世界の裏庭

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『大誤解』9

   第2部【中誤解】 午後三時五十分

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 なんてこった。
 こんなことになるぐらいなら別の家を狙えばよかったと、したたり落ちる汗を拭いながら修三は考えていた。腕時計のアラームが鳴った。作業をはじめてからすでに十分を経過した知らせである。
 なかなか手強いロックシステムだった。二重になっている最初のやつは簡単だったが、次のダイヤル式のロックが厄介だった。たっぷり時間をかければ開けられるだろうが、まさかそういうわけにもいかない。
 背後ではママが息を詰めて見守っているし、さらにその奧には女が二人横たわっている。この家の妻と家政婦だ。手足と口にガムテープを貼られ、身動きできずにじゅうたんの上に転がされていた。毛足の長い値が張りそうなじゅうたんだから寝心地はいいだろう。だが宅配便や訪問客がいつ来ないとも限らない。
 余計なことは考えるな、作業に集中しろ。心の中で自分を叱りつけて、修三は指先と耳に集中した。外見は古めかしい感じの家だし、室内の調度品にも年季が入っているくせに、どうして金庫だけが最新式のロックシステムなのか。これまでの経験から金持ちの考えることは似ているとわかっているが、あらためてうんざりした。同時に、自分の技術は日々進歩するロックシステムに置き去りにされつつあると痛感する。
 ようやくロックが外れた。詰めていた息を、ふうっともらした。
「開いた?」
 絹江が耳元で囁く。
「ああ、やっとな」
 半ば偶然開いたようなものだが、もちろん口には出さない。金庫の把手に手をかけてハンドルをまわすと、金属のシリンダーが内側で回転した。思い鉄扉をゆっくり開くと中が見えた。
 宝の山が現れた。
 銀行の帯封がしてある札束に有価証券類……と、修三は「ほう」と小さな驚きの声をあげた。金塊ではなく、プラチナのインゴットがあった。相場価格は金もプラチナも上昇しつづけている。
 成金に貴賤はない。なぜなら、例外なく全員が賤しいからだ。家が高級住宅街でも田んぼの中の一軒家でも、建物が数寄屋造りの和風でも煉瓦貼りの洋風建築でも、金庫の中に広がる光景はどこも似たり寄ったりだ。有価証券には手を付けず、札束とインゴットだけを布袋に詰め込んでゆく。声は出さず手だけを動かした。早々に札束もインゴットもロンダリングした方がいい。
 絹江の仕入れた情報によれば、この家の主のケチぶりは筋金入りで、そんなものに金を払うのは馬鹿だという理由から警備会社と契約はしていないらしい。おかげで金庫も比較的安価なタイプだった。警備員が駆けつける心配がないのは、修三たちのような稼業からすればありがたいが早く退散するにこしたことはない。
 札束は絹江の革のバッグに入れ、重いインゴットを三本だけ修三のリュックに入れた。こいつをさばくのは簡単ではなさそうだが、それは絹江の仕事だ。顔は見られていないから殺す必要もない。殺しだけはしない、それが絹江と仕事をはじめたときからの約束事だ。しかし、その仏心から足がついたのでは本末転倒だ。なるべく発覚を遅れさせるためにも、二人をすぐに見つからない場所へ移しておかなければならない。
 結局妻はトイレの中、家政婦は夫婦の寝室にある大きな押入に押し込んだ。非常時のときぐらい主従の逆転があってもいいはずだ。声もたてずに玄関まで来たとき、修三と絹江はかぶっていた目出し帽を脱いでバッグに突っ込んだ。
 堂々と表へ出て、門を左に折れた少し先に電気工事会社の社名入りの作業車が停めてある。もちろん名前はでたらめだ。中にはアキラが乗っていた。万一警察が巡回に来たり、誰かが不審に思ったそぶりが見えたときは、すかさず携帯に連絡がくる手はずだった。見張り役は仕事の中ではもっともリスクが少ない役回りである。
 運転席にいたアキラが車を降り、代わりに商売道具を積み込んだ修三が乗る。一度だけうなずき合い、言葉を交わさないまま三人は別れた。絹江は地下鉄の駅、アキラは最寄りのJRの駅、修三は車を運転してそれぞれの家へ戻る予定だった。今日の深夜、マンションで顔を合わせて分け前を分配することになっている。仕事を終えた充実感と、報酬の予想外の大きさに満足感もあった。
 自分は、と修三は考える、もう二度とあいつらと仕事をすることも顔を合わせることもないだろう。

