世界の裏庭

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『大誤解』3

 

[病院]

 コンクリート塀の上にかけた手に力をこめて、身体を持ち上げた。すぐ目の前で、前腕部が小刻みに震えている。
 こんなことなら、トオルと一緒に藪の中を逃げたほうがましだったとリョウは思った。歯を食いしばり、最後の力を振り絞る。どうにか上半身が塀のうえに出た。幅二十センチほどの塀の上にうつ伏せになり、ひと息ついて考えた。
 たかがバッグを引ったくるだけだ、簡単に成功するというトオルの口車にのり、軽い気持ちでやったのがいけなかったのだ。自分がもっとしっかりしていれば、バイトの口だって見つかったはずだし、彼女への豪華な誕生日プレゼントも買ってあげられたに違いない。自分にうんざりした。自分を変えたい。
 崖を降りようとして枝が折れた瞬間、罰が当たったと思った。しかしなぜか地面に叩きつけられる直前、身体の落下が止まった。何本かの蔦が絡み合っていたおかげで、折れた枝から太い木の幹につながっていた一本がリョウを救ってくれた。滑り落ちるのを食い止めようとして手のひらに傷ができ、背中を崖にしたたか打ちつけたものの、死ぬことに比べたらこんなのはなんでもない。
 公園まで降りてみると、今度は警官たちがうじゃうじゃいた。公園には何台ものパトカーが停まり、空にはヘリコプターも飛んでいた。警察から逃げるために、決死の覚悟で崖を降りたのに、また警察だらけだった。
 目まいがした。しばらく茂みに身を隠していたが、警官たちはしょっちゅう巡回していた。この調子だと、公園の出口という出口ががっちり固められているのは間違いない。だが暗くなっていたのが幸いし、巡回の間隙をついて茂みから茂みへと移動しながらやっと反対側までたどり着くことができた。
 木陰に身を隠しながら、どうにか四角い建物の塀までたどり着いた。反対側から眺めたとき、せいぜい自分の背丈程度だと思えた塀は、下に立ってみると三メートル近くもあった。愕然とした。
 塀伝いにうろうろしているうち、塀伝いに垂れ下がっている紐を発見した。手にとって見ると太いロープだった。ためしに引っ張ってみると、びくともしない。塀の向こうの木か何かに結びつけられているのだろうか。出来すぎだが、これにすがるしかない。
 ふっと何かが頭をかすめた。が、それが何かは分からず、嫌な余韻だけが残った。
 薄ぼんやりと白い不気味な建物が目の前にそそり立っていた。病院だろうか、その建物の裏手に出たことになるのか。塀の上から地面までは、かなりの高さがある。飛び降りれば、悪くしたら骨折、軽くても捻挫してしまうだろう。
 うじうじ考えるのは、もうやめにしろ。ここから先は行動あるのみ。何メートルも下の、暗くて起伏の有無さえわからない地面に飛び降りるのは気が進まなかったが、そうするしかない。
 そのとき何かに背中を押された。風だった。身体がぐらつく。次いで、頭を殴りつけられる。風に揺らされた枝の揺り戻しだった。
 見上げると何本もの枝が頭上数十センチのところに浮かんでいた。太い枝で、これなら人間がぶら下がっても平気かもしれないと思った。
 度胸を決めて塀に立ち、へっぴり腰でそろそろと手を差し出す。わずかに届かない。背筋を伸ばして立ち、飛び移るつもりでやればできることは分かっていた。
 リョウはわずか幅十五センチの塀のうえに立ち、太い枝に手を伸ばした。宙ぶらりんになっても枝は折れなかった。そこから幹へと移ると地面まで二メートルほどになっていた。これぐらいの高さなら目をつぶっても飛び降りられる。
 よしっ! 身体がふわっと宙に浮きかけたとき、視界の端に赤い何かが見えた。
「おわっ」
