世界の裏庭

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『大誤解』19

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 翌朝早く起きた山科は、医師による朝の定期回診を待たずにナースステーションへ出向き、すぐ退院させてくれるよう看護師に頼んだ。「だめです」と答えた彼女に対し、自分が今すぐ仕事に復帰しないと捜査本部が人員不足で大変なのだと、最後はおどし半分で迫った。医師が姿を現したので今度はそっちに談判すると、やはり首をたてに振ろうとしなかった。それなら捜査本部長から依頼書をもらってくると告げると、医師は嫌そうな顔をして三日以内に必ず一度診察にくることを条件に退院を許可した。
 わかりましたと答えたが、いまは抜糸がないと聞いていたので二度と来るものかと決めていた。部屋に戻り、朝いちで用意していたバッグを持つと同部屋の人たちへの挨拶もそこそこに一階まで降り、銀行のATMからお金を下ろして会計を済ませてから、ロータリーで客待ちをしていたタクシーに乗り込んだ。自宅マンションの場所を告げ、ふうっと一つ大きく息を吐く。下腹部がずきんと痛んだが気にはならなかった。この程度の痛みなど、あふれ出まくっているドーパミンやアドレナリンが帳消しにしてくれる。
 ドアの鍵を開けると、一週間近く閉め切られていた部屋の熱気と臭気が襲いかかってきた。換気する間も惜しんで着替えをし、車の鍵を持って飛び出した。車に乗り込み、こもった空気を吐き出すためにむと、窓を全開にして走り出した。休暇扱いになっているのは十日間だから、まだ何日か残っている。少ない時間の中で自分の手で解決の突破口を見つけてやると意気込んでいた。
 最初に見つけたコンビニの駐車場に車を入れ、冷たいお茶を買って飲みながらどう動くべきかを考えた。十分ほどで結論が出た。我ながら相当いいアイディアだと思い、ほくそ笑みながら車を出した。刑事課に顔を出してみると人員はほとんど出払っていた。電話番をさせられているらしい、後輩が一人いるだけだった。
「あ、山科さん。退院したんですか」
「ご苦労さん、てんてこ舞いで大変みたいだな。課長は?」
「朝から署長のところへ行ってます。今日からもう復帰ですか」
「そうしたのはやまやまだが、なにせこれが」
 下腹部をさすってみせると、彼はあぁという顔をする。
「まだ痛むんですか。そりゃそうですよね、何日か前に手術したばかりですもんね」
「しっかり直して三日後には戻ってこれるよ」
「人手不足が深刻みたいですからねえ」
 他人事みたいに彼はいった。この高橋という男は少しぼんやりしたところがあるが、確かに一日中電話番ばかりやっていたら現場の緊張感はなかなか伝わりにくい。
「捜査の進捗状況はどうなんだ。何かめぼしい情報は上がってるのか」
「それがなかなか。真偽の定かじゃないネタならいくつかあるんですけど」
「へえ、たとえば?」
 高橋がちらと横目で見た。いくら先輩とはいえ捜査本部に所属していない人間に情報をもらすのは気が咎めるのだろう。
「人手不足が深刻な状況は、おれが戻ってきても相変わらずだろう。だとしたら戻ってすぐに捜査に加われるように、概要だけでも掴んでおいた方がいいと思わないか」
「まあ、そうでしょうけど」
「ニュースや新聞で報道されてるレベルのことなら見てるから知ってる。でも、それだけじゃしょうがない。外と中との中継役を任されてる高橋ならわかるだろう。何でもいいんだ、どんな通報が入ってるかどうか知りたい」
 彼は少し迷っていたが、机の横にあったノートを取り出してページを開いた。無言で受け取り自分の机に座る。気になる部分を拾ってメモをとっていく。
「百万円の拾得物だそうです。また、あの同じ病院で」
 気づけば高橋が後ろに立っていた。ノートを渡したものの気になったのだろう。
「百万円って、まさか札束が……」
「そのまさかです。病院のリネン室に積まれた使用済みシーツの中に、まだ帯封のしてある百万円の札束が落ちてたらしくて」
 山科はペットボトルのお茶を飲んだ。昨日今日と妙な事件が、事件と呼ぶには小さすぎるものまで含めて、いくつかの出来事が立てつづけに起きていた。最初は通り魔事件だ。公園の近くの路上で、小学生が腕を切りつけられた。ショックで動けず、血をだらだらと流しているところを通りがかりの主婦が見つけ、通報してきた。
 次は電車の中で男が刃物で刺された。携帯電話で話しているのを注意したところ、突然相手が折りたたみナイフで切りつけてきたという。被害者は出血多量で病院に運ばれ、まだ意識が戻っていない。さらにほぼ同時刻、少し離れた場所でひき逃げ事件も起きていた。こちらの被害者は意識はあるものの、腰骨と脊椎が折れていて下手すれば一生歩けなくなる可能性もある。
