世界の裏庭

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『大誤解』15

     ●

 目が覚めたときは十二時半を回っていた。真琴が出かけたのも気づかずに、リョウはすっかり眠りこけていた。台所でコップ一杯の水を飲んで思い出した。そうだ、トオルと話さなけりゃならなかった。電話をかけると今度はあっさり出た。奴は捕まってもいなければ自首してもいなかった。
「あのあとどうしたんだ、おまえ」
「あのあとって、どのあとよ?」
 寝ぼけているのか、根本的に間抜けなのか。
「昨日の夕方のあとに決まってるだろうが。お巡りに見つかりそうになって、おれは崖から逃げた。お前はこのまま草むらの中を逃げるって言ったじゃないか。そのあとだよ」
「ああ、あれな。別に逃げなかった。草むらの中をしばらく進んでったら、お巡りが近づいてきたんだ。そんときじっと動かないでさ、うつ伏せになったまま隠れてた。なんかもう疲れてて、面倒臭かったし」
 頭痛と目まいがしてきてリョウは瞼を閉じた。かったるいから動かなかっただけで大丈夫だったのなら、夕べの自分の苦労はいったい何だったんだ。
「そのうち遠くのほうが騒がしくなってきてよ、パトカーの近くにはお巡りが一人いるだけだったから、見つからないように気をつけて、そのまま歩いて逃げた。あの金のおかげで昨日の夜は国分町で豪遊だ。で、そっちはどうだったんだ?」
「とてもひと言じゃ言い尽くせない」
 電話の相手は突然、ケケケと笑い出した。
「でも逃げられたんだならいいじゃないか。捕まってたら電話なんかできねえもんな」
 再びケケケと笑う。
「お前は知らないようだけど、おれたち大変なことになっちまってるんだぞ」
「何が」
 簡単にまとめようのない話ではあったが、リョウはできるだけ出来事をかいつまんで話した。
「……そういうわけだから、おれと一緒に警察に行ってくれ」
「やだ」
「やだって言われても、こっちだって困るんだ。このままじゃおれが犯人にされちまうかもしれないんだから」
「いいじゃん、別に」
 信じられない奴だ。
「一緒に引ったくりをしたのは事実だよ、そりゃ認める。けど引ったくりは成功したんだ。そのあとリョウが変な犯人に間違われてるかもしれないっていっても、そりゃそっちの責任だろ。まるで別の話だ。引ったくりはせっかく上手くいったのに、わざわざ自分から警察に出ていく馬鹿がどこにいる?」
 あらためて言われてみると反論できなかった。相手の立場で考えれば、それはそれで筋が通っている気もする。しかしこの苦境に陥ったそもそもの原因は引ったくりだ。
「だから通り魔殺人なんだって。下手すりゃおれ、殺人事件の容疑者に間違えられるかもしんないんだぞ」
「だからお前もさあ、俺の気持ちになって考えてみろって。そっちが反対の立場だったらどうするよ。一緒に警察に行ってくれるか?」
 ぐっと言葉に詰まった。行かないかも。ちらっと、一瞬、頭の隅でそう思った自分が嫌になった。
「行かないよなあ、そんな熱い友情で結ばれた仲じゃないんだからさ俺たち」
「熱い友情はたしかにないかもしんないけど、友だちは友だちじゃないか」
「知り合いって程度で、そんな義理はやっぱりねえと思うな。ただ引ったくりして、山分けしてバイバイ。そんだけだ。ちょっと金額がおっきくてびびったけど、そのあとでリョウが大変な目に合ったのは、そりゃまあ、かわいそうだとは思うけどさ。ところでいまどこに……」
「この、カルピス野郎!」
 そう叫んで電話を切ってベッドに叩きつけた。ふうふうと荒い息を吐く。自分がトオルの立場でも同じ対応をしたのか? 俺はそれほど友だち甲斐のない男で、そんなにも薄っぺらい付き合いだったのか? 畜生、どうすればいいんだ。頭を抱え込む。おれが頼るべきはもう真琴しかいない。絶望的にそう思った。しかし頼るといったところで何をどう救ってもらえるのか。
 のろのろと立ち上がり、台所へ行って冷蔵庫を開く。ぼんやりと中を眺めてから、牛乳パックをとり出してコップに注ぎ、ひと息で飲み干した。
 そのとき部屋のチャイムが鳴った。グラスを持ったままの恰好で、固まった。ピンポンピンポンと、狂ったように何度も鳴らしている。
 まさか、警察? するとドアの外で、チッという舌打ちが聞こえた。台所のすりガラスの向こうを人影が歩いていって消えた。微動だにせずにしばらく待った。今度は隣の部屋のチャイムが鳴った。新聞の勧誘か何かだと気づき、ほっと息を吐いた。