 寸前で飛び降りるのをやめた。手は枝に、足先が塀に引っかかってた苦しい姿勢のまま停止した。建物の角をまっ赤な光がゆっくりと曲がってきた。またパトカーだ。
 なぜ行く先々に呪われたように警察の車がやってくる? 周囲の様子をうかがいながら走っている感じのスピードで、こちらに近づいてくる。
 さば折り状態の背骨が、ギシギシときしんだ。ライトが突如ハイビームに変わり、光が遠くまで伸びる、照らす範囲も上方に拡大された。自分の足に目をやると靴が明かりの中に入っていた。やばい。
 すると木の横で車が停まった。すぐ真下でドアが開き、警官が二人降りてきた。無言で木のほうに近づいてくる。観念して目を閉じた。足もとでペタペタと音がした。こわごわ下を見ると、一人の警官が建物に近よって壁を手で叩いている。
「それにしても」
 そう言ったきり黙り込む。声からすると若そうで、もしかすると自分とそう変わらない年齢かもしれない。首の付け根の筋肉がバリバリになってきた。
「それにしても、なんだ?」
「いえ、なんでもないです」
「いいから言ってみろ」
 やり切れない、という感じのため息をついて彼は言った。
「ひどい事件です」
「そうだな」
「犯人が許せません」
「だから俺たちはこうして頑張ってるんじゃないか」
 コンマ数秒の間があく。
「絶対捕まえます。絶対にです」
「その意気だ」
「もし自分が犯人を直接この手で捕まえられたら、そいつにに何するかわかりません」
「拳銃は使うなよ」
「わかってます。でも……」
「ぶん殴るぐらいは許す。死なない程度にな」
 年配の方は怒りを抑えているようだが、そのぶん声に凄みがある。
「特殊警棒で腕の一本や二本折るぐらいは気にするな。おれがどうにでもしてやる。もちろん、ここだけの話だぞ」
「骨の一本二本じゃ、とても気が晴れません。腹とか背中とかも思い切り蹴りあげてやる、内蔵がやられるぐらいまで」
「おいおい、物騒なことを言うな。おれぐらいの年になれば、そうそう無茶もできん。任せるよ」
「わかりました、気をつけてやります」
「頭や顔もやめとけよ。逮捕の際の行き過ぎた暴力で犯人が死んじまった例もあるから」
「それにしても病院の方に向かって逃げて消えたっていう目撃情報、本当なんですかね」
 本音で話し合って気が晴れたのか、二人は無言で車に戻ると走り去っていった。
 上腕部と太股の裏側の筋肉が、ぴくぴくと痙攣した。パトカーが角を曲がって消えた瞬間、リョウは落下した。

       ●

 膝をしこたま打って足首も軽くひねったが、どうにか歩くことはできた。今日は俺、落ちてばっかりだなと思った。久しぶりの平らな地面をリョウはよちよちと歩き出した。建物は延々とつづいていた。歩きながら鼻をかすめる独特の臭いでやはり病院だとわかった。
 角を曲がろうとしたとき、また遠くに赤い回転灯が見えた。後ずさりして壁に頭と背中を押しつけた。もう見飽きた。心身が疲れ切っていた。それにしてもこの周辺にはいったいどれほどのお巡りとパトカーが出動しているのか。
 まるで大事件みたいじゃないか。ふと、別の不吉な考えが浮かんだ。あの女はバッグを引ったくった瞬間に転んだ。鈍い音も聞こえた。予想外に粘られたせいでトオルが蹴りを入れた。ただの大怪我で、ここまで警察が力の入った捜査をするものだろうか。
 もしかしてあの女の人、死んじゃったとか……。膝ががくがくと震えた。
 俺たち、人を殺した? もちろん計画的ではなく偶然の結果だ。だが、どう理屈をこねてみても、結果として人が死んでしまったら、それをやったのが自分がやってしまったとしたら……。
 リョウは頭を抱えてしゃがみこむ。そんなつもりじゃなかった。ただちょっとお金が欲しかっただけだ。殺すつもりなんて、これっぽっちもなかった。いったん脳裏に固着したその妄想は消えない。どうする?
