世界の裏庭

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『大誤解』16

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 鍵をしめ、階段を下りて向かい側にある砂利敷きの駐車場に停めてある、真琴の赤い小型車に乗り込んだ次の瞬間、目の前の細い道に車が滑り込んできた。
 パトカーだった。同時に身体を隠そうと横に倒れて頭をぶつけ、すぐに体を折り重ねて隠れたダッシュボードからわずかばかり目を出して様子をうかがう。二人の制服警官はアパートに顔を向け、駐車場にはまったく注意を向けていなかった。パトカーはゆっくり一方通行路を進み、アパートの死角で停車した。二人は一緒に出てくるとアパートのほうを指さして、何かを話しながら歩き出した。
 真琴のアパートに、まっすぐ向かっていく。外階段を登って建物の陰に二人の姿が消えたとき、真琴はエンジンをかけた。駐車場を出て左折し、パトカーの横を通りすぎる。警官に車の音が聞こえないことを祈った。何本かの一方通行を抜けて大きな通りに出た途端、真琴がアクセルを踏み込んだ。街の中心部へ向かう片側三車線の道を右に左に車をパスしていく。女だてらに車好きというだけあって運転は確かに上手い。しかし100km近く出ていた。
「飛ばしすぎだ」
 リョウは左右に揺さぶられながら注意した。酔いそうになってくる。
「こんなだと、かえってパトカーの目を引くぞ」
「それもそうか」
「病院にどうやって入るつもりだよ」
「問題はそこだね。警察がうようよいるし、通り魔だと思われてるリョウが『病院に本当の犯人がいて、女の子が危ない』なんて言ったって、信じてくれるはずないしなあ……あっ、急病になって運ばれるっていうのはどうかな」
 嫌な予感とともに聞き返してみる。
「誰が」
「リョウが」
 ……だろうな。
「けがでもいいよ。でも当然だけど、指をちょっと切ったとかそういうしょぼいのはだめだね」
「まさか、ほんとに切るわけじゃないだろ?」
 リョウの言葉を無視して真琴はつづけた。
「とにかく目的は救急車を呼んで病院まで運んでもらうこと。仮病で救急車を呼んで、あの病院に運び込まれる。それであたしは付き添いってどう?」
「おれ、健康そのものなんだけど」
 ささやかな抵抗を試みた。
「別に何でもいいんだよ、どっちみち嘘なんだから」
「けがは難しいだろ。すぐばれる」
「なら、仮病でいこ」
「仮病って、なんの」
「心臓発作とか」
「いくらなんでも、無理ありすぎだ」
「なら、盲腸。そうだ、盲腸とかのほうがいいか」
 夕食の献立でも決めるような気楽さである。
「やだよ、そんなの。間違って痛くもない腹を切られる可能性だってあるじゃないか」
「いいじゃない、おなかの一つや二つ。麻酔されるんだから痛くないって」
「お前なあ……」
 車がバイパスとの交差点を直進し、長いだらだら坂をのぼりはじめた。南向きの丘の左右に整然と並んでいるのは新興住宅地だった。
「病院に向かってるのか」
「向かってない、ただ走りながら考えてるだけ。救急車を呼んだからといって、目当ての病院に連れてってくれるわけじゃないよね」
「あたり前だ。病院のすぐ近くで呼ぶっていう手はあるけど、確実じゃない。で、おれにいい考えがある。この車で直接病院に乗り付けるんだ」
 一瞬の間が空いた後、怒ったような声で彼女がいう。
「ふざけてるの?」
「まあ聞けって。車でまず病院の駐車場まで乗り付ける。当然、警察が検問みたいなことしてるだろうから停められる」
「でしょうね」
「俺は後部座席で毛布にくるまってるんだ、急病人ってことで。それだと顔も見えない」
「毛布にくるまったまま自分で歩いてくの? 診察時間は終わっちゃってるのに。そもそも一般外来の診察はしてないんだよ」
 ダッシュボードの時計を見る。六時を過ぎていた。ふうと溜め息をついた。やはり救急車を呼ぶしかないのか。諦めかけたとき、ふっと閃いた。
 あのとき病院から逃げてきた経路を逆にたどればいいんじゃないか? 美季が教えてくれた、あのプレハブを通り抜けて。いや、駄目か。本館に入るドアには内側から鍵がかけられていた。でもリョウが逃げてきたとき、鍵は開いたはずだから、もしもそのままだったとしたら--。一か八かで賭けに出よう。肚をくくって真琴に告げた。
