世界の裏庭

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『大誤解』18

   第3部【大誤解】

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 窓の外の手すりに、一羽のカラスがとまっていた。山科はその姿をさっきからぼんやり眺めていた。やつの背中からは、何か生死に関わる重要な問題について考察している気配すら漂っている。ばかの一つ覚えみたいに、いつまでもクルクル赤い光を回しやがって。眩しいったらありゃしない。もしかすればそんなことを考えているのかもしれない。
 これは自分の事件だと、山科は思っていた。自分が待ち望んでいた千載一遇のチャンスだった。病院の玄関周辺を固めるように、ロータリーには数台の警察車両が配置されていて、屋根の上で回転灯が音もなく周囲を照らしている。
「何か面白いもんでも見えるかね? パンツいっちょうで頭のおかしい男が包丁を振り回してるとか」
 佐竹が声をかけてきた。
「いえ、鳥が」
「鳥?」
「鳥が人間たちを眺めてるんですよ、こいつらばかじゃないかって」
 するとカラスは一声鳴いて飛び去っていった。仰向けに寝転がっていた佐竹は、天井に向かって乾いた笑い声をあげた。窓際から自分のベッドに戻ると、山科はスリッパを脱いであぐらを組み、袖机にあった小説を手にとった。上下巻の長い警察小説だが、もう何度読み返したかわからないほどだった。
 ぱらぱらと数ページめくってはみたものの、興奮してどうにも意識が活字に向かわない。スリッパをつっかけて病室を出た。廊下には人影もなく静まり返っていた。就寝前の病棟にはとても静かな時間が流れる。
 同時に、患者たちがそれぞれ自分自身と否応もなく向き合わざるを得ない時間でもある。病気の種類やけがの程度にもよるが、山科の観察によれば外科は比較的陽気で、内科は暗い。看護師の待機所の前を通ると、中には一人の看護師の姿も見えなかった。夜の七時過ぎ。夕食も検温も終わってはいるが、いくらなんでも寝るには早い。
 数少ない夜勤の看護師たちは大忙しだ。ともすれば鬱々と澱んだ空気に陥りがちな病棟に、小さなともしびをつけてくれる彼女たちの役割は大きい。独身男の入院患者は、多かれ少なかれ看護師さんに惚れるものだと聞いたことがあるが、山科もまたその例に洩れず、いま一人お気に入りの看護師がいた。
 エレベーターで一階まで降り、売店の角を曲がって奥まった一画に設けられた読書室へ向かう。ガラスの引き戸を開けると、三人の男の視線が山科に集中したので眼で挨拶する。
「で、どうなったんだよ」
 まん中に腰かけていた水沢という男が、入口近くの中西という男に話を促した。山科は新聞の夕刊を手にとると、彼らの向かい側に座った。三人の話題は今日夕方の事件でもちきりだった。山科は新聞を読むふりをしながら耳をそばだてた。今日の午後、S市北部公園内で通り魔事件が起き、通行人が刃物で切りつけられた。
 その公園とは、この病院と塀を境に隣接しているまさにすぐ近くだった。三人はそれぞれが迷探偵となって珍推理を披露し合っていた。それを聞いているうちに矢も楯もたまらなくなって、新聞を棚に戻して立ち上がった。病室まで戻って小銭を持ってくると公衆電話のボックスへ入る。
「はい、北部署捜査一課」
「真鍋さん、お願いします」
「どなた?」
 伊豆の声だとあたりをつけた。いつもに比べ声が尖っている。
「伊豆さんですか? 山科です。真鍋さんは聞き込みに出てるんですか」
「お前、入院してるんじゃなかったのか」
「ええ、まあ。でもほら、大変な事件が起きてるみたいじゃないすか」
「ならゆっくり休んでろ。帰ってきても席が残ってるかどうかは疑わしいがな」
「またまた伊豆さん、そんな」
 案外冗談になってないかもしれないなと、ちらっと思った。
「病院じゃ携帯が使えないから、公衆電話からかけてるんです。手持ちの小銭が少ないんで、また明日にでも連絡してみます。真鍋さんにはぼくから連絡があったこと、伝えといてもらえます?」
「伝えるわけねえだろ、そんなもん。いいからお子ちゃまは寝てろ」
 がちゃんと切られた。正体不明の焦りのような感情が胸の奥でむくむくと湧き上がってきた。病室に戻って一人一台ずつのテレビを付けた。七時四十分。中途半端な時間だ。民放でニュースをやっている時間帯ではない。もう一度読書室へ行き、噂話でもいいから仕入れてこようかと迷っていたとき、不意にカーテンが開いた。顔を出したのが真鍋だったので驚いた。
