世界の裏庭

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『大誤解』13

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 部屋に帰ると、絹江は本当にそこにいた。ソファでくつろぎ、勝手に冷蔵庫から飲み物を出して飲んでいた。
「インゴットはどうなってるの?」
「安心してくれ、いつものところだ」
 札束以外の売上があったときは、いつもいったん駅のコインロッカーに入れておく手筈になっていた。ただ今回はぶつけた車を警察に発見されるのを避けるため、ザックに入れてこの部屋に置いてあった。
「とにかくいまは、売上金を取り戻すのに集中しよう」
「その情報によれば、場所はどこだったのかしら」
 ポケットに入っていた、ロースからもらったメモを手渡した。奪い返した約百五十万の金については、絹江の出方を見て決めようと考えていた。いま修三が持っているセカンドバッグの中に金の一部が戻ってきているとは、まさか彼女も想像していないはずだ。そのまま自分のものにするつもりなど毛頭ないが、秘密の話になったときに交渉のカードとして使えるかもしれない。
 彼女が見つけた修三の秘密というのが気になって仕方がなかった。確かに彼女に話していない秘密はある。それも、とびきり重要なやつが。
「また別の人間が、別の筋から上がってきてるの」
「別の筋というのは、あのロースって男の上にいるやつか?」
「違う。本当にまるっきり別のさる信用できる筋。あたしだって、ただぼんやり入院してたわけじゃないからね」
 入院中もやはり情報収集に手を尽くしていたらしい。やり手だといったロースの噂は本当のようだ。
「じつは、あたしが引ったくりに遭った現場からちょっと離れた場所で、バイクが見つかったらしいの。警察がナンバー登録から持ち主を割り出してるらしいんだけど、それがちょっと面倒かな」
「ってことは警察がすでに張り込んでるってことじゃないのか」
「そう考えるのが当然でしょうね。だから面倒なんじゃない。犯人が最終的にどういう形で捕まるか知らないけど、お金だけは絶対に警察に渡すわけにはいかない。あたしたちが売上金をいただいてきたあの家の人だって、当然被害届を出しているだろうけど、一度あたしのところに入ったお金は、もうあたしのものなんだから」
 その理屈でいけば彼女が引ったくりされた時点で、その金は引ったくり犯のものになるはずだが、もちろん彼女はそんなことは認めないだろう。本当に厄介なことになってきたと思った。時間をかけて計画して盗み出した、その一切合切が水泡と期すのだ。
「絶対に取り戻す」
「もちろんあたしだって、そのつもり。そこでまたあなたの腕が必要になるわけだけど」
「わかってる。できないことはできないが、できることなら何でもやるつもりだ。でないと……」
「でないと、姿を消す予定が狂っちゃうから?」
 やはりこの女は知っている。そのころが知られているのなら、あのこともすでに知っているのか?
「とにかく話を聞かせてくれ」
 絹江の提案は、さすがに修三でも即座にはうなずけないものだった。つまり、それほど難易度の高い仕事だった。今夜一晩だけ考え、明日の朝にはどうするか教えてほしいと絹江は言った。一見断る余地を残しているようでもあるが、その実、初めから選択肢など用意されてはいない。彼女は帰りがけ、玄関で振り返った。
「この際だから白状しちゃうけど、じつは番ちゃんのこと、ちょっとだけ疑ってたんだ。ごめんね」
「疑う?」
 ぎくりとした。
「あたしのバッグを引ったくらせたの、番ちゃんじゃないかって思ったんだ」
「私が仕組んだ、そう疑ってたってことか」
「だってさ、偶然にしちゃあまりに出来過ぎじゃない。よりによって仕事が終わってあたしが家まで戻るほんのわずかのすきに、売上金をごっそり取られるなんて」
 ようやく合点すると同時に、頭がカッと熱くなった。玄関に立つ絹江をにらみつけた。
「アキラにそんな周到な計画が立てられるわけないでしょう? 引ったくりどもは若そうな男の二人組だったから、病院で目が覚めて真っ先に疑ったのはアキラだったんだけど。アキラだって頭の中でぐらいなら考えるかもしれないけど、でも実際に、あんなに水際立ったやり方でやれるとは思えなかったから。ごめんね、疑ったりして」
「いいさ」
 よくはなかった。まるでよくない。この女が許せないと初めて思った。