 顔をあげると辺りは暗かった。と、すき間からわずかに灯りがもれている一枚の扉が見えた。近づいて左右を見てから、泥棒のようにに手をかけた。がちゃりと重い音を立ててその鉄扉は開いた。
 サイレンの音がどこかから聞こえてきて、リョウは反射的に開けた扉から中へ入った。サイレンが猛スピードで近づいてくる。そこで気づいた。
 音はピーポーピーポーと鳴っていた。なんだよ。パトカーじゃなくて救急車のサイレンじゃないか。建物の中は薄暗く、細い廊下がまっすぐに伸びていた。子どもの頃から病院は嫌いだった。
 病院の中を通り抜けて出ていこう。そう考えてみたものの、どこか不安が拭いきれなかった。病院の周囲が警官とパトカーだらけということは、病院の中にいる可能性も高いはずだ。まだ間に合う、引き返すならいまだ。
 でも、どこへ引き返すんだ? 自分に投げかけたそのシンプルな疑問が、行き場をなくして漂っていた。しんと静まり返った廊下の先から小さな物音が聞こえてきた。それは少しずつ近づいていた。台車を押すような音と、かすかな人の声。
 女の声で、一人ではない。どんどんこっちに近づいてくる。慌てて辺りを見回した。目の前にはまっ白な壁だけ、外へ出ようと振り向きドアノブに手をかけると、ふたたび擦りガラスの向こうに赤い回転灯が見えた。
 声と足音はますます近づいていた。小走りで逆側に向かう。ドアが見えた。ノブを掴むとがちゃりと回った。三十センチほど開けて中へ入った。ぎょっとした。灯りの消えた室内に白く巨大な何かがある。ほっと息を吐いた。シーツが山積みになっているだけだった。どうやらリネン室らしい。
 嫌な臭いが鼻をついた。患者たちの体臭が集まると、これほどきつい臭いになるのか。扉のガラスが急に明るく光った。廊下の蛍光灯が付けられたのだ。ガラガラ音がドアの前で止まった。
 マジでやばい。気がつけばシーツの山を登っていた。高く重なった布のくぼみにリョウが転がり込んだのと、扉が開いたのとはほぼ同時だった。右脇腹を下にしてねじれた体勢が苦しいが、身じろぎひとつできない。パチッと音がして、シーツの上から蛍光灯の灯りが照らした。運を天に任せて目を閉じた。
「怖いわよう、ほんと」八百屋のおばちゃんみたいな声だ。
「とっても一人じゃ歩けないね、これじゃ」やさしげな声だった。
 二人とも女性で、どちらも年配のようだった。見つからずにすんだらしかった。それはいいが持ち込まれたシーツがどんどん積みあげられ、重くなってきた。
「それにしても、こんなすぐ近くで人が殺されるような、そんな大事件が起きるなんて、信じらんない」八百屋が言った。
 思わず声を上げようとして口をふさぐ。人が殺された? やはりあの転んだおばさんは死んでしまったのか。でもそれにしては、引ったくりをしてから警察が来るまでの時間があまりに早すぎないか。
「ところでわたし分からないんだけど、どうしてこの病院にまで、警察の人が来てるのかな」
「近いからでしょ、犯行現場から」
「ふうん。でも」何かを考えている。「近いといえばまあそうかもしれないけど、まっすぐここへ来れるほど、すぐ近くってわけじゃないよね」
「そりゃそうだろうけど、ほら警察って疑り深いじゃない。少しでも怪しけりゃ、すぐに来るんだから」
 一刻も早くここを出たいと願った。呼吸も苦しくなってきた。胸の辺りに何かベタベタした感触があって気持ち悪いし、このままじゃ窒息しそうだ。気を紛らせるために何か他のことを考えるんだ。そうだ、トオル。あいつはいま頃どうしているだろう。うまく逃げられたならいいが、首尾よく逃走できたとは到底思えなかった。藪の中を移動すればガサゴソと音がするだろうし、ライトで外から笹やぶを照らせば見つかるはず……。
