世界の裏庭

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『大誤解』22 (完結)

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 ファミリーレストランの一番奧のボックスに絹江はいた。頭に巻かれた包帯でわかった。向かいには若い男が腰かけていた。山科は、ななめ向かいの席に背中を向けて座った。メニューも見ずにアイスコーヒーを注文した。ドリンクバーから戻ってきても二人は話していた。声が小さいので会話はとぎれとぎれにしか聞こえない。
 若者が金を無心しているらしいのだが、しかし、どうも様子がおかしい。無心というよりは、遅れている何かの支払いを催促しているような内容だった。一方、絹江は頭の包帯を目立たなくするためか、ひさしの大きな帽子を被ったままである。しきりに相手をなだめすかしている。
 さて、どうするか。とにかく店内でもめ事になるよりは、二人が店を出たら追いかけて路上で声をかけた方がいいと思った。金の話に進展はなさそうだったが、結論だけは決まったようだ。今度の仕事を最後に、おれは抜けるよ。若い男はそういった。そのときの絹江の表情は見えなかった。ただ、「そう」とだけ答えた声は淋しげだった。
 若い男が席を立ち、レジの脇を通り抜けて出ていった。絹江と話すべきか、男を追うべきか迷った。迷っているうちに男は駐車場へ歩いていった。よし、男を追おう。絹江は住まいも連絡先もわかっている。それより新たな関係者を探る方が、あとあと役に立つはずだ。レジで支払いを済ませて出たとき、山科のすぐ横を男の車が通りすぎていった。車高の高い白い四駆だった。通りの出口でウインカーが左に上がったのを見届け、自分の車まで走って車を出した。
 ハイラックスはすでに消えていた。焦って無理やり通りに割り込み、後続車から派手にクラクションを鳴らされた。しばらく走ると三台ほど前に白の四駆が見えた。海の方へ向かっていた。行き止まりの道路脇に停めた車から降りると、男はウェットスーツに着替えて荷台に積んであったサーフィンを抱えて海に向かった。山科はそれから二時間ばかり、波乗りを楽しむ数人の男女を眺めた。

 彼が海から上がってきたときには六時を回っていた。ダメもとで当たって砕けろと山科は思った。車の横でウェットスーツの上半身だけ脱ぎ、簡易シャワーで体を洗っている男に近づく。こちらに気がついた男が鋭い目でにらみつけた。しかし、かすかに怯えの色もある。
「何だおまえ、何か用かよ!」
「話を訊かせてくれないか」
 警察の者だと付け加えると、男は大きく目を見開いた。そのまましばしにらみ合う。やがて目元がふっと緩み、笑みが浮かんだ。
「わかったわかった。じつをいうとおれもいいかげん疲れてたんだよ、逃げ回るのにさ。一つだけ訊きたいんだけど、相手は死んじまったの? ニュースじゃ何もやってなくて」
 意味がわからなかったが、努めて無表情を装った。
「話を訊かせてもらうだけだ、他意はない」
「もうどこだってついてくよ。ちょっと待っててくれ、着替えるから」
 男は入念に髪の間に入り込んだ砂を落とし、大きなタオルでごしごし拭いてから、淡々と着替えをした。
「で、どうするの。そっちの車に乗ってく? それとも……」
 そのとき、男の目が山科を超えて遠くに飛んだ。振り返り、視線の先を見るとパトカーが二台、ゆっくりと近づいてくるのが見えた。
「何だよあんた、ずいぶん卑怯なことするじゃねえか」
 男が呟いた。すっかり観念したという顔だった。
「最後にこれだけ教えてくれ、心の準備しておきたいからさ。逮捕容疑は傷害罪? それとも殺人かい?」
 何のことやらさっぱりわからなかった。なぜここにパトカーが来たのか、目の前の男が何をしでかしたのか。
「山科、お手柄だったじゃないか」
 上司の永野が肩をぽんぽん叩いていった。橘アキラが腰紐を付けられてパトカーに押し込まれるのをあっけにとられて眺めながら、山科はまだ状況を理解できずにいた。
「……なんて言われるとでも思ってんのか、このばか!」
 どなりつけられ、まじでびびった。
「なんでお前が橘に張り付いてたんだ。あん? あいつの身許がはっきりしたのはほんの半日ほど前だが、行方がわからなかったのにどうしてよりによってお前が」
「いえ、あの……」
「しかもお前、入院中じゃなかったか、ん?」
 肩に乗せた永野の手に力がこもり、肩の筋肉をすごい握力で掴まれる。署には顔を出したのか? 警察手帳はもちろん所持してるよな、ん? と凄まれた。
「通り魔事件の重要容疑者だと知った上で、お前さんは単独行動をとったわけか」
 通り魔の容疑者? いったいなんの話だ?
「まあいい、詳しい事情は署に戻ってからゆっくり聞かせてもらうとしよう」
 車に向かう間、山科は連行される容疑者の気分だった。

