世界の裏庭

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『事件家族』第2章–3

 

     ☆

 

「それじゃ、おれがシオンちゃんを娘だと勘違いさせてしまったのは、結果オーライだったってことか?」

「それは言いすぎだが、最悪の結末を未然に防いだ可能性もなくはない」

「本当か!」

 突如草壁の目が光り出したのを見て、大嶽はやはり話すべきではなかったかと後悔した。彼があまりにしょげていたので、かわいそうになって道々考えてきたことを、推測だがと断って告げたのだ。

 いったん図に乗らせると、どこまでもその気になる男である。

「いいか、これはあくまで俺の考えだ。それを忘れないでくれ。現段階であまり推測に推測を重ねることは、本当はよくないことだが、いかんせんこの事件は犯行の背景がわからなすぎる。犯人の思惑と事件の展開をある程度予測しておいたほうが、いざというときに現場が混乱せずにすむかもしれないと考えたんだ。ただ、相手が予測不能な動きを見せた場合は……」

 なんの役にも立たないと言いかけたとき、草壁の携帯が鳴った。

 部屋に緊張が走った。大嶽と捜査員がいっせいにイヤホンを耳に付ける。

「草壁、指示したことを忘れるな。金策がうまくいかないといって、とにかく時間を稼げ」

 草壁がこくりとうなずく。のど仏が大きく一回、上下した。

「はい、草壁ですが」

「………」

「もしもし? どちらさま?」

「………」

 電話の向こうは黙りこんだままだった。ただ、雑音がひどい。雑音の合間に静寂が挟み込まれているような、妙な感じだ。

 相手も携帯電話だなと大嶽は思った。背後に警察の気配があるかどうか、受話器を通して透視しようとするかのような無言だった。

「ねえ、あなたはさっき電話してきた人でしょう? そうなんでしょう?」

「……匂う。ぷんぷんと警察の匂いがする」

 初めて犯人が口を開いた。若い男だ。送話口に布でもかぶせているような、くぐもった声だ。背後からは物音ひとつしない。

「何を言ってるんですか、警察になんて連絡してないですよ。おれの独断であなたと話すことにしました。娘の命がかかってるのに、嘘はつきません」

「りっぱな心がけだ……本当だとしたら、だが」

 大嶽は二人の会話を聞きながら、犯人は警察の関与を疑っていると確信した。こんなときのための言い逃れ、または警察が関わっていない証拠を草壁に指示しておけばよかったと思った。

