岸田さんの雰囲気がよかったからつい車を停めた。ここまではいいよね。それで乗ってくるとすぐにいったの、こういう事情で行き先次第ではお乗せできませんって。すると岸田さんは少し困ったような顔をして地名をいったから、ああそれなら帰り足だから大丈夫ですといって車を出したわけ。走りはじめてすぐに俺が謝って。だって、乗車拒否する可能性もあったわけだから当然でしょう。それで何だか気まずくなって、間が持たないとつい話しかけるタイプだから、今日はクリスマスイブだけど予定はあるんですかなんて、後で考えると余計なことを、すごく立ち入ったことを訊いちゃって。すると彼女、岸田さんが小さな声で、ええって答えて」

「質問ですが、そのときの岸田さんの表情は憶えていませんか。例えば、にっこり笑っていたとか、あまり楽しそうじゃなかったとか」

 うーんと唸って、漆原は少し考えていた。

「イブに予定がある人、特に若い女性は例外なくうれしそうに答えるもんだけど、ほら、舞い上がってるから。岸田さんはどうだったかなあ。あまりその辺の記憶がないってことは、まあ普通にうれしそうだったのかな。ごめんなさい、はっきりとは」

「いえ、いいんです。つづきをお願いします」

「それでそのあと何か少しは話したんだと思うんだけど、詳しくは憶えてなくてね。当たり障りのない話だったんじゃないかな」

「イブの予定を、突っ込んで詳しく聞いたりはしなかった?」

「それはね、俺はしないことにしてるの。だって運転手から根掘り葉掘りしつこく訊かれたら嫌じゃない。だから本当に差し障りのない話題がほとんど。天気のこと、季節のイベントのこと、政治への文句、そんなとこだよね」

「会話以外でもいいので、他に何か気づいたことはありませんでしたか」

 記憶を呼び覚ましそうとするように天井を見上げる。そのときがちゃんを大きな物音がしたので、反射的にそっちを見た。ウエートレスが食器を載せたトレイを落としたらしく、しきりに店内の客に謝っている。

「びっくりしたな、もう。どこまで話したんだっけ?」

「会話以外で気づいたことは、と。服装や持ち物のことでも構いません。さっき紙袋のラッピングの話をしてくれましたが」

「寒い日だったからコートを着ていたと思うけど、細かいところはちょっと。紙袋の他にはハンドバッグだけだったんじゃないかな」

「帽子はかぶってませんでしたか」

「かぶってなかった、多分」

「その夜から大雪になったわけですけど、雪に降られて大変だったんじゃないかと心配したりは」

 漆原は苦笑した。

「さすがにそこまでは。ただ、いまいわれて思い出したんだけど、岸田さんを下ろして走り出してから、うちの息子の嫁さんになるのがああいう女性だったらいいのになって、そんなことを考えながら首都高に乗って葉山に向かったんだよ」

「息子さんのお嫁さんにしたいと想像した、その一番のポイントは何だったんでしょう」

「そうねえ、ポイントといっても部分じゃなくて、やっぱり全体的なものだと思うんだよ。しとやかな感じというか、顔立ちも華やかというよりはすっきりとした感じだったな、うん」

「彼女がいった目的地まで行って、降りる時の料金は」

「そういえば、細かいことだけど岸田さんが告げた行き先、降りた場所とイコールじゃなかったんだよ」

「どういう意味ですか」

「ほら、俺は都内の専門じゃないから近道とか裏道とか詳しくないし、逆に客から教えてもらったりもするの。岸田さんが最初に告げた地名は知ってたけど、彼女が行きたい場所の細かい所まではわからなくて、とりあえず近くまで行ってから教えてもらうことにしたんだよ、そうだそうだ」

 大事なエピソードに繋がりそうだったので、椎名は万年筆をキャップから外した。

「それでそばまで行ったら、この細い道を入っていって抜けた先が目的地だっていわれたの。ところが標識を見たら一方通行でさ、入れなかったわけ」

「岸田さんはそれを知っていましたか」

「いや、多分知らなかったんじゃないかな」

「ということは、彼女は以前もそこを訪れたことはあるけど、車で来たことはない? いや待てよ……彼女は誰かの車に乗って、その目的地に何度か来たことがあるのか、別の道を通って」

 椎名のひとり言に、漆原がにやにや笑っている。

「すみません、自分の世界に入り込んじゃって」

「よほどこういう事を考えるのが好きなんだね。椎名さんも運転するからわかるだろうけど、不案内な土地で、しかも一方通行で入れない場所だったりすると、目的地に着くまでひと苦労じゃない」

「そうですね。今日みたいに地元じゃない場所へ行くときは、カーナビを使いますけど」

「そうそう、カーナビ。俺も地元以外でタクシー走らすときはナビを使うけど、地元は庭みたいなもんだから普段は全然使わなくて、運転手のくせに不慣れなんだよね。癖がついてないっていうかさ。だから岸田さんのときも、近くまで行ったら教えてもらえばいいやって使わなかったの」