 橘アキラはS市北部総合病院の警備員として働く一方、仕事の合間に抜け出し路上で犯行を繰り返していた。小学生だけを狙って刃物で切りつける通り魔事件の犯人だった。S市北部警察署に容疑者として連行されたあと、橘は驚くべき自白をはじめた。通り魔事件のみならず、さらに仲間と別の強盗事件に手を染めていたと供述したのだ。無関係な別の事件についてみずから自白したのは、もらえるはずの分け前をいつまでもくれないから腹が立った、との理由からだった。
 強盗の直近の犯行は、資産家の妻と家政婦が縛られて金庫から強奪された事件だと判明し、仲間である二人の身許もペラペラとしゃべった。橘は終始「うぜえ」「面倒くせえ」を繰り返し、すっかり投げやりになっている様子だったという。
 また、市内の新興住宅街でひき逃げ事件も発生していたが、被害者の衣服から検出された塗料から市内に住む会社員所有の自家用車であることがわかった。所有者本人は当日、会社の業務で出張中だったが、事故が起きた時刻前後に妻が車で外出するところを、マンション住民が目撃していた。この事実を捜査員が聞き込みで得てきたため、妻から任意で詳しい事情を訊くことになった。北部署はてんやわんやだった。

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 あの後リョウと真琴は駐車場に近寄らず、公園へ向かった。どこへも行く場所がなくなっていたのだ。リョウのアパートも真琴のアパートも警察が張り込んでいるだろうし、車ミも車上荒らしのせいで警察の管理下に置かれてしまうはずだ。
「いまさらだけど、どうして引ったくりなんてやったの」
 真琴が言った。責める口調ではないが、慰めるつもりもなさそうだった。
「出来心、かも」
「出来心で引ったくり? まったく」
「ああいう犯罪って、案外おれみたいに気楽な気持ちでやるやつが多いんじゃないかな。で、あとから思いきり後悔する」
「後悔してるんだ?」
 力なくうなずいた。
「さすがにもう、観念するしかないね」
「だな」
「トオルくんが一緒に自首するのを待ってたら、ずっと逃げてなくちゃいけなくなるもの」
 公園の南の入口を抜け、広場を抜けてだらだらと遊歩道を下っていく。
「昔ね、付き合ってた人がいたんだ」
「ふうん」
 あまりに唐突な話題変更だったので、そうとしか言えなかった。
「空手を教えてくれたのはその人なの。警察署の空手教室で」
「ふ、ふうん」
「つまり警察官だった」
 なんでいまそんな話? とリョウは思っていた。
「最初は、ただの空手教室の先生と生徒だった。でもあるとき気がついたら、暇さえあればその人のことを考えるようになってた。いつの間にか」
「それ、田舎の警察署の道場でのことだよな。週に一回の」
「うん」
「おれ、その人知ってるかも」
 真琴は横目でこちらを見たが、気づかないふりをした。
「高校のとき、友だちと夜中にバイクで捕まったことがあるんだ。そのときおれを捕まえたのが、その人じゃないかな。刑事じゃなくてまだ制服を着た警官だったけど」
「どうしてその人だってわかるの?」
「そんときに言われたんだよ、お前たちは身体を鍛えないから駄目なんだって。警察署で空手道場やってるから、お前も通えって」
「そんな……」
 真琴の顔が青ざめてゆくのがわかった。
「空手には通わなかったけど、学校にはいわないでくれたみたい。何カ月かたってお礼を言いに交番に行ってみたら、その人はもういなくて、代わりに知らないお巡りに代わってたんだ」
「説教されたのはどこで?」
「交番に決まってるだろ。家の近くにあった交番」
「やっぱり」
「やっぱり?」
「あのときあたし、交番にいたんだよ」
 頭が混乱した。
「その人がばかな高校生を交番に連れてきたとき、あたし、奥の部屋にいたの」
 相づちが見つからない。下り坂はそろそろ終わり、石畳の広場に差しかかっていた。
「あの夜、泊まるつもりでその人のところへ行ったの、お泊まりセットを持って。あのまま何事も起こらなければ、たぶん……」
「たぶん?」
「向こうも困ってたと思う。迷ってたのが分かった。でもそんなとき、ばかな高校生が補導されてきた」
「まったくばかな高校生だ、そいつは」
「でも、その高校生に向かって説教してるうちに、我にかえっちゃったんだね、きっと。町で噂になってることは知ってたから。警察官と女子高生が付き合ってるっていう悪い噂。あたしはかえって嬉しいぐらいだったけど、その人にとってはそうじゃなかった。上司とかにばれたら大変だもんね。だから自分から転勤願いを出して町を出ていったんじゃないかなと思った。あたしはふられて、それっきり」
「ふうん、そうなんだ」
「キスはしたんだよね。でも……」
 真琴に音が聞こえないよう、そっと唾を飲み込み、勇気を出して訊いてみた。
「でも、やらせなかった?」
 不意に正拳が横腹にめり込んだ。リョウは身をよじって道路に倒れた。息ができない。
「そういうお下劣な言い方はやめなさい」
 広場を通り過ぎ、芝生の生えた遊具のある公園に入った。ベンチに腰かけて少しすると、彼女はくすくす笑いはじめた。
「何がおかしいんだ」
 リョウが口を尖らせると、笑いを収めて言った。
「つまりリョウに邪魔されたわけだよね、あたし」
「おれは別にそんなつもりじゃ……」
「あたり前でしょ。でも面白いね、その邪魔した張本人であるリョウといま付き合ってるわけだから。おかしな巡り合わせだよね」
「人はそれを運命と呼ぶ」
「あなたのばかは筋金入りだね、ほんと。感心する」
「自分で嫌になってくる。でもばかはもう、これで最後にする」
「永遠に逃げ回るわけにもいかないんだから、けじめをつけなくちゃ」
 リョウはうなずいた。のどが渇いてきたので辺りを見渡すと、少し離れた場所に自動販売機があった。
「ジュースとコーヒー、どっちがいい? おれがおごる」
「ありがと……と言いたいところだけど、引ったくりをやった人におごってもらうわけにはいかないから、あたしがおごったげる」
 真琴はきびきびとした足どりでジュースを買いに行った。真琴と乾杯したらその足でおれは警察へ出頭する、というのは言わずにおこう。

