世界の裏庭

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『大誤解』21

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 敦子はあるマンションの前に停めた車の中にいた。夜の十一時過ぎだった。後ろのシャイルドシートでは雄介が眠っている。いつ起きてぐずり出すかわからない子どもをひとり置き去りにして、部屋を開けるわけにはいかなかった。このまま状況を放置できないと敦子は考えた。かわいい息子、それなりに愛している夫、転勤は多いけれどそこそこ満たされた生活だと思う。それを失いたくなかった。
 でもこのままでは、いつ自分の犯した罪が発覚するかわからないし、いつどこで観察されているかもしれないと考えただけでぞっとする。だからどうする、とはまだ決めていない。言葉にするのが怖いから考えないようにしているだけかもしれない。自分の過去を消すため、それもあるが、本当の本心は家族を失ってしまわないためだ。
 相手の名前が広神隆司と聞き、敦子は驚愕した。高校時代の演劇部の先輩だった。敦子が書いた脚本を、自分が書いたふりをして演劇大会に出品し、受賞までしたという浅からぬ因縁があった。脚本は別に自分の才能を確かめたかっただけで、体の内側から湧いてくる衝動を抑えきれず、紙に書き付けていただけのことだった。他人に評価されてもされなくても彼女にとっては意味のないことだった。とはいえあんなことをしたのだから、ひと言謝罪の言葉があってしかるべきではないかと当時は思った。才能のかけらもないくせに、先輩だからというだけで威張り散らすばかな男にうんざりした。でもいまとなっては、それもどうでもよかった。
 S市の劇団に詳しい菜津に本名を調べてもらい、電話帳で調べたら名前と住所が載っていた。いまの世の中、人のプライバシーを洗い出すのなんて簡単だ。何度か劇団の公開稽古を観に行き、顔を覚えた。いつか公園で雄介に飴玉をくれた若い男は別人だった。勘違いをして警察に電話してしまったが仕方がない。まさかあの通報だけで彼が逮捕されることもないだろう。
 靴音が聞こえてきた。フロントガラスの向こう、街路灯の光が照らす植え込みの横を男が歩いてくる。あの男だとわかった。猫背の貧相な小男という印象は高校時代とまるで変わらない。エンジンをかけ、敦子はそろりと車を発進させた。こちらに近づいてくる影に向かってスピードを上げてゆく。
 男は何かを考え事でもしているのか、うつむいたままだ。さらに接近したところでアクセルを踏み込み、ハンドルを左へ切った。驚いて頭を上げた男の顔がヘッドライトの中に浮かんだ。反射的にブレーキを踏んだ。やっぱり自分にはできない。そう思ったが遅かった。
 どん、という大きな衝撃音が車内に響き、ボンネットの上に人が乗ってきた。思わず悲鳴を上げた。フロントガラスを塞いだ男の体は、急停車とともにボンネットから転がり、植え込みの脇にどさりと音を立てて落ちた。手が震えた。バックギアに入れることができず手間取ったが、震える左手を右手で押さえつけて無理やりRに入れ、バックしてその場を離れた。
 両手でハンドルにしがみつくように運転し、詰めていた息をふうっと吐き出したのは、十分以上も走ってからだった。そしてそのときになって、バックシートですやすやと寝息を立てている雄介の存在を思い出した。自分では冷静だったつもりだったけど、全然そうじゃなかった。
 この子はこんな場面を二度も見たことになる。でも最初の時はまだほんの赤ちゃんだったし、今日はぐっすり眠っている。大丈夫、この子は何も見ていない。これで家庭は守れたと、敦子は思った。自宅前の公園にある水銀灯の光が、遠くに見えてきた。部屋までだっこして戻り、寝室に雄介を寝かせてからジュースを持ってきてソファに腰を下ろした。
 グラスを口に近づけたとたん、右手が震えだした。初め小さな振動にしか過ぎなかったその震えが、グラスからジュースがこぼれるほどに大きくなったとき、敦子は左手で支えてテーブルに置いた。
 あたしは、悪くない。悪くない、悪くない、悪くない、悪くない、悪くない、悪くない、悪くない。目をつむり、耳を塞ぎ、自分自身に呪文でも掛けるようにして同じ言葉を何十回も呟いた。そしてそれから、ひとりで泣いた。
 突然、寝室から泣き声が聞こえてきたので慌てて行ってみると、火がついたような勢いで雄介が大泣きしていた。タオルケットの上からとんとんと優しく叩いてやると、徐々に声は鎮まっていった。どうやら夢を見ていたらしいと知り、胸をなでおろす。珍しいことだった。雄介はほとんど夜泣きをしないし、おねしょだって多い方ではない。この二つはセットになっている場合が多いと保健師さんが言っていたけど、これまでに夜中に起こされるような激しい泣き方をしたことは一度もなかった。
 胸に小さな不安が生まれた。もしかしたら幼いながらに自分の母親がしていることを知っているのだろうか。最初は過ちで、二度目はその過ちを消し去るためだった。一つの嘘をつき通すには、別の嘘をいくつも用意しなければならないという話を聞いたことがある。自分がしたことも同じだ。人をはねるなんて冷静になってみれば本当に馬鹿なことをしてしまった。
 確か交通事故は、わずかだけれど車の塗料か何かが被害者の衣服に付いたりして、持ち主が特定されると何かで見た覚えがある。気が動転していたから気づいてないだけで、もしかしたら目撃者もいるかもしれない。車種やナンバーも……。
 さっきまでが嘘のように雄介は眠っていた。静かな寝息をたて胸が規則的に上下している。それを見ながら、敦子は底知れぬ恐怖を覚えた。自分は人を殺してしまった。しかも、二人も。自分が警察に捕まってしまったら、この子はどうなってしまうんだろう。手の震えがまた戻ってきた。
 ああ疲れた、でも、と敦子は思う。今夜はきっと一晩中眠りにつくことはないだろう。

