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『その男、椎名』第1章-1 長編小説

(内容紹介)

その男、椎名はある事件の真相へと近づくため、インタビュアーとして関係者から話を訊きだしてゆく。

相手に会うため、椎名は神奈川の葉山へ、京都へと出向く。相手に合わせていくつかの身分を騙りつつ、会話をとおして見え隠れしてくる事件の真実とは?

  『その男、椎名』 第1章-1

 

   ●一人目 沢崎洋次郎/警察官
   ●場所/東京都台東区御徒町 喫茶『とーもん』

 

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     †

 

 約束の時刻を五分ほど過ぎても待ち人は来なかった。

 その喫茶店の二階にはほかに客はおらず、椎名一人だけだった。ふと思い立って一階の禁煙席へ降りてみると、奥のテーブル席にいた男が周囲をきょろきょろと見回していた。

「失礼ですが、沢崎さんですか」

 近づいて声をかけると若い男が立ち上がっていった。

「あなたが椎名さん?」

 椎名は頷いていった。

「申し訳ありませんね、お休みの日だというのに」

 軽く会釈しながら椎名は相手に名刺を差し出した。沢崎洋次郎は素早く口からガムを出すと、包装紙にくるんでテーブルへ置いた。目許に警戒の色を浮かべながら受け取ると、名刺と目の前の男とを照合するように交互に見比べた。日常的にあまり名刺のやりとりをする習慣がない人物であるとわかる。

 若い男だった。年齢は二十七才のはずだ。だが明るい緑色のポロシャツを着ているからか、二十代前半にしか見えない。

「沢崎さんの仕事柄たばこを吸う方が多いという先入観があって、それで喫煙席に。かってな憶測ですみません」

「僕は吸いませんけど気にしないでください。それに実際、周りに喫煙者が多いのも事実ですし」

 椎名は告げた。

「あらためて初めまして。ルポライターの椎名です」

 沢崎はそれまで組んでいた足をほどき、居住まいを正していった。

「沢崎です。ところで椎名さんとお会いするのは初めてですよね? どこかでお見かけした気がするような」

 椎名は苦笑して自嘲気味に答えた。

「ええ、よく初対面の人からいわれます。あまりにどこにでもいそうな平凡な顔だから、皆さん私と似た顔立ちの人と一、二度は会ってるんじゃないかと思います」

「いわれてみれば……あ、失礼なこといってすみません」

 片手を振って椎名はいった。

「それより、わざわざお呼び出ししてすみません。せっかくのお休みなのであまり時間はとらせないように、一時間前後で終わらせる予定ですので」

「そんな程度で済むんですか。本を書くためのインタビューだっていうから、半日とかかかるっていわれたらどうしようってびびってました」

 拍子抜けしたという様子で沢崎が笑った。相手の気分を少しでも軽くさせておくのは、人から話を訊き出す際の基本だった。

 一階にはほかに数人の客がいたから椎名は提案してみた。二階にはまだ客がいないし、できれば人に話を聞かれたくない。だから二階の喫煙室でインタビューさせてもらえないだろうか、と。

「喫煙席でも誰もいないなら大丈夫です。でも、たばこを吸う人が来た時点で禁煙席に戻りたいんですけど、それでいいなら」

「わかりました。それで結構です」

「煙草の煙が苦手な人になっちゃったみたいで」

 言い訳のようにそういうと沢崎は立ち上がった。二人分のコーヒーを注文してから二階へ上がり、一番奥の窓際の席を選んだ。

「今日は、例の事件のことで少し話をきかせてもらえればと思ってます。あ、まずはこれを」

 二万円の入った封筒を、椎名はテーブルの上に滑らせた。沢崎が躊躇したのは一瞬のことで、封筒を二つ折りにすると素早くズボンのポケットに入れた。謝礼は支払うと事前に電話で伝えてあった。

「電話でも話しましたけど、事件そのものについては僕、本当に知ってることはほとんどないんですよ」

 沢崎の態度からも口調からも、うかつなことは絶対に喋らないぞという緊張が伝わってくる。彼の職業柄、その気持ちは痛いほど察することができた。

「こういっては何ですけど、ひとつの事件について文章を書こうとするときは、インタビュー相手として話を訊かせてもらう人は数十人、多いときには百人単位になることさえあります。でも実際に文章にまとめる段になると、そのうちの八、九割は捨ててしまう場合がほとんどです。ほんとに数打ちゃ当たる方式なので、最初からこんなことをいうのも失礼ですが、沢崎さんから伺う話も文章になる確率はほとんどないようなもので」

