『大誤解』
第0部 【誤解の種】
第1部 【小誤解】
第2部 【中誤解】
第3部 【大誤解】
第0部 【誤解の種】
● 敦子 午後四時
うららかな陽気の午後だった。時刻は午後というより夕方に近かったが、そのせいもあってか暑さは少しずつ和らぎつつある。
二歳半の雄介は、じっとしていることがない。生命力の塊のような子どもにとって、暑さなど何ほどのこともないのだ。さっきからしきりに右や左へと行ったり来たりしているのは、鳩を追いかけているのだった。
本人は一緒に遊びたい、不思議な生き物を抱っこしてみたいと思っているみたいだけれど、もちろん幼児に捕まる鳥などいるはずもない。鳩はぎりぎり近づくところまでのんびりと歩いているくせに、雄介が小さな手を出して触れようとした途端、見えない風に吹かれたようにふわりと逃げる。
さっきからくり返されているその様子を眺めながら、敦子は頬が緩んでくるのを感じた。人間とは不思議なものだ。子を持つ親の立場になってみて、つくづくそう感じさせられる。
幼い子どもがいる。大人の目の前を、よちよちと歩いている。笑って、転んで、泣く。広場のベンチで母親として眺めていると、実にさまざまな人たちが思い思いに柔らかな表情を浮かべながら行き過ぎる。
本人にとってはあたり前で精一杯の仕種、その一つひとつが大人たちの胸を、幸せな空気で満たしてくれる。ただそれだけのことで、そこに存在しているという事実だけで、人の心が少しだけ慰められる。そしてそれは母親の特権ではないと気づかされるのだった。
つと顔をあげると、遠くに大きな時計台が見えた。
S市街の北部にある広々とした公園だった。大きな都市の中にあるとは思えないほど木々の数は多い。芝生や池の間を、煉瓦敷きの遊歩道が縫うようにつづき、ところどころには木造りのどっしりとしたベンチがしつらえてある。彫刻も点在してるし、雰囲気もいい。
夫の転勤で、思いもかけずS市に戻ってくることになって二年半になる。S市と聞いたとき最初に浮かんだのが、嫌な思い出だった。高校卒業と同時に東京へ母親と引っ越して以来、六年も過ぎていた。寒いのは嫌だなあという気持ちもあった。
けれどもあらためてこの地に暮らしてみて、特に春が好きになった。夏だって東京の、あの全身の毛穴を塞がれているような逃げ場のない不快な湿気が少ない。この街は子どもを産み育てるにはいい環境だった。こちらの人々、特にお年寄りたちは子連れの母子によく声をかけてくれる。とても気安く、まるで自分たちの孫でも見るようにして目を細めながら、「元気がいいねえ」とか「あら、ご機嫌ななめ?」といっては、頭を撫でたりしてくれるのだ。
ここのところ、しばらくびくびくして過ごしていたために、外出するのも買い物などの最小限に抑えていた。でも外で遊べない雄介は、一日中ぐずるようになってきた。
小さな伸びをしてみると、敦子は解放されたような気分になった。考えすぎだよ、と自分に言い聞かせる。
あんなこと、本気で書いてくるわけないじゃない。そう、ただのいたずらだって。
ぼんやりとそう考えながら辺りを見回すと、息子の姿が消えているのに気がついた。
「雄ちゃん?」
ベンチから立ち上がり、雄介を目で探す。公園で遊んでいる子どもは数人だけだから、雄介がいないことは一目でわかった。
振り返って木立の陰になった遊歩道まで行ってみたが、雄介の姿はなかった。
「雄ちゃん!」
気がつくと驚くような大声を出していた。早足で歩き出し、立ち止まり、もう一度ぐるりと見渡す。
雄介が本当にいない。どこへ行ったの? ハッとした。確か少し離れた場所に人工的に造られた池があった。そこに小さな遊び場とトイレがあり、さらに奥には背の高い木々が茂っていたはずだ。
まさか、池まで一人で歩いていった? それほど深さはなさそうだったけど、もしも水に落ちたら……。
早足は、いつしか駆け足になっていた。緩やかなカーブを曲がったところに雄介がいた。植え込みに腰かけた若い男がいて、雄介の前に屈み込んでいるのが目に入った。
「雄ちゃん、どうしたの」
大声をあげて近寄ったとき、雄介と若い男が同時にこちらを見た。雄介の顔が苦しそうに歪み、男はあたふたした様子で敦子と雄介を交互に見ている。
「いったい何したんですか、あなた!」
