世界の裏庭

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『事件家族』第3章(完結まで一挙公開)

   【第三章】大嶽修二事件      1  波間に浮かんでいるときだけ、シオンは自分が本当の自分に戻れたような気がする。  遠くに高い煙突が見えた。赤と白のしま模様のかわいい煙突で、煙が空へ吸い込まれてゆくのを眺めていると気持ちが和む。好きな風景だった。  シオンはサーフボードに乗って波を待っていた。暖かく穏やかな日で、こんな日はあまりいい波が立たないのだけど、海にくれば少しは気が晴れるのではないかと思ったのだ。  事件から何日かたった、日曜の午後である。  浜辺にはちらほらと人の姿があった。サーフィンをする恋人を待つ、二十代の女性が多かった。  そんな華やかなギャラリーから少し離れた場所に、明らかに場違いな人がいてたばこを吸っていた。刑事の大嶽さんだった。  刑事さんって暇なのかなあと、シオンは柔らかな陽射しを背中に受けながら考えている。  日曜日は、午前中だけ森たばこ店の店番を手伝って、昼過ぎからサーフィンをするのがいつもの習慣になっていた。  伯母と——正確にいえば大伯母だが面倒なのでそう呼んでいる——そういう約束をしている。若いうちから家のお手伝いをする習慣を身につけるのはとても大切なことだよ、という伯母の言いつけを守っているのだ。  もうすぐ店番が終わるというころに、珍しいお客さんがやってきた。警察に保護されたあとで、詳しく事情を聞かれた刑事さんだと知って驚いた。  大嶽さんは、近くまできたからたばこを買いにきたと言った。変わった銘柄のたばこで、近所のコンビニで売っていたのだが、最近扱うのをやめて手に入らなくなったという。陽平のことで草壁さんの家へきたとき、この店で売っていたのを思い出してわざわざきてくれたらしい。  カートンで二つ買うと、大嶽さんは店先で吸いはじめた。あれこれと話しているうち、シオンがこれから海へ行くつもりだと何気なく口にしたら、ぜひ見てみたいのでついていってもいいかと言われたのだった。  おじさん連れでサーフィンかと思ったけど、断るのも悪い気がして承諾した。監禁場所がわかったのは大嶽さんのおかげだと聞いていたので、シオンにとっては恩人でもある。大嶽さん自身も自然が好きで、中でも鳥を見るのが趣味だと言っていた。  いつもは自転車で海までくるのだが、そんなわけで、今日は車に乗せてもらってきていた。  一時間ほどして浜辺へ戻ると、大嶽さんはいつの間にか寝転んでいた。ジャケットの背中が砂だらけだったから、シオンはていねいに払ってやった。 「どんなふうにやるんだろうと思って見てたけど、あんまり誰も波に乗ろうとしないんで、そのうち眠くなってきちゃってね」 「ごめんなさい。今日はすごく波が穏やかで、こんなときはほんとにどうしようもないの」 「波乗りは、波がなくちゃできないもんな。あまり天気がよすぎてもだめ、少々天候が荒れてるぐらいのほうが面白いってことか」 「サーフィンをやる人は天気予報を気にして見てるし、ラジオの気象通報とか天気図で情報を集める人も多いみたいですよ。これぐらいの低気圧だと、大きくていい波が立ちそうだとかいって」 「その辺は、山登りする人間と同じってわけだ」  シオンは仙台近郊にはいい波が立つサーフポイントが多いこと、大会なども開催されていることなどを話した。 「ベタ凪だと、見える風景にも変化はないということになる」  大嶽さんは指でこりこりと首をかくと、自分に言い聞かせるようにつづけた。 「でっかい台風でも起こせば、海の水もかき回されて、底のほうから何かが浮かび上がってくるかもしれない」  台風を起こす? 意味がよくわからなかったが、大嶽さんの横顔はひどく真剣だった。 「犯人の石黒のことは、その後聞いてるかい?」  唐突に話が変わり、シオンの心臓がどくんと跳ねた。 「いえ、入院してるとだけは聞きましたけど」 「仙台空港で石黒を発見したんだが、相手に気づかれたんだ。逃走されたら大変なことになると思って追い詰めたせいで、やつは二階から噴水に飛び降りたんだよ。頭のけががひどくて、意識はまだ戻ってない。だから今回の事件の詳細に関して、本人の口から明らかにされていない」 「でも、だいたいはわかってるんですよね。それとも犯人が話してくれないと、事件は解決したことにならないんですか?」 「いや、解決したことにはなるだろうね。警察でいろいろ調べて、時間をかけて作成した書類を検察へ送って、立件されれば裁判になる。つまり事件としては、解決というかたちにはなる」  奥歯にものがはさまったような、はっきりしない言い方だった。 「石黒から供述がとれて、犯人しか知り得ない事実の暴露があれば完璧なんだけどね。でもまあ、石黒が今回の事件の真犯人であることに疑いはない。ただ」 「ただ?」 「なんというか、物足りない」 「事件は解決したのに?」 「おれは犯人自身の言葉で、すべてを聞いてみたいんだよ。大筋のところで事件の流れは掴めているし、警察の立場としては納得もできる。でも、個人的にわからないところが残ってるんだ。わからないというよりは、気になっている疑問といったほうがいいかもしれない。だからあの事件は、おれの中ではまだ完全には解決していない」 「警察としては解決してる。けど、大嶽さんが個人的に気になる謎が、残ってるわけですか?」 「上司にも話してみたんだが、そんなものは大して重要じゃないだろうって言われたよ。理屈ならどうにもでつけられるから、それもしかたのない話でね。どこかしっくりこないとか、これがこういう具合におかしいとはっきり指摘できればいいんだが、なんとなくと表現するしかないような」  シオンが首をひねると、大嶽は小さく笑った。 