 通常ならば、まだ取材もはじまらないうちからこんなことをいわれたらむっとしそうなものだが、彼の顔には微かに安堵したような色が浮かんでいた。

「ところで、僕のことは誰から聞いて知ったんですか。それが一番不思議だったんですけど」

「申し訳ありません。我々のような仕事にも守秘義務はあって、情報源の秘匿は非常に重要なことなので、安易に洩らすことはできないんです。それが我々の世界の暗黙のルールってやつで」

「ああ、そういうものですか。ぼくらの仕事も似たところがありますから、わからないでもないですけど」

「そんなわけで、まず岸田花穂さんとの関係についてお訊きしたいと思うんですが」

 沢崎がそこで、ストップという感じで手をこちらに向けた。

「まず確認しておきたいと思ってたんですが、椎名さんがこの事件を取材しようと考えた理由は何ですか」

 数秒間をおいて答えた。

「非常に珍しい事件だからです。この事件はこのままだと迷宮入りしてしまうでしょう」

 相手の頭に言葉の意味が沁み込むのを待ち、つづけた。

「発見までの経緯が随分と風変わりだし、手掛かりらしい手掛かりもない。捜査本部でも手詰まりの状況だと聞きます。遺留品はあるものの、それが解決に結びつく物証なのかどうかすらわからない。とても奇妙で不可思議な事件だと個人的には感じています。これじゃ答えになりませんか」

「ジャーナリストの方の興味というのは、やはり我々とはちょっと違うものなんだなということはわかりました。ところで、今日話すことは録音しないんですね」

 電話で確認したことを念押ししてくる。

「もちろんです。聞いていて重要だと思うところをメモさせてもらうだけです」

 こくりと頷くと彼は、どうぞというように手のひらを上に向けた。

「どういう経緯で花穂さんとはお知り合いに?」

「その部分、どうしてもいわなきゃいけませんか。椎名さんにも事情があるように、こっちにもあまり公にしたくない事情があって。わかってもらえませんか」

「わかりました。それでは、沢崎さんと花穂さんの関係について教えてもらえないでしょうか」

 眉間に寄せていたしわを心持ち緩めて沢崎は答えた。

「友人ですね。女友だち、それ以上でもそれ以下でもありません」

「沢崎さんは女性の友人は多いほうですか」

「うーん、どうだろう。普通の僕ぐらいの世代からすればやや多いほうかもしれません。親しいといえる女性は五、六人ぐらいはいるでしょうか」

 親しさのその度合いが気になったが、まだ打ち解けているとはいえない状況だったからやめておいた。

「花穂さんとはどれぐらいの頻度で会ってましたか」

「そうですね、せいぜい月に一回か二回ってとこでしょうか。コーヒーだけのこともあれば、一緒に酒を飲むこともありました」

「そんなときはどんな話題に?」

「他愛のない話ばっかりですよ。彼女猫を飼ってたんですけど、その猫が体調崩してかわいそうだとか、奮発して高級品の猫用のおやつを買ってあげたとか、猫の話は多かったですね」

「花穂さんとはほかにどんな思い出が?」

 彼はふたたび眉を寄せるような表情をつくった。

「僕にとって彼女との思い出は良いものしかありません。花穂さんは子どもの頃けっこう苦労したようですけど、それもあったのか、凄く細やかなところに気のまわる女性でした」

 前もって用意してきた答えなのか、澱みなくすらすらと答えた。

「私はまず、被害者像を自分なりに◯んでみたいと思っています。週刊誌などで断片的な情報は読んでますが、何というか全体像が見えてこないというか。神は細部に宿るといいますから、もう少し具体的に教えてもらえると助かります」

