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『その男、椎名』第2章–1 長編小説

 『その男、椎名』 第2章-1

 

   ●二人目 漆原剛介/タクシー運転手

   ●場所/神奈川県三浦郡葉山町 レストラン『ヴェリータ』

 

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     †

 

「いやあ、こんな遠いところまで呼び出しちゃって申し訳ありませんでしたねえ、刑事さん」

「いえ、捜査ですから。事情を知ってる方から話をお訊きするためでしたら、全国どこでもよろこんで足を運びます」

 二人目のインタビュー相手である漆原剛介に指定されたのは、神奈川県葉山にある店だった。海を見おろす高台に建つレストラン、というよりは軽食喫茶という雰囲気の店だった。

 電話で漆原が、人に聞かれたくない話をするにはうってつけの場所と話していた通り、店内は閑散としていた。先客は老夫婦らしき二人がいるだけだった。椎名と漆原は一番奥の誰もいない隅の席に陣取った。

「俺も今回の事件のことで随分と警察の人から訊かれたけど、刑事さん、椎名さんだっけ? 会うのは初めてだよね」

「ええ、初対面です」

「俺の話の聞き方がおかしかったのか電話じゃよくわからなかったんだけど、刑事さん、今日は休みなんでしょ?」

「休みというか、非番です」

 漆原は一瞬わけがわからないというように目を開き、そしていった。

「休みと非番って違うの?」

「警察官には当直というのがあって、その泊まり明けの日が非番になるんです。非番は休日ということではなくて、あくまで何かあったときのために待機してるという意味です。だから非番の日は遠い場所へ出かけてはいけないことになってて、原則的にアルコールを飲むのも禁止とされてます」

「ふうん、神奈川県は東京の隣だからいいわけか。ところで椎名さんはまだお若いようだけど何歳なの」

「二十九歳です」

「じゃあうちの息子とそう変わりないね。息子は二十五なの。俺は今年でちょうど五〇になったのよ」

 何とも反応しようがないので黙っていると、漆原は忙しげに足を組み替えている。刑事と名乗る人物と会うのが落ち着かないのかもしれない。

 今回、椎名は職業を刑事と告げていた。ただし非番で、あくまで個人的な興味で動いているから捜査ではないと断ってあった。捜査と告げた途端、身構えて口が重くなる人が多いことを知っているからだ。

 非番とはいえ刑事を名乗ることにはそれ相応のリスクが伴う。それを承知の上であえてそうしたのは、このほうが協力的になってくれるのではとの期待からだった。相手も仕事中の刑事よりは非番のほうが気分的にも幾分楽なはずだ。

 前回の沢崎にしても、自分が非番の日だったからこそあそこまで喋ってくれたのだと椎名は思っていた。とはいえ、いつ警察手帳を見せろといわれるか冷や冷やものではある。万一そうなったときにどう対処するか、まだ迷いがあった。

「車で来たんでしょう? 東京からなら首都高の湾岸線に乗って横須賀へ抜けてきたのかい」

「そうです。ランプの分岐で間違わないようにと考えて湾岸線で。途中で大黒パーキングに寄ったんですが、すごい高さからぐるぐる回って下りたり上がったりして、自分で運転してるのに車酔いしそうになりました」

 わかるわかる、と漆原が笑う。

「さすがにタクシーの運転手さんだけあって東京の高速にも詳しいんですね」

 漆原は勝ち誇ったような笑みを浮かべて得々と説明をはじめた。

「ほら、葉山って別荘も多いし金持ちも多いじゃない。もちろん俺は違うよ、ただの運転手だからさ。タクシー呼んでそのまま東京へ行ってくれとか、羽田空港までとか、そういう客が結構多いの。外国人も多いし。だから東京はちょくちょく行かざるを得ないから知ってるってだけの話。ただ首都高でも中心部に入っちゃうと、地元じゃないからそっちと一緒で分岐がよくわからなくてさ、だからなるべく端っこ端っこを通るようにしてるわけ」