 部屋に戻り、ベッドにごろりと横たわった。天井の黒いシミを眺めていると、ふと思いついた。そういえばスクーター……。
 がばっとはね起きて壁を睨みつけた。うかつだった。一番重要なことを忘れていた自分が信じられなかった。あの辺一帯をしらみ潰しに捜索したら、藪に隠したスクーターなんて簡単に発見されたはずだ。通り魔事件とスクーターの関連性を、警察は疑うんじゃないか?  バイクの所有者が田野畑リョウと判明するまで、さほど時間はかからないはずだ。
 これでアパートには戻れなくなった。警察がいる可能性が高い。目の前が真っ暗になった。もう駄目だ。何の解決策も考えつかないまま、あっという間に時間が過ぎた。シャワーを浴びて頭をスッキリさせようと風呂場へ向かった。
 湯を熱くしてシャワーを浴びるうち、心なしか気分が軽くなった。もちろん気のせいだろう。部屋へ戻り真琴のチェストでシャツを物色していると携帯が鳴った。真琴だなと思って出ると、以外にもトオルからだった。声はなぜか半泣きだ。
「リョウ、なんで俺が、こんな目に合わなくちゃいけないんだよお」
「何だ、いきなり。てめえとはもう友だちでもなんでもない」
「だろ? だよな。お前と俺は友だちなんかじゃないって、そう言ってやってくれよ」
 何を言われているのか意味がわからなかった。
「もしトオルが後悔してるんなら、もう一度友だちに戻ってやってもいい」
「そんなの、どうでもいいんだよ。俺はさ、いくら何でもひどいこと言っちゃったかなと思って、仲直りに酒でも飲もうとビールをしこたま買いこんで、おまえのアパートに……」
 電話の向こうが突然、雑音混じりの沈黙に変わった。
「おい、どうしたんだトオル。おーい」
「田野畑リョウだな」
 冷水を浴びせられたような気がした。
「いま、どこにいるんだ」
「あなた誰ですか」
「警察だ、S市北部署の」
 反射的に電話を切った。なんでトオルからかかってきた電話に、警察が? トオルは警察に捕まったのか。なんで? うまく逃げおおせて、さっきは惰眠をむさぼっていたじゃないか。警察の捜査で、引ったくり現場からあいつの身元に繋がる何かでも見つかったのだろうか。またすぐに電話が鳴ったが出るつもりは毛頭なかった。
 トオルはさっき、確か「おまえのアパートに」と言った。やっぱりリョウのアパートを警察は見張っていたに違いない。お前は、と自分に向かって問いただす。トオルに警察へ行って一緒に事情を説明してくれと頼んだはずだ。それがいま向こうから来てくれているんだ。出向く手間が省けたじゃないか。いくらそう自分に言い聞かせようとしても、本能が拒否反応を示していた。まだ心の準備ができてない。ばか、いつになれば準備できるんだよ。
 早く電話をとれ、いまならまだギリギリ間に合う。携帯に伸ばした手が震えた。と、呼び出し音は止まった。警察は田野畑リョウという男を犯人と考えて、包囲網を絞りつつあるのだ。でも最後の悪あがきと知りつつ、引ったくりの件で来たのかも、と極めて可能性の低いケースを考えてみる。スクーターの所有者として自分の住所が判明し、偶然そこに共犯者のトオルがのこのこ登場、そう考えることもできなくはない。
 その線はないとはいえない。少しだけ気が楽になった。こうでも考えていないことには頭がおかしくなってしまいそうだ。
 また電話が鳴った。まったく、しつこい奴だ。電話はいったん止まったが、十秒もたたないうちにまたかかってきた。頭がどうにかなりそうだ、頭から布団をかぶって逃げようとしたとき、目の端が着信画面を捉えた。
「マコト」と画面に表示されていた。


     ●

「もしもし?」
 どことなくよそよそしい声だったが、それでも懐かしかった。量は思わず、はぁーっとため息をついた。昨日からずっとためこんでいた何かが少し出ていった気がした。
「リョウ? 大丈夫?」
「うん、大丈夫」
 情けないことに泣きそうになった。
「もう少しで帰れると思うけど何か食べたいものは? おやつとか」
 おやつ。何十年ぶりかで聞いたような、じつにほのぼのとした単語だった。
「プッチンプリン食いたい」
「安上がりで助かるよ。ところでトオルくんに連絡ついた?」
「ついたことはついたけど、まずいことになってて」
「どうしたの。トオルくんが一人で自首しちゃったとか」
 それならいいのだが。いや、待てよ、どうなることがいまの自分にとってベストなんだ?