「そうですねえ」

 沢崎は軽く握った拳をひたいにあてて数秒考えた。

「例えばそう、きれい好きでした。着てる服はいつもぴしっとアイロン掛けされてたし、髪もちゃんとまとまってて」

 それはあくまで外出時のよそ行き姿のはずだった。プライベートでも同じだとは言い切れない。

「それに比べたらうちの奥さんなんか、髪はボッサボサだし、袖口が擦り切れそうなトレーナーばっか着てるし、ほんと、もう女を諦めたっていうか捨ててるっていうか」

「お子さんはいらっしゃるんですか」

「います。二歳の男の子」

「かわいい盛りですね。でも一番手がかかりそうな年頃だ」

 沢崎はちらとこちらに視線をよこして、それから首筋を掻いて少しばつの悪そうな顔になっていった。

「いいたいことはわかります。うちの奥さんは子どもに手がかかるから、自分の身なりになんて構っちゃいられないっていうのは。椎名さんはご家族は?」

 椎名は笑いながらぺこりと頭を下げた。

「独身です。申し訳ない、差し出がましいことをいってしまって」

「いやいや、気にしないでください。結婚して子どもまで生まれて、でもね、よくよく考えてみれば僕はまだ二十代半ばを過ぎたばかりなんです。もちろん自分で落ち着きたくて結婚したわけだから、それはいいんだけど。やっぱりたまには年相応っていうか、息抜きしたり遊んだりしたい気持ちもあるじゃないですか」

「わかります。私も二十九歳ですけど、遊ぶといっていいのかわかりませんが、家庭とか責任とかそういうものに縛られたくないから、まだ独身でいるのかもしれない」

「そう、そうなんです。女友だちを切らさないようにしてるのも、そういう気分が残っているからなんだと思います」

 本音をわかってくれてうれしいというように彼は笑った。話を合わせておいたほうがこの先がスムーズになるはずだった。

「ただでさえ僕の会社はバリバリの男社会だから、意識してそうしないとあっという間に周囲が男だらけになっちゃって」

 気持ちは非常によくわかる。椎名だって独身を気取ってはいるものの、出会いの場が極端に少ないのはまるで同じだ。沢崎は壁に掛けられた少女の絵を見て、それから椎名に目を向けた。

「だから花穂さんみたいな女性の存在は、僕にとってすごく大事でした。なのにあんなことになってしまって」

「花穂さんはご自分の部屋もきれいにしていたんでしょうね」

 虚を衝かれたという表情が浮かんだ直後、彼の目が泳いだ。

「彼女の部屋は、行ったことがないのでわかりません」

「ああ、そうなんですね。それじゃいつも会うのは外の店だったということになりますか」

 こくりと頷く。自信なさげにも見えた。

「店を決めるのはだいたい彼女のほうでした。僕はそれほど店を知ってるほうじゃありませしね」

 急に思い出したように、沢崎は「そういえば」といった。

「彼女、洋食に苦手意識があったらしくて、ほとんどいつも和食の店ばかりだったなあ」

「いまどきの若い女性にしては、ちょっと珍しいかもしれませんね」

「どうもコンプレックスがあったみたいで」

「コンプレックス? 洋食にですか」

 顎に手をあてて少し気取った態度でいう。

「洋食というよりは、ナイフとフォークにかな。ほらフレンチレストランとかで、コースで出てくる料理があるじゃないですか。ナイフとフォークがずらりと並んで」

「小皿からはじまってどんどん皿が大きくなっていって、使うナイフとフォークも使う順番が決まってるようなやつでしょう。私だって苦手ですよ、ああいうのは」

 椎名の言葉に、彼も同意の笑みを返してくる。

「彼女の実家はあまり裕福じゃなかったみたいです。だから小さい頃からアニメとかドラマに出てくるような、ナイフとフォークの食事にもの凄い憧れがあったと話してました。一度も食べたことがなかったからって」

「だったら逆に、その反動で大好きになってそうな気もするけど」

 沢崎は拳でコンコンとテーブルを叩いて楽しそうにいった。

「ところが長年のコンプレックスのせいで、彼女、初めて行ったフレンチレストランで大失敗しちゃったらしいんです」

「へえ、どんな失敗だったんだろう」

「僕もそのとき訊きましたけど教えちゃくれませんでした。よほど恥ずかしい思い出だったんでしょうね。それ以来そういう店には可能な限り近寄らなくなったといってました。だから行くのはいつも箸を使って食べられる店ばかりで」

