世界の裏庭

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『大誤解』7

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 建物の陰に身を隠し、リョウは携帯電話をとり出した。
 思い出してみると、引ったくりを決行したときから切ったままだった。電源を入れ、通話先を選んでかけた。顔をあげると建設中のビルが見えた。黒いシルエットのてっぺんにタワークレーンがあって、夜間用の赤いライトが何ヵ所かで点滅している。七回ほどの呼び出しで、相手は出た。
「はい?」
 いたずら電話への警戒心から、いつも名前は名乗らない。
「起きてたか?」
 数秒の不自然な間が空き、それから、電話の相手は小さな声で言った。
「リョウなの」
「おれ、疲れまくってるんだよ」
「いまどこ?」
「分からない」
「分からないって何よ」
「いままでずっと知らない道ばっか歩いてきたから、いま自分がいるこの場所がどの辺なのか、本当に分からないんだ。もしかすると上町の裏あたりとか中町の近くかもしんないけど。とにかく、ものすごく疲れてる」
「それは聞いた。でもいったい何なの、こんな夜遅くに」
「いまから行ってもいいかな」
 さっきとは種類の異なる、不自然な沈黙があった。
「どうしたの、何かあった?」
 五秒ほどの間が空いた。
「来てもいいよ。でも、エッチはなし。あたしは明日も仕事があるんだから。分かった?」
 エッチだって? こっちはいまこんなにひどい状況だっていうのに、あいつは何を考えているのだ。いまの自分にはそんな気力も元気も、どこを探したった見つかるはずがない。
「了解。歩いていくから、ちょっと時間かかるかも」
「バイクは」
「なくした」
 受話器の向こうから大きなため息が聞こえてくる。
「さっぱり理解できないんだけど、問いつめるのはうちに来てからにするよ。何だか本当に疲れてるみたいだし」
 電話を切り、次はかつての相棒にかけてみる。応答した冷静な女性の話によれば、トオルはどうやら電源を切っているか、電波の届かない場所にいるらしかった。その場所が警察の取り調べ室か、留置場ではないことを祈るばかりだ。
 自分のボロアパートに戻ろうという考えはまるでなかった。ボロだから帰っても落ち着けないという理由ではなく、警察がいる可能性もあるかもしれないと考えたからだ。
 いまの自分は怖いほど警察に縁がある。本気でそう思えてくる。引ったくりという単語が、自分にとって生涯のトラウマとなりそうだと思いながら、足を引きずって歩きつづけた。トオルは逃げ切ることができたんだろうか。藪の中のスクーターは発見されなかっただろうか。
 あの美季って女の子が、いま頃いい夢を見てるといいんだが。とりとめのないそんな事柄が、脳裏に浮かんでは消えてゆく。引ったくりをしてからの、あの考えられない出来事の連続についてきちんと考えようとしてみたが、頭は全然働かなかった。もう、何だっていい。そんな気分だった。
 真琴の部屋までいったい何分かかったのかも不明だった。三十分ぐらいの気もしたし、二時間以上歩いた感じもした。ともすれば尻のポケットに入った札束の存在を忘れがちになり、途中ではもうどうでもいいからどぶに捨ててしまおうかとまで考えた。まずい、これは意識がもうろうとしているせいだと気づき、そのたびにハッとして尻を押さえた。
 丸一日歩きつづけていたのではないかと錯覚するほど歩き、足の裏が痛くなった。どうにかドアの前にたどり着き、ベルを押した。しばしの間があり、ガチャリと鍵が外れる音がして彼女の顔が見えた瞬間、リョウは抱きつくように倒れ込んだ。目の奥で花火が弾けた。見ると彼女は握りしめた自分の拳を眺めて言った。
「あ、ごめん。つい」
