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『その男、椎名』第1章-3 長編小説

『その男・椎名』第1章-3

 

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     †

 

 背もたれから背中を離し、身を乗り出して椎名は尋ねた。

「花穂さんについての沢崎さんの印象は、最初のお話と変わりありませんか」

「どういう意味です?」

「良い思い出しかない、そういってましたが」

 沢崎は一瞬考えてから微苦笑を浮かべた。

「普通の男女の関係と一緒です。良いこともあれば悪いことだってもちろんある。喧嘩だってしましたよ、そりゃ。けど、そういうのを全部引っくるめていい思い出として残る、そういうもんじゃありませんか?」

 もっともな話だった。

「コーヒー、お代わりしてもいいですか。普段こんなに話すことなんてないから喉が渇いてきちゃって」

 彼の希望に応えて、椎名は一階まで降りてお代わりを注文した。すぐにお代わりはやってきた。ひと口飲むと沢崎は薄い笑みを浮かべていった。

「いいことを教えてあげましょうか」

「いいこと、とは?」

「彼女についての、まだあまり知られていない事実です」

「ああ、それはぜひ。まだマスコミにも流れていない情報を得るために、こうやってインタビューしてるので」

「あいつ、僕と付き合うまで結構多くの男と付き合ってきたみたいでした。ネット上で簡単に交際相手を見つけられるサイトがあるじゃないですか。出会い系サイトとか」

「花穂さんというのは、男女関係とかそういうことにオープンな女性だったんでしょうか」

「さあ、どうなんだろう。少なくとも僕の前ではタブーって感じじゃなかったです。それに彼女の過去がどうでも、僕にはあまり関係なかったし」

「沢崎さん自身、妻子ある身で彼女と付き合っている負い目のような気持ちもあったんですか。つまり、遊びで付き合ってる程度だと」

 彼はそのとき、びっくりしたような表情に変わった。

「ああ、そうですね。そういう心理もあったかもしれません」

 いまの驚きの意味を考えてみる。沢崎は妻子がいる事実を隠して付き合っていたか、それとも花穂という女性はそんなことも気にならないほど、彼のことが好きだったのか。

「花穂さんとはどれぐらいの期間付き合ってたんですか」

「二年とちょっとです」

 即答する。今回のために確かめたのかもしれない。

「失礼なことを尋ねますが、花穂さんにお金を渡したりというようなことは……」

「馬鹿なことをいわないでください!」

 彼は強く否定した。初めてといっていいほど真剣な顔つきだった。

「そんなことをしたら売春とか愛人になってしまうじゃないですか。僕はこれでも公務員なんですから、万が一表沙汰になったときに職を失うようなそんな馬鹿げたまねをするわけない」

 厳密にいえば彼のいうことに間違いはない。売春は明らかに法律に触れるが、不倫そのもので罪に問われることはない。倫理的には大いに問題があるが。

 沢崎がそんなことはしないといった理由が、失職を恐れているというところにあるらしいことが少し気になった。

「ところで、沢崎さんは何故警察官になろうと思ったんです?」

 意表を衝かれたという顔になり、一拍おいて答えた。

「安定した公務員だからですよ」

 今度は椎名が意表を衝かれた思いがした。さっき警察官は結局公務員だといっていた。いまの時代はこういう志望動機で警察組織に入ってくる人間もいるのだろう。

「それに僕はずっと柔道をやってきましたから、武道を生かせる仕事だとも思いました。それと僕はいずれ経験を積んだら、昇任試験を受けて刑事になりたいと考えてます。刑事って恰好いいじゃないですか。きっかけは中学時代に観たテレビの刑事ドラマだったですけど」

 単純とも純粋とも呼べる気持ちを抱いたまま刑事を目ざす若者もいる。

「警察官になってからも、捜査のこととか自分なり日本を読んだりして学んでるつもりなんですけど、やっぱり現実の事件とはかなり違ってるなって感じさせられることばっかりで」