 絹江が帰ったとたん、ぐずぐずしてはいられないと焦りはじめた。金が奪われたことも、アキラの傷害事件も予想外の出来事には違いないが、修三にとって何より重大なのはひき逃げだった。一刻も早く給料を手にして、前々からの計画通りにこの街から逃げ出さなければならない。それも、一刻も早く。そのためにも金を奪い返さなければならない。
 それからしばらく考えを巡らせ、まずアキラに電話を入れてみることにした。これまで何度かけても出なかったが、今回はすぐに出た。
「ママが金を奪われたのは知ってるか」
「知ってる。てか、もちろん話は聞いてねえけど想像はついてたって、前に言っただろ」
「その金を取り戻さないとお前の給料は出ない。本当ならおまえにも手伝わせたいところだが、今度ばかりは万が一にもヘマはできない。だから私たち二人でやるが、一つ手伝ってほしいことがある」
「面倒そうだけど、聞くだけ聞いてみるよ」
「自首しろ」
 息をのむ気配が伝わってきた。ざまあみやがれ。アキラが本気で警察へ行くなど、はなから期待していない。ただ、予測のつかない行動に走られて、こっちに飛び火するのが迷惑だから警察をちらつかせて釘を刺したまでだ。
「もちろん傷害事件の方だ」
「訳わかんねえ」
「訳などわからなくたっていい。とにかくなるべく早く警察に行って、電車の中で口論になって人を刺したのは自分だと告白しろ」
「わかるか、そんなもん。ババアがてめえのヘマで取られた金を取り戻すために、何だっておれがパクられなきゃいけねえんだよ!」
「大丈夫、おまえは初犯だ。計画性も何もない喧嘩の末の傷害事件だ、執行猶予付きの判決になる」
「傷害じゃねえよ、殺人だ」
 今度は、修三が息をのんだ。
「相手が死んだのか?」
「あんた、ニュース見てねえな。いつもババアに言われてるじゃねえか、新聞とニュースには目を通せって。わかる? 確かにおれは初犯だよ、けどな傷害事件じゃねえ。殺人事件になったんだ。いまのところ周りでお巡りがうろついてる気配はないのに、のこのこ出頭するわけねえだろ」
「業務上過失致死ですむかもしれない」
 そんなわけがないと思いつつも、気休めに言ってみる。
「そんならこっちも言わせてもらうけどよ、昨日ニュースでやってたひき逃げ事故、あれあんたがやったんじゃねえのか、あ?」
 意表をつかれ、ぎくりとする。なぜアキラが自分を疑うのだ?
「事故が起きた時間はよ、おれが電車で人を刺した時間とほとんど同じじゃねえか。確かおれが電話かけたとき、あんた車を運転してるって言ってたよなあ。そんですぐに何かにぶつかるような音がしてさ、直後に急ブレーキの音が聞こえた。あんたあのとき、あたふたと電話切ったよなあ」
 無言で電話を切った。あの若造、仕事のときはぼんやりしているくせに、どうしてこんなときに限って勘が鋭いのか。ますます時間がなくなったと思った。決して仲がいいとは言えない絹江とアキラが連絡をとるとは思えなかったが、自分の事故を彼女が知る前に金を取り戻し、一刻も早く山分けして別れるしかないと修三は肚をくくった。


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 そのアパートが見える路上に、修三は立っていた。周囲に同じような古ぼけた集合住宅が建ち並ぶ、うら寂しい住宅街だった。いったん建物の前を通り過ぎ、少しあたりを回ってからふたたびそのアパートに近づいた。
 と、赤い回転灯が近づいてくるのが見えたかと思う間もなく、パトカーが姿を現した。周囲の様子をうかがうようにゆっくり走っている。パニックを起こしそうになったが、逃げ出さずにすんだのは警察のめあては自分じゃないとわかったからだ。そうはいっても、このアパートの住人が警察にマークされている可能性はきわめて高く、そこに盗みに入るのはあまりに無謀に思えた。
 修三は仕方なく自分の部屋へ戻ろうと思った。八方ふさがりだ。タクシーが拾える大通りへ重い足どりで向かいながら考える。金はどうしても取り戻さなければならない。今回の仕事の売上は、自分にとって退職金代わりになるはずのものだった。
 泥棒稼業から足を洗って田舎暮らしをするつもりだった。子どもの頃から鳥が好きだった。鳥に限らず虫も魚も好きだった。結果的には泥棒になってしまったが、それはあくまで金を得る手段としてもっとも自分に適していたという程度の理由からだ。鳥のさえずりを聞き、双眼鏡で姿を眺めながら暮らしたい。それが若い頃から修三が考えてきた理想の暮らしだった。山の奥に小さな家を建て、小さな畑で季節の野菜を作り、料理して食べる。ずっと独り暮らしが長いし手先は器用だから料理には自信がある。
 東京の新宿で生まれ育って田舎を持たない修三の念願だった。土地のあてもあるし、家も小さいながらしっかりしたものを建てるつもりだ。結婚は、若い頃に一度失敗しているから二度とするつもりはない。泥棒稼業をつづけていくのであれば都市がいい。仕事の現場まで近いし、金持ちも多く、何よりヤバい仕事をする者が身を隠すには絶好だ。
 だが自分は、この仕事を辞める。真っ当な人間としてやり直すには、山や森の清らかさは得がたいものだ。今回の分け前も大事だが、それ以上に警察に捕まらないことが重要だった。金を奪い返すには動かなければならず、しかしそれは警察の網に掛かりやすくなることにもなる--。ジレンマから抜け出す方策も見えないまま、修三は夜の街を歩きつづけた。