世界の裏庭

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『大誤解』4


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 呼吸を止め、おそるおそる振り向いた。
「こんなとこで何してるの、おじさん」
 自動販売機の前に女の子が立っていた。リョウは吸い込んだ息を小さく吐き出してから小声で答えた。
「か、かくれんぼ」
「かくれんぼ?……おとなのくせに? なんかヘン」
「捕まっちゃっうと大変なことになるんだ」
 女の子が腰に手をあてて考えていたが、ませた調子で小さなため息をついた。
「おとなはみんな、嘘つきなんだから」
「いいからほら、あっち行って」
 シッシッと追い払う仕種をした。
「失礼ね、あたしはジュースを買いにきたんですぅ」
 小銭をじゃらじゃらさせるので、慌てて「しーっ」と言った。
「きみはもう早く買って早く行ってくれよ」
「あたし、きみじゃないもん。美季っていうきれいな名前があるんだから」
 ふくれっ面で言う。守衛か警官にでも気づかれたら一巻の終わりだ。
「鬼に見つかると大変なんだから」
 女の子が自分の胸の辺りをじっと見ていることに気がついた。あ、血。
「それどうしたの、ケガしたの」
「ああ」
「ふうん……おじさんをつかまえようとしてる鬼って、もしかしてけいさつ?」
 ぎょっとした。小学生だろうが、ピンクの花柄模様のパジャマを着ているところを見ると入院しているのか。
「もしかして、公園の事件をおこした人だったりして」
「ば、ばか言うなって」
「またどもってる。おとなって困るとどもるんだよ。うちのお父さんもそうだもん。病気のことであたしに嘘をつくときは必ず。はじめは一週間ぐらいっていってたくせにもう一ヵ月」
 ふたたび野良猫を追い払う仕草をする。
「頼む。一生のお願いだ、あっち行ってくれ」
「おっきな声、出しちゃおっかなー」
 そう言ったあと女の子は自動販売機に小銭を入れた。自動販売機の陰から目だけ出して玄関のほうを見た。薄暗がりにとりあえず人の姿はない。自分が置かれている状況がさっぱりわからなかった。何が起きて、自分は犯人なのか、それとも違うのか。
「なにを考えてるの」小さなペットボトルを持ってこちらを見る。
「どこか隠れられるところ知らないかな」
 弱気になって訊ねた。藁にもすがる思いだった。
「隠れるところなんていっぱいあるよ。もしそうしたいなら、ここから逃がしてあげてもいい」
「ほんと?」
「あたしは嘘なんてつかないもん。おとなとはちがうんだから。だっておじさん、逃げたいんでしょ、警察の人たちから」
 女の子が顔を向けたロビーの奥のほうから、誰かが歩いてくる足音が聞こえてきた。自動販売機と壁との間へ、いっそうきつく身体を押し込んだ。コツコツと固い靴底が床を叩いて近づく。こちらへ向かっているのだ。壁にめり込んでしまうのではないかというほど強く、隙間に密着させる。足音が止まった。
「こんばんは」美季が元気に挨拶をする。
「こんばんは。お嬢ちゃん、こんな時間に何をしてるのかな」
 低く渋い声だった。
「ジュースを買いに来たの。病院の先生から、こういう飲み物をたくさん飲むようにいわれてるんです。あたしは小児病棟に入院している安藤美季っていいます。おじさんは警察の人ね、遅くまでご苦労さまです」
 息を吐くような音がした。脱力するか笑っているか、どちらかに違いない。直立姿勢のままで顔をそっと向けると、美季の横顔が見えた。見上げる顔の角度で、警官がすぐそばにいると分かる。彼があと一歩踏み出せば見つかってしまう。それ以上こっちに来させないでくれと念を送った。
「いま、誰かとお話してなかったかな」