 あっ! スクーターを完璧に忘れていた。万一リョウもトオルも逃げおおせたとしてもスクーターはあのままだ。警察に発見されてしまう。まさかこんな状況に追い込まれることまを想定してなかったから、リョウのスクーターをそのまま使っていた。ナンバーから身元が割り出されるのは時間の問題だ。
 それにしても、いったいいつまで話しているつもりなんだよ、こいつら。さっさと仕事を終わらせて出ていけ。口と鼻が空気を吸い込む空間をつくるため、横向きだった身体をそっと下向きに変えた。息苦しさは限界だった。静かに息を吸い込んだとき、ひゅーと喉の奥からかすかに音が洩れた。
「あら?」八百屋が言った。
「なに」
「なんか聞こえなかった、いま」
「ちょっとやめてよ。怖いこと言わないで、もう」
 早く出て行け! 胸の中で絶叫した。早く仕事を終えろ。せっかく逃げてきたのに、このままじゃここで窒息死だ! そんな心の叫びを無視して八百屋はのほほんと言った。
「まさかこの病院の中にいないよね? どこかの部屋に犯人がじっと隠れてたりして」
「やめてってば、もう」
「冗談よ。もし病院の中にいるんだったら、まっ先に私が仕事を放り出して逃げちゃうわ。ところで帰りはどうするつもりよ、あんた」
「うーん、どうしようかな。いつもは自転車で来てるんだけど、今日に限って歩きなの。家まで十五分ぐらいかかるから」
「あんたの家までの帰り道、途中でちょっと薄暗い通りを抜けていかなくちゃだめだよね」
「あなたの方だって、たしかマンションの前の公園の街灯が消えたままだからまっ暗で怖いって言ってなかった?」
 二人が黙り込んだ。目の前が暗くなってきた。酸欠なのかどうかわからないが、頭に膜がかかったみたいに朦朧としてくる。息苦しさが限界に達しそうだった。ふっと、気が遠くなりかけた。もうダメだ……。薄れゆく意識の中で、リョウは彼女のことを思った。


       ●

 作業はようやく終わったらしかった。扉が閉まり、遠ざかる足音が聞こえなくなった瞬間、体をくるむシーツを押しあげた。しかしうずたかく積まれた布地の山は、押しても押しても崩れるだけだった。もがいてもがいてシーツの山頂に這い出たとき、突然崩れて床に打ちつけられた。ひじがしびれ眼に涙が浮かんだ。
 痛みをこらえて立ち上がり部屋から出ようと思った。いつまたああいう輩がやってこないとも限らない。とりあえずこの部屋を出て、とりあえず病院を出て、とりあえずアパートへ帰る。その後わが身にどんな事態が待ち受けているかは、いま悩んだってしょうがない。まずは目の前のことに集中しろ。
 ドアのガラスに耳をつけて外の様子をうかがうと、廊下は静まり返っていた。そっと開いて顔を出す。右も左も人っこ一人いなかった。廊下へ出て後ろ手でそっとドアを閉めた。足を踏み出すとゴム底の靴がキュッキュッと派手な音を立てた。なるべく音を立てないように、つま先立ちで出口を探しながら先へ進む。そして非常口のすりガラスにまた赤色灯が見えたとき、リョウは裏口から脱出することを諦めた。
 こそこそ逃げ回ろうとするからいけない。正面玄関から堂々と出て行けばいいじゃないか。まさか自分の顔写真が出回っているはずはないし、これだけの大きな病院だから、夜間といっても面会客はそれなりにいるだろう。自分が病院の中を歩いていたって不審に思われるわけがない。見舞いに来た帰りです。涼しい顔をしてそう告げて、正面玄関から堂々と出ていけばいいのだ。ゆっくり歩け、そう言い聞かせた。
 廊下の先に広い空間が見えてきた。角から顔を出してようすを窺うと誰もいないようだった。待合室にしては狭いし、パイプ椅子が十個ほど並べられているだけで自動販売機もなかった。照明は落とされ奇妙に薄暗いのが不気味だ。物音ひとつない場所だった。
 夜の迷路に放り込まれた子どものように、急に心細くなってくる。病院というのはどうしてこうも薄気味の悪いところなのか場所なのか。出口はどこだ?