「刑事になるのは結構難関でしょう」

 沢崎はコーヒーに口をつけて、「ここのコーヒー旨いですね」と感心してからつづけた。

「特に警視庁の場合、ただでさえ競争率の高い採用試験に受かった人たちばかりで、そこからまた選抜されるわけですからね。ペーパー試験ももちろん重要ですけど、普段の勤務態度や成績、仕事に取り組む姿勢、そういう部分もすごく大事だって上司からはいわれてます。だから査定でマイナスになるようなことは慎んでるつもりで……」

 いったそばから、さっきの話との矛盾に気づいたらしく、椎名から目を逸らしていったん下を向き、再度顔を上げた。

「絶対に、絶対に僕のことだとわかるような書き方しないでくださいよ」

 懇願するというのではなく、どちらかといえば威圧するような恫喝とも受け取れかねない調子だった。

「とにかく僕は極力問題を起こさず、それでいて手柄というか大きな事件に携われる機会は少ないから、小さなやつでもコツコツ点数を上げることを目指してます。だから正月もクリスマスも夏休みも、なるべく進んで勤務するようにしてるぐらいです」

「それは感心だ、警察官の鑑です。でもそれだとご家族、奥さんなんかから不満が出たりしませんか」

「それはないです」

 きっぱりと断言した。

「そうやって頑張って働いてるからこそ家族が生活していけるわけだし、そうして一生懸命やってれば将来にも希望が持てるじゃないですか、妻も子どもも」

 いまどきの若者としては珍しく、自分が家族を背負っているという自覚が伝わってきた。ただ、この信念が別のベクトルに向かったとき家族は息苦しさを感じないだろうかと、勝手ながら危惧しないでもない。

「話を戻しますが、失礼ですが沢崎さんと花穂さんが大喧嘩したことは」

 少し考えてから彼はいった。

「些細な言い争いは何度かしましたけど、別れ話が出るほどの激しい喧嘩はなかったと記憶しています。いつも折れるのは彼女のほうで、向こうは向こうで割り切って付き合ってたからだと思うけど」

「重ねて失礼なことを伺いますが、沢崎さんはもちろん奥さんとお子さんがいることは花穂さんに伝えていたんですね?」

 一瞬、呆気にとられたように見返してから、直後に声を上げて笑う。

「あたり前じゃないですか。僕が結婚の事実を隠したまま女性と交際するような、そんな卑怯な男に見えますか」

 見えるか見えないかではなく、事実がどうだったのかが重要なのだ、とはあえて口にしなかった。

「沢崎さんは、今回の事件の犯人はどんな人物だと思いますか?」

 椎名はごくさり気なく尋ねてみた。真剣な表情で沢崎は拳を口に当ててしばらく考えていた。

「僕にとっても今回の事件は特別なので、自分が刑事になって捜査に関わってるつもりで考えてみたんですけど、いくつか気づいたことがあります。まず、犯人は頭の切れるやつじゃないかと思います」

「そう思う根拠は何でしょう」

 彼は口に当てていた手で今度は顎を支えてつづける。

「現場からは、犯人のものと思われる遺留品がほとんど発見できなかったそうです。昔と違い現代の犯罪捜査で重要な証拠となるのは、犯人自身が現場に残していった毛髪や唾液などです。ところがあの現場では、発見されるまでに降った大雪のせいで遺体の発見が遅れました。そして雪が溶けた後では足跡はもちろん、犯人につながりそうな有力な物証は何ひとつ見つけられなかった」