「いますぐ病院へ向かってくれ。あとはおれがどうにかする」

     ●

 妙な車が近づいてくるのが見えた。赤い車で若い女が運転していて、その隣に同年代の男が乗っている。アパートの前をまるで様子を窺うようにそろそろと走り、斜め向かいにある月極駐車場へと入っていく。修三が駐車場の前を通り過ぎようとしたとき、ふたたびパトカーがさっき走っていった方向から戻ってきた。赤い車の助手席にいた男は外から見えないように上体を隠したようにも見えた。
 パトカーはアパートの少し先で停車していた。赤い車が停まった駐車場はブロック塀の陰で見えないはずだ。
 どちらも見渡せる場所にいた修三は、パトカーが走り去る後ろ姿を眺めながら考えていた。もしかするとあの若い男、引ったくり野郎じゃないのか? そのとき赤い車が動き出し、駐車場を出てパトカーとは逆の方向へ曲がった。目の前を通り過ぎるときに急加速したとき、シートにへばり付いて隠れる若い男の姿が見えた。
 追跡しなければ。焦ってタクシーを拾おうとしたが、こんな場所にそうそう都合よくタクシーが来るはずもないと思い直し、大通りに向かって修三は駆け出した。大通りへ出てタクシーを停めたとき、もちろん赤い車は跡形もなく消えていた。仕方ないからタクシーの運転手に病院の名前を告げた。
「何しに行くんですか?」
 運転手がルームミラー越しに聞いてきた。
「お見舞いだよ。知人が入院してるんだ」
「無理じゃないかなあ、いまは」
「どういう意味だ?」
「もう滅茶苦茶ですよ、あの一帯。ましてや病院の中へ入るなんて絶対無理だと思いますけどねえ。保証してもいいぐらいだ」
 彼の説明によると、病院の中で何か事件があったらしく一般の人間は立ち入り禁止になっているという。絹江が入院している病院にタクシーが着くと、運転手の言葉通りに入るのはおろか近づくことさえできなかった。周囲の至る所に警察やマスコミの車がごった返しており、見物渋滞までできていた。とても修三が入れる状況ではない。
 運転手にどうするかと訊かれたので、渋滞から抜けるまでに考えるからこのままでと伝えた。絹江の携帯電話にかけてみたが留守電になっていたので、連絡をほしい旨だけ告げて切った。態勢を立て直すため、いったん家に戻ることにした。運転手に自宅の住所を告げたとき、道の反対車線に赤い車を発見した。
「あ、待って!」
 そろりと動き出した車が急停車し、ハザードを付けた。
「ちょっとお客さん、こんなところで困るよ。渋滞してるのにさあ」
 すれ違おうとしている赤いミニの車内に目を凝らす。若い女が運転し、助手席に同世代の男が乗っていた。低速で走る車の中から二人とも病院の方を見ていた。後続車にクラクションを鳴らされて運転手は車を出した。
「お客さん、さっきの住所でいいね?」
 仕方がないので「ああ」と答え、リアウインドウから車を見た。ゆっくりと現場から離れていく赤い車のナンバーをしっかり記憶した。部屋へ戻って早速電話をかけた。蛇の道は蛇で、車のナンバープレートから所有者を割り出せる男がいる。一日くれというので、明日午後三時に連絡をもらうことにした。一日のロスが出るなと考えたとことで電話が鳴った。絹江からだった。
「あたし。なに?」
「大変なことになってるみたいじゃないか、そっちは」
「まったくどうなってるのか、病院で通り魔事件だなんて世も末だわよ」
 一瞬、言葉を失った。
「あらどうしたの、黙っちゃって。その様子だとニュースも何も見てないみたいね。ちゃんと世の中の動きはチェックしとかなくちゃいけないって、いつも言ってるじゃないの」
「何があったんだ」
「今朝、病院の中で切りつけられた人がいたのよ。病院の中で通り魔なんてまるで笑えないジョークだわね。ここんとこ病院の近くで似たような事件が起きてたから、みんなもう大騒ぎで、この中に通り魔が隠れてるんじゃないかって。おかげで病院関係者だけじゃ飽きたらずに、あたしたち入院患者まで警察に事情聴取されてるんだから、ほんと、笑っていいのか怒っていいのかさっぱりわかんない」
