世界の裏庭

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『大誤解』6

 

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 突然、瞼が開いた。
「へへ、おどろいた?」
 驚くリョウに向かい、美季はぺろりと舌を出してウィンクをした。片目だけつぶることができないのか、両目を一緒につぶっている。
「成功だね」がばっと身体を起こす。「さっ、いまのうちだよ。急ごう」
 唖然としているこちらを尻目に、美季はもう歩き出していた。慌ててあとを追い、小さな背中に声をかける。
「大丈夫なのか」
「なにが?」
「いや、気を失ったとばっかり思ってたのに」
「おとなをだますのなんて、ほんと簡単なんだから。病気で入院してる子どもだっていうだけで、すぐにみんな引っかかっちゃうんだよ」
「けど、本当に顔色が悪かったぞ。まっ青で」
 前を向きながら歩くのも止めずに、手をあげながらひらひらと振って見せる。
「そんなのあたり前じゃない。あたしは、生まれつきお肌が白いんだもん。お母さんはいつもほめてくれるよ。かおじろ、じゃなくてなんだっけ?」
「色白のことか」
「そう、それ。色白の女の子って、もてるんでしょ?」
 窮地を救ってくれた小さな女性に対して、最低限の敬意は表しておくべきだと思った。
「ああ、色白の女性は男にモテモテだぞ」
「こっちを、左ね」暗い廊下の角で左を指さす。「右のほうから、看護師さんとか先生とか、あのこわいおじさんとかがやってくるかもしれないから」
 耳をそばだててみると確かに、遠くのほうからざわめくような物音が聞こえてきた。話し声と靴音が混じり合ったノイズが聞こえる。さっきの男が病院の人間たちを引き連れてあの部屋へ向かっているのだろう。
「もうすぐだから急ごう」
 美季がそう言って走り出す。リョウもそれにつづくと、ぺたぺたと靴音が響いた。慌てて顔を見合わせ、立ち止まる。
「廊下を走ると、先生に叱られるからな」
 ゆっくり歩き出しながら言った。
「ここ、学校じゃないもん」
「もちろん学校じゃないけど、病院にだって先生はいるじゃないか。それに消灯時間を過ぎてるし」
「関係ないもん。あたしは」
 突き当たりにドアが見えてきた。美季が鍵を開けてノブを回す。手慣れていた。病院を何度か脱走したというのは本当かもしれない。迷路にも似た暗い病院の中を、迷いもせずにここまで来たのだから。
 ドアを開けると、少し冷えた空気が流れてきた。久しぶりに外の空気を吸ったという気がして、リョウは思わず深呼吸した。左右を眺めているうちに、ここは病院の構内を走る道だと分かってきた。コンクリートで固められた渡り廊下がその道を横切っていて、向かい側の建物につづいていた。
「まだよ、気をつけて」
 美季は腰を屈めて右左を見た。その姿はどう見ても、交通安全週間に注意深く確認して横断歩道を渡る小学生だった。
「おじさん、行くよ」
「うん」
 向かいの建物のドアも開いていた。外部から直接出入りできる場所にしては意外に不用心なものだ。静かにドアを閉め、中に入る。プレハブを贅沢に建てた感じの建物で、いかにも安普請であるのが分かる造りだ。
「ここ、なんだい?」
「あのね、ここはごはんを作ってくれたりお掃除をしてくれたりする人たちが、お休みするところなの」
 そういわれてみれば、なんとなく納得できた。入院や治療のための施設としては安っぽいが、つかの間休憩する空間としてはこれで充分なのかもしれない。
「この廊下をまっすぐ行くの。そうすると病院とはちがう道があって、そこからふつうの道路に出られるから」
「なるほど。秘密の抜け道か」
「病院とはぜんぜん関係ないところに出るから、きっとおまわりさんたちもいないはずだよ」
「ありがとう」
 リョウは腰を屈め、美季の目線と同じ高さになって言った。それから右手を差し出す。
「本当に、助けてもらった」
 握手をして心からの礼を言った。
「にげるのなら、急いだほうがいいとおもうよ」
「そうだな。でもきみは、美季ちゃんは大丈夫かな」
「ぜんぜん平気。看護師さんも先生たちもみんな、あたしにはやさしいから」
 胸が痛んだ。元気そうで機知に富んでいるから忘れそうになるが、この子は病気に入院しているのだ。
「病室に戻ったら、きっと看護師さんたちに訊かれるよ。そうしたらなんて言うんだい」
 考えていたのはわずか数秒だった。
「うーんとね、おじさんにおどかされたので怖かったから、逃げ道を教えてあげましたっていうかな」
 二人で声を殺して、くすくす笑った。
 もう一度、ありがとうと告げて歩き出す。
「忘れないでね」
 背中に向かって美季が言った。立ち止まり振り返って答えた。
「忘れないよ」
「あたしのこと、絶対に忘れないでね」
 絶対に忘れないから、と同じ言葉を繰り返した。暗闇の中で小さなシルエットが手を振っている。リョウも手を振り返した。暗い廊下を早足で出口に向かいながら、何か大切な忘れ物をしてきた気がして仕方なかった。