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『その男、椎名』第1章-2 長編小説

『その男、椎名』第1章-2

 

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     †

 

 沢崎が目を輝かせていった。

「そこには、昔の恋人というような存在も含まれるわけですよね」

「もちろんそうです。最近増えてきたストーカー事件なんかは、まさにその典型といえるでしょう。動機は愛情のもつれや金、嫉妬、プライドなどがからんでいることが多いようですが」

 意外だというように彼は目をぱちくりさせた。

「プライド? プライドを傷つけられたからなんていう動機もあるんですか」

「自身のプライドを守るため、という動機で犯行に及ぶ例もあります。失礼ですが、沢崎さんも仕事柄その辺の事情はある程度ご存知では?」

「いえ、初めて聞きました」

 彼は心持ち恥ずかしそうな様子で否定した。

「確かにそうですけど、まだ平の巡査だし、日々やってる仕事といえば交通違反の取締りだったり、あとは遺失物拾得の書類作成とかそんなのばっかりで、いわゆる重大事件に関わった経験なんて一度もありません。だから今回のような事件に関していえば、きっと椎名さんのほうがはるかに詳しいんじゃないかと思います」

 沢崎は自虐的な調子でそういった。

「そんな椎名さんから見て、今回はどんな動機や真相が隠されていると考えていますか」

「それはわかりません。何しろまだ取材をはじめたばかりですし、真相に近づくためにももっとたくさんの人から話をきかなければいけませんからね。できれば物証についても調べたいとは思います」

「そうか、そうでしょうね」

「捜査経験はそれほどないにしても、警察学校で基本的なことは教わったんでしょう?」

 沢崎はふっと鼻で笑った。

「本当に基礎的なことだけです。あんなのは、実際の捜査現場じゃ全然役に立たないと思います」

「まあ学校なんて大体そんなものでしょうけど」

 椎名は話題を転じた。

「あの事件で真っ先に現場へ駆けつけたのが沢崎さんだったとか」

「どうしてそんなことまで……」

 とても意外そうに彼は目を見開いた。

「あ、もしかしてそれで僕に話を聞こうと思ったんですか? そういうことか」

 最後は自分に言い聞かせるような納得顔でそういった。椎名は眉のあたりをコリコリと掻いて、少し間をとった。

「僕が最初に現場に着いたときのこと、その場の状況や何かを詳しく聞きたい。そうなんですね」

「そうです。もちろん沢崎さんは立場が立場ですから、話せる範囲内でということで構いませんので。それと、これから沢崎さんから伺う話は絶対に書きません。だって発見時の現場の詳細を書いてしまったら、沢崎さんが私に話した事実がばれてしまう可能性もある。私は取材時の約束を破るようなことはしない主義です」

 彼は意を決したというように目を見開くと身を乗り出していった。

「わかりました。憶えていることを話せる範囲でお話します。誤解されると困るのであらかじめ伝えておきますけど、本来なら僕のような立場の者がこんなことをべらべら喋ることはありません。でも今度は例外中の例外です。僕の女友だちが若くして亡くなった、その無念をぜひ晴らすために少しでも解決の役に立てばと思います」

 そこまでいうと沢崎はいったん下を向き、数秒間を置いて顔を上げた。

「あの日、十二月二十六日の朝のことですが、僕が自転車で警ら中に無線受令機がピーピー鳴りました。これは警視庁の通信指令本部から、事件が発生した担当管轄の警察署に無線指令が入った、つまり勤務する署の管内で通報があったことを意味します。僕はすぐにイヤホンを耳にすると、民家で遺体が発見されたという一一〇番通報が入ったとのことでした。場所が警らしてたエリアのすぐ近くだったので、急いで駆けつけることにした、そういう経緯です」

 椎名は要点をノートにメモしていく。

「そこは民家で、一年ばかり前から空き家になっていました。そういうところは不審者が出没したり、場合によっては浮浪者が住み着いたりすることもあるので、僕らも普段から注意してパトロールしていた箇所の一つだったんです。自転車で現場へ到着するとそこにいたのは二人の第一発見者でした」

「第一発見者が二人?」

「正確にいえば、本当の第一発見者は水道局から委託を受けてメーター検針にきた女性でした。メーターへ行くため裏庭へ回ったところ、溶けかけていた雪の中から足が見えたそうで、それで反射的に悲鳴をあげた。そこにちょうど自転車で新聞配達していた配達員が通りがかって、声を聞きつけて裏庭に行ってみたというわけで」