「たとえていえば、十割る三という割り算に似てる感じかな。答えはいくつ?」 「三、余り一」 「そう、その余り一なんだ。どうにも割り切れないというのか、すっきりしない感触が残ってる」  大嶽は砂を手ですくい、下へと落とす動作をくり返している。何度も手を握ったり開いたりしながら。 「事件としてはしっかり把握できている。作業小屋からは物証も発見されているし、廃屋から石黒の指紋も検出された。何より、拉致されていたきみの証言と合致してる。問題はないはずなのに、でも何かこう、しっくりこない」  大嶽はそれきり黙りこんだ。  わからないという点が何なのか、シオンにはわからなかった。だからなおのこと気になってくる。  しばらく待ったけれど、何も言い出しそうにないので尋ねてみた。 「石黒という人の意識は、戻りそうなんですか?」 「今朝も病院へ行ってきたんだが、石黒の容態は少しずついい方向に向かっているようだ。いまのところまだ意識は戻ってないけど、すでに集中治療室から一般病棟に移されたそうだ。医者の話だと、今夜が峠になると」 「今夜……」  大嶽は水平線を眺めていた視線を、シオンに向けた。 「今夜を無事に乗り切りきってさえくれれば、あとは快方に向かうと考えられる。うまくいったら明日にも意識が戻って、供述をとれる可能性だってある。石黒が快復してくれるのが、いまいちばんのおれの願いだ。警察全体の願いでもあるがね。つまり、事件の全容が完璧に解明できるかどうかは、すべて今夜一晩にかかってるわけさ」  大嶽さんはがっちりした身体つきのやさしそうな人だけど、ときどき目つきが鋭くなる。心の奥まで見透かされてしまうような視線に、シオンは思わず目をそらしてしまう。  話を聞いていて、シオンは複雑な気持ちだった。犯人は憎い。あんなやつ死んじゃってもいいと感情的に考えている一方で、意識が戻って事件のことをすべて話してくれれば大嶽さんも安堵できるだろうに、とも思う。  シオンには、秘密にしていることがあった。  大嶽さんに家まで送ってもらってから、シオンは近くのファミレスへ行った。ひとりで考えてみたかった。ドリンクバーの紅茶を飲みながら、胸がちくちく痛むのを感じていた。小さな罪悪感だった。  シオンは、大嶽に隠していたことがあった。  警察に保護されて話を聞かれたあと、犯人の石黒がどんなふうにして草壁さんから身代金を受けとったのかを教えてもらったときのことだ。  お金を受け取る方法と、逃走ルートを聞いたシオンは(あれ?)と思った。  陽平の狂言誘拐について計画していたとき、陽平と二人でどうすればお父さんとお母さんが離婚しないですむのか、あれこれとアイディアを考えた。  最終的には、思い出の場所を二人でドライブしてもらう案に決まったが、最初に考えていたのは、結婚指輪をどこかに持ってきてもらう計画だった。陽平君を人質にした狂言誘拐にして、結婚の記念品であるはずの結婚指輪を、身代金代わりに受けとろうと考えたのだ。  結婚したときのことや、陽平が生まれたときのことを思い出させるために。家族が幸せだったころのことを思い出してもらうために。  でも、やめた。子どもを人質にして高価な物を要求したりすれば、本物の犯罪になってしまうと考えるぐらいの分別はあった。シャレにならないよなあと思ったから、結局犬のチャンプを誘拐して、陽平君が家族で行った場所で好きなところへ二人で行ってもらったのだ。  ただ最初の計画について、シオンはその後もあれこれと考えた。映画や小説が好きで現実逃避癖があるシオンにとって、架空の犯罪計画を練るのはすごく楽しいことだった。考えはじめると妄想が止まらなくなった。  結婚指輪を本当に受けとるとしたらどうすればいいか、自分が本当にその立場だったらどんなふうに逃走するかについて、面白半分だったけれどもかなり本気で考えたのだ。まるで自分が映画の脚本家になって、シナリオを練っているような気分になれた。  でも狂言誘拐が終わったとたん、考えたことすら忘れてしまっていた。今回の事件のあとで、警察の人から聞かされるまでは。  石黒が実行した犯罪の中身は、シオンが考えたアイディアとよく似ていた。というか、そっくりだった。  橋の上から指輪の入ったバッグを落とさせて、川に落ちたところを水上バイクで拾う。シオンが考えていた川は、サーフィンでよく行く海岸に近い七北田川だったのだけど、現実の事件では名取川に変わっていた。しかし二本の川はすぐ近くを流れている。  初めて聞かされたとき、自分の頭の中身がそっくりそのまま現実と置き換わってしまったみたいな、すごく奇妙な感覚に襲われた。  このことは大嶽さんには言わなかった。言えなかった。  もしも自分が考えた計画が、実際の犯行と似ていると警察の人が知ったら、何かとてつもなく怖ろしいことが起きてしまう予感がした。  いや、予感じゃない。きっとそれは現実になる。  偶然の一致だなんてとても考えられないから。思い当たるふしが、ひとつだけあるから。  わかっているからこそ、さっき大嶽さんと話しているときに胸がちくちくと痛んだのだ。  陽平君の家に脅迫電話をかけたとき、なぜ英語だったのかと大嶽さんは聞いた。じつは最初に電話したとき、やっちゃんが近づいてきたのだ。だから会話の内容を聞かれまいとして、シオンはとっさに英語で話したのだった。とっさに変えたのは事実だけれど、緊張したからという理由は本当ではない。  この話をすることで、大嶽さんが石黒の事件とやっちゃんを結びつけてしまうのが怖かった。  大伯母夫婦の前では、やっちゃんの話は禁句だった。お父さんと息子の仲が悪いから、大伯母は間に入ってずいぶん苦労をしている。シオンの目から見ても、やっちゃんは仕事も長続きせず、お世辞にも勤勉とはいえない。でも自分にとっては面倒見のいい、やさしいお兄ちゃんだ——。  