 そして最後は引ったくり事件だ。中年女性がハンドバッグを引ったくられ、抵抗した際に転倒して頭を打った。病院に運ばれたが意識ははっきりしており、頭蓋骨の損傷もない。しかし被害者は、バッグの中に少なからぬ現金が入っていたと供述していた。
 一見無関係なこの三つの出来事が、ほぼ同時刻に起きていた。特別奇妙というほどでもないが、大きな事件が少ない地方都市としては珍しいことである。山科はもう一度報告書に目をやった。事件が発生した順番はこの通りで、しかもその時刻が午後四時五十分前後で揃っていた。もちろん多少の誤差はあるだろうが、事件の当事者や目撃者からの聞き取りによれば誤差の範囲だ。
 高橋によれば立てつづけに通報が入ったらしい。最初の電話は、通り魔事件の犯人らしき人物を見たという目撃情報だった。それはそれでありがたい情報だが、通報者はその人物に心当たりがあると言ったようだ。この手の電話は大きな事件が起きればたくさん寄せられるのだが、ほとんどガセであることが多い。てっきり近所で見かけたという類の話かと思ったら、とある劇団の脚本家に間違いないと通報者の女性は言ったそうだ。なぜかと聞くと、理由は話せないが間違いないと断言していた。
 次の通報も通り魔に関するものだったが、こちらもまたおかしな内容だった。通り魔と引ったくり犯とは同一人物で、自分はその証拠を持っているという。最初の通報者とは明らかに年齢が違うが、やはりこれも女性で、証拠とは何かと尋ねたとたんに電話は切れた。通報は誤情報が圧倒的に多いものだが、もしこの二つを信頼するに値するものだと仮定した場合、じつに奇妙な図式が出来上がることになる。
 通り魔事件を起こした犯人が、その前後に引ったくり事件も起こしているということだ。どちらも犯罪には違いないから、一般人ならさほど不思議とは思わないかもしれないが、捜査する人間からすれば違和感を感じざるを得ない。事件の筋が見えてこないのだ。しかも現場にいた目撃者の話をもとにすれば、通り魔は一人、引ったくり犯人は二人組だったことがわかっている。これもおかしな話だ。
 ただ、これらの通報を一笑に付してしまうわけにもいかない。今朝病院のリネン室で、百万円の札束が見つかったからだ。さらに奇妙なことに、昨日市内で起きた強盗事件の通報があったが、病院で見つかった札束の帯封が同一のものである可能性が高いとされた。じつに妙だが辻褄だけは合っている。しかもそれぞれ同時刻の犯行という一致もあるから、なおのことである。
 裏に何かある、それは確かだ。まずは引ったくり被害に遭った女性に話を聞こうと思った。場所は、ここから車で二十分ほど離れた住宅街の中にある大きな病院だった。病院に縁があるなと思いながら山科は病院へ向かった。
 しかし、行ってみるとその被害女性はいなかった。看護師の話によれば、昼ご飯を食べて午後の検温をしたあと突然消えたというのだ。
「入院や治療のお金を払わないで消えたんですか」
「いえ、それは払ってもらってます。あの患者さんは救急で運ばれてきたので保険証なんかもない状態で、いなくなった時点で家に連絡したんです。それで娘さんが来て、母親は勝手に退院してしまったみたいなので、ああなるとあの人もう説得になんて耳を貸さない、しょうがないので退院させますって言うんです。治療費はいくらでしょうって。信じられますか、まだ先生から退院許可なんて下りてないんですよ? 事故による脳障害って時間がたって出てくることも多いから、一定期間経過観察しなくちゃいけないのに、まったく何を考えてるのか」
 無理やり退院とは、自分を見ているようで耳が痛い。連絡先を教えてもらい電話してみた。誰も出ないので、いったん切ってからもう一度かけた。すると今度は「はい?」という若い女の声が出た。電話をかけた経緯を説明しようとすると、相手は慌てて山科の言葉をさえぎって切ろうとするので、仕方なく強硬手段に出た。
「捜査に協力する気があろうがなかろうが、私どもはそちらに何度も足を運ぶことになりますが、それで構いませんか」
「それは……困ります。いま母はいませんので、とにかく帰ってきたら伝えておきますから。あたし、何も知らないので」
 家に戻ったら必ず連絡をくれるように携帯の番号を教え、山科は電話を切った。ロビーの長椅子に腰を下ろして考えた。なぜあの女性は引ったくりの被害届を出すのを嫌い、まるで病院から脱走でもするように退院したのか。考えられるのは、何かしらやましいことがあるということだ。
 では何が後ろめたい? そこまで考えてふっと笑った。おれの悪い癖だ。刑事に求められるのは、点と点をつなげていくことなどではなく、丹念に事実を拾い集めていくことだ。