世界の裏庭

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『大誤解』12

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 家に戻ると、ひどく疲れてしまっていた。人身事故の一件が頭から離れなかったが、かといってニュースを見るのも怖かった。まだ夕方だったが酒を飲まずにはいられず、寝酒をあおってソファに横になるとすぐに寝入ってしまったらしかった。
 熟睡しはじめた頃、絹江からの電話でたたき起こされた。絹江は公衆電話を使っているらしく、周囲に人がいるのを気遣うように淡々と店の名前と時間だけを告げた。相手の名前があまりに奇妙なので一度聞き返したが、同じ言葉を繰り返すと絹江は一方的に電話を切った。疲れと酒とで頭が痛んだがメモはとった。
 待ち合わせの時間には早かったが、着替えをして出かけようと思った。これ以上部屋でじっとしているのは耐えられそうになかった。

 修三は指定された店で男を待っていた。S市街地外れの路地裏にある居酒屋で、絹江から六時半にそこへ行くよう指示されたのだ。店には一人の客もいなかった。この辺はいわゆるヤバい界隈なのだが、裏表のさまざまな情報を得られる場所としてその筋で知られている。特に市内で起きた犯罪については驚くほど速く情報が入ってくる。問題は情報の正確さに疑問符がつくことだ。
 約束の六時半を三十分近く過ぎた頃客が入ってきた。修三が見ると、縄のれんをくぐって入ってきたのは、周囲の気温を三度ほど上げそうなデブの大男だった。修三と目が合うと、睨み付けたまま近づいてくる。腰かけたとたん、分厚い板でできた椅子がぎっと軋んだ。前を眺めたまま話しかけてくる。
「名前は?」
「番場。そっちは?」
「ロース」
 ロースね、と修三は繰り返した。絹江から聞いた名前と同じだった。あだ名だろうが、もう少しましなのはなかったのかと思った。ロースはそれからぶつぶつ何かを呟いたが、どうにも滑舌が悪く言葉が聞きとりにくかった。ひとり言が終わったとたん、おそろしく愛想の悪いおばちゃんが厨房へ入っていったのを見て、ようやく注文を入れたのだとわかった。
「ロースは好きか?」
 唐突にそう聞かれたが、意味がわからなかったので黙っていた。
「好きなのか、嫌いなのかって訊いてんじゃねえか。どうなんだ」
「ロースって、ステーキとかのロースのこと言ってるのか?」
「あたりめえだ。おいらはロースって呼ばれてるけど、初対面のあんたに『おいらのこと好きか?』って訊くわけねえだろ」
「ロースは好きだ」
 あまり考えないで言ってみた。ロースが好きなどうかなど考えたこともない。
「脂身が旨いよな」
 修三がいうとロースが笑った。視線を前に固定したまま肩を叩いてくる。うれしそうだ。
「まあよ」
「急いでるんだ」
 ロースは、運ばれてきた肴を箸でほじりつつ、カウンターに語りかけるように話しはじめた。
 絹江のバッグを引ったくったのは、どうも組織的な犯罪グループじゃないらしい。ロースたちの間では、その手の人間をフリーと呼んでいるらしく、さすがにアマチュア犯罪者のネタは入りにくい。犯罪者というより、ようはただ街にたむろしている不良の一部に過ぎないからだ。
 ただ彼なりに情報網を駆使したらしく、不審な人物が浮上した。一昨日、昨日と二晩つづけて繁華街のキャバクラで豪遊した若い男がいたらしい。決して景気がいいとは言えないS市の夜の繁華街でその姿は目だった。ハラミと呼ばれているロースの仲間がキャバクラ嬢に聞いたところでは、明らかに貧乏くさくて金を使い慣れていない様子が見え見えだったそうだ。
 金にひかれてアフターにも付き合ったが、女性行きつけの寿司屋でおどおどしてろくに注文もできず、「握りを並で」と頼んだ。そのあとホテルに誘われたが、繁華街外れのラブホだったから巧みに断って逃げてたということだった。
「その男の居場所、わかるのか?」
 ロースはあっという間に飲み干したもっきりの酒をお代わりした。ロースはポケットからとり出した紙切れをカウンターに置いた。裸電球の下で読んでみた。住所といかにも安っぽい感じのマンション名が書かれていた。修三の家からさほど遠くない。住所からすぐにだいたいの場所はわかった。
「この情報、どの程度信用できる?」
「信用できねえからって返品はなしだぜ。あんたは一度、中身を見ちまった。最低限のルールだ」
「そういう意味じゃない。私はこの情報を判断する立場にもない。知ってるかもしれないが決めるのは彼女だ」
 ふん、とロースが鼻で笑った。
「聞いてみたのは、もしこれが本当だとしたらよくこの速さで情報が集まるなと思ってね」
「別に。ただおいらがたまたまヒットするネタを持ってたってだけの話だ」
 謙遜かと思ったが、どうもそうではないらしい。
「簡単な話だ。下手な鉄砲も何とかっていうが、それと同じだ。たぶんあのおばさん、あっちこっちに声かけまくったんだろう。そういう情報を束ねてる奴が何人かいて、偶然そのラインの末端の一つにおいらがいた。それだけの話さ。あのおばさんは、昔からやり手で通ってっから」
 修三が知らない絹江の姿は他にもあるらしい。まあいい。ポケットにメモを入れ、酒を飲み干して立ち上がった。
「もしこのネタがビンゴだったときは、彼女の方からボーナスが別途支給されるかもな」
 ロースが肩を揺すって笑う。
「あんた、おいらたちの稼業のことはほんとに何も知んねえんだな。そりゃあボーナスは出るはずだけどよ、末端のおいらまで回ってくるもんか」
「そういう仕組みか」
 ああ、とロースはつまらなそうにいった。これで飲んでくれと告げ、修三はカウンターに一万円札を置いた。のろのろと顔を上げたロースの目が、初めて修三の目と合った。
 店を出て大通りに向かった。いまから行くか、それとも明日にするかを決めかねていた。今回ばかりは少々荒っぽい手口を使わざるを得ないだろう。それが気持ちを重くした。嫌なことほど早めに済ませろ。
 以前、橘から教わった言葉が頭に浮かんだ。タクシーを拾うために手を上げたときには考えが固まっていた。車に乗り込みメモに書かれた住所を告げた。この件に早くケリを付けて、肩の荷を一つでも軽くした方がましだった。