日曜日の午後の店内で、シオンは人に話せない秘密を抱えていた。紅茶はまだひと口も飲んでいない。時間がたてばたつほど、不安がむくむくと膨れあがっていくのがわかる。  二時間ほど悩んだ末に、決心した。  いま頼ることができる唯一の存在は、大伯母の小夜だけだとシオンは思った。小夜に打ち明けるしかない。苦しくて辛くて、これ以上、自分ひとりの胸にはしまっておけそうになかった。      2  事件から四日がすぎていた。  鹿野シオンを送り届けたあと、大嶽は署へ戻った。机の上に山積みにされている事件関連の書類を眺めてうんざりしたので、コーヒーを一杯飲んでからにしようと休憩室へ向かった。  事件の後処理に忙殺されていた大嶽が、わざわざ合間を縫って彼女のところへ足を運んだのには、ある目論見があった。  警察としての事件は、たしかに収束したかに見える。捜査本部はもう解散だろうし、あとは担当者が物証や書類をまとめる作業が残っているだけだ。石黒が死亡したとしても、被疑者死亡のままで書類送検できるし、起訴も確実だろう。  しかし大嶽の中では、まだ解決していない。俺の事件としては、まだ終わっていないと思った。  休憩室へ行くと細野がいた。彼も事件の書類書きが残っているらしい。業務連絡をかねた雑談を交わしながらコーヒーを飲んだ。  ふと思い立って、大嶽は尋ねた。 「細野、おまえ絵は好きか?」 「絵ですか? すみません、そっち方面はうといです」 「俺も別に絵画鑑賞が趣味ってわけじゃないんだが、うちのかみさんが好きでな。俺の仕事が休みの日なんかに、たまたまいい展覧会があったりすると無理やり連れていかれる」 「大嶽さんとこは、夫婦仲がいいですからねえ」  細野がにやにやと笑う。大嶽は無視してつづけた。 「だからそれなりにたくさんの絵は見てきたつもりだが、最近自分に癖があると気づいた。どうも偏ってるらしいんだな」 「絵の見方がですか?」 「かみさんの評によれば、そうなる。絵の見方にも最低限の基本ってのがあって、ぐっと近づいて見たり、少し離れて全体を見たりするらしいんだな。ところが俺の場合、間近で見ることにしか興味がない。離れた場所から眺めて、全体的な構図とか雰囲気とか、そういうのはほとんどどうでもいいんだよ。ただただ、絵の細部だけが気になってしかたないのさ」 「大嶽さんって、そんなに繊細な性格でしたっけ?」 「今度の事件を一枚の絵だと考えれば、構図もテーマもはっきりしてる。犯人の石黒から供述がとれなくたって調書が作れるぐらい、全体像は見えてる」 「たしかに、わかりやすいといえばわかりやすいです」 「そう、わかりやすい。だが俺としては大きな流れより、細部が気になってしかたないんだよ。絵を見るときと同じで。去年、東京の上野でフェルメール展ってのがあって、見に行ってきたんだが」 「わざわざそれを見るためだけに、行ったんですか」 「かみさんに無理やり付き合わされたのさ。別にフェルメールが好きなわけじゃないが、物珍しさもあった。フェルメールの絵を見ると、いちばん最初に目に飛び込んでくるのが青だ。それぐらい印象が強い色なんだよ。フェルメール・ブルーと呼ばれてるらしくて、ラピスラズリをすり潰して顔料にしていたそうだ。ようは宝石を絵の具として使ってるわけで、フェルメールが莫大な借金を残して死んだのはそれが原因だという説があるほどだ……と背景が見えてくると、がぜん面白くなってくる」 「はあ、なるほどねえ」  細野の相づちは明らかにお愛想だった。相手が絵の話に興味を失っているのはわかっていたが、大嶽は話をつづけた。人に語って聞かせることで、自分自身の頭を整理しようとしている。 「『牛乳を注ぐ女』のエプロンも、『真珠の耳飾りの女』のターバンも、どちらも青が強く印象に残る。そこで二枚の絵を読み解く共通の鍵を、青色と仮定してみる。今回も、そうだ」 「今回?」  神は細部に宿る。細部を見つめ、読み解く鍵を探し出せと、もうひとりの自分がささやきかけている。  最初の陽平の出来事、そして鹿野シオンの拉致事件。二つの出来事の間に関連性はない。両方に関わった人物はいるが、本来この二つは、まるで関係のない別ものだったはずだ。  別々の犯人による、別々の事件——。  二枚の絵画がある。異なる作者が描いた、まったく違う絵だ。その二枚の絵の中にかすかな違和感を覚えて、細部を凝視した。そしていま、背後に隠れていた別の何かが見えてきつつある。  そんな感じがした。  上司にも同僚の刑事たちにも、このことは話してはいない。もともと個人的な違和感に端を発しているから、理屈で説明できる自信などなかったし、大嶽の思い込みにすぎない可能性もある。  だから、小さな罠を仕掛けてみた。  答えが出る確率は低そうに思えたが、このままみすみす何もせず永遠の疑問になってしまうのは我慢できなかった。風が収まったように見える凪いだ海でも、大きな嵐でふたたび荒れれば、海底に沈みかけていた何かが浮かびあがってこないとも限らない。  気づいたときには細野の姿はなかった。草壁は紙コップを捨てて部屋へ戻ると、急いで書類をまとめにかかった。      3  森小夜は、若い時分からたばことお酒でコツコツと商いをつづけてきた。  商品棚の前に座ったまま、さほど広くもない店内をあらためてぐるりと眺めてみる。たばことお酒は、どちらも値の張る商品ではないから、扱う金額も大きなものではなかった。  けれども、長く商売してきた中でそれなりの財産もできていた。父親から譲り受けたが、小夜も十代から手伝ってきた店である。小夜が結婚してからは、夫の孝が飲食店に卸す仕事を増やしていき、規模も大きくなっていった。  当時はまだ土地神話が生きていたころで、儲けが出たら金で持っているより土地を買えと、商売のイロハを教えてくれた父はよく口にしていた。