「発見時刻は」

「確か八時二〇分前後だったと思います」

「朝八時過ぎというのは、新聞を配達するには少し遅い時間に思えますが」

「大雪のせいですよ」

 椎名ははっとしてノートから顔を上げた。

「そうだった。その二日ほど前から大雪が降って、強い寒波がきてて」

「ええ。それで道路が凍結したりして、新聞はもちろんですけど交通機関なんかにも大きな影響が出たんです」

「雪が降りはじめたのが、確か二十四日の夕方からでしたね」

 沢崎は無言で小さく頷いた。

「ホワイトクリスマスだなんて騒いでたのも最初のうちだけで、夜半前には大雪警報が出される始末で。まったくマスコミっていうのは勝手なことばかり……あ、すみません。椎名さんもマスコミ関係者か」

 椎名は笑って手を振り否定した。

「気にしないで、どうぞつづけてください」

「翌朝までに降り積もった雪があちこちで氷の塊になって、東京は大雪に慣れていないので二、三日は混乱して大変でした。それで、雪が溶けてきたところで発見されたわけです」

「雪で冷凍保存されたかたちになってしまった遺体は、死亡推定時刻はもちろんですが犯行の日付けの割り出しも難しかったとか」

「ええ、そう聞きました」

「現場へ到着して、それから沢崎さんは?」

「発見者の青年についていくと、積もった雪の間から足がのぞいているのが見えました。雪ということもあるしすぐにでも現場を確保したかったんですが、警ら中だったから規制線テープも何も持っていませんでした。じきに管轄署員がパトカーで乗りつけたので、あとは一緒に野次馬の整理や現場に立ち入らせないよう見張りにあたったわけです。遺体を見たのもいっときのことで、しかも足だけでしたから、あの時点では僕は花穂と認識できていませんでした」

 恥ずべきことだというように、沢崎は唇を噛み締めて俯いた。

「それじゃ発見された遺体が岸田花穂さんだったと、沢崎さんが初めて知ったのはいつ、どうやってでしたか」

「僕はあの日は日勤で、朝一番で警らに出てすぐのことでした。最初の状況を訊かれたり、書類仕事をやったりで夜遅くまでいることになりました。署に設置された捜査本部には駆り出されなかったので、夜遅くには家に帰ることができましたけど。日勤の翌日は夜勤当番なので昼過ぎに勤務に出て、やっぱり事件のことが気になってパソコンで確認したとき、名前を見て初めて被害者が花穂だったと知ったんです」

「そのときはどんな気持ちでしたか」

「それはもう、なんていったらいいか……」

 言葉を失い、当時の心境を表現する単語を探しているとでもいうように、顔を上げて視線をさまよわせる。

「同姓同名の別人だろうと最初は考えました。けど住んでる場所まで同じだったから、本当にもうびっくりして。言葉にならないというのはあんな気持ちをいうんでしょうね。よりによって何故こんな偶然が、しかも最悪の偶然が起こるんだろうって思いました」

「それで、すぐに名乗り出たと」

「それが、その、すぐというわけにはいかなくて」

 目を逸らし、消え入るような声でいった。

「だってそうでしょう。通報があって、たまたま近くを警ら中の僕が自転車で一番に駆けつけて、そこで見つかったのが僕の知り合いでって……下手をしたら疑われちゃうかもって考えたら、怖くなっちゃって」

「疑われるって、犯人にということですか」

 彼は怯えたような顔つきで頷いた。組んだ脚で貧乏揺すりがはじまり、テーブルが小刻みにカタカタ鳴った。

「でも、沢崎さんには動機がない」

「そうですね。それによくよく考えてみれば、ていうか考えなくても、彼女のスマホの通信記録とかを調べれば、僕とやりとりしていたことはすぐにばれるよなって思い直して、上司に打ち明けたんです」

「上司の方の反応は?」

 きまりが悪そうな表情でいう。

「こっぴどく怒られちゃいました、当然です。すぐに上司が捜査本部に連絡して、これからすぐに行って事情聴取されて来いっていうことになって」

「ちなみに現在の交番勤務は何年ぐらいですか」

「三年目に入りました。だからようやく慣れてきて、現在の交番周辺の地理や住民の方々の特徴もわかるようになってきたところなんです」

 どこかほっとした様子で笑った。

「自分もつくづく馬鹿だったなってあとで思いました。考えてみれば僕にはアリバイが、しっかりしたアリバイがあるんだから早く申し出ればよかったんです。こんなことじゃ刑事になりたいなんていう資格ないです」