 警察が関わっていないと証明できる何かが、用意できたとしての話だが。

「信用しようがしまいが、こちらには関係ないです。それより気になってるのは、シオンです。娘のシオンは無事なんですか?」

「さあね……元気な証拠を見せろとかいって、電話に出せなんて言わないでよ。そんなに親切じゃないから」

「それじゃ、どうやってシオンが無事だとこっちにわかるんですか。それがわからなけりゃ……」

「わからなけりゃ、どうするんだ? 交渉を打ち切るとでもいうのか?」

 草壁が言葉につまる。

 大嶽は妙だなと考えている。犯人は通話時間を気にするでもなく、ゆっくりと話している。やけに余裕たっぷりなのが気に入らない。

「……まあいい。少しだけだぞ」

「本当ですか?」

 ザザッザザッと雑音がする。

「あたし、シオンだよ!」

「シオン、シオンなのか!」

 草壁の声がひときわ大きくなる。矢も楯もたまらずに立ちあがっていた。

「無事か、無事なんだな!」

「うん。いまはまだ元気だよ」

「そうか、お父さんもお母さんも心配してるぞ。でも安心しろ、必ず助け出してやるからな」

 大嶽は目を疑った。感きわまって草壁が涙ぐんでいる。

 シオンは生きていた。ちゃんと応答が成立しているから録音ではない。大嶽が内心胸をなでおろすと、菅原が指でOKサインを出した。

 逆探知で犯人が携帯で話しているエリアが特定できたらしい。指示を出すため菅原はそっと部屋を出て行った。

「……涙の対面がすんだところで、話を進めよう。金は用意できたか?」

「そのことでこちらから相談があるんですけど」

「勘違いするな、これは交渉じゃない。一方的な命令だ。明日の午前……」

「身代金を、まけてもらえないでしょうか?」

 ブラックホールのような沈黙が流れた。

 大嶽はじめ捜査員全員の頭に、真っ黒なウロができた。かたわらにいた聡子が、口に両手をあてて目を見開いている。

「てめえ、娘の命が惜しくねえのか!」

 もしこの場で大嶽に声を出せる自由があれば、犯人と同じ台詞で罵倒したはずだ。草壁に向かって必死で「よせ!」と身振り手振りで伝えようとしたが、奴はそもそもこちらを見ていない。

「すみません、すみません。でも怒らないで聞いてください。死ぬ気になれば一億円はかき集められるはずですが、最低三日はかかると思うんです」

「………」

「二千万円なら明日にでも用意できるんです。すぐ手に入る二千万円と、三日後の一億円と、あなたに選んでもらおうと思って、こんな話を……」

 出来の悪い営業マンさながらに草壁は低姿勢だった。

 不思議なことに犯人は黙りこんでいた。通常であれば考えるのではなく、激怒して電話を叩き切られてもしかたがない局面だ。

 大嶽は目まぐるしく思考を働かせた。犯人は何を迷っている? なぜこんなばかげた提案に、返事を躊躇する?

 電話が切れた。

 万事休すか。大嶽は全身から力が抜けるとともに、頭のてっぺんに向かって血が駆けあがっていくのを感じた。

「草壁、きさま……」

 草壁の胸ぐらを掴み、壁に背中を押しつけた。部屋がかすかに揺れた。

「また勝手なことをしやがって!」

「待ってくれ大嶽、あれは考えがあってやったことなんだ」

 草壁の理屈は次のようなものだった。

 一億円などという途方もない金額を、犯人が本気で要求しているとは思えない。そもそも犯人は森たばこ店に強盗に入り、はした金を得ただけで逃げている。そこで偶然追いかけてきたシオンを拉致し、急きょ身代金をせしめようと方向転換したはずだ。

 つまり、事前に練りあげられた犯行計画ではない。大金をせしめられればもうけものという程度で、一億という金額も勢いで口にしただけ、そう考えたのだという。

「ほら、おれもどっちかといえば勢いだけで突っ走る人間だろう?」

「たしかに短絡的だ、いやになるぐらいに」

「そうなんだよ。短絡的なものどうしだから、おれには犯人の心理が手にとるようにわかるんだよ!」

 なぜここまでうれしそうなのかが、わからない。

「手に入るかどうかわからない一億より、確実にすぐ手にできる二千万だ。おれならそう考える」

「てめえは犯人か!」

「犯人は迷ってる。その証拠に、電話を切らないでおれの話を聞いてたじゃないか。交渉を打ち切るつもりなら、値切った時点ですぐに切るはずだろ?」

 掛け値なしのバカ者か、大胆不敵なのか。

「おまえがいま言った話に一理もないとは言わない。だが、これだけは忘れるな。犯人のところにいるのは草壁家の子じゃない。勝手な言動が予期せぬ結果を招いたとしたら、おまえは責任とれないんだぞ!」

 大嶽は頭を冷やすべく、本部に指示を仰ごうと居間を出た。

 ただ、犯人からの電話で収穫が二つあった。一つはシオンの生存が確認できたこと。そして二つ目は、犯人が身代金の受け渡しを明日の午前と考えているらしいことだ。

 捜査態勢は少しずつ整いはじめていた。市内にある所轄署に応援を要請し、人員をはじめ覆面の捜査車両、トカゲと呼ばれるバイク部隊も編成されていた。犯人から身代金受け渡しの指示があった場合、即座に現場へ急行できるようになっている。

 上司は怒った。思わず受話器を耳から離したほどだ。子どもの身代金を値切る親など聞いたことがないと、犯人以上に激怒した。

 犯人が携帯電話を使用した基地局のエリアは判明したものの、人物の特定は難航しそうだった。街の中心部ともいうべき地区で、オフィスビルや飲食店ビルの多い場所である。しかも使用されたのはやはり飛ばしの携帯電話だったらしく、持ち主の身許は割り出せなかった。