「あんたは、なんでそんなに落ち着いてられる?」
「それは……確かに言われてみればそうだね。なんであたしは怖くないんだろ。夜にその通り魔らしき人間を見たっていう女の子がいるんだけど、どうも切りつけた前か後かに病院の中をうろついてたって。まあそれはいいのよ、誰が誰を包丁で刺そうがあたしには関係のない話だし。自分が被害者にならない限りは。ほら、根が楽天的だから」
「ばれる心配はないのか」
 数秒の間が空き、不意に弾けるような笑い声が耳に突き刺さった。
「もしかしてあんた、入院患者のあたしが強盗事件に関わりがあると疑われるとでも……」
「待て! まわりに人はいないのか」
「あの若造じゃあるまいし、あたしがそんな基本的なヘマをするとでも思って? ばかね、ここは騒々しい病院の中で見つけたエアポケットみたいに静かな場所なのよ。どこだと思う?」
 いたずらでも仕掛けるような口調だった。
「わかるわけがない。私は生まれてこの方一度も入院したことなどないんだ」
「へえ、そうなんだ。あんたって見かけによらず頑丈なのね。惚れ直しちゃいそう」
「ばかを言ってないで用件に入ってくれ」
「それなんだけど、じつはちょっと妙な話を耳にしたの。病室を掃除しに来てくれる女の人から聞いた噂なんだけど」
 陽気だった声が、いつもの冷えたトーンに戻っていた。
「リネン室のシーツの山の中に、札束が落ちてたらしい」
 ひどく重みのある沈黙が流れた。二人とも、たぶん同じことを考えている。
「どう思う?」
「新札なのか」
「さあ、そこまでは知らないけど」
「……通り魔と札束か」
「こんな偶然って、あるのかしら」
「一生に一度ぐらいは起こっても不思議じゃないだろう、信じられないような偶然が」
 小さく息を吐くような笑い声。
「いったい何がどうなってるんだか、あたしにはもうさっぱりだけど、とにかくこれで売上金の札束が一つ、あっちの手に渡った可能性がある」
 ますます厄介なことになってきた。残りの金がこれ以上減らないうちに、どうにか取り戻さなければ。
「それで、そっちは?」
「アパートの場所はわかったがだめだった。サツが張り込んでるみたいだ」
「警察は本職だけあるわ、早さじゃかなわないね」
「しかし収穫はなくもない」
 アパートでの出来事、そして病院の前で見かけた赤いミニについて話した。
「もうちょっと調べてみないとだめね。あたしの代わりに動いてといいたいとこだけど、この状況だとむやみに動き回るのは得策とは言えないかもしれないか」
「でもやはり、じっとしてても状況は好転しない。慎重にも慎重を期して動いてみるつもりだ」
「どういう風の吹き回し? あなたが仕事以外のことでそんなにやる気になるなんて」
「額に汗して得た金を奪われたんだ。必死にもなるさ」
「ふうん」
 千里眼で探りを入れられている間の後で、絹江は言った。
「ちなみにあたしのいる場所、どこだと思う?」
「だから病院は詳しくないと……」
「死体安置所、本物の」
 自分が唾を呑み込むごくりという音が自分の中で響いた。
「驚いたでしょ。鍵が閉まってるときもあるんだけど、でもいいわよ、ここ。涼しくて。病棟は健康にいいようにって冷房が二十六度に設定されてるから暑くてかなわないもの」
 変化があれば連絡をくれと告げて電話を切った。冷蔵庫から飲み物を持ってきてひと口飲んだ。引ったくった奴らが、通り魔事件を起こした? そんなことがあるだろうか。何だって起こりうるとさっき言ってはみたものの、心の底から信じていたわけではない。
 引ったくりと殺人では何というか、犯罪の質がまるで違う。もっとも、たかだか数千円の金を奪うために簡単に刃物で刺してしまうご時世ではあるのだが。もちろん他人から何らかのものを奪うという事実に限っていえば、自分たちは強盗だ。引ったくりとなんら本質的な違いはない。けれど、こと殺人については修三の頭では想像すらできない。
 ただ、引ったくりと殺人という一見無関係な二つの犯罪には共通点がないでもない。どちらかといえば素人が犯しがちな犯罪だという点だ。とにかく、と修三は立ち上がった。のんびり休んでいる暇はない。アパートと病院を中心に張り込んでみるしかない。これ以上札束の厚さを薄くしないために。