 仕方ない、行くぞ。勇気を振り絞って一歩を踏み出したとき、まるでリョウが歩き出すのを待っていたように、左側から物音がした。ぎくりと足が止まる。見れば人が立っていた。何かの書類をを小脇に抱えた若い看護師だった。向こうも驚いたのか、ほぼ同時に立ち止まって数秒見つめ合ってから、彼女が言った。
「ああもう、びっくりした」
 リョウは意味もなく、へへっと笑ってみせた。愛想よくふるまっておいたほうがいい。
「いや、こっちもびっくりですよ」
「どうしました」
 笑みを浮かべながら看護師が近づいてくる。フレームの細い眼鏡をかけた、いかにも賢そうな女性だった。
「あの、ちょっと迷ったもんで」
「迷った?」書類を口に当てて笑う。「なんだか山道でも歩いてるみたい。どちらへ?」
「見舞いの帰りなんですけど、廊下を歩いているうちに玄関がどっちだったか分からなくなって」
「ああ、それだったら……」
 互いに数メートルの距離まで近づいたとき、彼女の足は釘で打たれたようにぴたりと止まった。眼を大きく見開き、笑みも消えて口は「あ」の発音のまま固定されていた。視線が、リョウの胸と顔とを高速で行き来する。
「玄関はどっちですか」
 黙ったままで、いやいやをするように顔を横に振る。
「来ないで」
 彼女の声は掠れ、幽霊を見るような目で後ずさりしている。
「だから、いったい……」
「いやー!」
 叫び声が静寂を切り裂いた。リョウの心臓は止まりそうになった。彼女は一目散に向こうへ駆け出した。声をかける暇もなく、あっという間に彼女の姿は消えた。足音もやがて聞こえなくなった。混乱したまま、彼女が凝視していた自分の胸の辺りを見た。
 大きな黒い染みが、べったりと付着していた。身体の向きを変えて蛍光灯に当ててみたが、やはり黒い色だった。手で触れてみると、ぬるりとした気持ちの悪い感触だった。乾きはじめているが粘り気のある液体だった。鼻に近づけてみると、生臭いような腐ったような吐きたくなうような臭いがした。指先を明かりにかざすと、やはり黒ずんでいる。
 血だ。シャツの胸から腹にかけてが血で濡れていた。自分でも気づかないうちに怪我をしたのか? 痛みはあるが落ちたときの膝と足首だ。ハッとした。リネン室でシーツに潜り込んだときに付いたのかもしれない。彼女はこれを見て逃げ出したのだろうが、なぜ看護師が血を見てそこまで驚くのか。
「ったく、散々な日だ」
 ひとり言を呟いたとき遠くに足音が聞こえた。複数で、しかも走っている。ここに立ち止まっていてはまずい。足音と逆方向に走り出す。パイプ椅子の横をすり抜けようとしたとき、つま先に椅子の脚を引っかけた。椅子が派手に転がる音が廊下に響いた。
 椅子が足に絡みつき、身体が宙に浮いた。しまったと思ったときには遅かった。もつれ合って転がった大きな物音が、こちらの居場所を正確に伝えた。手足に絡みついてくるパイプを振りほどき、立ち上がって再び駆け出す。さっきとは違う廊下のような気がした。まっすぐ伸びた暗い通路の彼方に緑色の光が点灯していた。そこまでの間はまったくの暗闇で何も見えない。
 行き止まりかもしれない、とは考えなかった。考える余裕などなかった。がやがやと何人かの声が背中を追いかけてきた。行く手に何があるのかも知らないままリョウは走った。突き当たりだった。右へ曲がる。背後に足音が近づく。ふと気づいて靴を脱ぎ、手に持つ。自分の足音が消えた。暗い中を進むうち、十メートルほど先がふと明るくなった。
 待合室のロビーだ。ここを抜ければ絶対に玄関があるはずだと信じ、早歩きにした。玄関があった。ところが横に守衛室がある。思わず立ち止まった。柱の陰に隠れ深呼吸をして荒い呼吸を整えた。大丈夫、呼び止められない。はずだ。そう信じて歩き出した。
 守衛室の横には、大きなガラスの自動ドアが二つ並んでいた。そしてガラスの向こう側には……また、あの忌まわしい赤い回転灯が待ち受けていた。回れ右をしてまたロビーの柱の陰に隠れた。舌打ちをした。どこまで逃げても行く先々に奴等がいた。堂々と玄関から出るのだという、さっきまでの決心は雲散霧消していた。
 シャツの血が状況を変えてしまった。いや、でも病院なんだから怪我をした人間が来てもおかしくない。怪我して治療してもらって、これから帰ろうとする患者。そういう筋書きではどうだ? ダメだ。怪我してるくせに包帯一つ巻いていない。また舌打ちして回れ右をしたとき、今度はそっちの方向から大勢の人間の話し声が聞こえてきた。
 前は警察、後ろは追っ手、どうする?