「沢崎さんは刑事になりたいんですか」

 黙ったまま頷いた。

「いまの話ですが、しっかりしたアリバイというと?」

「十二月二十四日、世間じゃクリスマスイブと騒がれてたその夜、僕は夜勤だったんですよ。だからその日の昼から翌二十五日の昼までは当番で、交番に詰めてたんです」

 さっきまでと違ってその顔は自信に満ちていた。

「聴取を受けて少しして、アリバイのことを刑事さんに訊かれて事情を話しました。そうしたらその捜査一課の刑事さんに、なんだ早くいえよ馬鹿っていわれて」

「すぐに釈放されたわけですか」

「はい。でも、やっぱり本庁捜査一課の刑事って迫力あるなって思いました」

 椎名は万年筆の尻で額を掻いて間をとった。

「ゆくゆくは刑事になりたいなんて自分でいってるくせに、僕なんかまだまだ力不足だなって痛感させられました。今度のことは本当にいい勉強になりました」

 そして思い出したようにこうつづける。

「椎名さんは仕事柄こういう事件の取材が多いんでしょうから、捜査一課にも顔見知りの人はいるんでしょう?」

「まあ、多少は」

「警視庁には昔から伝説になってる刑事が何人もいますけど、いま現役の方で敏腕刑事っていえば誰なんですか」

 少し考えて椎名は答えた。

「パッと思いつくのは九条さんでしょうか。といっても、私もそんなに知り合いが多いわけじゃないのであまりあてにはなりませんが」

「どんな事件を担当していた方ですか」

「二年前に起きた連続毒殺事件を、見事捜査結了へ導いた立役者といってもいい人です」

「あっ、知ってます! 南米産のヤドクガエルの猛毒で三人が殺害された……一時はお宮入りじゃないかっていわれてた難事件ですよね。へえ凄いな、憧れるなあ」

 横道に逸れつつある話を戻す。

「発見当日のことで他に、何か沢崎さんが憶えてることとか、印象に残っていることなどはありませんか」

「他に、ですか……」

 腕組みをしてしばらく考え込んでいたが、やがて沢崎の頬がわずかに緩んだ。

「何かおかしいことでも?」

「あ、いえ、事件とは直接関係ないことですけど、思い出したらちょっとおかしくなって。あのときはそれどこじゃなかったんですが」

「それはどんなことですか」

「最初に発見した検針員の女の人、現場で腰を抜かして立てなくなっちゃったんです、あまりにびっくりしちゃって。僕と新聞配達の人とで立たせようとしたんですけど、全然腰とか足に力が入らない感じで。不謹慎ですけど、人が腰を抜かすところを初めて見たので僕も本当に驚いて。あれ、不思議ですね」

「生まれて初めてそんな場面に出くわしたら、確かにそんな風になるのも仕方ないかもしれない。もう一人、新聞配達の人はどんな様子でしたか」

 頬に手をあてて当時のことを思い出そうとする。

「彼のほうは、まだ大学生の青年でしたけど、比較的落ち着いてたように見えました。比較的冷静というか」

「それは珍しい。冷静でいられるってのはすごい」

 椎名が感心していると、沢崎は驚くべきことを告げた。

「彼、実は前にも一度遺体を発見したことがあったんだそうです」

 にわかには信じられないような話だった。

「それはその、家族や身内の人が亡くなったときに見たということじゃなくて、今回のような事件で?」

「いや、前のときは事件とかじゃなくて、公園でホームレスが亡くなってるのを発見したんだといってました。そのときもやっぱり新聞配達の途中で、まだ薄暗かったといってました」

「それにしたって、二十歳そこそこで二度も発見なんて、滅多にないことに思えるけど」

 そうだ、といって沢崎はいいことを思いついたという顔になった。

「彼にも会って話を聞いてみるといいですよ。新聞配達をしてれば早朝とかに不審な人物なんかも見かけてる可能性があるだろうし、何か思い出すこともあるかもしれません」

「でも、第一発見者なら警察がきっちりすみずみまで事情は訊いてるはずでしょう。今更私が話を聞いて新たな事実が出てくる可能性は低そうです」

 しばし考えてから彼は言った。

「何故こんなことをいうかというと、発見の際に彼、おかしなことをいってたからなんです」

「というと」

「署の刑事たちが到着するまでの間、僕が彼から発見時の話を訊いてたんですけど、ひと通り話し終えた後でぽつりといったんですよ、彼。これってやっぱり新聞に載りますよねって」