 このままでは延々と運転談義がつづきそうだったので、椎名は早速切り出した。

「それでは、事件当日のことについて話を訊かせてもらっていいですか」

「ああすみませんね、本筋に入る前に話が脱線しちゃって。こういっちゃ何だけど、あの日のことはそれこそもう何回も何回も喋ってるもんだから、すっかり話芸として完成しちゃってるよ、落語みたいに。それでも構わないってんなら」

「もちろんそれで結構です。話す相手が変われば、何か忘れてたことを思い出してもらえるかもしれませんので」

 椎名はノートを開き筆記具を取り出しながら告げた。漆原は、こくこくと二度頷いてから話し出す。

「あの日はほら、クリスマスイブだったじゃない。まあ俺ら運転手からすれば、年に何回かはやってくる大入り満車の日でね。でも朝から雲行きが怪しくて、ホワイトクリスマスになんてなったら大変だなんて仲間と笑い合ってたの。だって雪になると普段タクシーなんて使わない人まで乗ってくるしさ、こっちもプロとはいっても雪道なんかてんで慣れてないしで痛し痒しなわけ。この辺じゃ雪が積もることなんてまずないから。それで、そんな日なのに昼過ぎに拾った客が東京までっていうから、こりゃ今日はついてるなって内心ほくほくだったのよ。都内まで遠征に行くと帰り足でちょくちょく客が拾えるもんだから、いい水揚げになるんだ」

 漆原はそこでグラスの水を飲んで喉を湿した。ここまでの喋りもさっきの話芸に含まれているのか、それともまだ本題に入っていないのか、椎名はそれが気になった。

「案の定、休憩をはさんで四人かな、都内から都内の客を拾って。昼間は長距離一発の客も乗ってくれたし、そろそろ店仕舞いして地元に戻ろうかなと思ったとき、あの女性客に当たっちゃったんだよ」

 当日の繁盛ぶりを思い出して緩みっ放しだった頬が引き締まり、苦虫を噛み潰したような顔つきに変わった。

「新宿の外れで拾って、あの事件が起きた場所をいったの。それだったら客を降ろして大井か東海のインターから乗って、湾岸線で戻れば渋滞にも掴まらないですむだろうし、こりゃ本当に今日は一日中つきがあったなって大満足だったよ。あの事件のことを知るまでは」

 急に肩を落とし、すっかり気落ちした感じで彼はコーヒーを飲んだ。

「タクシーの中で女性と何か話しましたか」

「それも何度も訊かれたけどさあ、行き先を告げられたときと降りる前に金もらうとき以外、ほとんど会話らしい会話はしてないんだ。彼女、何だか暗い顔してずっと考え事してるみたいだったし。といっても、実際のところあんまし詳しくは憶えてないんだけど」

「会話がほとんどなかったということは、ちょっとは喋ったわけですか」

「乗ってすぐには喋った気がするんだ、ひと言ふた言ぐらいは。でも、今日はクリスマスイブですねとか、雪になりそうだとか、そんな本当に当たり障りのない会話だったと思うんだよねえ」

「暗い顔で考え事してたということですが、若い女性がイブの日に暗い顔してるのは珍しいような気がしますけど」

「そうでもないんじゃないかな、これまで何十年もタクシーに客を乗せてきた経験でいうと。だってさ、そりゃあ彼氏のいる女の子は一年で一番楽しい日かもわからないけど、そういう相手がいなくて独りで過ごさなくちゃいけない子なら、反対に一番辛い日なんじゃない」

「いわれてみればそうかもしれません」

 彼は少し自慢げに笑った。最近では独りで過ごすクリスマスを略したクリぼっちという言葉もあるぐらいだから、案外そういう女性は多いのかもしれない。

「タクシーの車内ってのは、ときに人生の縮図を見せてくれる空間でもあるから。俺もこの商売やって長いから、色んな人や出来事を見てきたよ」

 事件とは無関係の長広舌がはじまりそうな予感がしたので、椎名は慌てて矛先を変えた。

「無茶な質問と最初から承知の上でお訊きするんですが、その女性、恋人がいそうに見えましたか。漆原さんの過去の経験に基づいていうと」

「ははっ、確かに無茶ぶりだね。でもその件に関していえば、かなりの確率で彼氏がいたと思うね、俺は」

 即座にそう断言したので不思議に思い尋ねた。

「何か根拠はありますか」

「その女の人、ハンドバッグの他に手提げ袋を持ってたんだ。ほら、店で何かを買うと入れてくれるビニール袋があるでしょ。乗ってきたときにちらっと中身が見えたんだけど、ちゃんと包装テーブが巻いてあってリボン結びになってた。あれはプレゼントだね、間違いなく」