 ところがいま修三は、現場から離れた立体駐車場の三階に車を入れて頭を抱え込んでいる。自宅に戻らず、直接マンションに来た。絹江に相談しなければならなかった。さっき起こしたばかりの、予想もしなかったアクシデントについて。
 完璧な仕事のはずだった、あそこまでは。午後四時過ぎに、別れたところまでは。自分の最後の仕事として、いや、自分が絹江と組んでやる最後の仕事としては上出来だった。順調に回っていた歯車が、一カ所の欠陥部品で軋みはじめた。外部からかかる圧力は弱いポイントに集中して襲いかかるものだ。その不良部品がアキラだった。
 絹江が話を持ち出したとき修三が異議をとなえたとおり、どう考えてもあいつには時期尚早だった。いくら見張りが楽な役目とはいえ、あんな若造に任せるのは心許ないと修三は考えたのだ。あのときアキラから電話さえかかってこなければ、事故など起こさずにすんだ。悪いのはあいつだ。交差点で急発進して左折したとき、人を引っかけてしまったのは自分の運転技術のせいではない。
 そんなことはどうでもいい。問題はこれからどうするかだ。どうする? そんなもの、決まってる。逃げるだけだ。早くあのマンションへ集まって、分け前だけ手に入れたら、その足でこの街を離れればいいだけだ。それですべて解決する。
 自分に無理やり言い聞かせ、車から降りて重い足どりでエレベーターに向かった。駐車場から十分ほど歩いてマンションへ行き、合い鍵で部屋へ入った。驚いたことにアキラがいた。
「どうして、ここに」
「そっちこそ」
 修三は冷蔵庫の冷凍室からズブロッカをとり出し、ショットグラスに注ぎながら考えた。少なくとも、いまここでアキラと口論するのは避けたい。
「ママは来てないのか?」
 アキラは何も答えず、窓の外を眺めていた。グラスの中身をひと口舐めた。仕事のあとは、いつも冷やしてトロトロにしたズブロッカを飲むことに決めている。想像した通りに旨くはなかったが、とても素面ではいられそうにない。
 ソファにも座らず、床の上に直接あぐらをかいていたアキラが、血走った目でこちらの手許をじっと見つめている。
「やめた方がいいんじゃねえの、酒飲むの」
「おまえに指図される筋合いはない」
「そういう意味じゃねえって。そうじゃなくて、これから面倒なことになりそうな気がすっからさ。とんでもなく嫌な予感がするんだ」
「予感? どんな予感だ」
 部屋の角のソファに身を沈め、大きくため息をついた。
「絹江さん、もう来ない気がするんだよな」
「ママと呼ぶように、いつも言われてるだろうが」
「いいじゃねえか、他に誰がいるわけもねえし。それとも何か? この部屋に盗聴装置でも取り付けられてるってか?」
「下らないこというんじゃない。人間、精神的に追い詰められるとつい癖が出るから、日頃から気をつけろっていう意味だ」
「絹江さん来ねえよ、たぶん」
 アキラは執拗に同じことをいう。徐々に苛立ってきた。だが感情的にならないように気をつけて相手を見た。
「金を持ち逃げするという意味か?」
「違うって、ただの勘だよ」
「おまえの世迷い言を聞く気はない」
「そういう意味じゃねえって!」
 二人とも苛立っていた。
「俺、人を刺しちゃったよ」
 なんだと? 叫びだしたかったが辛うじてこらえた。
 仕事が終わったあとアキラはJRの最寄り駅から電車に乗り込んだ。ふと思い立って友人に電話を入れた。ドア近くで電話していると中年の男が何かを言ってきた。どうやら電車の中で電話をするなと注意しているようだ。友人の声が聞きとりにくかったので、片手を上げて男を制して話をつづけた。
 そのとき男がアキラの右腕を手で押してきた。その反動で携帯電話が床に落ち、ばきっと嫌な音を立てた。拾い上げてディスプレイが割れたのを見た瞬間、頭に血が上った。反射的に、用心のためポケットにしのばせていた小型ナイフで男の腹を刺していた。
 周囲に悲鳴が上がって周りに人がいなくなったとき、電車が駅のホームに滑り込んでドアが開いた。「あの男だ!」という声を背中に聞きながら、アキラは駅の階段を駆けおりた。
「それで」
「それだけ。あとは真っ直ぐこのマンションに来た」
「バカ野郎! もし駅員か鉄道警備隊が跡を追ってきてたらどうするつもりなんだ」
 アキラが薄ら笑いを浮かべた。
「心配ないって。途中で何回も後ろを振り返って確認してきたから」
「お前はかけ値なしのバカだな。尾行する人間がお前みたいな素人に気づかれるようなヘマをするとでも……」
 修三は言葉を切り、窓に近づいた。年中閉め切ってあるレースのカーテンを揺らさないように注意し、すき間から外を見た。目の前の公園には二組ほどの子連れの母子と、他には何人かいるだけだった。警官やそれらしき人間を探したが、少なくとも制服姿の者はいない。もっとも、いるとしたらこんな場所で監視などしないだろう。
「いた? 警察」
 小馬鹿にした声に振り向くと、アキラの目元が笑っていた。
「いなくて幸いだったな。もしいたら、おれがおまえを警察に突き出すところだ」
「仲間割れとは、えねえ話だな。分け前を巡って揉めるなら納得できるけど、たぶんもう金は手に入らねえ」
 修三にも嫌な感触はあった。自分が人をはねて動転し、絹江と話していたら突然相手の声がとぎれ、それきり電話も切れた。二度ほどかけ直してもつながらなかった。
「さっきからなぜそんなことばかり言う? 何か根拠があってのことだろうな」
「ねえよ、そんなもん。だけど俺はこういうの、昔からすごくよく当たるんだ。しかも、嫌なやつほどよく当たる」
「そうかい。なら、自分が人を刺す予感はなかったのか?」
 アキラが白目を剥きだして睨みつけてくる。
「自分の行動は読めねえんだよ」
 テーブルをこぶしで叩いた、くそっ、なんでこんなことに。仕事を終えて帰る途中でアキラは人を刺し、自分は人をはねた。もしかして、まさか--。
 携帯をとり出して、もう一度電話をかけた。呼び出し音が鳴るばかりで、やはりつながる気配はない。電話を切った。書棚から文庫本を取り出し、椅子に腰を下ろす。ページをめくりグラスをなめた。活字はまるで頭に入ってはこないが気休めにはなる。それにしても絹江の身に何が起きたのか。