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 空を見あげた。気のせいかもしれないけど、と敦子は思う。少しだけ空が高くなった気がする。白い雲が少なくなって、薄い雲が増えてきた。ついこの間まではあれほど暑かったのに、もう朝と夜は涼しくなっている。この公園にも秋の気配だな、そんなことを思いながら砂場で遊ぶ息子を見た。雄介は最近、この公園の太い丸太を組み合わせて造られた、アスレチック遊具がお気に入りだった。
 この場所からは、病院の白くて四角い威圧的な建物は目に入ってこない。ペットボトルに入れて持ってきた麦茶を、ひと口飲む。もう半月もすれば、今度は外で遊ぶときに温かい飲み物が欲しくなるだろう。
 ふと見ると雄介の姿が消えていた。慌てて立ちあがって遊具まで走り、丸太の内側につくられた階段を駆けあがる。一番上まで登り切ったが雄介の姿は見えなかった。
「ゆうちゃん!」
 一番上から広場を見おろして叫んだ。広場の端の象さんの滑り台から小さな顔がのぞいた。腰を屈めるようにして、こちらを見ている。ほっと胸をなでおろした。
「ゆうちゃん」
 今度は明るい声で大きく手を振った。雄介が滑り台から歩いてくる。よちよち歩きの頃が懐かしいと思わせるほど、しっかりとした足どりだ。敦子もゆっくりと階段を降りた。雄介と再開の抱っこをしてベンチに戻った。汗をかいていたのでタオルで拭ってやって、麦茶とビスケットを差し出すと雄介がぺこりとお辞儀をした。
「ありがと」
 言葉は少し遅いけど、心配することはない。定期検診のときに、お医者さんにそう言われた。いつの間に近寄ってきたのか、二人のまわりを鳩がとり囲んでいる。ビスケットを出したのを見ていたのだろうか。
「鳥さんに、あげる?」
「ううん」
 雄介が首を横に振る。鳩は図々しいけど、この子はけちん坊だ。敦子が笑うと、つられて雄介も笑った。でも、と内心で思う。あなたは心から笑ってはいない。
「それじゃ、お母さんの分をあげるから」
 ベンチから少し離れる。ビスケットを三つ、砕いてから地面にばらまく。羽音が耳の横を過ぎて、鳩の群れに包まれる。別の群れが飛んでくる。雄介の笑い声が背中に聞こえる。
 気配を感じ、つと顔をあげた。
 鳩の群れの向こうに人の姿が見えた。目立たない地味な色合いの、背広姿の男性が二人だ。公園のこののんびりした空気の中、明らかに違和感のある人たちだった。
 足もとを鳩に守られるようにして、敦子は立ちすくんだ。あの人たちはわたしのところへ来たのだ。わたしには分かる。来るべき時が来た。背筋が震えるような思いがした。同時に、どこかほっとしている自分がいた。
 こんなはずじゃなかった。でも、こうなるはずだったのかもしれないとも思った。どこで狂っちゃったんだろう。こうなってしまったのは、わたしのせい? それとも最初から巡り合わせとして、こんなふうになると決まっていたの? どちらにしても、これ以上隠し通せるわけがないし、彼らからは逃げられそうにもない。
 鋭い眼つきの男たちは少し離れた場所で立ち止まると、こちらを見た。敦子は雄介の手をとり、男たちに向かって足を踏み出した。

 (了)