 

 犯人から次に電話が入ったのは午後十時過ぎだった。大嶽はヘッドフォンを通して聞いている。

「……草壁か?」

「そうです」

「三千万円だ。明日の十一時まで用意しろ」

「三千万円、ですか?」

 さっき電話で草壁が提示した金額から、一千万円増えていた。

「家にいま二千万あるわけだろう。なら今夜いっぱいかけてかけずり回れば、一千万ぐらいどうとでもなるはずだ。そっちも汗かけよ」

「わかりました。借りられるよう必死でやってみます」

「残りの七千万は、三日後でいい」

「……はい?」

「値引きしてやるわけじゃねえ。分割払いにしてやるといってんだ。三千万で話が終わると思ったか? おめでたい野郎だ。三日後にまた別に電話する」

 雑音の向こうで、犯人が小さく笑った。思いもよらなかった提案に、草壁が考えこんでいる。

 予想できる展開ではあった。が、長引けば長引くほど捜査する側には有利になってくる。情報が集まってくるし、何より、犯人にとってもっとも危険な身代金受け渡しが二回になる。しかし、と大嶽は別のことも考えていた。

 長い日数、シオンを生かしたままでおくだろうかという疑問だ。人質を生かしておくことは手間がかかるし、あらゆる意味でリスクが高くなる。

「承知しました、残りの三日間で全力でかき集めます。家を売り払ってでも残りの金は作ります。だから、お願いですからシオンだけは助けると約束してください」

「交渉じゃないといったはずだ」

「でもあなたは譲歩してくれた」

「明日午前十一時に電話する。金をバッグに入れたら、それをゴミ袋に入れてしっかり閉じろ。移動は車だ」

 電話が切れた。草壁はソファに倒れこんだ。床が揺れた。バカなことばかりやっていると思っていたが、奴は奴なりに考え、神経を張り詰めていたのだ。

 考えてみれば、きっかけは自分がつくったとはいえ、他人の子である人質の交渉役をやらされている。

「お疲れさんだった。今夜は、明日に備えてできるだけ眠ってくれ。まあ安眠できる心境じゃないだろうが」

「けどいまから一千万かき集めないと、シオンの身が」

 大嶽は苦笑した。すっかりシオンの父親になった気でいるらしい。

「それは我々のほうでなんとかする。一億は無理だが、三千万なら、どうにか」

「偽札を入れるのか」

「警察が偽札なんか使うか」

「けど、新聞紙か何かで札束つくって、上と下に本物を付けるだけじゃないのか?」

「そうなる可能性もある。本部と相談しなくちゃならないが」

「ばか言え。万が一それが犯人にばれたら、シオンはどうなる? もしものことがあったら、警察が責任とってくれるのか? 交渉役のおれにだって責任があるんだぞ」

 言葉に詰まった。痛いところを突いてきやがる。

「おれの二千万を使おう。じつは例の件で」

 草壁が曰くありげな顔を見せた。

「昨夜実家の親父を叩き起こしてな、金を借りてきてたんだ」

「金? どうして?」

 ほかの捜査員が草壁と大嶽を交互に見ている。例の件というのは、もしかして陽平の狂言誘拐の話か?

「ほら、おれは頭金が必要になるっておまえに言っただろう。だから念のために親父から借金しておいて、それがそのまま残ってる」

「しかし返さなきゃならない金だろうが」

「そりゃそうさ。でも、明日中には余裕で返せる」

 大嶽はじめ捜査員全員が首をひねると、草壁は断言した。

「だって二千万は全額戻ってくるじゃないか。なぜなら、大嶽たちが犯人を絶対に捕まえてくれるからだ。そうだろ?」

 草壁がにやりと笑った。小憎らしいことを言いやがる。大嶽は小さく、けれどしっかりとうなずき返した。

 今夜はやるべきことが山ほどある。昨日も仮眠だけで体力的にはかなりきつかったが、全身に力がみなぎってくるのを感じた。