敦子が抱きしめようとしたとき、雄介は苦しそうに口を開けてうめき声をあげた。喉からか弱い笛のような音がしている。気管が狭まっているような声だ。
「どうしたの、雄ちゃん? 雄ちゃん!」
「あ、あの、おれ」
反射的に敦子は、雄介の背中をどんどんと叩いた。雄介は前屈みの姿勢になり、えずくような音をたてて不意に何かを吐き出した。足元に乾いた音を立てて転がったのは飴玉だった。
「どうして、こんな」
「飴玉をあげたら急に苦しみだして、それで……」
「こんな小さな子に、こんなに大きな飴を食べさせるなんて、何考えてるんですか!」
雄介はようやく息がつけたのにほっとしたのか、泣きだした。よほど苦しかったに違いないと思い、しゃがみこんで小さな身体を抱きしめた。
「おうリョウ、待たせたな」
背後から声がした。びくっとして振り返ると、また若い男が立っていた。
「あ、ああ、ちょっと」
「何してる、行くぞ」
あとから来た男の方は頭が丸坊主で怖い。不良に絡まれるかもしれないと雄介をさらに強く抱きしめた。
バイクはどこだとか何とか話しながら、二人は足早に去っていく。最初にいた男は、最後に一度だけこちらを振り返った。怖かったので目を逸らした。謝罪の言葉もなかったけど、絡まれないだけでもよかったと胸をなでおろす。バッグから水筒を取り出して雄介に飲ませ、植え込みに座らせて背中を優しくさすってやった。
「もう大丈夫だね。さあ、おうち帰ろうか」
雄介が無言でうなずく。その手を引いて、来た方向へと遊歩道を戻った。
ところが歩きはじめてすぐ、雄介は母の手を振り切って屈みこんだ。見れば、数十匹の蟻の行列がまっすぐに草むらに向かって行進していた。それを指さし、敦子にも見ろとしきりに勧めてくる。敦子の中で緊張がほどけ、思わず微笑んだ。
突然ゴオッゴオッという、野太くて薄気味の悪い音がした。水に浮かんだ睡蓮の葉陰から聞こえてくるところをみると、ウシガエルかもしれない。雄介の横にしゃがみこんで、蟻の行列をしばらく眺めた。
何の気なしに顔をあげたとき、こちらに向かって走ってくる男の姿が目に入った。驚いたことに、灰色のシャツの胸の辺りがどす黒く染まっている。まるで血を流してるみたい。一瞬そう思ったが、すぐに打ち消す。あれが血だとしたらものすごい大怪我で、とても走るなんてできやしない。きっと何かこぼしただけなのだろう。
男は林へ向かって走ると薄暗いトイレに入っていった。背中にたすき掛けした黄色のバイシクルザックが、視界からふっと消えた。
今日は変な日だと思いつつ、さっきの出来事についてあらためて考えた。あの若い男の人だって別に悪気があったわけじゃないのかもしれない。ちっちゃな子どもがいたから、かわいいと思ってつい飴玉をあげただけなのかも。
次の瞬間、息が止まりそうになった。ある考えが脳裏に浮かんだからだ。あまりにばかばかしい考えにも思えたが、いまの敦子に笑って否定するだけの心の余裕はなかった。立ち上がった敦子を、雄介が不思議そうに見上げている。
飴? まさか、あの男……。
嫌な考えを振り落とすために頭を振り、さっきの男が消えた方に目をやる。高い梢の先に、緋色の飛沫を飛び散らせながら、いままさに夕陽が沈もうとしている。森の背後には、昼なお薄暗い森がおおいかぶさり、その向こうには白く巨大な建物がそびえ立っていた。
敦子の背中を冷えた何かが滑り落ちてゆく。雄介の手を握って立たせ、歩き出す。目の前にうっすらと靄がかかってくる気がした。雄太がさっきの怖い出来事を思い出して、夢でうなされなければいいけど。そう考え、すぐに否定した。
今夜うなされるのは雄介じゃなくて、きっと私だ。
● 修三 午後四時二十分
「まずった」
電話の向こうでアキラが言った。声にはいつもの人を小馬鹿にしたような調子はない。
「まずったって、何が」
「もしかしてドジったかも」
「だから、何がだよ」
「現場に大事なもん忘れてきた気がする」
気が焦っているのか電波の具合が悪いのかわからないが、言葉が聞きとりにくい。こっちはハンズフリーだからいいが、運転しながらの車内電話は注意力散漫になりがちだ。
だらだらと話す相手に苛立ちって怒鳴った。
「まさか、証拠になるような物を残してきたわけじゃないだろうな。だとしたら、おまえ」
「うるせえ、黙ってろ!」
突然、アキラの大声が鼓膜に突き刺さった。頭蓋骨の内側を一周して、耳から出ていった。
黙ってろだと?