       ●

 答えを考えつく前に身体が動いた。ロビーに並べられた長椅子の下に、頭から滑り込んだ。目の前わずか数メートル先を数人の膝下が駆け抜けていく。リョウが立っていた柱の近くで右往左往していたが、足早に玄関へと向かった。冷んやりした床に腹這いのまま玄関を凝視する。医師と看護師数人が守衛室のドアを開けた。二言三言やりとりをした後で、守衛らしき男が出てきた。
「ええと、意味がよく分からんのですが」
 守衛が言った。静まり返って広々とした空間に、すぐ声は吸収された。
「誰かがここの前を通りませんでしたかって訊いてるんですよ」
 中年らしき男は苛立っていた。
「通らなかったかって訊かれれば、通りましたって答えざるを得んでしょうな」
 初老の守衛の声には戸惑いの色があった。事態をまるで把握できていないようすだった。
「だから、どんな人が」
「どんな人って訊かれても、そりゃ病院ですからいろんな人が通りますわ、一日中」
 脱力したようなため息が、輪唱となって拡がった。
「そうじゃなくて、つい今しがたのことを質問してるんですよ。ほんの十秒か二十秒ぐらい前のことを」
「ああそれなら、誰も通ってません」
「本当ですか」
「ええ、間違いない」
「ちゃんと見てたんだろうね。テレビついてるみたいだけど」
「あのね先生、テレビを見ちゃいけないとでもいうんですか」
 警備員の声が気色ばんだ。
「確か、玄関を施錠するまでは禁止じゃなかったですか」
 若い女の声が言い難そうに告げた。
「そりゃ規則ではそうかもしれませんよ。馬鹿正直に決まりに従えっていうんなら規則違反でしょうな。でも一日中ここに座ってるあたしらの身にもなってみてくださいよ。いいですか? わたしもう七十に近いってのに、こんな夜遅くまで働いて……」
「だから、そんなことはどうでもいいんです。男が出ていくのを見逃しませんでしたかって、それを確かめてるんですから」
「いません。いくらわたしだって、十秒前のことも忘れるぐらい老いぼれちゃいない。嘘だと思うんなら外のお巡りさんに訊いてみてくださいよ。ここを通れば必ずあの人たちに見つかるはずだから」
 皆がいっせいに玄関の外を見たとき、誰かが入ってきた。制服姿の二人の警察官だった。
「何かありましたか」
 ゆるみ始めていた空気が突然、ビシッと締まった。それほど警官の声には緊張感があった。
「この人がナースルームに駆け込んできて、不審な男を見たって叫んだもんですから」
 さっきの中年男が言った。
「不審な男。何歳ぐらいの」
「暗かったもので、はっきりとは分かりませんでしたけど、でもずいぶん若い人のような感じでした」
「あなた自身の印象や感想でいいので、何歳ぐらいだと思いました?」
「二十代半ば、いえ、もう少し若かったかも」
「顔は見たんですね」
「はい。暗かったので、それほどはっきりではないですけど」
「不審な男とのことですが、具体的に何がどう不審だったんです」
「あの、血が付いてて……」
 警官の声がすっかり詰問調なので、看護師はいまにも泣き出しそうだった。
「血?」
「ええ、この辺にべったりと」
 息を呑むような沈黙が、数秒流れた。
「暗かったんですけど血かどうかぐらいは見分けがつきます、仕事柄」
「場所は」
「ロビーの奥にあるユーティリティ・スペースの辺りです。私思わず、悲鳴をあげてしまって、そうしたら相手も驚いたみたいで。慌てて二階まで戻ってナースルームへ飛び込んだら、大木先生がいたので報告して、それからみんなで現場に戻ってみたんですけど」
「逃げるところだったんですよ」
 中年の男が言葉を引きとった。
「見たんですか?」
「いや、厳密にいえば姿を見てはいないんですが、パイプ椅子が転がる大きな音がして、その後に逃げる足音が聞こえたから、間違いないと思います」
「なんだ、それならそうとちゃんと言ってもらわなくちゃ」
 警備員が非難めいた調子で割って入った。
「それが分かってりゃ、わたしだって、もっと」
「玄関からは出ていません。六時以降我々はずっと玄関付近に張り付いてて、怪しい人物には職務質問をかけましたから」警官が言い切った。
「ということは、まだ」中年の医師が言う。
「病院の中に?」若い看護師が言う。
 十秒ほどの完全な空白があった。自分の呼吸音さえ聞こえるほどだった。
「連絡、本部に連絡だ!」
 警官が尖った声で、もう一人の警官に命令した。
「S市北総合病院で、シャツに大量の血が付着した二十代前半の男性を、同病院看護師が発見。本日午後、公園で発生した事件の容疑者かどうかは、いまのところ不明」
 事件。やはり引ったくりのときに、あの女を転倒させて死亡させたことが大事件になってるのか。いやまてよ、公園で発生した事件?
