世界の裏庭

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『大誤解』20

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 安普請の建物付近には、警官の姿もパトカーもなかった。警官やマスコミたちで賑わっている、病院の建物付近とはまるで別世界のようにひっそりとしている。
 真琴の車は少し離れた場所のコインパーキングに停めた。昨日の夜ふけにリョウが脱出したドアの鍵はかけられていたが、一階のサッシの窓が一ヵ所開いていたのでそこから侵入した。本館につながる廊下にもう一つ扉があり、そこには鍵がかかっていたはずだと真琴に告げたが、彼女はなぜか自信たっぷりに答えた。
「鍵はかかってるはずがないよ」
「なんで断言できる?」
「警察の人たちがたくさんいて病院中を調べたりしてるんだもの。あちこち移動しなくちゃならないのに、いちいち鍵なんてかけてたら面倒臭くてしょうがないじゃない」
 納得できるようなできないような説明だったが、真琴は廊下を病院の方へ歩いていく。数十メートルはつづいている真っ暗な渡り廊下に人影はない。彼女は迷いもせずにいきなりノブを回した。呆気ないほどにあっさりと扉が開いた。
「ね?」
「おまえはいいよな、何をするにも自信満々で」
 シッと言って、尖った口の前に指を立てる。
「ここからは小さな声で話して。もし誰かに会ったらリョウはしゃべらないで、あたしに任せて。分かった?」
 泥棒の手下にでもなった気分だが一応うなずいた。リョウは真琴の帽子をかぶらされている。人相がばれないための配慮らしいが、いかんせん形が珍妙で、かえって人目を引くのではないかと気が気じゃない。真琴が不意に腕を絡めてきたので、どきりとした。腕を組んで歩くのはリョウが覚えている限りでは初めてだ。硬派な彼女はいちゃつくのが嫌いでそういうことを一番嫌うのだ。しばらく進んでいくと、どこをどう歩いているのか分からなくなった。
「まだ見つからないの、ゴミ箱」
 真琴がささやく。
「まだだ……と、思う」
「なんですか、それ。まさか忘れたとか、そういうことじゃないですよね?」
 言葉づかいがていねいに変わったので急に怖くなった。何度か廊下を曲がり、まさに行きあたりばったりに歩いているうち、見覚えのある場所へ出た。玄関ロビーだった。
「あっ」
 二人同時に発声すると、そこにいた男たちがこちらを見た。
「ほら、あたしが言った通りでしょ? 間違えちゃったんだよ、やっぱり」
 真琴が言った。
「ちょっと、あんたたち」
 足を止めて、こわごわ振り返った。二人の男がいて、警察官かと思ってひやりとしたが、どうも様子がおかしい。病院の警備員らしく、こちらにビビっている感じだった。
「どこへ行くんだね」
 鼻の下に髭を生やしたほうが聞いてきた。
「お見舞いに来たんですけど、あんまり広いので迷ってしまって」
 真琴が快活に答えた。
「お見舞い? そんなこと言って、本当はマスコミの人間じゃないのか」
 うさん臭げな目付きに変化はないが、彼の疑いの方向がずれているとわかって少し気が軽くなった。
「まさかあ。あたしたちがニュース番組のリポーターか何かに見えますか」
 男は疑っているという表情を隠しもせずに、リョウと真琴の顔を交互にじろじろと眺める。言いつけ通りにリョウはだんまりを通し、視線を床に落としたままだ。
「まあ、違うっていうのならそれでも構わないが、それにしてもどこから入ってきたんだ。表口からは一般の人間は入れないことになってるはずだが」
 さすがの真琴も、今度は言葉に詰まった。
「どうした? なんなら、見舞いに行く病室まで案内してやるぞ。どこの病棟の何号室だ?」
「小児病棟の女の子なんです。名前は安藤美季ちゃんと言って、幼稚園時代のあたしの教え子で……あ、あたし幼稚園の教諭をやってるので」
 完璧に開き直っていた。いざとなると怖じ気づいてしまうのではなく、顔色も変えずに肚がすわる。女はしみじみ怖い。急に変わったこちらの態度に、警備員が困惑しているのがありありとわかった。
「ちょうど良かったです。小児病棟まで連れていっていただけると嬉しいので、ぜひお願いします」
 一人の警備員が頭を掻きながら、もう一人と小声で話しはじめた。若い方の男が、さっきからこちらをじっと眺めている。
「急いでるので、早くしてもらえませんか。もうすぐ面会禁止の時間になるので」
 面倒くさくなったのか男に案内する気はなさそうだった。新館の三階と教えてもらい、リョウと真琴は礼を言って足早に歩き出した。廊下を曲がるときに一度振り返ると、若い方の警備員がまだこちらを見つめていた。新館の一階まで来たところでリョウはトイレに入った。ここから先は自分一人の方が怪しまれずにすむからと真琴に言われ、個室に入って待つことにしたのだ。終わって戻ってきたら、男子トイレの入り口で口笛を吹くから。
 ズボンも下ろさず便器に腰かけて待った。十分ほど待ったところで音がした。出口からそっと顔だけを出してみると真琴が立っていた。ほっとして近づき、リョウはびくりと立ち止まった。真琴の背後から、美季が顔を出したからだ。
「やあ、おじさん」
「ど、どうして?」
 驚きつつ違和感を感じていると、その正体がわかった。美季はパジャマではなく普通の服装をしていた。細身のズボンに赤のTシャツ姿だ。
「連れていくことにしたから」
 真琴が言うと、美季は楽しそうにこう言った。
「大丈夫だよ、あたし脱走のジョーシュー犯だもん。叱られたって全然へっちゃら」
「とにかくいまは、ここから美季ちゃんを連れ出すのが先決だから。細かいことはあとで」
 真琴と美季は手をつないで廊下を歩きはじめた。リョウは一瞬呆気にとられ、それから慌てて二人のあとを追いかけた。