「鋭い観察眼ですね」

 椎名は心底感心して告げた。タクシー運転手という職種はある意味、人間観察のプロなのかもしれない。

「次からタクシーに乗るときは注意しないといけませんね」

「私服の刑事さんだとばれるかもしれないって?」

 どちらとも受けとれるように曖昧な感じで椎名は苦笑した。

「それにあの女の人、結構な美人さんだったでしょう。イブで、プレゼント持って、美人とくればデートしか考えらんないでしょうが。刑事さんもそう思わない?」

 椎名はメモを書いていた万年筆の尻で、コリコリと額を掻いた。こう何度も刑事刑事といわれると、何だか尻の辺りがむず痒くなってくる心持ちがする。

 プレゼントとおぼしきその遺留品は、現場には残されていなかったはずだ。これは捜査関係者から直接聞いたから間違いない。

 漆原のこの証言が確かだとすれば、タクシーを降りた後で彼女が恋人に手渡したという可能性が高いと考えられた。あるいは、犯行後に犯人が証拠隠滅のために持ち去ったのかーー。

「イブにプレゼントを持っていたにもかかわらず、暗い顔をして物思いに耽ってた。一体どんな状況だったんだろう」

 自分に問いかけるひとり言のつもりだったが、漆原も腕組みして一緒に考えてくれているらしかった。椎名は事件直前までの被害者の心情に思いを致してみる。彼女はその後自分があやめられるなどとは、きっと想像してなかったに違いない。

 捜査本部の人間からは犯人の目星はついているとも聞いた。しかし現時点で犯人を逮捕したという話はない。なぜだろう? 目星はついているのに逮捕に踏み切れないということは自白が取れないか、物証が見つからない、あるいはその両方かもしれない。

 ここには解かれるべき謎が横たわっていて、この事件は誰かの手で解決されることを待っている。あらためて椎名は強くそう感じた。

「ちなみにそのプレゼントの件は、警察には?」

「話したよ、もちろん」

「警察ではなんといってましたか」

「何もいってなんかくれないよ。あなたも刑事さんなんだからわかってるでしょうが。警察は質問するだけして、こっちには全然何も教えてなんかくれないじゃない。貴重な時間を使ってこっちは捜査に協力してるっていうのにさ」

 漆原はそこで急に真顔になってつづけた。

「あれだけ若くてきれいな娘さんを亡くした親の気持ちを考えると、少しでも早く犯人が見つかって事件が解決してくれれば、親ごさんだって娘も少しは浮かばれると思えるんじゃないかな。俺、そう思ってこうやって協力してんの」