「どうした山科、幽霊でも見たような顔をして」
「びっくりしましたよ、さっき電話したばっかりなんですから」
「私に?」
 いきなり事件のことを口に出しそうになり、山科は言葉を飲みこんだ。病棟患者たちはもちろん、ナースたちにも警察官であることは隠している。
「下へ行くか」
 真鍋に促されて部屋を出た。エレベーターを待つ間も乗っている間も彼は口を開かず、何かを考え込んでいるようだった。読書室には誰もいなかった。
「別に見舞いに来た訳じゃない。理由があってな」
 嫌な予感半分、良い予感半分、微妙なところだ。
「実はシャツに血のついた不審な若い男が、この病院内をうろついていたという通報があってな。それでわざわざ、公園のほうからまわってきたってわけだ」
「シャツに血?」
「一概にそれが通り魔の容疑者とはいえんが、状況が状況だけに些細なことを見逃すわけにはいかない」
「いつのことです」
「通報からまだ一時間もたってない。通報してきたのはこの病院の医師だったそうだ」
「その割には病院の中は騒がしくないみたいですね。ぼくも知らなかったですし」
「入院してる人たちを動揺させないために、病院側が公表していないんだろう。なにせこういう場所だ、全員をどこかへ避難させるというわけにもいかんし、ショックを与えたら命に関わる患者もたくさんいるはずだ」
「でもそれが犯人とは限らないんじゃないですか。ここは病院なんですから、けがをして運び込まれたり血が服に付いている人がいても不思議はないんじゃないでしょうか」
「そこが難しい。目撃したのは看護師で、絶対に緊急で駆け込んできた患者とは違うと言い張っているらしい。こっちとしては人は送ってるんだが、なにせ今日は異常なほど市内で事件が多発してて、あまり人員も割けんのだ」
「それでぼくに、病院内で容疑者の身柄を確保しろというわけですか」
 とりあえず言ってみた。
「お前はばかか。逆だ。思い込みで突っ走るその癖、いいかげんやめろ。だいいちおまえはけがで休職中だ。警察病院を拒否して一般病院に入りたいって馬鹿なことを……せっかくだからコーヒーでも奢ってやろうか」
「いや、いいです。で、結局ぼくはどうすればいいんですか」
「万が一、万が一だが、不審な人物がいた場合、病院関係者及び入院患者に危害が加えられないよう、できる範囲で努めてくれ」
 相変わらず訳がわからない。この上司の命令はいつも曖昧だ。でも、と山科は内心ほくそ笑む。これでお墨付きをもらったようなものだ。この事件は絶対、自分が解決してやる。

 時計を見ると九時五分前だった。すぐに病室へ戻る気がしなかったので、上の空で週刊誌をめくった。山科は警察ものの映画や小説の影響で刑事を目指したくちである。案外そんな動機で警察官を目指すものは少なくない。社会正義のために悪をこらしめる。派手な事件を起こした犯罪者を徹底的に追い詰めて逮捕する。自白の供述をとるために、硬軟の刑事が力を合わせて落としていく。浅はかな動機ではある。大学時代に友人からもそう言われたし、自分でも思わないでもない。しかし高い志さえ持てばいい、そう信じていた。
 けれど現実の警察、現実の刑事は違っていた。殺人事件などそうそう頻繁には起こってくれない。何よりこの地域では大規模な犯罪が発生すること自体が滅多にないのだ。ときどき事件は起きるが、どれもみなしょぼい。探偵になるかと考えたこともないではないが、本や話で仕入れてみると浮気調査や会社の人物調査、しまいには逃げたペットを捜させられることもあると知りって諦めた。どうせ理想と現実とのギャップが大きいなら、まだ公務員の方がいい。
 だが、あるときふと思った。燃えるものがない。いつも真剣に気を張り詰めていなければならない仕事だし、自分なりにもその気概を持ってやってきたつもりだったが、どこか惰性で仕事をしていた。そんなとき、生まれて初めて入院することになった。六日ばかり前、聞き込みで歩いている最中に、右の下腹がきりで刺されたみたいに急激に痛み出した。
 何か大変な病気に罹っていたのではないかと心配しつつ病院へ行くと、盲腸だと言われて即刻入院させられた。入院の日々は退屈だが、あらためて仕事について考え直してみた。結論は、やっぱり刑事が好きということだった。
 そんな山科の前に天から降って湧いたように、この事件が発生したのだった。自分が入院している病院のすぐ近くで通り魔事件が起こり、目撃者によれば犯人は病院方面へ逃走したという。さらには病院内でそれらしき人物を目撃したとの証言まである。