「私に向かって言ってるのか、おい?」
「あ、いや、違うんだ。黙ってろってのはこっちの話で……ごめん、ちょっと待っててくれるか?」
訳がわからない。いっそ電話を切ってやろうかとも考えたが、ドジったという言葉が引っかかり切るに切れなかった。電話の向こうでアキラの怒鳴り声はつづいている。どうやら電話しながら他の誰かと話して、というか怒鳴り合っている気配だった。
あのバカ、いったい何してやがる。二人とも急いで戻らなくちゃいけない、こんな大事なときに。思わずハンドルを左手で叩きつけた。
と、次の瞬間、信号が赤に変わったのを危うく見逃しそうになって、修三は慌ててブレーキペダルを蹴った。身体が前につんのめる。ふうっと息を吐き出すと、ふたたびアキラの声が聞こえた。
「やっべえ」
聞き返すのに疲れたので、つづきの言葉を待つ。
「ごめん、おれやっちゃったよ。あいつ、死んじゃったかも」
「死んだ?」
アキラの話はいつまでもさっぱりつながらない。そのとき、背後からクラクションを鳴らされた。気がつくと目の前の信号は青に変わっていた。
「もっとわかるように話せ、ばか野郎!」
怒鳴ると同時に修三は車を発進させ、ハンドルを左に回した。歩行者が横断歩道を向こう側から渡ってくる前に、信号を抜けてしまおう。そう思ってアクセルをぐいっと踏み込んだとき、車の左に何かがぶつかり、直後、ドンと鈍い衝撃音が車内に響いた。
「あ!」
ブレーキを踏もうとしたとたんに、左の後輪辺りからゴリゴリと音がした。何か大きなものをすり潰すような、嫌な音が足元から伝わった。
急ブレーキをかけ、ドアミラーで左の後方を見た。首筋から背中にかけて全身の血が、ざーっと音がするほどの勢いで下へ降りていった。
横断歩道に何かが転がっていた。
迷ったのは数秒で、修三の右足は蹴り飛ばすような勢いでアクセルペダルを踏み込んでいた。頭の中はまっ白だった。
● 絹江 午後四時二十五分
「だから、何言ってるのかわからないって」
歩きながら声を押し殺して絹江は言った。もう何が何だかわからなくて、叫び出したくなった。
電車を降りて改札を抜けたところで着信音が鳴った。番場修三からだった。電話で話してる場合じゃなかったが、ついボタンを押した。悪い予感がしたからだ。案の定、番場の話は支離滅裂でまるで要領を得ない。切るに切れずに受話器を耳に当てつつ、地下鉄の階段をのぼり、地上へ出た。
携帯を当てた耳がじっとりと汗ばんでくる。どうして気でも違ったみたいに暑い日がつづくのだろう。仕事仲間は興奮して、聞きとれないようなことばかり口走っている。もうおしまいとか身の破滅とか、意味のわからないことばかりしゃべってくるから、こっちの頭までおかしくなりそうだ。
「やっちまったんだよ」
「だからいったい何をしたっていうんだい」
電話の向こうの番場は、やっちまったやっちまったと呪文のように繰り返すばかりで、いっこうにらちが明かない。仕事の腕はいいのだが、番場にはどうも打たれ弱いところがある。仕事以外で番場と付き合うつもりなど毛頭ないが、このまま電話を切るわけにもいかない。もしそれが今日の仕事に関する重大な過失だったとしたら、それはすぐさま我が身に降りかかってくることになる。
絹江はしきりに舌打ちを繰り返しながら足を速めた。とにかくいったん家に戻る。それから例のマンションへ集合することにしよう。
「まずは落ち着いてくれないかしら? 深呼吸を三回してちょうだい」
絹江は静かに言った。番場に対してというよりは、怒りで血管がぶち切れそうな自分自身をなだめるために。受話器から律儀に三回息を吐き出す音が聞こえた。まったく、馬鹿を付けたくなるぐらいまじめな男だ。
「どう? 少しは落ち着いたかしら」
しゃべり方を良家の奥様風にしたのが功を奏したらしかった。絹江はその場その場で、どんな役割でも演じることができる。
「ああ、落ち着いた。でも落ち着いてきたら、さっきよりもっと怖くなってきた」
「詳しく話していただけない?」
「発端はアキラが電話をよこしたことだ。あいつが悪いのさ。あの電話さえなければ、おれはあんなことにならなかった。わかるか? 悪いのは電話をかけてきたアキラなんだ」
「それはわかりました。それで何をどうやっちゃったのかを話しておくれでないかい?」
良家の奥様にしては言葉が変だなと、絹江は自分で思った。
「おれは車を運転していた。自分の家にいったん戻ってから、シャワーでも浴びて一息ついたら出かけようと思ってた。正直、一仕事終えてほっと指摘が緩んでたのは確かだ。そこにあいつから電話が入った。最初は何を話してるのか、さっぱりわからなかった。どうにか様子が掴めてきたとき、信号が突然赤に変わったんだ」
突然赤に変わる信号などあるわけがない。赤の前は、黄色に決まっている。だが絹江はあえて突っ込まなかった。そんなことをしたらようやく道筋が見えはじめている話が、さらにどツボにはまるに決まってる。
「アキラが、ちょっと待っててくれっていうから、仕方なく待った。そうしたら今度は急に信号が青に変わったんだ。で、慌ててアクセル踏み込んだとたんに、人間が……」
急に青に変わる信号などあるわけがない。青の前は必ず……いや、青に変わるのは急でいいんだったっけ?
この直後、我が身に起きた出来事を絹江自身が苦々しく思い出したのは、ずいぶんあとのことだった。