 信じられないことに真琴が反射的に殴りつけてきたのだ。しかもリョウの顔を、グーで。よろめきながら部屋の奥へと進む。部屋のインテリアは相変わらずそっけない。アルミ製のパイプベッドが壁際にある。部屋のまん中には古びたちゃぶ台が置いてある。古道具屋で買い求めたこのちゃぶ台は、小さいくせに妙な存在感があって、家具のくせに部屋の主のようだ。
 色気とはまるで無縁という感じの真琴が、ジャージ姿で腰を下ろした。いまのリョウにとっては、この女の子らしさゼロの部屋の雰囲気と、彼女の空気がありがたかった。やっと気を抜ける場所に戻ってきたという実感をひしひしと感じた。
「いったい何があったの」
 本当におれは疲れているのだ。真琴にそう伝わるように、うなだれたままで頭を左右に振った。
「親鳥とはぐれた子すずめみたいだよ」
 真琴が言って笑った。なにか飲むと訊かれたので答えた。
「ビール飲みたい」
「あるわけないでしょ、そんなの。貧乏なわたしがビールなんて買えるわけないんだから、梅酒で我慢しなさい」
 茶色の液体が注がれた、小ぶりのグラスを二つ持ってくる。ごくごくと喉を鳴らして飲んだ。梅酒なんて飲んだことはなかったけど、ほどよい甘みと酸味が疲れ切った身体に優しかった。
 ここまで起きたことを語って聞かせた。自分の想像は一切交えずに、ただ事実のみを。もちろんどうしても明かせない部分もいくつかはあった。これを言ってしまってはとり返しがつかなくなる気がしたからだ。彼女はひと言も口をはさまず、じっと耳を傾けていた。真琴のこんなところがリョウは好きだ。
 途中でぐちゃぐちゃ言ってきて苛立たせられることがないし、出しゃばり過ぎることもない。ただ問題は、女のくせに口より手が早いところだった。美季が倒れたところまで話が進んだところで、彼女は自分のグラスに口をつけ、初めてさえぎった。
「待って。その女の子が倒れてから、あたしの家まで来るまでのことは、特に詳しく教えて」
 グラスに残った半分ほどの量をリョウは一気に飲み干した。胃がじんわりと温かくなるのを感じながら、再び話しはじめる。話が終わると真琴は、ふうんと気のない調子で言った。
「その子、知ってるかもしれない」
「どういう意味?」
「それだけの話じゃはっきりしないけど、幼稚園の頃に受け持ってたときに、病気がちでよく入院してる女の子がいたの。名前が美季ちゃんだったのは憶えてるけど、名字が安西とか伊藤とか、そういう感じの」
「安藤、そうだ、安藤美季。いま思い出した」
「やっぱりそうだ!」
「ものすごく機転の利く子でさ、こわいぐらいに賢いんだ」
「細くてあんなにちっちゃかった美季ちゃんが、絶体絶命のリョウを救ってくれたんだね。なんか信じらんない」
「救世主とはあの子のことだよ」
 しみじみとうなずきながらリョウは言った。梅酒が効いてきたのか、瞼も重くなってきた。
「あたしの勘だけど、リョウはたぶん通り魔と間違われてる」
 真琴はリョウの眠気を木っぱみじんに吹き飛ばすような、驚くべきことを口にした。はじめは何を言われているのか分からず、口を開けたまま彼女の顔を眺めた。
「間抜け面しないで。それでなくても、もともと賢そうな顔じゃないんだから」
「間抜けに見えようがなんだろうが、おれの顔だ。文句を言われる筋合いはない」
 無理に笑って見せようとしたら、顔が引きつった。
「時と場所を選ばない軽口は嫌いだよ。ところで聞く勇気があるのでしょうか、あなたには」
 ていねいな言葉を使うのは、彼女が立腹している証拠だった。
「勇気がないと、聞いてられない話か」
「たぶん」
「じゃあ聞かなくていいや、おれ」
「聞きなさい」
「もう、いいって」
 真琴の右肩がぴくりと動いた。相手の動きを察知し、リョウは身を引いた。
「分かった、聞くよ。聞くから殴らないでくれ」