だから小夜は父が亡くなってからも、言いつけを忠実に守って少しずつ土地を買い足してきた。  まとまった広さが確保できたとき、夫の孝と相談してアパートを建てた。建物が完成したときのよろこびは、いまも忘れていないぐらいだ。  その後、もう一棟アパートを建てることもできた。若い夫婦者や学生たちが暮らすのにちょうどいい間取りの、あまり家賃を高くしないですむものにしたかった。若い世帯の入居者がほとんどだったから、仲介手数料の負担をかけずにすむよう、できるだけ不動産屋は介さずに、直接学校に頼んだり人の紹介で店子をまかなってきた。  家賃の銀行振り込みが普通になってからも、毎月の振り込み手数料はばかにならないだろうと考え、毎月孝が集金に回っていた。振り込みも選択できるようにしているが、ほとんどの住人がいまも集金を選んでいる。  アパートの管理をまめにやってくれているのも孝だ。いまとなっては少々古めかしい建物だが、手入れの行き届いた住み心地のいいアパートだと、小夜は誇らしく思っている。  いつも満室というわけにはいかないが、それで構わなかった。自分たちが所有しているアパートの各部屋で、若夫婦が赤ん坊をあやしていたり、若者が友人と話したりしているようすを考えると、それだけで心が満たされるような心持ちになった。  小夜は結婚してからも、長い間子どもができなかった。自分は子宝に恵まれないたちなのだろうと諦めかけたころ、ようやく授かったのがひとり息子の安明だった。当時としてはかなりの高齢出産で、出産の際には産科医のほかに産婆さんにも立ち会ってもらって、母子に万が一のことがあった場合は、すぐに救急車を呼べるよう段取りをして産んだ子だった。  だからだろうか、すべてにおいてきちんと筋の通ったことを好む小夜だが、唯一、安明だけには甘い。  安明は三十歳をすぎているが、フリーターというのか、一昔前ならばぷーたろうと呼ばれてもおかしくない暮らし向きである。会社やアルバイトも長つづきせず転々として、働こうという意欲もあまり見られない。いまだに遊ぶことばかり考えている。  母親の目からはこらえ性がないように見えるし、臆病なところのある息子だが、いちばんの悩みの種は、夫の孝と極端に仲が悪いことだった。  思いあたる原因はある。  四、五年前、所有しているアパートの土地に、大規模ショッピングモール建設の話が持ち上がった。安明は大よろこびして、せっかくのチャンスだからアパートを壊して売り払うべきだと主張した。  小夜はかたくなに拒んだ。土地もアパートも自分の人生の、働きづめだった夫婦の結晶だと思っていた。夫の孝は当初迷っていたが、あまりに安明が売れ売れと言いつのるため、息子への意趣返しのつもりか売却しないと言いはじめた。  お金はいくらたくさん入ったところでいつか使い切ってしまうが、アパートは残る。建物はなくなったとしても、土地は残る。  結局ショッピングモールの話は立ち消えとなり、少し離れた場所で開業することになった。どんなに息巻いたところで土地建物の所有者は孝と小夜なのだから、安明としてはどうしようもなかった。  安明と孝の間に険悪な空気が流れるようになったのは、そのころからである。その数ヵ月後に家を出てひとり暮らしをするようになったのだが、いまでも小夜と会うとたまに恨み言を言う。親の心子知らずという言葉の意味を、そんなときに小夜は痛感させられる。  孝が怒り出すので秘密にしているが、小夜はときどき安明に金を渡していた。三十過ぎの息子だと考えると情けなくなってくるが、毎日夫と子どもの間に入って気を揉む生活よりは、別々に暮らしてもらうほうがよほどいい。  シオンが一緒に住むようになってからは、気持ちに張りがでた。かわいそうな身の上の娘ではあるけれども、よくなついてくれている。波乗りをするものどうしだから気が合うのか、安明とはたまに会ったり話したりしているようだ。シオンは聡明な娘だから自分が置かれている立場を理解して、家族の仲介役を買って出てくれているのかもしれないと、小夜は内心思っている。  小夜には心配事があった。得体の知れない不安、と言いかえてもいい。  石黒という男が店に強盗に入った日のことは、いまも思い返すたびに心臓が痛くなるほど怖ろしい。しかし気がかりなのはそれではない。  あの日、森たばこ店の金庫には大金が入っていた。  二月から三月にかけては、一年でもっともアパートの出入りが激しい時期だった。家賃はもちろんのこと、敷金が入ってくる上に、部屋を出る人へ返却しなければならない敷金の残金もある。  それに加えて商売上の期末でもあった。口座からせわしく出し入れしないで、ある程度お金の動きが落ちつくまでは金庫で保管しておくのが、父の代からのやり方だった。  だからあの日は、まとまった金額が森家にはあった。常時入っている分と併せて、四百万円ほどが金庫に入っていたのだ。信用金庫に取りにきてもらう算段はつけていたが、それは数日後の予定だった。  石黒という男はまるで、一年でいちばんお金がある日だと知っていたかのようではないか。もちろん偶然かもしれない。  ただ、もしそれが偶然ではないとしたら、考えられる可能性はひとつだけだ。  息子の安明が、犯人に教えたのだ。息子を疑いたくはなかったが、考えられるのはそれぐらいしかなかった。小夜が邪推してしまう理由は、安明が大学時代に石黒と友人だったと警察から聴かされたからでもある。  事件が起きた当初は混乱していたし、小夜も大きな渦に巻きこまれた状態だったから、気づく暇もなかった。疑念が浮かんだのは、犯人の石黒が捕まったと聞いてホッとしたあとだった。  いや、そうではない。初めから薄々勘づいていたのかもしれない。  強盗に入られた日の夜、大嶽という刑事から金庫に大金があるかと尋ねられたとき、小夜は否定した。