「黙ってないで早く教えなさいってば」
「ちょっと前にトオルから電話がきたんだ。てか、その前にこっちから電話したんだけど、そのときは喧嘩になってお互いに関係ないってことになったんだけど」
「ねえ、なにを言ってるのか全然分かんない。落ち着いて要点だけ話してくれるかな」
 手短に伝えると、静かなため息が聞こえた。
「ここまできたら警察に行って、もう正直に洗いざらいしゃべっちゃうしかしょうがないね」
「でも、まだ心の準備が……」
「そんな呑気なこと言ってる場合じゃない。事態はもうあなたの心の準備とか気分とか、そういうところとまるで無関係なところまで行っちゃってるんだから」
「真琴、とにかく早く帰ってきてくれ。帰ってきておやつでも食べてから話し合うことにしよう、な」
 別居中の妻と離婚の話し合いに望む、腰の引けた夫になったみたいだ。
「それじゃ約束して。あたしが戻るまで絶対に部屋から出ちゃ駄目。少し遅くなるかもしれないけど待ってて、わかった?」
 力なく、わかったと答えて電話を切る。警察に捕まるなんて絶対に嫌だ。でも通り魔の犯人に間違われたまま隠れつづけたり逃げ回ったりするのも、もうまっぴらだ。なら、どうすりゃいい?
 錯乱状態の一歩手前の頭で、昨日の引ったくりから一連の逃走劇の、一部始終の場面場面が支離滅裂に浮かび上がってきた。ふと、ある言葉を思い出した。しばらくの間、それにしがみつくように考えた。

 なかなか真琴は帰ってこなかった。じりじりしながらリョウは待った。夕方五時半を回った頃、廊下をこつんこつんと歩いてくる靴音が聞こえた。かちゃりを鍵の開く音がして、真琴の顔が見えた。手にバッグとコンビニの袋を下げている。
「まことー」
 歩み寄って腕を大きく開いた途端、顔面を平手で抑えられた。
「待てー!」
「いいじゃないか、お帰りの抱擁ぐらい」
「暑苦しい。それに、大変なことになってるよ」
「何が」
「ほら、例の通り魔事件。また今朝も登校途中の子が一人、切りつけられたって。白衣姿の男に」
「どういう意味だよ」
 ここ数ヵ月間、断続的に子どもを狙った通り魔事件が起きているという。小学校高学年の女子ばかりが被害に遭っていて、通りすがりに刃物で切り付けるという悪質な犯行だった。幸い命を奪われた被害者はいない。
「その通り魔はいつも白衣を着てるんだって」
 頭に何かが浮かんだが、何かはわからなかった。
「あたし、病院に寄ってこようと思ったの」
「病院?」
「北部総合病院。リョウが、夕べ逃げたとこ」
「なんで真琴が病院に」
 リョウの質問に答えようともせず、彼女は目の前で服を脱ぎはじめた。ポロシャツが裏返しになって、顔だけが隠れた状態でもがいている。目にまぶしい青のブラジャー、その下へとつづくみぞおちのくぼみ、なだらかな曲面を描く腹部のまん中には、自分が体の中心だと主張する美しいへそ--それをたっぷりと眼に沁み込ませた。警察に捕まれば、しばらく見ることができなくなるだろう。
「あの美季ちゃんって子に会いたかったの。でも残念ながら会えなかった」
「美季ちゃん? なんで」
「なんでって、どっちの意味よ」
 Tシャツに着替え、床にあぐらをかいて真琴は言った。
「どうして美季ちゃんに会いに行ったのかっていうこと? それとも、美季ちゃんに会えなかった理由?」
「ていうか、病院には入れたのか」
「入れなかった、もちろん。出入り口の辺りには警察がたくさんいて、その辺一帯の道路がすごい渋滞だった。だから辺りを一周して帰ってきた」
 袋を持って冷蔵庫へ行き、中に収めていく。プリンを二つ持ってきて、もう一度床に腰を下ろした。
「なんで真琴が、美季ちゃんに会いに行くんだよ」
「前にも言ったでしょ、幼稚園で担当した子かもしれないって。あたしが幼稚園の先生になって初めて受け持ったクラスだったから、すごく気になってたの。もしあの美季ちゃんだったら、お見舞いに行ってあげなくちゃって思って」