 自分の子どもの年齢と近いからか、事件と関わってしまった責任感からか、漆原はそんなことをいった。

「他に何か、タクシーの中で気づいたことなどなかったですか?」

 刹那かすかに目を見開き、彼は意外そうな顔になった。しかしすぐ平静な表情に戻ると、右上方を見上げ何かを考えてから答えた。

「特にはないかな」

 妙な間が空いた。引っかかった。が、それが何かまでわからなかった。頭の内側にこびりついたその小さな疑念を抱えつつ、気を取り直して椎名は尋ねた。

「漆原さんは彼女、岸田花穂さんの生前最後の目撃者になるわけですよね」

「一番最初に、事情聴取っていうんだっけ、話を訊きにきた警察の人はそういってたね。それまでは俺も全然気づいてなかったんだけど」

「テレビや新聞でも事件がニュースになってて、岸田さんの顔写真も出たと思いますけど、その時点では全く知らなかった?」

「そりゃそうですよ。一年間走っていったい何人客を乗せてるかなんて考えたこともないけどさ、いちいち相手の顔なんて憶えちゃいらんないもん」

 それはそうだ。タクシー運転手は見当たり捜査員とは違う。

「でも何度も最後の目撃者だなんていわれて思ったんだけど、よく考えてみれば本当の最後の目撃者は俺じゃないはずなんだよ」

 もしかすると何かとても重要なことを思い出したのではないかと思い、椎名は内心身構えた。

「誰ですか、それは」

「犯人」

 意表をつかれた。いわれてみれば確かにその通りだ。

「犯人の奴が、その女の人が生きてるのを見た最後の目撃者なんだ。そしてその女の人の遺体を、最初に目撃した人物でもあるわけだよ」

 さっきの観察眼といい、いまの視点といい、この人物はなかなか侮れないと改めて思った。

「考えてみりゃ殺人事件なんて不思議なもんだ。いったい何があったのかは知らないけど、一人の人間が一人の人間をあやめる。人の命を奪うほどの憎しみとか怒りとか、そんな凶暴な感情の爆発があるってのが俺には信じがたいな。門外漢には皆目見当もつかないけど、そういう特別な事情を持ってる奴が大変な事件を起こしてしまうものなのかねえ。刑事さんの立場で実際に捜査しててどう思う?」

「残念ながら」

 椎名は少し間をとってつづけた。

「世の中からこの手の事件がなくなることはないでしょう。それこそ太古の昔から、人は人を傷つけてきたということも証明されてます」

「へえ、そうなの」

「氷河の中から発見されたアイスマンと呼ばれる大昔の男性の人骨から、何者かが人為的に頭蓋骨穴を開けた痕跡が見つかったそうです。人が地球に誕生して以来、現在に至るまで争いや戦争のなかった時代は無いともいわれますし」

「人間ってのは救いようがねえな、ったく。それにしても椎名さん、あんた若いけどなかなかどうして物知りだね」

 どうも、と椎名は答える。

アイスマンねえ……そういえばあの女の人も、氷じゃないけど雪に埋もれてたっていうんだろ? 冷たかったろうなあ。せめて最期だけでも苦しんでなけりゃいいけど」

「我々にできるのは少しでも早く事件を解決して、被害者の方を本当の意味で成仏させてあげることだと思ってます」

 漆原がしきりに鼻をすすっている。見れば涙をぬぐっていたので驚いた。

「悪いね、変なとこ見せちゃって。最近は年のせいかすっかり涙もろくなっちまって。息子の奴からよくいわれるんだ、男のくせにすぐ泣くんだからってさ。しょうがねえだろって言い返すんだけど、人生の酸いも辛いも噛み分けてくると情が豊かになるから、人様の出来事でも感情移入しやすくなるんだって言い訳してんだけどね」

 人生が酸味と辛味だけだとしたら、それは随分とつらいものかもしれない。やはり人生には心を和ませてくれる甘味も必要だ。

「漆原さん、甘いものはお好きですか」

 ぱっと顔が輝いた。

「ああ大好きだね」

「この店、甘いものはありますか」

「もちろん。俺はここのクリームあんみつが大好物でさ」

 椎名は店員を呼んでそれを二つと、コーヒーのお代わりを注文した。今日は刑事と伝えてあるから、まさか謝礼を渡すというわけにもいかなかった。

「中年のおやじ一人だと、なかなか甘いものを頼みにくくてね。久しぶりだから楽しみだな」

「奥さんと出かけたときに食べたりはしないんですか」

 その途端、彼の目にさっと影が走り表情が曇った。

「たまに食べたりはしてた、前はね。うちの女房は亡くなっちまったんだ。で、いまは息子と二人暮らし」

「申し訳ありません、つらいことを思い出させてしまって」

「いやいや、いいって」

 そういって首を横に振る。

「女房の思い出、ちょっと話してもいいかな」

「漆原さんがお辛くなければ」

 話の流れはなるべく途切れさせないほうがいい。舌を滑らかにさせたほうが記憶の糸も手繰り寄せやすくなるものだ。