「なあ、真琴。ヤバいんじぇねえか」
 病院から駐車場へと抜ける細道を歩きながらリョウは言った。
「何が?」
「俺、ただでさえ通り魔だか何かの凶悪犯に間違われてるって言ってただろ。それだけでもヤバい感じなのに」
「もう手遅れ」
 真琴が横目で見る。間に入った美季が交互に眺めている。
「もうすでに手遅れなんだって、リョウは。というか、あたしもか」
「だいたい真琴はさ、女のくせに見境なく……」
 コインパーキングの奧に停めた赤い車が見えたとき、真琴が不意に立ち止まった。
「しっ!」
 突然、真琴が美季の肩を押さえた。リョウもシャツを掴まれ力ずくでしゃがまされた。駐車場の金網フェンスで、車と車の間からちょうど真琴の車が見えている。
「どうしたんだ?」
 真琴が唇の前に指を立て、自分の車の方を見つめている。つられて見たが特別変わった様子はなかった。警官の姿やパトカーがいるわけでもない。しかし目を凝らしていると黒い何かが見えた。車の陰、壁際とのわずかなすき間に黒い頭が見え隠れしている。人だった。
「誰かがいる。あたしの車のとこ」
「車上荒らしかな」
「ならいいけど」
「なんで車上荒らしでいいんだよ」
「だって、あまりにタイミングが良すぎると思わない?」
 確かに。しかし警察がリョウと真琴の関係を知り、彼女が所有する車を突きとめたとして、車上荒らしまがいの手段をとるわけがない。すぐ横で美季が唾を呑み込んだ。わけがわからないまま三人でその方向をじっと見つめた。

 

     ●

 

 車のドアロック解除は、思いのほか簡単ではない。しかし、だからこそ鍵師である修三の腕の見せどころでもある。鍵が電子式になってからは多少難しくなったが、少しすれば鍵を開ける器具が闇ルートで出回るから、それを利用すれば問題ない。それを使う前に、鍵師として初歩の初歩を実行することにした。鍵をかけ忘れていないかどうかの確認である。
 人目につきにくい助手席側の取っ手に手をかけると、ガチャリと音がしてドアが開いた。拍子抜けした。運転手はよほど急いでいたのか鍵をかけ忘れたらしい。ボンネットから目だけを出して辺りをうかがった。駐車場の前は細い道で、車の通りはあるもののひと気はなかった。助手席側から車に入るのは変な話だが、見とがめる者がいるとも思えない。