「犯人は事前に犯行を準備していた。つまり、計画的な犯行だと沢崎さんは考えているわけですか」

「計画的だったかどうか、そこまでは正直わかりません。ただ、いずれにしても周到な奴だなと感じます」

「奴ということは、男?」

「いえ、それはわかりません」

 真顔で答えた。椎名も真剣な面持ちのまま告げた。

「捜査本部の人に少しだけ話を訊いたんですが、捜査員の間では突発的な犯行、ただし流しの犯行ではなく顔見知りによるものとの見方が主流だそうです」

 沢崎は驚いたような表情に変わり、まじまじと椎名を見ていった。

「椎名さん、捜査本部の中にも知り合いがいるんですか?」

 額をコリコリと掻いて答える。

「知り合いというほどじゃないですが」

「そうか、椎名さんは事件について何度も調べてるから、警視庁内にも知ってる顔がいたり情報源になってる人がいるんだ」

 さっきまでのややふて腐れた態度から一転し、今度は尊敬の眼差しに変わっていた。

「僕はいちおう所轄とはいえ警察官ですけど、捜査本部内の情報なんかほとんど入ってきません。やっぱりこういう仕事をしてる人の情報網ってすごいなあ」

 いくつか事実誤認があったが訂正はしなかった。勘違いされたままのほうが都合が良いこともある。

 そのときバイブレータが振動した。テーブルの上に置いてある沢崎のスマートフォンだった。椎名に目配せしてから彼はディスプレイをタップして耳に当てた。

「ああ、僕だ。どうしたんだ? 今日は大切な用事があるっていったじゃないか」

 立ち上がると、テーブルを離れてカウンターのほうへ行く。話しぶりから察するに奥さんからだろう。階段を上がってきた一人の客と沢崎がすれ違う。

 他の客がいるところではさすがに事件の話は訊き出せないし、他の喫煙客がきたら一階へ行くと約束していた。そろそろ潮時だった。

 椎名は万年筆のキャップをはめて耳を澄ませた。一般常識からすれば盗み聞きはマナー違反だろうが、重要な情報源となる場合もある。

「……だから休みの日ぐらいっていうけど、僕のほうこそ休みたいんだ……子どもの相手っていってもまだ小さいだろ。いったい何をしろっていうんだ。おむつでも替えろっていうのか

 苛立った様子で電話しながら、沢崎はしきりにズボンへ手を入れて、何かを探す仕草をした。椎名の中で、ぴんとくるものがあった。

「いいか、僕に育児の手伝いなんて期待しないでくれ。父親の立場よりもはるかに仕事が大事なんだ、何度もいわせないでくれ」

 彼は何かに気づいてハッとし、それから苦笑を浮かべながら席へ戻ってきた。彼が「すみません」といったので、間髪を容れずに椎名はいった。

「お忙しいようなので、今日はこの辺で」

「もういいんですか?」

「ええ。興味深い話が聞けましたし、とても参考になりました」

 椎名は礼を述べた。沢崎はやや釈然としない顔つきだったが、立ち上がると軽く会釈した。立ち去ろうとした彼の背中に声をかけた。

「間違ってたらすみませんが」

 ぴくりと立ち止まると、ゆっくり振り返った。

「もしかして沢崎さん、前は煙草を吸ってたんじゃありませんか」

 彼は一瞬驚いたように身体を引き、それから笑顔をつくった。

「へえ、よくわかりましたね。別に隠してたわけじゃないですけど、確かに以前は吸ってました」

「数カ月で七キロも体重が増えた、そして口寂しさからよくガムを噛むようになった。私が聞いた禁煙経験者のエピソードとよく似てたもので」

 沢崎は感心したという調子でいった。

「禁煙して何ヵ月かたちましたけど、いまでも時々吸いたくなります。吸ってる夢を見ることもあるぐらいで、ほんと情けないですけど」

 苦笑いを浮かべながらつづける。

「でも、さすがインタビューのプロだけありますね。僕のちょっとした行動を見てそこまで言い当てられるなんて」

 黙礼して立ち去る沢崎の背中を見送り、椎名は冷めたコーヒーを飲みながらしばし今日のインタビューを振り返った。最後に大きくひとつ頷き、気持ちを切り替えて店をあとにした。

 

 

 (第1章 終わり)

  

 
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