 いろいろな意味合いを含んでいそうな言葉ではある。椎名は二度頷いてから沢崎にいった。

「大学生の青年がその状況下で口にするには、確かに若干不自然ではありますね。ちょっと興味が湧いてきました。第一発見者から話を訊く予定はありませんでしたが、リストに入れてみることも考えてみます」

 沢崎はつっと目を逸らすと、底に残ったコーヒーを飲み干した。そして視線を上げて何事かを考えてから、脚を組み直してこんなことをいった。

「そういえば僕の他にはどんな人にインタビューする予定なんですか」

「候補はいろいろ頭の中にありますが、まだ完全に絞りきったわけじゃないし連絡していない人もいます。でも被害者が昔いた会社の同僚には会ってみるつもりです」

「同僚というと女の人ですか」

「ええ、結構仲がよかった人みたいです。いまはもう会社は辞めて専業主婦だそうですが」

「専業主婦」

「そういえば沢崎さんの奥さんは?」

「うちも、まあ専業主婦といえばそうですけど」

 途端に彼の表情が曇り、口も重くなった。あまり奥さんとうまくいっていないのかもしれない。

「交番勤務だと生活も不規則になりがちでしょうから、小さなお子さんを抱えて奥さんも大変でしょう」

「そりゃうちの妻も大変かもしれないけど、僕のほうが何倍もきついですよ」

 椎名は同意の表現として、ああ、と口の形をつくった。

「何しろ上意下達の縦社会だし、上司や先輩のいうことは絶対ですから。本当は違うんじゃないかとか、こうしたほうが絶対仕事がスムーズに進むよなとか、いろいろ思うところがあってもなかなかいえないし、日々ストレスが溜まるばかりで、ほんと、きついです」

 きついという言葉を彼は繰り返した。

「僕らの仕事って結局公務員じゃないですか。特に僕みたいにまだ若いと、給料だって民間に比べたら全然安いし、妻が警察官の奥さんは専業主婦じゃないとだめだなんていうもんだから、生活だって大変で。確かに僕の周りの家庭も奥さんが働いてる人なんてほとんどいないし……あの、僕の名前は本当に出ないんですよね?」

 おどおどした態度で再度確認してくるので、思わず苦笑いを返した。

「安心してください。ご本人の特別な希望でもない限り名前は出しませんし、最初に話したように文章になる可能性も極めて低いですから。でも仕事もきつい、家庭も何かと気苦労が多いとなると、やはりたまには外で遊びたくもなるでしょうね」

 椎名が同意してみせると、やっとわかってくれたかというように沢崎は満面の笑みを浮かべた。

「でしょう?」

「花穂さんも、そんな気晴らしがてら会える友人の一人だったわけですか」

「ええ、そうです」

「どこかに遠出したりすることはありませんでしたか? 例えば温泉とかに」

「ああ、それは何度か……」

 いってしまってから沢崎は露骨に、しまったという顔をした。小さく舌打ちする。

「まんまと引っかけられましたね。さすがに人から話を訊き出す仕事をしてるだけあって、口を割らせるのが巧い。僕らの世界でいえば落としの名人ですよ」

 隠し事を暴かれたのが余程悔しかったのか、沢崎は睨みつけるような視線をぶつけてきた。やや三白眼気味の目は、さすがにその職業らしい鋭さを見せていた。

 こちらから深追いすることはせず、敢えて向こうが口を開くのを椎名は待った。沈黙に絶えきれなくなったというように彼がいった。

「ええそうです、僕と彼女はそういう関係だったんです。考えてみればあたり前というか、当然ですよね。いい大人の男女が会って話すだけの関係で満足してるなんて、そんなお伽噺みたいなことあるわけないでしょう。椎名さんはいつから疑ってたんですか」

 一拍、間をおいて椎名は答えた。

「最初からです」

「ということは、僕と会う前から?」

 頷く。

「まいったな。それならそうと最初からいってくれれば、こっちもいらぬ取り越し苦労をする必要なんてなかったのに」

 ひと息にそう吐き出すと、彼はふて腐れたように半身になって脚を組んだ。

「訊きたいことがあるんだったら何なりと。もうこれ以上隠し立てすることはありませんから」

 すっかり開き直ったような態度だった。

「それでは改めて質問させてもらいます」