世界の裏庭

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『大誤解』17

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 敦子は雄介の手に触っていた。ぷくぷくとした肉は弾力があってすべらかだ。照明をつけていないから部屋はまっ暗だった。いまの敦子にはグロー球の明るさでも怖くて仕方ない。
 誰かに見られている、というより観察されている。あの芝居を観ればそれは間違いない。
「お母さんを守ってね」
 ひとり言を言ってみる。雄介はむにゃむにゃと何か寝言を言い、不意に笑った。よほど楽しい夢でもみているのか、それとも大好きなおやつでも食べているのだろうか。
「お母さんも、雄ちゃんを守るから」
 膝枕していた雄介をソファにそっと降ろし、敦子は立ち上がる。静かに窓辺に近寄り、カーテンを揺らさないように外を見る。夜の公園には街路灯が二つあるだけで、ほとんどの場所は闇に包まれていた。向かいにあるホテルに目をやる。あの窓のどこかから、いまも誰かがこっちを見ているかもしれないのだ。
 このままじゃいけない。敦子は強く思った。姿の見えない相手に怯えてるだけではだめだ、自分から行動を起こさなきゃ。両手を握りしめると汗ばんでいた。
 台本を書いた人物を捜し出すにしても、興信所に依頼するわけにはいかない。探偵が一人一日動くだけで何万円もかかると何かで読んだ。一日二日で見つけられるとも思えないから、二十万円とか三十万とか、自由に使えるそんなお金が工面できるわけもない。
 しかも秘密を守るといわれても、こんな状況に陥った原因の一つは自分が人を殺してしまったから。罪を犯したことを第三者に知られるわけにはいかない。だから自分で捜すしかない。こそこそ隠れて敦子の生活をどこかからじっと盗み見ている、薄気味の悪い人間を。こちらを見つめているのかもしれない男を想像すると悪寒が走った。このままにはしておかないんだから。
 電話が鳴った。菜津からだった。
「ねえ、もしヒマだったら軽くお酒でもどう?」
「だんなさんは?」
「あっちゃんとこと同じ。今日は飲み会で遅くなるんだって。あいつが外で飲んでるのにこっちだけ家でじっとしてるなんて、何かしゃくじゃない」
 菜津には子どもがいない。だからご主人のいない時間は、そのまま自分一人だけの時間になる。
「でも、雄介が寝ちゃってて。起きてれば一緒に連れてけるんだけど、今日はずいぶん遊んだから疲れたみたいで。そうだ、なっちゃんがくればいいじゃない」
 電話の向こうで菜津が、へへへっと笑っている。
「じつはそのつもりだったんだ。あっちゃんのだんなさんも、今日は出張でいないって聞いたからさ」
「ちゃっかりしてる」
「本音を言うと、ちょっと怖いの。何だか最近この辺で変な事件ばっかり起きてるし、わたし超のつく怖がりだからさ」
 いいよ、と答えてから不意に思いつく。菜津はパソコンやインターネットに強い。敦子は機械ものが苦手だが、彼女なら人捜しのいいアイディアを教えてくれるかもしれない。カーテンを二重に引いてから敦子は雄介を寝室に連れていって寝かせた。

 シャンパンとチーズを持って菜津がきた。髪を後ろで束ね、青のカットソーにジーンズと気取りがないが、スタイルがいいからよく似合っている。まるで自分の家のようにソファに腰を下ろし、テーブルに持ってきた物をどんと置く。
「ブルーチーズ、あっちゃんは大丈夫だったよね」
「うん、好き」
 グラスと皿を用意しながら敦子は答えた。しばらく四方山話をしたあと、さり気なく切り出した。
「なっちゃんって確か、お芝居とかも好きだったよね」
「もう、何でもござれ。映画、コンサート、演劇から美術館、博物館まで、およそこの街のエンターテイメントなら任せて」
 小さく笑ってから質問した。勘付かれないよう慎重に、暇潰しの会話をよそおって。
 「直立劇人」の主宰者を彼女は知っていた。国見というその男はラジオのパーソナリティもやっていて、S市では知る人ぞ知る人物だという。
「その国見って人に、どうすれば会えるかな」
「なに、国見さんに会いたいの? なんで? 直立劇人観たの?」
 矢継ぎ早に質問が飛んでくる。しまったと思った。急ぎすぎたかもしれない。ワインを飲んでごまかした。
「なっちゃんは観たことあるんだ?」
「あるよ、友だちに誘われて何回か。国見さんって劇団の看板役者でもあるみたいだけど、何ていうかちょっと古めかしい印象だったな。田舎芝居の座長みたいな感じで」
「面白かった?」
「この間のは、ちょっと笑えたね。うん」
 納得するようにうなずく菜津を眺めて、敦子はひやりとした。この間のは笑えた?
「もしかしてそれ、『殺人者の飼育』のことじゃない」
「あっちゃんも知ってるんだ? 驚き。もしかして観た?」
 慌てて手を振る。
「まさか。雄介がいるから無理」
「だよねえ、子どもがいるのにお芝居は無理だよね」
 菜津が疑うことなく同意した。
「評判がいいみたいだね、あれ。でもよく考えるよね、あんなこと。人殺しがばれないかと思ってびくびくしながら生活してる犯人の毎日をを、コメディタッチでお芝居にするなんて。しかもその人殺しって女なんだよ? しかも、主婦で子持ち」
 背筋を、冷たい汗がつーっと流れ落ちる。主人公と自分との共通点に気づかないでと願った。国見という男は自ら台本も書くらしい。だったらその国見が、自分を観察している相手だろうか? そうだったとして、その男に対して何をどうすればいいのかがわからなかった。
 公演チラシがとってあったはずだから持ってくる、そういって返事も聞かずに奈津はきびきびした動作で出て行った。あのとき敦子は気が動転し過ぎてチラシ一枚持ってくることも忘れたのだ。待つ間に考えてみた。
 国見は三十代半ばだというが、昨日公園で雄介に飴玉をくれた、あの男が国見なのだろうか。いや、少し若すぎる気がするけど--。戻ってきた菜津のチラシを見て震えた。脚本の欄には国見ではなく別人の名前があった。『ゴッド・ヒロカミ』。明らかにペンネームとわかる名だ。菜津は持ってきたことで役目は終わったと考えたのか、さして興味もなさそうに眺めていたが、やがて夫の話をはじめた。適当に相槌を打ちながら愚痴に耳を傾けていたが、敦子の頭の中は他のことでいっぱいだった。
 あの飴玉をくれた若い男、もしかして……。