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【おすすめ傑作選◉読書】『火車』 宮部みゆき

●『火車』 宮部みゆき

 

火車

火車

 

 

 この小説について書くのは、なんというか、非常にむずかしい。最大の理由は「好きすぎる」ということだ。あまりに好きだから、客観的にすすめるのがむずかしくなる。本作は自分のなかに存在する「ある棚」の、いちばん奥のほうに仕舞われている一冊だ。

 

 ストーリーをゆるゆると紹介していくと、まず主人公である刑事のリハビリ帰りの風景が描かれる。そして、これはぜひ書いておきたいことなのだけど、冒頭の書き出しが素晴らしい。

「電車が綾瀬の駅を離れたところで、雨が降り始めた。なかば凍った雨だった」

 これにつづき、主人公の膝がどうりで痛むはずだと書かれる。すごいと思うのは、この冒頭の文章が、この長い小説の通奏低音となっていることだ。徐々に明かされてくる犯人に、つねにつきまとっていたであろう意識、いつも得体の知れない黒い雲が追いかけてきて、どこまで逃げても振り払えないような焦燥感。いわば、不気味なイメージの象徴として、この冒頭の文が書かれている気がするのだ。
 この小説について書こうとすると、つい力んでしまって困る。先へ進みたい。

 発端は、任務中にけがをして公休でリハビリ中の主人公・本間の家に、遠い親戚の息子が訪ねてくるところから始まる。その若い男は、婚約中の女性が突然姿を消した、本間に捜してほしいと依頼する。刑事なら人捜しの専門家だろう、というわけだ。しかも、みずから失踪したらしい。
 条件付きで引き受けた本間だが、無理をしないよう軽い気持ちで追いかけていくうち、婚約者である女性・関根彰子に奇妙な点があることに気づく。どうやら彼女は「関根彰子」ではない、つまり別人ではないのか。
 徐々に疑惑が浮かび上がってくる。名前や身分はもちろん、戸籍までもが変わっていて、それまでの自分の痕跡を徹底的に消そうとしている。戸籍売買という犯罪があることはもちろん知っているものの、本間はこの人捜しに嫌な手応えを感じ始める。売買などではなく、戸籍を持っていた関根彰子は、じつは姿を消してしまっているのではないか。

 ……小説の粗筋というものをどこまで紹介すれば、「読んでみたい!」と思ってもらえるのか、ブログを始めたばかりなので不明なのだが、もう少し書いてみたい。

 主人公をとりまく人間模様も好ましい。妻を亡くした本間と小学生の息子、妻の幼なじみだった同僚で親友の刑事、マンション暮らしなのに仲がよく息子の面倒をみてくれる夫婦など、ひと癖ある人たちばかりなのに、いつの間にか魅了されている。
 一方で、追いかけていく関根彰子の周囲には、どんどんきな臭い気配がただよってくる。一つずつ一つずつ、主人公はつちかってきた捜査能力を駆使して、彼女の裏側のすがたをあばいていく。この過程で、事件の謎に迫ってゆくミステリーならではの醍醐味と、同時に、犯人がそうせざるを得なかった背景も知らされることになり、読む人はきっと、うすら寒さを感じるようになっていくはずだ。

 本作が書かれた当時の社会状況として、クレジットカートや住宅ローンの問題がある。失われた20年といわれて久しい現代、見かけ倒しの実体経済の弱さによる貧困問題と、どこか底のほうでつながっている気がしてならない。
 憎むべき犯人であるわずか28歳の若い女性が、そこへいたるまでに経験した過酷な人生−−。もちろんフィクションではあるのだが、読み手は、小説に出てくる人物たちの人生を追体験していくことになる。これこそが小説の醍醐味だ。小説を読んでもおなかの足しにはならないが、たぶん、ほかのどこかが何かで満たされているはずだ。
 心とか、そういううすっぺらな話じゃない。私にはいまだにそれが何かがわからないし、私もそうだったけど、人生のある苦しい時期を、小説に救ってもらったというたしかな手応えがある。

 本作を、傑作中の傑作にしているのがラストシーンだ。それなりの質量の小説をこれまで読んできたつもりだが、ピンとはりつめた緊張感がありながら、静謐で、穏やかな光に満ちていて、どこかほのかに温かみさえ含んだ余韻のあるラスト−−こんな感情にさせられた読書経験は、初めてのことだった。
 とにかく面白い。しかも、抜群に面白い。人の心理のあや、巧みな伏線、描かれる一つひとつのエピソードのディテールがいい。何よりも追う側、追われる側、どちらにもそそがれている温かなまなざしは、著者の真骨頂といってもいいだろう。

 正直に白状すると、私は本作を20回前後は読んでいるのではないかと思う。もともと好きな本は何度も何度も読むたちではあるが、それにしても度が過ぎていると自分でも思う。
 ちなみに、21世紀に入ってすぐに刊行された「20世紀ミステリー遺産」という本があるが、本作は国内部門で堂々の第2位だ。個人的には、なぜ2位なのかという思いはあるが、1位の「大誘拐」もまた大傑作だから、あとはどちらのテイストが好きな読者が多かったかという違いでしかないのだろう。

 こんなに長くなる予定じゃなかった。小説のおすすめとしては長過ぎる嫌いはあるが、これでもまだ書き足りないことがたくさんある。この『火車』は冒頭にも書いたように好きすぎるため、またいつか文章を長くしないで書き直して、紹介文としての完成度を上げていきたいものだ。
 それぐらい、本当におすすめしたいミステリーであり、小説だ。

 

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