世界の裏庭

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『大誤解』8

「今日の、もう日付が変わったから昨日のことになるけど、午後に市内で通り魔事件があったの。知らないでしょ」
 首を大きく左右に振った。
「その通り魔に、リョウは間違われてるんじゃないかと思う」
「通り魔って……おれが?」
 あまりに自分とかけ離れた遠い世界の話のようで、さっぱり現実味がなかった。しかし真琴の性格を考えれば、これがほら話である可能性はゼロと考えるしかない。冗談でこんなことを言う女じゃない。
「もうちょっと正確に言えば、リョウが間違われたっていうよりは、犯人を捕まえるために張られていた捜査網の中にわざわざ自分から飛び込んでいった、ということになるかもしれないけど」
 あちこちのニュースで仕入れたという情報を彼女は話してくれた。内容は簡潔で短いものだったが、ツボをよく押さえていたのでよく分かった。できれば分かりたくなかったけど、すごく分かった。
「あたしたちは仕事柄、不審者とかこの手の情報にはすごく敏感だからね。さっきの話を聞いた限りだと、間違われても仕方ないかもしれない。ほぼ同じ時間帯に起きてるし、場所も本当にすぐ近くだし」
 真琴はそこでいったん言葉を切った。
「もしかして、わたしに隠してることがあるんじゃない?」
「いや、あの、別に」
「すっきり全部吐いちゃいなさい、楽になるから」
 コンパの飲みすぎで介抱されている気分だ。リョウはうなだれた。話したくはないが、事があまりに重大過ぎて隠したままにはできないと決心し、口を開いた。
「実は逃げ回ってる最中も、頭のすみっこにずっと引っかかってたんだ。もしかしておれ、というかおれたち、人を殺してしまったかもしれないって」
「どういうことよ」
 さすがの真琴も驚いている。
「やっぱりまだ話していないことがあったんだね」
「ごめん。実は逃げてる最中……」
「だから、逃げてる最中って何度目に逃げてるときのことかって聞いてんの。引ったくりしてからは、結局ずっと逃げまわってたんでしょう」
「最初。引ったくりのすぐ後に、行く先々でパトカーに出会ったって話しただろ。その女の人が、被害者のおばさんってことだけど、かなり派手に転んだんだよ。バッグの紐をトオルと引っ張り合うみたいになってさ。あんまりしつこいんで、それであいつが力づくで」
「しつこいのはあたり前でしょ。自分のバッグなんだから」
「ごめん」
「それで?」
「道路に転んだとき、逃げてるおれたちにまで聞こえるぐらい大きな音がした。きっと頭を道路にぶつけたんだと思って、てっきりおれたちはあの女の人が死んじゃったのかと」
「怖くなって逃げたんだね」
 うなだれたままうなずいた。
「公園を逃げ回ったときも、病院に行ってからこそこそ隠れていたのも、警察がリョウとトオルくんを捕まえようとしてる、そう思ったわけだね。それが果てしのない逃走劇のはじまりだったのか」
「おれだけじゃなくてトオルも同じ考えだったけど、そうだとしたらあまりにも早すぎるとは思ったんだ。だって引ったくりしてから、まだ五分もたってなかったんだから」
 真琴が口を真一文字に結んで見つめている。何故か不意に落ち着かなくなって慌てて言った。
「もしかして真琴、ちょびっとでもおれを疑ってるか」
「リョウのなにを?」
 気持ちをいったん落ち着けるため、深呼吸を三回した。
「ほんの少しでも、おれがその通り魔の犯人かもしれないとか、思ってない?」
「正直に言ってもいい?」
 うなずいてから、息を詰めて返事を待った。と突然、真琴が噴き出して笑った。
「冗談でしょ、とは思うわよ。リョウにそんな大それたことをする度胸があるんだったら、わたしだってもっと、なんて言えばいいか分からないけど、もっと素直になれるっていうか」
 話の筋道が違う気もしたが黙っていた。
「でも本当のところをいうと、引ったくりをやったって知って、つまり頭の中で考えただけじゃなくて、直前で怖じ気づいて中止したっていう話をさっき聞いて、万に一つくらいは可能性があるかも、と考えたのは確か。さっきまでは」
「そんな男に見えるのか」
「だって、現実にやったんでしょ? 妄想したとか計画を考えてみただけじゃなくて本当にバッグを奪ったのよね、女の人から。それが絶対に許せない」
 瞳の中には青い炎が燃え盛っていた。真琴に引ったくりの話などしないはずだった。どうしても来週までに、四万円の金が欲しかった。九月五日。真琴の誕生日だ。
 いわゆる社会の常識で言うところの女らしさというものが、彼女にはあまり見受けられない。リョウにとってはそこが魅力なのだが、以前デートで街中のファッションビルへ行ったとき、「これだったら、はいてみたい」と彼女が言ったスカートがあった。ブルーグレイのきれいな、いかにも高価そうなワンピースだった。そして値段を見たらやっぱり高価だった。
 人から盗んだ金で買ってあげたところで、喜ぶはずがないことは分かっている。ただ、つき合ってからの二年間、誕生日にろくな贈り物をやったことがないという事実を恥ずかしく思っていたのだ。
 真琴は保育園で保母の仕事をしている。さっぱりした性格で物にあまり執着しない彼女が、どうしてその仕事を選んだのかリョウは知らなかった。何度か訊いたが教えてはくれなかった。