つまり嘘をついた。無意識のうちに、息子を疑っていたのだろうか。  警察に話そうかとも考えたが、確信がなかった。確信も持てないのに自分の息子を疑い、わざわざ警察に疑惑を抱かせる親はいない。  夫とはこの件について一度も話していないから、孝がどこまで察しているのか、考えているかはわからなかった。万が一事実だったらと考えるだけで、小夜は身もすくむような恐怖に襲われるのだった。身内の恥が世間様に知られ、息子の育て方を失敗した母親として烙印を押されてしまうに違いない。  だから石黒が仙台空港で警察に包囲され、逃げようとして重傷を負って生死の境をさまよっていると聞いたとき、内心ほっとした。頭と脳にひどいけがをしてずっと意識のない状態だという。何も言えないままでいてほしい、と思う。  真実かどうかなんて、うやむやなままでいい。口に出すのも怖いし、考えるのももういやだ。すべてこのまま闇の中に葬り去られてしまえばいい。  身勝手は承知の上で、小夜はそう願った。金庫の中のお金は手つかずのまま、シオンも無事戻ってきたいまとなっては、安明が事件と関わりがあったかどうかについて知りたいとは思わなかった。  あとは小夜の心の深い場所へ、そっと沈めておけばよい。  そんな精神状態だったから、波乗りから戻ったシオンから話を聞いたとき、小夜は心底驚いた。  シオンは刑事の大嶽さんと海岸で話をしてからも、ひとりでずいぶんと悩んだらしかった。シオンが思い惑う事柄の一部始終を聞かされている間、小夜の気持ちはざわめいていた。 「シオンも辛かったね。これ以上は心配しなくていいから、あとは伯母さんがすべてなんとかするから」  うん、と答えると、シオンは胸のつかえがとれたのか、涙をこぼした。鼻っ柱が強くて気丈なこの娘が、泣く姿を見るのは初めてだった。 「さあ、部屋へ戻ってなさい。今日の夕飯、何か食べたいものはある?」 「なんでもいい。どうせあんまり食欲ないし」  店の奥へ消えるシオンの後ろ姿を見送りながら、小夜は動揺を抑えつつ頭の中で整理しようと努めた。  二つあった。一つは安明のことである。シオンは、石黒がシオンを人質にとって身代金を要求し奪って逃走した方法が、自分がふざけて考えた計画によく似ていると言った。どうしてそんな悪巧みをあの子が考えていたのかは知らないが、少し変わったところのある娘だし、夢と現実を一緒くたにするようなところもあるから、面白半分で考えていたのだろうか。  しかしいちばんの不安は、シオンが計画を安明に冗談半分で話したと言ったことだった。事件のあとで小夜が何度か考えていたいやな想像と、ぴたりと重なる。  もう一つは、犯人の石黒のことだ。刑事の大嶽さんは、今夜が峠になると言っていたそうで、それを越えれば意識が戻って話を訊きだせそうだと話していたという。もし安明が今度の事件に少しでも関係しているのだとしたら、石黒という男がその事実を警察に話さないわけがない。  しばらく考えて、小夜は心を決めた。安明から直接話を聞く以外に、真実を知る方法はなかった。  石黒の意識が戻ってからでは遅いのだ。 「バカなこと言うなよ!」  安明は、顔を紅潮させてどなった。仙台の街中にある安明のマンションの一室を、小夜は訪ねていた。 「なんでおれが、石黒の犯罪に手を貸さなきゃならないんだ。そんなことしたって、おれにはなんの得もないじゃないか。それぐらい、少し考えてみればわかることだろう」  小夜は何も言わずに、息子の顔を見た。安明は顔をそむけるようにして窓のほうを見ていたので、表情は読めなかった。窓の外では、西の山に夕陽が沈みかけている。 「本当に、ほんとなんだね?。神さま仏さまに絶対に何もしてないって、誓ってもいいね?」 「同じこと、何度も言わせないでくれよ」 「お母さんは、その言葉を信じるからね。これでお父さんにも、安明は関係ないって言えるし……」 「どうしてあんなやつに、わざわざそんな事を報告する義務があるんだよ。関係ないだろう」  小夜は言い出しかねていた。それを口にしたとき息子の顔がどう変わるのか、それとも変わらないのか、想像できないからだった。 「もういいだろう。早く帰ってくれよ、おれはこれから友だちとめしを食う約束してるんだから」 「犯人の人が……」  ソファから立ち上がりかけた安明が、止まった。 「犯人って、石黒のことか。あいつがどうかしたのか?」 「意識が戻りそうだって、刑事さんが言ってたらしいの」  やはり言うべきではなかったかもしれないと、小夜は後悔していた。安明は明らかに動揺している。 「だってあいつ、死にそうだったんじゃないのか? それがなんで急に、意識が戻りそうになるんだよ。おかしいじゃないか」 「安明が何も関係ないのなら、ただの昔の友だちだというだけなら、石黒という人の意識が戻ったほうがうれしいんじゃないのかい?」  安明が言葉に詰まる。立ちあがったソファにもう一度腰をおろし、両手に顔をうずめる。  肩が小刻みに震えている。 「もうだめだ。そうなったら、おれは終わりだ」  安明の告白を聞いて、小夜は全身から血の気が引くのを感じた。  石黒が森たばこ店の金庫に大金がある日を知っていたのは、自分が教えたからだと安明は言った。それだけならば、まだ身内のお金を巡るトラブルで収めることも可能だったかもしれない。  決定的だった。安明は、自分が身代金の受け渡しや逃走ルートを、石黒にアドバイスしたと白状したのだ。  大嶽刑事が石黒の件で聞き込みにきた日の深夜、安明に大学時代の友人だった石黒から電話が入った。警察が聞き込みにきたと安明が告げると、彼は一度だけ会ってくれと言った。学生当時から石黒の頼みを拒否できない関係だった安明は、断り切れず会うことになった。  金を貸してくれと言われたが、安明にも金に余裕などなかった。