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 山科は相変わらず燃えていた。内側からどんどん湧き上がってくる炎を自分でも抑えられない。けれどそのエネルギーが、本来向かうべき方向から微妙にずれていることに、まだ気づいていなかった。車の中でおにぎりにかじりつきながら考えていた。
 病院のリネン室で発見された百万円は、引ったくりで奪った百万円に違いないと思った。根拠はまるでない。しかし、だとすれば引ったくり犯が、犯行後に病院まで来たということになる。多少の無理はあるかもしれないが、とりあえずそういうことにしておいた。
 引ったくった札束をなぜリネン室に捨てていったかも不明だが、それもとりあえず脇にどけておく。百万円もの大金を持ち歩いていた被害者が、それを届け出ようとしない事実の方が問題だ。山科にはそれが不可解だった。
 考えられるのは二つ。一つは、百万円の紛失など些細な出来事と割り切ってしまえるほどの大金持ちである可能性である。だが金持ちほど細かい金にうるさいというのはもはや常識だから、この線は薄い。もう一つは、所持していた金そのものがやましいケースだ。これは考えられるのではないか。例えば、振り込め詐欺的なものだ。中年女性が犯人グループにいるという話はあまり聞いたことはないが--。
 そのとき、カーラジオのニュースが耳に入った。(……確認したところ、その百万円の束は盗まれた現金の一部であることが判明しました。二日ほど前、市内で起きた押し込み強盗の二人組が安藤さん宅の金庫から持ち去った五百万円の中の一つと、同一であると確認されました。中央署では現在、強盗二人の行方を追うと同時に、付近で起きた通り魔事件との関連を捜査中で……)
 なるほど、そうか。すとんと山科の腑に落ちた。それなら話は早い。おにぎりをペットボトルのお茶で流し込むと急いで車を出した。地道な聞き込みを積み重ねていくのが捜査の常道だが、いまの自分には必要ない。核心にズバリと切り込んでいけばいいのだ。
 そう、被害者のあの中年女性だ。メモを頼りにマンションの部屋を探し出し、インターフォンを鳴らした。
「絹江さんはご在宅でしょうか」
「母は、いませんけど」
 聞き覚えのある声だった。電話に出た娘だろう。
「至急の用事なんですが、どちらに行かれたかご存じですか」
「わかりません」
 玄関に出てくる気はないらしい。このままではらちが明かない。
「出てきてお話ししてもらえませんか。どうもこのインターフォンが苦手で」
 ぶっと通話が途切れ、数秒後にドアが開いた。しっかりとドアチェーンはかけられている。
「このままだとお母さんは、あらぬ疑いをかけられることになるかもしれないんです。もし行き先を知ってるのなら教えてください」
「だから、わからないって言ってるじゃない」
 嘘だと思った。
「あなたのお母さん、何のお仕事をしてるんですか。これぐらいの質問なら答えられるでしょう」
 彼女の目が泳いだ。わかりやすい反応だった。
「こちらは母一人子ひとりのご家庭で、あなたはまだ大学生だ。だとしたら生活していくためにお母さんは何らかの仕事をしてなければいけないはずです」
「自営業です」
「自営業といっても色々ありますよ。具体的には何を? いつもハンドバッグに百万、二百万を入れて歩くようなお仕事ですか?」
 娘がぎょっとして顔を上げた。
「先日の引ったくり事件で、奪われた金額についてお母さんは三万とか五万とか曖昧な金額を言ってたので、せいぜい数万円程度と考えていたんですが、それが数百万円だった可能性が、他の方から浮かび上がってきてまして」
「他の方って何ですか。どういう意味ですか」
「それについては詳しくお話しするわけにはいかないが、とにかくさっきも言った通りこのままではまずいことになる。お願いします」
 娘はファミリーレストランの名前を言った。そういえば車で来る途中、マンションのはす向かいにあったことを思い出した。礼を言って歩きはじめたとき、声をかけられた。
「お母さんは、あの……」
 振り返ると、娘がドアから半歩踏み出していた。
「お母さんが?」
「うちのお母さんの仕事、本当に知らないんです。でも……」
 目をそらさず今度はじっと山科の顔を見つめた。小さくうなずき、山科はきびすを返してエレベーターへと向かった。