 自分の車のように堂々とドアを開け、素早く中に入る。最初にコンソールボックスを開いたが、中には小銭以外何もない。ダッシュボード下のボックスにもマニュアル書とメガネが入っているだけだった。車内にないとすると、やはり本人に当たるしかないかと思った。
 腕っぷしに自信がないから泥棒をやっているのであって、そうでなかったらもっと簡単に稼げる違法手段はごまんとある。それに、職人としての腕前にもそれなりに誇りを持ってるし……と考えたとき、妙な感触に気がついた。

 シートで何かがゴツゴツと修三の尻の下に当たっている感触があった。後ろ向きになってシートを見た。助手席の座面と背もたれの間のわずかなすき間に、紙の束が押し込まれていた。心臓が高鳴った。指先を突っ込んでつまんで引っ張り出すと、札束だった。

「やっと見つけた」

 思わず声が洩れた。帯封も解かれていない札束が一つ出てきた。すき間に、もう一度手を突っ込んだ。座席の下はどうだ? 再度周囲を見回してドアを半開きにし、腰をかがめたまま座席を後ろにスライドさせた。頭を突っ込んでみるが、積もったほこりとゴミがあるだけで札束は見当たらなかった。はあーっと息を吐いた瞬間だった。

「おまえ、何してる!」

 背中に声をかけられ、びくりと固まる。

「抵抗するなよ! 抵抗すると痛い目に遭うぞ」

 振り返ろうとした瞬間、後頭部に固い棒で叩かれたような激痛が走った。くらくらする頭を向けると二人の警官が警棒を振りかざして立っていた。

「わ、わかった! 抵抗しないから、ほらこの通り」

 立ち上がって両手を挙げようとしたとき、身体のどこかでゴキリと嫌な音が鳴った。背中に高電圧電流を流されたような、あるいは背後から袈裟に斬られたような激痛が走った。やっちまった、ヘルニアだ。情けない老人みたいな姿勢のまま、修三は狭いアスファルトの上にくずおれた。

 ちくしょう! よりによって車上荒らしなんて、ちんけなヤマでヘマするとは。いまのいままで前科のないまま引退できると考えていたが、こうなれば仕方ない。余罪さえ見つからなければ執行猶予もつくだろう。ずきずきと痛みが激しくなっていく腰をかばいながら、修三はそんなことを思った。

 赤いミニの陰でときおり頭を出していた人物は、車内で何やらゴソゴソと探しているようだった。

「やっぱあいつ車上荒らしだ、間違いないって」

「そうかなあ、そうは思えないけど」

 真琴が車から目も離さずに携帯をとりだし、ちらとディスプレイを見て番号を押した。

「なら、何だっていうんだ」

「リョウの、例のことの関係者」

「何だよ関係者って」

「……あの、いま車上荒らしみたいな人がいたので、それで通報したんですけどお」

 ぎょっとして真琴を見た。車上荒らし? しかも通報した? てことは、話してる相手は警察か?

「いいえ、違いますう。通りがかりに見かけたものですから」

 百十番通報してるくせに、こいつ思いっきり嘘ついてやがる。まじまじと見つめているリョウを無視して、真琴は大まかな住所とコインパークの名前を告げた。 「至急お願いしますぅ」

 出前の注文みたいな言葉を最後に電話を切った。

「なんでいきなり警察に電話してんだよ、おまえ」

「これでいいの。あとは速やかにこの場から立ち去る、ほら早くして」

 強引に腕を引かれ、フェンスから上半身が出ないよう注意しながら、駐車場から死角になっている建物に身を寄せた。びっくりするほどのスピードでパトカーはやって来た。パトカーからも身を隠し、二人はその成り行きを固唾を呑んで見守った。察しがいいのかさすがに驚いたのか、その間、美季はひと言もしゃべらなかった。