 聞いているほうまで何だかほろ苦い気分になってくるエピソードだった。

「日本のごく標準的な家庭で、子どもの頃にちゃんとしたコース料理を食べたことがあるなんて子のほうが、はるかに少ない気もするけど」

「本当です。そんな背景もあって、僕らが行ってたのは全然気取らずに飲み食いできる店ばかりで。僕も食べるのは大好きで、特にここ何ヵ月かで七キロも体重が増えちゃいました」

「七キロというのはすごい。奥さんの手料理が急においしくなったとか?」

 沢崎は苦笑いを浮かべ、それから申し訳なさそうにいった。

「ガム、噛んでもいいですか」

 彼はポケットからガムを取り出すと噛みはじめた。

「行儀が悪いのはわかってますけど、何だか口寂しくて」

 彼のいまの話からあることに気づいたが口には出さなかった。椎名は不意打ちで訊いてみた。

「花穂さん、何かトラブルを抱えていたような様子はありませんでしたか」

 眉間にしわをよせて彼は聞き返してきた。

「トラブル?」

「ええ。例えば、金銭の貸し借りとか男関係とか、そういう類いの」

「うーん」

 沢崎は顔を上げて、左上を仰ぎ見るような様子でしばし考えていた。

「さっきもちょっと話しましたけど、彼女と会うときはいつもばかばかしい話をするだけで、あまり真面目な話をしたことがなかったんです。お互い無意識に避けてたというか。だから何かで悩んでいたとか、そういう話はあまり聞いた憶えがありません」

 言い終わると沢崎はコーヒーカップからひと口飲んだ。椎名は気になっていたことを確認する。

「沢崎さんは左利きですか」

 カップを持っていた左手を見て、それから不思議そうに訊き返す。

「そうですが、それが何か?」

 一つ前の質問で、彼は左上を見て少し考えた。左利きの人間が左上を見て考える場合、自分が未体験の事柄をイメージしている場合が多い。右利きの場合はその逆になる。

 心理学ではそういう説があると何かで読んだことがあった。絶対にそうとは言い切れないが、事実と異なる答えである可能性もあるということになる。

「料理するときなんか包丁を使うのが大変じゃないかなと思って。特に和包丁みたいに片刃のやつなんか。沢崎さんは料理は?」

「妻が疲れてるときなんかは少しだけ」

 椎名はなるべく柔らかな笑みを浮かべてから、単刀直入に切り出した。

「この事件は手がかりが少なすぎます。ただでさえ犯行時の状況が普通じゃなかったこの事件の解決を、さらに困難なものにしていると思います」

「犯人像と動機が見えてこないということですね。うちの会社でも事件後、彼女の過去の交友関係も当然調べたみたいですが、疑わしい人物は浮上してこなかったと聞いています。まあ、僕みたいな下っ端の耳には入ってこないだけかもしれないけど」

 彼が口にした会社とは、警察の隠語で警察組織を指している。沢崎も休日とはいえ自分が警察官であることを思い出したらしく、眼光に鋭さが増した。

「そちらの会社でもそうですか」

「ところで椎名さんは、こういう事件を数多く取材しているんでしょう?」

 椎名は曖昧な角度に首をひねった。質問の真意が◯めなかったし、〈こういう事件〉の範疇も不明だった。

 沢崎は身を乗り出すと小声でいった。

「椎名さんがいうように、確かに難しい事件だと会社は考えてるようです。でもこういうときは、逆に多くの事件を客観的に取材してきた椎名さんのような立場の人の方が、見えてくるものがあるんじゃないですか。解決の見込みがありそうだと判断したから、椎名さんはこの事件について調べてみようと思った。違いますか?」

「あまり買い被られても困ります。現時点で特に見込みなんてありません。けどインタビューをつづけていくうちに、何か見えてくる可能性はゼロじゃないだろうとは考えてます。期待を込めて」

 彼は引き締まった警察官の顔になっていた。

「今回のような若い女性が被害者の場合、真相や動機はどういうのが多いものですか。そこにある種のパターンのようなものってあるんでしょうか」

 これまでの経験則に照らし合わせ、慎重に答えた。

「よくいわれることですが、現実の事件で巧妙なトリックが使われたり、凄く意外な人物が真犯人だったりということは滅多にないようです。人をあやめるという行為は衝動的なものが殆どで、犯人は多くの場合には家族や身内、恋人などです。流しの犯行だった場合はもちろん別ですが」

 

(続く)

 

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