 沈黙に耐え切れず、リョウは口を開いた。
「おれ、どうしたらいい?」
「分からないよ、そんなの」
「やっぱ、警察に行ったほうがいいかな」
 真琴はもう一度、分からない、とくり返してから自分を抱き締めるようにした。寒さに震える子どもを抱きかかえる仕種のようだった。
「本来なら、当然そうするべきだと思う。そんなことは、いまさらわたしが言うまでもないでしょう」
 真琴が念押ししてきた。リョウは真顔でうなずいたものの、本音を言えばこのまま知らんぷりを決め込みたかった。
「問題は、いつ警察署へ行くのかってことだと思う。警察の人だって、ちゃんと話を聞けば分かってくれるはずだよ。引ったくりだってもちろん大変な犯罪だけど、それしかやってませんって言えば……あ、そういえばトオルくんは?」
「ここへ来る前に電話したけど、つながらなかった」
「いますぐ連絡した方がいい」
 命じられるままに携帯をとり出し、かけた。さっきと同じ応答が返ってきた。
「どうせ出頭するなら一緒のほうがいいと思う」
 突然出てきた出頭という単語に、ぎくりとした。実際には突然ではなく話の流れからすれば当然なのだが、まるで心の準備をしていなかっただけにうろたえた。
「なに驚いてるの」
「いや……」
「リョウが一人で警察に出頭して、でもトオルくんだけが来てなかったとしたらまずいことになりそうな気がする。なんとなくだけど、そう思わない? 例えば指名手配されたりとか」
 殺人、出頭、指名手配--。頭は混乱のピークで、とても現実のものとは思えなかった。
「それに少し時間がたったら、もしかして犯人が捕まるかもしれないじゃない。そうなったら、あとは引ったくりの犯人として罰を受ければいいだけの話。それは当然のことだし、報いを受けなければいけないことだもの。とにかくトオルくんに会わなきゃ」
 リョウは大きく息を吐き出した。知らぬ間に呼吸を忘れてしまっていた。こんな状況で、いやこんな状況下だからこそ、奪った金額など言えない。百万円とおぼしき札束が、二つ尻ポケットに突っ込んであると真琴が知ったら、いったいどんな……。
「そんなわけだから、さっさと寝よう」
「寝るって、おまえなあ」
 真琴がチェストの上の時計に目をやる。
「ほら、もう一時じゃない。とにかく明日にしようよ。トオルくんとちゃんと話して、それで結論を出すの」
 蔦で滑った手のひらが擦り傷になっていて痛み出したので、手当てをしてもらうことにした。
「逮捕されるのかな」
 アロエ軟膏を塗り、左手に包帯を巻いていた真琴が、ちらと視線を投げて寄こす。
「さあ。わたしは警察に捕まるようなことはしたことないから」
「そうなったら、マジ困る」
 返事がないまま電灯が消され、部屋がグロー球の光だけになる。リョウの布団はベッドとは別に敷かれた。冬の掛け布団を敷布団がわりにして、大きなタオルケットを腹にかけさせられていた。
「病気の子っていうのは、大人っぽくなるもんなのかな」
 身体は疲れているくせに気持ちが興奮して寝つけないので、リョウは暗い天井に話しかけるように呟いた。
「現実と毎日向き合っているから、大人になるのかもしれないね。ていうか、大人にならざるを得ないのかな。成熟するっていうか。分かんないけど」
 暗くなるとますます眼が冴えてきた。この興奮をおさめるためには仕方がない。そう決心して真琴のベッドにもぐり込むと、無言でつき落とされた。拒絶反応の、その強さの度合いが掴めなかったので、試しにもう一度忍び込んでみた。今度は強めに蹴り落とされた。
 少し時間をおいて三度目に挑戦したとき、真琴が囁いた。
「そんなにボーリングに行きたいんだ?」
「えーと、何のことでしょう」
「なんだかあなた、疲れてるわりにはずいぶんと元気があり余ってるみたいだから」
 あなたに逆もどりしている。まずい。
「ごめん。もうしません」
「遠慮しなくていいのよ」
 真琴が静かに立ち上がり部屋のスイッチをつけた。リョウの頭のところで仁王立ちになっている。
「一晩中こんな夜這い男に脅えて眠るぐらいなら、わたしはボーリングを選ぶ」
「えーと、いまからでしょうか」
 恐ろしかったのでていねいな言葉にした。
「真夜中のボーリング。いいね、映画のタイトルになりそうだと思わない?」
 なるかもしれないが、つまらなそうだ。しかもちょっと不良なだけの青春映画、と思ったが口には出さなかった。
 これまでにも二度ほど、突然夜中のボーリングに連行されたことがあった。あのときも確か、疲れてるという真琴の言葉を無視してベッドに潜り込もうとしたのだ。つまり今夜とほとんど同じだった。
 細身のジーンズに白のシャツ。質素な服を着終えた彼女はとても恰好良かったが、眼はぶっ飛んでいた。すたすたと玄関に向かいながらこう告げた。
「凶悪事件を起こした通り魔犯がまさか深夜にボーリングをしにくるなんて、いくら警察だって予想しないもんねえ」
「でもおれが刑事だったら深夜の遊技場を張り込むかも。ボーリング場とかゲーセンとか、常識の裏をかいて」
「ならそのまま捕まれば? わたしは脅されて連れてこられたって言えばいいだけだし」
 最後の抵抗もさして効果はなかった。真琴の赤い小型車に拉致され、車の少ない夜の大通りを走りながら真琴との腐れ縁について思い出していた。