「なるほど。だから突然一方通行に入ってといわれて困ったと。それでどうしたんですか」

「詳しい住所か建物の名前はわかりますかって尋ねたら、だったらいいです、ここからなら歩いてもすぐなのでっていわれて、それで降ろしたんだ」

「支払いは現金だったんですか」

「会社の運行管理システムの記録では、そうだね。現金で一六〇〇円ぐらいだったかな」

 椎名は念のために確認した。

「それで岸田さんは一方通行を向こうへ歩いていった」

 漆原がこくりと頷く。その先に彼女の身に降りかかる出来事を想像してか、暗い目だった。

「岸田花穂さんの最後の目撃情報は、これで終わりということですか」

「そう、ここまで」

 椎名はペン先が乾いてしまわないように万年筆のキャップを締めた。興味深そうに見ていた彼がいった。

「いまどき万年筆とは珍しい趣味だ。それ何ていうの?」

「イタリアのアウロラっていう万年筆です。昔、ある人に記念としていただいた物で」

 椎名はキャップの頭を指で撫でた。使い込んでいるためところどころ小さな傷がついている。アウロラのあるモデルは、ニューヨーク近代美術館のパーマネントコレクションにもなっているほど、デザインが美しく機能性も高い。本当にいい万年筆だと、しみじみ思う。

 椎名はふうっと大きく息を吐き出した。そろそろ訊き出すべきことも少なくなってきた。相手を正面から見据えて気になっていたことを尋ねた。

「漆原さん。これまでの話で何か隠していること、言うべきだけど言ってないことがあるような気がするんですが、私の思い過ごしでしょうか」

 漆原は曰くありげな顔つきに変わり、片方の唇を上げるとにやりと笑った。

「さすが刑事さんだけあるね。図星だよ」

「さっき、タクシーの中で気づいたことはなかったかと訊いたとき、漆原さんは特にないと答えましたね。でもその様子がちょっとおかしかったので」

「態度が挙動不審だった?」

 楽しそうにいう。彼はテーブルに両肘をつくと身を乗り出していった。

「実は鎌をかけてみた」

「鎌?」

「捜査関係者だったら全員知ってるはずのことを椎名さんは知らないのか、それとも知らないふりしてるだけなのか、確かめてみようと思ったんだ。ちょっとしたいたずら心で。だけどあなたは本当に知らなかった、彼女の忘れ物のことを」

「花穂さん、タクシーの車内に忘れ物をしたんですか?」

 笑いながら頷く。相手のほうが一枚上手だなと、椎名は苦笑した。

「なるほど、そうでしたか。私もまだまだ未熟ですね、まんまと引っかかりました」

 まだからかって楽しんでいるように目もとが緩んでいる。

「まあ普段だったら忘れ物のうちにも入らないんだけど、その後事件に巻き込まれた女性の物となれば、話はまるで違ってくるでしょ」

「何だか漆原さんのほうが、私より刑事に向いてるっていう気がしてきました」

 二人で声を出して笑った。

「その忘れ物というのは何なんですか」

「マッチ。煙草に火をつけるあのマッチさ。ブックマッチって知ってるかい」

「すみません、煙草は吸わないので」

「箱に入ってるやつじゃなくて、本みたいに開いて紙のマッチを一本ずつ毟り取って、それを擦って火をつけるタイプのマッチなんだ。俺は昔吸ってたから知ってるけど、最近はあまり見かけなくなった」

「忘れ物というか、落とし物ですね」

 頷くと、漆原はさらに顔を椎名に近づけて小声でいった。

「重要なのは、それがある店の名入りのマッチだったってことだ」

「つまり店がサービスで客にあげるような物?」

 彼は大きく二度頷いた。

「とあるバーの名前だったんだけど、どうやらそいつ、岸田さんが昔付き合ってた男らしいのよ」

 なるほどと椎名は考えた。事件を担当している捜査員の間で、重要参考人がいるという話を聞いたことがあった。もしかするとその男ではないのか。

「岸田さんの昔の恋人が経営するバーのマッチが、彼女が事件に巻き込まれる少し前に乗ったタクシーの車内に落ちていた。そういうことですね」

「そう。におうよね」

「でもどうして岸田さんはそのとき、その店のマッチを持っていたんだろう? 会社の、警察の人は何かわけを話してませんでしたか」

「それ以上詳しいことはなんにも。でもあのマッチ、本当に運が良かったんだよ。あの日仕事が終わって俺が清掃してたときに見つけて、迷ったんだけど念のため忘れ物ボックスに入れといたんだ」

「それはお手柄でした」

 これが事件解決につながる証拠になるとしたら大殊勲ものだ。

「タクシーって忘れ物や落とし物が多くてさ。それであとから乗ったタクシー会社を憶えてる客が電話かけてきて、これこれこういう物が落ちてなかったかっていってくるケースも結構あるわけ。財布とかスマホとか。そういう大切な物を運転手がねこばばしたなんて思われるのも癪だから、俺はどんな些細な物でも全然値打ちの無さそうな物でも、全部ボックスに入れることにしてるの。俺、案外そういうところ几帳面だから」

「でも、その漆原さんの几帳面さのおかげで、警察は非常に助かったと思います」

「そうならいいけど」

 漆原は横目で椎名をちらと見ると、疑わしげにいった。

「それにしても椎名さん、いくら捜査に関わってないといってもあんた他人事みたいに言うねえ」

 そろそろ頃合いだった。礼をいって椎名は立ち上がった。

 

 

 

心のともしび パンダマッチ

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