「あたしがですか? ああそうか、また悪いくせだ。いつもお母さんに叱られるの、ひとり言はやめなさいって」
「なるほど。どっちにしても子どもはもう寝る時間じゃないかな」
「はい、そうです。本当は八時半にベッドに入らなくちゃいけないんだけど、いろいろ悩みが多くて眠れなくて。ごめんなさい」
 含み笑いが聞こえた。
「送っていってあげようか、部屋まで」
「ありがとう。でも大丈夫、入院してもう一ヵ月近くになるから病院のことなら警察の人より知ってるの」
「そう。ところで、変な男の人は見かけなかったかい」
「変って、どんなふうに?」
「胸のこの辺りに、なんていうか、黒くなったような感じのものがついた……」
「血ですか?」
 息苦しくなるような静寂だった。
「服に血がついてる人なら見ましたけど」
 万事休すだ。
「ほんとかい? どこで」
「手術室の前」
「ええと、手術室?」
「はい、外科の神永先生です。白いエプロンみたいな服の胸に血がついてて、あたし、とっても怖かった」
「そうか、そいつは怖かっただろうね。ジュースを買ったらすぐに戻るんだよ」
 優しげな口調だった。
「はあい、わかりました。夜おそくまでお仕事ご苦労さまです」
 歩き去る靴音を聞きながら目の前の女の子を、力一杯抱きしめてやりたくなった。足音が消えると美季はそっとささやいた。
「もーいーかい? もーいーよ」
 ホールを見た。警官の姿は見えなかった。挟まったままの身体から力を抜き、販売機に背中をもたせ掛けた。美季は後ろ手を組んでこっちを見上げ、にこにこ笑っている。
「この恩は、一生忘れないよ」
「ほんと?」
「本当だ。大人にだって、嘘をつかない人間はいる」
 確かに引ったくりはした。けど、きみに嘘はつかない。リョウは胸の中で自分に向かって宣言した。嘘つきは泥棒のはじまりらしいが、嘘をつかない引ったくり犯がいたって悪くない。それに、もう充分改心している。
「忘れないってことは、恩返しをしてくれるってこと?」
「ええと、そういうことになるかな」
「忘れないでよね、絶対」
 不意に大人びた声になる。はっきりした二重まぶたで睨まれた。
「おじさんは、人を殺してなんかいないでしょう?」
「そんなこと、怖くてできないよ」
「だよね、弱虫そうな顔してるもん。あたしの弟と似てる。あの子ったらこわがりで、だんご虫だってもてないんだから」
 無性に心が和んだ。
「あーあ、あたしも嘘ついちゃった。おとなみたいに」
「嘘なんかついてないじゃないか美季ちゃんは、本当に……」
「神永先生じゃなかったの」
 真顔になっていた。
「先生じゃなくて、お掃除してるおじさんだった。その人は病院の先生と同じ白い服を着てて、それに血が付いてた。そしてその服を白い布のお山の中に捨てちゃったの。それって悪いことでしょ? それを見てたら、あたしの方をじいっと睨んだ。怖いしキモチ悪かった。でも大丈夫、あたし強いから」
 意味がわからなかったので黙っていた。
「おじさんのこと信じてあげる、だからついてきて。逃がしてあげる。あたしなんてもう病院から何回脱走したかわからないんだから。もうプロだよ」
「ありがとう。でも一つだけお願いしていいかな」
 小首をかしげて見上げた頭で片方に束ねられた髪が揺れている。
「おれまだ、おじさんっていう年じゃないんだ。だから、できればお兄さんぐらいにしてくれないかな」
「ふうん。何才?」
「二十三」
「なんだ、やっぱりおじさんじゃないか」
 ロビーと反対方向に歩き出す。まっすぐ行くと左に曲がる細い廊下があった。美季が手をつないでくる。強がりを言ってはいても、やはり暗い場所では怖いのだ。小さな手だった。思ったより冷たくて、かさかさに乾いていた。おばあさんの手みたいだな。そんなことを思いながら、リョウは暗がりの中を手を引かれるまま進んだ。