そこで考えついたのが実家から金を奪う計画だった。  自分はもっと親から財産を分けてもらっていいとの思いは、ショッピングモール建設のときからずっとくすぶっていた。あんな古ぼけたアパートなど売ってしまえばよかった。そうすれば自分にだって、まとまった金が転がりこんできたかもしれなかった。  なのに親父の反対のせいで、ゼロだ。反目してきた親父の鼻をいつかあかしてやりたい気持ちもあった。石黒に金を奪わせ、取り分を分け前としてもらう権利が自分にはある。  話を聞いた石黒は、どうせ自分はすでに罪を犯しているのだし、何よりすぐにも金が必要だと請け合った。シオンがその日出かけているのをたしかめ、父の孝が不在である時間帯もわかっている。刃物を持った犯人に小夜が抵抗するとは思えないし、犯行後に石黒は逃走する手筈だった。問題なく事は運ぶはずだった。  なんと身勝手でひとりよがりな理屈だろうと、小夜は絶望的な気持ちで思った。これが三十をすぎた、世間では一人前といわれる年齢の男が考える内容だろうか。  しかしいまは絶望している場合ではなかった。 「十歩譲って、うちからお金を取ろうとしたのはわかった。でもそのあとシオンの身代金を奪う計画を、あなたが教えた理由がさっぱりわからない」 「だから石黒に脅されたんだよ。金が取れなかったのは、おまえのせいだって言われて」 「どうしてそれほどまで、石黒という男の言いなりにならなくちゃいけないの」 「学生のころからずっとそういう関係だったんだから、しかたないんだ。あいつ、いざとなると何をしでかすかわからない男なんだ。しかもそのとき初めて、どうやら人質にとられたのがシオンらしいって気がついた。でも最後まで、人質がおれの身内だってことは石黒には言わなかった。それだけは信じてくれ。だから人質に絶対に手を出さないと約束するなら、大金を確実に手に入れる方法を教えると答えたんだ。そうしなかったらシオンが何をされるかわからなかったし、最悪、殺される可能性だってあったんだ。それに、身代金を奪ったあとで石黒に逃げきってもらわないと、おれだって困るから」  いつかシオンを乗せて海へ行ったとき、安明は彼女に相談を持ちかけられたことがあった。ある人からすごく大事な物を受けとって、しかも相手には見つからないように逃げる方法はないだろうか、と。  あまりに突拍子もない話だったので面食らったが、シオンがあまりに真剣だったため、二人であれこれアイディアを出し合った。だんだん面白くなってきたのだが、最終的には、そんなことをすれば警察に捕まるという話になって終わった。  しかし安明はその後、計画を練る作業にしばらく没頭した。大事な物というのを金に置きかえて考えているうち、自分がすぐにも犯罪を実行して大金を手に入れられる錯覚に陥った。完璧な計画だという自信があった。  ただ、実行する度胸はなかった。その気もなかったし、あてもなかった。  石黒から女をさらったと電話がくるまでは。  安明には負い目があった。自分が石黒に森たばこ店の金庫の話を入れ知恵したことが、結果的にシオンの拉致につながったという自責の念だった。  拉致した女の子の名前が「草壁」シオンだと石黒から聞いたときは、わけがわからず首をひねった。勘違いをしているらしいとは思ったが、よけいなことを言ってシオンの身に危険が及ぶのが怖かったから、知らないことにした。  ただ、人質にだけは手を出すなと釘を刺した。シオンの両親は離婚している上にどちらも仙台には住んでいないから、金の工面は孝と小夜がすることになるはずだと考えた。安明には金を渡そうとしない孝や小夜でも、シオンの命がかかっていれば出さざるを得なくなる。なぜなら息子である自分より、遠縁のシオンのほうをかわいがっているからだ。  安明はシオンを妹のようにかわいがっていた。シオンが自分の血縁だと知れば、石黒は何をするかわからない。暴行するかもしれないし、最悪口封じのために殺害する可能性も考えられた。  だからシオンを無事に救い出すために、身代金の強奪計画と逃走ルートを教えた。安明はシオンが家にきてしばらくはサーフィンに付き合っていたが、体力がつづかず途中から中古の水上バイクを手に入れて遊んでいた。海辺にある知り合いの小屋に置かせてもらっていた水上バイクを、事前に用意しておく計画だった。 「結局、金は石黒に全部持っていかれた。冷静に考えれば予測できたことさ。あいつは犯罪者なんだし、おれは最後まで素人だった。甘かったんだよ。石黒がエスカレーターから飛び降りようとして頭蓋骨を折ったと聞いたときは、正直ほっとした。これでもうあいつに脅される心配をしなくてすむし、おれがあの事件に少しだけでも関わっていたと、警察に知られなくてすむから。けど、なんでいまごろになって意識が戻りそうになってるんだよ。ひどい脳挫傷で命も危ぶまれてるってニュースでやってたから、死人に口なしだとばかり思ってたのに……」  肚を決めた小夜は、静かに、しかし毅然として言った。 「罪を償いなさい。明日の朝まだ犯人が生きていたときは、警察へ自首するんです。お母さんは、いつまでもあなたを待っていますから」  安明はうつむいたまま、暗い目でじっと床を睨みつけていた。      4  大嶽は、病院の入院病棟の一室にいた。犯人の石黒、そして草壁も入院している病院だった。  夜の八時三十五分。面会時間は九時までだから、残された時間はあと三十分しかない。  大嶽が身を隠しているのは、石黒洋太郎と名札がかけられた病室のはす向かいにあるカンファレンスルームで、あらかじめ看護師に使用を願い出ていた。当直の看護師たちには、ひとつ頼み事をしてあった。  部屋の電灯は消してあり、暖房もつけないままの状態で三時間近くが経過していた。足元からしんしんと冷えがあがってくる。  仕事帰りに見舞いにくる人も多いのか、夜七時をすぎたあたりから廊下を行き来する人の数が増えはじめた。