「近くの警ら車両に応援を要請」
「了解!」
 固い靴底の走り去る音がそれにつづいた。指示を出した警官が全員に向かって訊いた。
「出口はここの他、どこにありますか」
「正式な出口はここだけですが」
「そうじゃなくて、犯人が逃げるのに出入りできるところという意味です」
「それならたくさんありますな」警備員らしき男が答える。「業務車両用の出入り口が裏手に三ヵ所あるし、この玄関のこっちには職員用のがあるし、救急車両専用のだってこっちに」
「万が一、その男が犯人だったとしたらまずいな。病院内を逃走してることになる。いま現在潜んでいる可能性もある」
「あの、我々はどうすれば」
「とりあえず待機しててください。場所はどの辺になりますか?」
「エレベーターで二階にあがったところです。廊下は暗いですが、明るいほうへ進めばすぐに分かると思います」
「わかりました、本部と連絡がとれ次第向かいます」
 不自然な姿勢で顔あげていたせいで首の後ろが痛んだ。まさか彼らも、その犯人らしき若い男がここに寝そべって会話の一部始終を聞いているとは思いも寄らないだろう。不意に笑いがこみ上げた。人は窮地に追い込まれると笑いたくなるのだろうか。緊張が限界を超えると状況を判断する力が無くなるのかもしれない。複数の靴音が近づいてくる。
「まずいな、まずいよこれは」
 さっきの中年医師が言った。三人分の足がリョウの目の前すぐのところで立ち止まった。男の黒いズボンが一人分、白いストッキングが二人分、それがすぐ目の前にある。
「どうしたらいいんでしょう、先生?」
「とにかく我々だけじゃ、どうにもならない。うちの病院がかつて経験したことのない緊急事態だからね。院長に至急電話だ。それと理事長にも連絡しとかないと」
「大下先生が、してくださいますよね」
「僕は苦手なんだよ、あの院長。できればこんなもめ事っていうか、連絡したくないなあ」
「何をおっしゃってるんです。我々看護師がこんな重大なことを、院長に直接お話しできるわけないじゃないですか」
「看護師ったって奥貫婦長は、この病院でも指折りの経験豊富な看護師さんだし」
「話を逸らさないでください。私の立場でそんなことしたら越権行為になると申し上げてるんです」
 参ったなあ、という医師のぼやきを合図に三人は来たほうへ戻っていく。凶悪さのかけらもない自分がこれほどの大ごとを引き起こしている事実に、リョウはめまいがした。ロビーにも玄関前にも人の姿はない。四方を確認してから、そろそろと椅子の下から這い出した。長椅子の背もたれに手をつき考えた。どうすりゃいいんだろう、俺。
 ロビーの先の遠くにぼんやりと灯りが見えた。自動販売機が何台か置いてあるスペースのようだった。守衛室から死角になっている鉢植えの間を通り抜けて近づく。飲み物の販売機が柱と柱のくぼみに四台並んでいた。
 右側に、ちょうど人ひとりが身を隠せそうなすき間があった。そこに身体を入れて隠れた。これなら次に何かが起きたとき目だけ出してようすが見られる。病院から出るにはどんな方法があるか、策を練ろうとはしてみたけれども頭は真っ白だった。
 と、腕をポンと叩かれた。全身が瞬間冷凍された。