 マンションとは名ばかりの古ぼけた建物の前で、修三は辺りをうかがっていた。いつも持ち歩いている簡易版の解錠道具で簡単にドアは開けられる。万一、面倒そうだったら明日出直せばいい。警察が張り込んでいる危険は一応頭に入れてあったが、そもそもこの情報そのものがガセの確率が高いと思った。
 ドアの鍵は錠前と呼びたくなるほど古い代物だった。こんな部屋に住んでいる男が国分町で豪遊とは、確かに突発的な大金でも手に入らない限り無理な話だろう。シリンダー式のロックを難なく開けると、薄く開けた扉から身体を滑り込ませる。とたんに何かが腐っているような臭いが鼻をついた。明かりをつけるまでもなく、カップラーメンやらコンビニ弁当やらの食べかすが腐っているとわかった。
 これなら気が楽だと思った。普通なら誰かが部屋に入ったという、犯行の発覚を少しでも遅らせようと気を配るがこれなら心配いらない。
 調光機能付きのペン型ライトで照らすと、拍子抜けするほどあっさりとそれは見つかった。唯一の家具であるタンスの一番下の抽出の底に現金があった。まだ帯封が付いたものが一つと、その半分ほどに減った札束とが無造作に突っ込まれていた。百五十万円前後というところか。それをジャケットの内ポケットに入れ、足元を照らしながら部屋を出た。
 雑作もない仕事だった。問題は残りの金だ。二人組だとすると、もう一人の片割れが何者でどれぐらい使ってしまっているかだ。暗い街路灯の道を歩きながら考える。もう半分の金について絹江はどうするつもりなのかと考えながら、大通りに出たところで電話が入った。絹江からだった。
 まるで自分の行動を千里眼で監視されているかのようなタイミングに、修三は思わず立ち止まった。
「いまどこ?」
「金色町の辺りだ」
 反射的に嘘をついた。
「情報はどうだった。いけそう?」
「わからない。会った男にも訊いてみたが、情報の真偽は自分でもわからないといってた」
「そんなこと訊いたの? 呆れた人ねえ、ああいう輩が本当のことなんて話すわけがないでしょうに」
 絹江はからからと笑ったが、突然声のトーンが変わった。
「まったく、ひどいことになっちゃって」
 修三は心の中で身構えた。受話器の向こうがしんと静まり返った。
「アキラが大変なことをしでかしたの。あの子、人を刺しちゃったって。それも、よりによって例の仕事の帰りだっていうんだから、信じられない。まったくあのど素人が」
「ちょっと待て。あんたどこでこの話をしてるんだ? 誰かに聞かれでもしたら……」
「大丈夫、霊安室からかけてるから」
 絹江が、くっくっと笑いをこらえている。妙な違和感が背筋を這い上ってくる。自分が長い間をかけてこつこつ温めてきたはずの小さな計画が、足元から瓦解していく予感がした。不意に違和感の正体に気づいた。病院の霊安室から携帯電話などつながるだろうか?
「あんた本当はいまどこにいるんだ」
 数秒の沈黙が流れた。
「部屋よ。あんたの部屋」
「ど、どうして」
 自分の部屋を知っているのかと聞き返そうと考え、そうかと思った。あの女ならやりかねない。その気にさえなれば、どんなことだって知る手段があるのだ。仲間を掌握するため何らかの手段を使って監視していたに違いない。
「あなたの秘密、知っちゃったよ」
 頭の中をいくつかの事柄が猛スピードで駆け巡った。そんなに簡単にあのことがばれるわけがない。いや、しかし……。
「秘密なら誰でも持ってる、あんたもな。違うか?」
「あたしは秘密だらけよ、もちろん。秘密のデパートだもの。でもまさか番ちゃんが、あんなことを、ねえ」
 楽しそうに笑っている。
「早く帰ってきて、さみしいから」
「いまタクシーを拾って帰ろうと思ってたとこだ」
 絹江が今度は嫌な感じで笑った。
「とにかくあなたは、何が何でもお金を取り戻さなくちゃいけなくなったね」
 目の前が暗くなった。