入院患者も見舞客もひそひそと話しているから、あまり騒がしくはない。  数時間前、署で書類書きをしていた大嶽に病院から連絡が入った。すぐさま病院へ急行し、以来ずっとここに張りついていた。  ドアを少しだけ開けた薄暗がりの中で、さっきから何度も同じ内容をくり返し考えつづけていた。頭の内側にべったりと張りついたまま、剥がれようとしてくれない疑問についてだった。  なぜ犯人の石黒は、さほど金があるとは思えない森たばこ店に押し入ったのか。  なぜあれほどの短時間で、結果的には逮捕されたものの、計画して実行できたのか。  なぜ石黒はシオンを殺害しなかったのか。危害をくわえず、暴行もせずに。  なぜ石黒はシオンの監禁場所を暗示するようなことを、わざわざ最後に教えたのか。  事件が終結したいま、これらの疑問が解消されなくても大きな問題はない。石黒が犯人である事実は疑いもないのだし、人質の身柄も無事保護され、奪われた現金も手つかずで戻っていた。大嶽が感じる疑問にもそれらしい理由づけをしようと思えば、いくらだってできる。すべて結果オーライ。  だが、大嶽は何かしっくりこないのだ。そんなこんなをあれこれ考えているとき、ある事実に気がついた。  自分の疑問はすべて、鹿野シオンと結びついている。  陽平の狂言誘拐で、どうして英語で脅迫電話をかけたのかを尋ねたとき、シオンは嘘をついていた。何かを隠しているのはわかったものの、内容までは推測しようがなかった。思春期の女の子だから、強引に押していったところで素直にぺらぺら話してくれるとも思えない。  だから一か八か、罠を仕掛けた。  鹿野シオン本人を疑っているわけではない。シオンが気づいているかどうか別として、彼女の比較的身近なところにいる誰かが、鍵を握っているのではないかと考えたのである。  その誰かがもし病院へくるとすれば、石黒が快復して警察に供述されては都合が悪いと判断した人物、ということになる。何かが露見してしまうことを恐れ、口を封じようとするために。  携帯電話の時計で、時間を確認した。デジタルの数字は、八時四十二分を示している。面会可能な時間はすでに二十分を切っていた。  どうやらこの賭けは、俺の負けだったらしい。大嶽はそう思った。というより自分が感じていたあの違和感や疑問そのものが、ただの思い込みだったのかもしれない。  描かれた二枚の絵を見つめているうちに、背後に見えてきたような気がした絵は、それ自体が幻想だった。  鍵を握る誰かなど、初めから存在してはいなかったのだ。  自嘲的な気分に襲われ、諦めかけたそのとき、廊下の向こうから近づいてくる静かな足音が聞こえた。      5  病棟の廊下には人の姿があった。  夜なのに、考えていた以上に人がいることにほっとした。目立つようでは、とても実行は無理だと考えていたからだ。  病室の名札を確認しながら、廊下を奥へと進む。  石黒、と名札のかかった部屋を見つけた。  もしかしたら部屋の近くで、警察の人が見張っているのではないかと想像していた。そうだった場合には引き返そうと決めていたが、気配はなかった。  見張っていてくれたほうが、つまり、これからしようとしていることができないほうがいいのかどうか、判断はできなかった。  この期に及んでもまだ迷っている。  隣の病室のカーテンが動いて、中から若い女性が出てきた。見舞客のようで、部屋の中に向かって手をふっている。  とっさに、左手にあったトイレに入った。鏡に映る自分の姿をなるべく見ないようにして、手を洗った。  これから汚れるであろうの自分の手を、あらかじめ清潔にしておきたかったのかもしれなかった。しかし汚れは永遠に落ちることはないだろう。  トイレの出口からそっと顔をだし、左右を窺った。人の通りが絶えた。  早足で、ななめ向かいにある石黒の病室へ入った。  個室だった。照明を落としているらしく、薄暗い。部屋のいちばん奥、窓際にベッドが置かれていて、頭部と顔を包帯でぐるぐる巻きにされた男が仰向けに横たわっていた。  人相は識別できなかった。そのほうが都合がいい。顔が見えないほうが、のちのちの苦しみが少しは軽減されるかもしれないから。  静かにベッドに近寄った。反応はない。眠っているようにも見えるが、昏睡状態のはずだ。  静寂の中、かすかに規則的な寝息が聞こえる。まだ生きている。  事前に考えていた方法を実行する。意識がないのだから、相手は身動きもできないんだから大丈夫と言い聞かせた。  人工呼吸器を口から外す。包帯のすき間から口と鼻が見えている。  一瞬躊躇したのち、ふとんを手を伸ばした。顔にかぶせてふさぐために。  突然、背後から声がした。 「何をしてるんです?」  息が止まりそうになる。驚いてふり返ると、部屋の入り口に、がっちりした男のシルエットが見えた。  カチリと音がして蛍光灯がつき、室内が照らし出された。 「どうして……あなたが」  男が絶句している。  と、ベッドから意識がないはずの石黒がむくりと上体を起こした。心臓が跳ねあがり、思わず悲鳴をあげた。  部屋の入り口に立っていた大嶽が、静かに言った。 「石黒は四時間ほど前に死亡したんですよ、森さん」      6  ベッドの横に立っていたのは、大嶽が予想もしていなかった人物だった。  森小夜は、ねじが切れた人形のように床へ座りこんだ。  大嶽はしばらく言葉もだせなかった。ふと我に返り、ベッドの上で目を白黒させている男に声をかける。 「すまなかったな、草壁。これで、すべて終わりだ」  包帯でぐるぐる巻きにされた草壁は、しゃべりにくいのか声を出さずにこくりとうなずいた。  同じ病院に入院していた草壁に、大嶽は石黒の身代わりを頼んでいた。