 そう言ってプリンを食べた。つられてリョウも食べる。安っぽい味がしみじみ旨かった。
「やっぱりリョウはもう警察へ出頭するしかないよ。あたしが車に乗せてってあげるから、よければ一緒についていってもいいから、これからすぐに行こう。ね」
「なあ、考えてみたんだけど聞いてくれるか」
「聞かない。どうせまた、だらだらと警察へ行くのを引き延ばそうってつもりでしょ。そんなのだめ」
「違うって。ここまできたらもう、さすがに逃げようって気はない。そうじゃなくて、なんていうかさ」
 引っかかっていたのは美季のことだった。だが、胸のどこかに何かが引っかかっているのだが、それが何なのかがわからない。ただ、このまま警察へ行くとひどく後悔してしまいそうな気がしてしょうがなかった。真琴がリョウの目を覗きこんでくる。嘘をついてる? と疑っている目だった。おれも信用がねえな。まあ当然か。
 さっきまで考えていた内容をできるだけ冷静に伝えた。真琴は人差し指を立て、自分の鼻の頭をトントン叩きながら聞いていた。
「これまでおれは、警察から逃げることばかり考えてきた。真琴は真琴で、おれとトオルが一緒に警察に出頭すべきだと考えてた。お前は通り魔事件の犯人はおれじゃないと知ってるから、そうすべきだと思ってる。おれたちがやったのは引ったくりだからな」
「引ったくりに遭った被害者が転んで亡くなったっていうニュースは、少なくともあたしは聞いてない。その女の人も少しぐらいはけがしたかもしれないけど、でも殺人とかそういうんじゃないはず。そういえばさっき警察から電話が来たっていったよね」
「オートバイから足が付いたんだと思う。警察はおれを通り魔事件の重要な容疑者として捜してるはずだ」
「リョウの部屋まで知られてるってことは、ぐずぐずしてたらこの部屋まで警察が来ちゃうかも」
「まさか」
「まさかじゃない。だってリョウの友だちとかにも、警察の人は話を聞きに行くはず。そうしたら付き合ってるのは御堂真琴っていう、見かけも名前も男みたいな女だってこと、すぐばれちゃう。あたしが警察だったら、逃亡先として真っ先に疑うよ」
 真琴が怒ったように腕を組んだ。
「とにかく、警察はあなたを犯人だと思って捜してる。でもね、それなら本当の犯人はいまどこにいる?」
「あ」
 どうしてそこに頭が回らなかったのだ。いまのいままでそれを考えることをしなかった自分の、うかつさと愚かさとを呪いたくなる。
「リョウは警察が勘違いしている犯人だけど、本当に事件を起こした犯人は、いまもどこかに確実に存在してる。しかも、警察からまったく疑われないまま」
「そうなるな」
「でもこれを知ってるのは、リョウとあたし、そして犯人の三人だけってことになる。これって怖くない?」
「あらためて言われてみると、すっげえ怖い」
 頭の中でモヤモヤしていた像が、不意に焦点を結んだ。これま引っかかっていたものの正体が突然見えた。
「それなんだよ、おれがずっと気になってたの」
「気になってた?」
「病院から逃がしてもらったとき、美季ちゃんが言ってたのをさっき思い出したんだよ。確か、どこかの部屋でおじさんを見かけたって話をしてて、それで、そいつが血の付いた白衣を脱いだら中に見覚えのある制服を着てたって」
「それって……」
 真琴が言葉を失っている。美季はいま、きわめてまずい状況にあるかもしれない。通り魔は病院の中にいる。あるいは病院に出入りする関係者かもしれない。そいつが美季に見られたことを、もしも知っていたとしたら--。
「病院へ行こう」
 リョウと真琴の声がダブった。
「警察へ行くのが嫌だからじゃない。わかってくれるな?」
「美季ちゃんを助けに行く」
 リョウは大きくうなずいた。
「とにかく出よう、つづきは車の中で」
 立ち上がって真琴が言った。リョウもあとにつづく。二人はせき立てられるように部屋を出た。