 独り静かに興奮していると、薄暗い廊下の向こうから誰かが歩いてくる。背の高い若い男と少女だった。こんな時間になぜ、と思った。少女が入院患者らしいことは、パジャマを着ていることから想像がつく。大方見舞いに来てくれた誰かを見送りに来たのだろう。
 次の瞬間、疑惑が頭をもたげた。玄関はこっちじゃない。小児病棟は他の病棟もこの先にはない。通路の先にあるのは主に業務用として使われる裏口と保管庫、さらに進んでいけば休憩室の粗末な別棟があるだけだ。小児病棟の就寝時刻は八時半のはずだ。本来なら寝ているはずの遅い時間に、こんな小さな子に見送りをさせるのはおかしい。
 無意識に山科は雑誌を読むふりをした。年齢差のある兄妹? それにしても年が離れすぎている。少女はどう見ても小学生で、男のほうは二十代半ばぐらいか。そんな兄妹がいたところで、おかしくはない。しかし……。
 表情が読みとれるほどの距離まで近づいた。角を曲がる直前、男の眼が泳いで視線を外した。後ろめたいことをした人間の特徴だった。山科は立ちあがった。職質しろともう一人の自分がささやく。扉を開けて歩き去ろうとする二人に向かって声をかけた。
「おい」
 立ち止まろうとした男の手を、少女が引っ張るのが見えた。
「きみたち、待てよ」
 少女は突然足を止めると、振り向いて言った。
「あたしたちのことですかあ?」
 微かに媚を含んだ声が陽気に響いた。ところが話しはじめてすぐに目の前で少女が倒れた。予想外のことに動揺したが、もしかすると心臓か何かの病気を持っている子なのかもしれないと考えた。かたわらで少女を抱きかかえた青年は、山科以上に動転しているようだった。彼にいわれるまま、まだ痛む腹を押さえて小児科病棟へ急いだ。やっと看護師を捕まえて現場へ急いだ。
 ところが読書室の前には誰もいなかった。ハッとした。あの男は容疑者かもしれない。せっかくのチャンスをみすみす逃してしまった。山科は刑事になって初めて燃えた。わずか数日前に手術したばかりとは思えないほど迅速だった。看護師に、少女が部屋に戻ったらすぐ知らせてくれるよう頼んだ。次に関脇の守衛室まで行って自分が刑事だと伝え、守衛に外にいる警察に連絡してくれるよう依頼した。不審人物と思われる人間を見た、と。
「ロビーを抜けてまっすぐ進んだところに、正面にガラス張りの読書室があります。そこで若い男と女の子が一緒に歩いていたのを見かけました。それが看護師さんが見かけた不審人物かどうか、いまのところ分からない。胸の辺りに小さな黒い染みがあった気もするが、血痕かどうかは不明」
 病室に戻ろうとしたときは十時に近かった。看護師に「就寝時刻は過ぎていますよ」と叱られていると、別の白衣の女性が走ってくるのが見えた。小児病棟の看護師だった。
「刑事さん、いました!」
「どこに?」
「美季ちゃん、ベッドに戻ってたんです」
 すぐにでも話を聞きたいという山科に、看護師は首を横に振った。重ねて頼み込む。
「消灯時間なのはわかってますが、でもいまは緊急事態で……」
「そうじゃないんです。美季ちゃん、もう寝ちゃってるんです」
 困惑顔の彼女は低い声でつづけた。
「わたしも小まめに見回ってたんですけど、さっき突然ベッドが膨らんでて、びっくりしてそっと触ってみたら眠ってました。揺すっても目を覚まさなくて」
「何か変わったところはありませんでしたか」
 彼女ははゆっくりと首を左右に振った。
「お布団もめくってみました、いちおう。念のために脈もとってみたんですけど数値も正常だったし、なにせぐっすり熟睡してるから起こすのもかわいそうで。もちろん明日の朝一番に聞いてみるつもりです、その男の人のことは。きっとただの知り合いだとは思いますけど」
 どうもお騒がせしましたと、看護師はわが子の不始末を詫びる母のように頭を下げた。まさか病気で入院している子どもをたたき起こして事情を聞くわけにもいかず、山科はしぶしぶ諦めた。自信もぐらつきかけていた。あの子が若い男に脅されていたとしたら、これほど早く寝付けるものだろうか。解放されたとたんに怖くて怖くて、きっと誰かに泣きついてくるはずだった。そうではなかったということは、自分の推測は間違っていたのかもしれない。
 ベッドに横になった。久しぶりで現場の空気にふれて疲れたが、妙に興奮していて寝付けそうになかった。枕を壁に立てて背をもたせかけて座った。あれこれ考えながら、結局寝るまで数時間かかった。