世界の裏庭

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『大誤解』5

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 ぽつぽつと常夜灯がある暗い廊下をしばらく進んだ。途中で血の付いた半袖シャツを脱ぎ、「業務用」と書かれたゴミ箱に捨てた。下着代わりのTシャツにもわずかに染みは残っていたが、これならただの汚れにしか見えないだろう。隅々まで知っているという割に美季は怖がっていた。四本の指を揃えるように手をつないでいて、時々物音がするたびに万力で締めつけるほどの強さで握られ、指が痛かった。
 二人で口をつぐんだまま右や左に曲がりながら歩きつづけた。その間中、頭に妄想が浮かんでは消えた。引ったくりが全ての悪夢の源だった。トオルの口車に乗せられて、軽い気持ちでやろうとしたのがいけなかったのだ。やるべきではなかった、絶対に。そう、自分の悪い癖だ。昔からそうだった。
 小学校五年のときに友だちが、生意気だからシメるという理由で殴るのに加勢した。子ども心に三人対一人の喧嘩が卑怯だということぐらい、充分に分かっていた。しかも相手はリョウがいちばん仲良くなりたかったアキオだった。地面に転がった背中を軽く蹴ったとき、アキオが睨みつけたのを、いまでもありありと思い浮かべられる。他にもいくつか、いつも誰かに誘われて小さな悪さをくり返してきた。一番の問題は、自分で責任をかぶってこなかったことだ。誰かに引きずられてやった。言い出しっぺは自分じゃない。いつもどこかでそんな言い訳をしてきた。
 心の底から後悔したことがこれまでなかったのだ。いつだってそのくり返しだ。今度も同じだった。経験があるというトオルの話に、金がなかったこともあって計画に乗り、トオルが何度か成功していて捕まるリスクは少ないと聞かされ、深く考えないまま話に乗った。ガキの頃からおれは、ただの一ミリも成長してやしない。唐突に美季が呟いた。
「人ってね、死んでもまた生まれ変わってこれるんだって」
「そう」
「知らなかったの?」
「いや、聞いたことはある」
「その猫はね、死ぬのなんてちっともこわくなかったんだって」
 急に「その猫は」と言われてもよく分からなかったが、とりあえず相づちを打っておく。家で飼っている猫の話だろうか。
「偉いね」
「偉いわけじゃないの。死ぬのがこわくなかったのは、かならずまた生まれ変わることがわかっていたからなの。何回も何回も何回も……」
 美季は延々と「何回も」をくり返した。聞いているうちに、それが何かの祈りにも聞こえてきた。
「百万回も、生まれ変わったの。それって凄くない?」
「なんか聞いたことがある気がするなあ、その話」
「『百万回生きた猫』っていうの。大好きなんだ、あたし。毎晩ベッドで読んでる」
 題名で思い出した。恋人がたしかその童話を持っていて、読み聞かせしてくれた記憶があった。中身はもちろんとうに忘れてしまったが。
「絶対に生まれ変われると分かってりゃ、確かに死ぬのだって怖くないかもな」
「やっぱりそのお話も、嘘かな」
 美季が急に弱気に言った。
「嘘っていうか、なんていうか」
 返事に窮した。子ども向けの童話や物語が、子ども向けや童話に限らないかもしれないが、嘘か本当かと問い詰められれば答えるのは難しい。嘘の中にも本当はある。
「まあ、人が頭の中で考えて作った話だから」
「やっぱり嘘ってことじゃないの」
 それきり彼女は口を閉じた。気まずい雰囲気に耐えながら歩いていると、廊下の向こうがこうこうと光っていた。ガラス張りの部屋があった。その中で突然、人影が動いた。反射的に二人の足は止まった。
「こんなところで止まったら、かえって怪しまれちゃうよ」
「そ、そうだな」
 操り人形のようにぎくしゃくと歩き出したとき、中にいた男が顔をあげた。三十過ぎだろうか。
「親戚のおじさんだから」
「え、あの人が?」
 美季が大人びた調子で溜め息をつく。
「馬鹿ねえ、もう。あなたのことじゃない」
 もしもあの男が訊ねてきたら、そう答えて話を合わせろということらしい。なるほど、なかなか知恵の回る子だ。男はこちらをじっと眺めていた。なるべく口を動かさないように伝えた。
「やばいよ」
「なにが?」
「あのおっさん、怖そうだ」
「あのおじさんが怖そうなわけじゃないの。おじさんの心の中にいるオバケが、怖い怖いって叫んでるだけ」
 美季が自分に言い聞かせるように言った。この子は何を話しても分別臭い。しかしその分別は病気と向き合う時間の中で生まれたものかもしれなかった。
「お部屋の前を左に曲がるからね、いい?」
 部屋のほうをなるべく見ないように前を通りすぎ、左に折れたところで、背後に扉の開く音が聞こえた。まずいと思った次の瞬間、案の定声をかけてきた。
「ちょっと」
 低い声だった。リョウは歩みを緩めかけたが、美季は強引に手を引っ張った。さらに男の声が追いかけてきた。
「きみたち、待って」
 美季は突然立ち止まると、振り向いて答えた。
「あたしたちのことですかー」
 声のトーンがさっきとはまるきり変わって、いかにも愛くるしい小学生になってしまっている。案外若い男だったが油断のならない目付きをしていた。爽やかな青と白のストライプのパジャマがまるで似合っていない。
「きみたち以外に誰かいるのか。夜の病院の、この暗い廊下に」
「だって、知らない人に声をかけられたら知らんぷりして逃げなさいって、お母さんが」
「いい心がけだ」
 男は頷きもせずに言う。
「でもそれは、学校の行き帰りの話じゃないかな」
「病院だって同じです。知っている人より、知らない人のほうがずっと多いんだから。おじさんだって、そうです」
「まあ、たしかに」もみあげの辺りを小指で掻いている。「ところで、きみの隣のその人は」
 動揺するリョウを尻目に、美季は平然と答えた。
「どうしておとなの人はみんな、あたしのことをきみって呼ぶのかな。あたしは美季です。キミじゃなくて、安藤美季」
「そいつは悪かった。で、その人は?」
「おじさんです、親戚の。お見舞いに来てくれたの」
 美季は、握っていた手に力をこめた。応援の意味でリョウも目立たないように握り返す。男はいかにも不審気に二人を見比べている。
「面会時間は、八時半までじゃなかったかな」
「そうですね、ごめんなさい。でもこのお部屋も同じだったと思いますけど? おとなの人なら約束を破ってもいいんですか?」
 男は明らかに言葉に詰まっていた。彼の背後に見える大きな壁時計が九時十分を指していた。まったく胸のすくような反射神経だった。この子が身に付けつつあるのは、自分がこれまで持てなかった本物の知恵かもしれない。
「そうだな、美季ちゃんの言う通りだ。これからは守るようにする」
 会釈するように男が頭を下げる。
「ところで、どこへ行くんだい。お見送りなら玄関は向こうのはずだけど」
 顎で反対方向を指して見せる。痛いところを突かれた。
「だって、あっちのほうには犯人がいるかもしれないんでしょ」
「誰から聞いたんだ、そんなこと」
「みんな知ってるもん。入院患者っていうのは暇な人たちばっかりだから、なんでもすぐに噂になるの。おじさんも入院してるんだから知ってるでしょ」
「その染みは」
 男がリョウの胸を見ている。せっかくここまでこつこつと築き上げてくれた、美季の苦労がパアになる。
「ほんとだ、汚れてるね。ああわかった、さっきジュースの蓋を開けてくれたときにこぼれちゃったんだね」
 美季がこちらを向いて言った。光の加減か顔はまっ青で、気がつけば肩で息をしている。身体が左右に揺れはじめたかと思う間もなく、ぜいぜいと喘ぎ出す。
「大丈夫?」
 男が声をかけたが彼女は答えなかった。はっとして横を見ると、立っていることさえ辛そうだ。
「美季ちゃん?」
 リョウが肩を両手で抱いた途端、倒れかかってくる。反射的に抱きとめた。
「大丈夫か、美季ちゃん、おい!」
 バカの一つ覚えみたいにくり返しながら、腕に抱いた美季を見た。白目を剥いている。まずい。発作かなにか知らないが、まずいということだけはわかった。両腕にかかっていた身体からすっと力が抜けた。リョウは男に向かって叫んだ。
「お願いします、早く先生か看護師さんを」
「わ、わかった、それじゃここは頼んだ」
 そう言う、男は慌てて走っていった。走るというよりは速歩といったほうが正確で、お腹でも痛そうに前屈みになっている。美季のおじさん役を演じているうち、すっかりその気になってしまっていた。だが自分は追われているのだ。
 医者や看護師が来たら病院を出るのは不可能になってしまう。それどころか、ご両親に連絡してほしい、などと依頼されるかもしれない。逃げるならいまがチャンスだ。ここに置いて逃げるか? さすがにこの考えには自分でも同意できなかった。確かにおれは真っ当な人間とは言いがたい。でも、窮地を救ってくれた恩人の少女を置き去りにして逃げるほど落ちぶれちゃいない。いや、引ったくりをするぐらいだから充分落ちぶれてはいるんだが、人間としてまだ完全に腐りきってはいないつもりだった。
 じゃあ、どうする。このまま待って捕まるか? 模範解答が見つかりそうにないまま、リョウは筋力のなくなりつある腕で女の子を支えていた。