巨漢の草壁を石黒の身代わりにするのは無理そうにも思えたが、肺炎を患って数日寝込んだせいでげっそりと痩せてしまったのが功を奏した。  病室の名札を石黒のものに差し替え、医師と看護師たちには今日一日だけ石黒の死亡を伏せておいてほしいと依頼した。一芝居打つことは、もちろん話してはいなかった。  少々危険なこの代役を頼んだとき、大嶽へのわが家からの恩返しだと言って、草壁は二つ返事で引き受けてくれた。  カンファレンスルームへ連れていくと、小夜は淡々と真相を話しはじめた。  息子の安明が、石黒の事件に深く関与していた事実を。父子の仲が悪く、このような事件に安明が関わっていると知れば、夫の孝は息子と親子の縁を切ると言い出すに決まっていた。そんなことにだけはしたくなかった。自分はばかな息子のために、人を手にかけようと意を決して病院までやってきたのです。本当にばかな母親です。  大嶽は急いで森安明の身柄を拘束するよう署へ連絡を入れてから、署に連行するため、森小夜のか細い肩に手を添えた。      7 「なぜ石黒は、さほど金があるとは思えない、森たばこ店に押し入ったんだ?」 「おれが、いまの時期だけは金庫に金があると教えてしまったからです。脅されて」 「あれほど短時間で計画して、実行できたのは?」 「おれが、時間をかけて練った計画ですから」 「なぜ鹿野シオンを殺害しなかった? しかも暴行もしないで?」 「大金を確実に手にする方法を教える交換条件として、人質には絶対に手を出さないよう約束させました」 「なぜ石黒は現金を奪ったあとで、わざわざ鹿野シオンの監禁場所を暗示するようなことを教えた?」 「それも、約束していたからだと思います。まだ寒い季節だから、監禁場所を早く警察に探しだしてもらわないと、シオンが弱ってしまうと思ったから」 「なぜ監禁場所が、日和山近くの廃屋だったんだ?」 「あのへんの海岸はいいサーフポイントで、シオンと一緒によく行ってて土地鑑がありました。それに石黒を安全に逃走させるには、捜査の目をまったく逆方向に向けた方が得策だと考えたんです」  筋が通っていると、大嶽は思った。  自分が感じていた疑問は、ようやく氷解した。森安明という第三者の存在が浮上して、大嶽が疑問に感じていた点に解答が得られた。  石黒は今日の午後、病院で死亡が確認されていた。あと一日やつが死ぬのが早かったなら、森小夜はあのような行動に出る必要もなかった。  そういう意味では本当に紙一重の差で、真相が明るみに出たことになる。森安明が事件に関与していた事実も表面化することはなく、真相は闇の中に永久に捨て置かれたままだったに違いない。  取調室にいるのは大嶽のほかに、森安明と細野だけである。深夜零時過ぎだが、事件の全体像ががらりと変わる事実だったから、明日まで猶予せずに一気に事情聴取をしてしまおうと決めた。  途中で一度、短い休憩をとった。ここのところ休みなしで連日深夜まで仕事をしていたせいか、すっかり頭の回転が鈍っている。  休憩室へ行くと、大場がいた。別の取調室で、大場が小夜の事情聴取にあたっていた。小夜はすっかり観念したらしく、素直に供述しているらしかった。  大場がいなくなってひとりになった。ほとんどすべての謎は解明された。大丈夫、これ以上はもう、何も気がかりはないはずだ——。  大嶽は頭の中のもつれた糸を、一本ずつほぐしていった。十五分ほどたったころ、大嶽はふたたび取調室へ向かった。  椅子に座ると、大嶽は目の前にいる安明に問いかけた。 「石黒に犯行計画を話すときのことを、もう一度聞かせてくれ。おまえはたしかこう言ったな。鹿野シオンが自分の血縁者だと知ったら、石黒が何をするかわからない。シオンを無事に救い出すために、石黒に大金を手にできる計画があると教えた、と」 「ええ、そうです」 「でも、それでは交換条件にはならないんじゃないのか? 石黒がシオンを殺さないようにするためには、おまえのほうも何か切り札を、自分の手の中に持っている必要があるはずだ」 「でも、大金を手にするためだと思ったから、石黒は殺そうともしなかったし、暴行しようとも考えなかったんじゃないですか。それにあの日の夜、石黒はおれの部屋へきてずっと一緒でしたから、そんなことをする時間の余裕なんてなかったと思いますけど」 「石黒が、おまえの部屋にきていた?」 「すみません、まだ話してませんでしたけど。石黒をシオンからできるだけ引き離そうと考えて、電話だけじゃどうしても教えきれないからと言って、深夜に部屋に呼んだんです。明け方まで打ち合わせして、仮眠しただけで監禁場所へ戻りましたから、ほかのことを考えたり実行したりする余裕はなかったと思います」  なるほど、と大嶽は思った。  細野に安明を留置場へ連れていくよう命じ、それからしばらくの間ひとりで考えに耽った。  石黒による森たばこ店強盗事件、そして鹿野シオン拉致事件は、大嶽の中でようやく解決を見た。  息子である森安明が関与した事実は消しようもない。だが母親の森小夜が起こした未遂事件は、大嶽が一芝居打った結果でもあるから、事情聴取と厳重注意だけですませるべきかもしれないと迷っていた。立件されたとしても、被疑者の年齢や事情が考慮されて情状酌量にはなるだろうが。  ばかな息子と、それを庇おうとしたばかな母親か、と大嶽は思った。それを愚かなことだと片づけることもできる。  しかし一連の出来事を見てきた大嶽には、それほど簡単に片づけられない気もした。家族にはさまざまなかたちがあるが、完璧なかたちなどはないのだ。正解などない。それが厄介だと思う。  そういえば、と大嶽は真夜中の取調室でぼんやり考えた。  草壁家の離婚問題はどうなったかな、と。      8  草壁が退院する日の朝、大嶽がやってきた。  出勤前に、顔だけでも出しておこうと思ったと言って、手にはケーキをぶら下げている。 「大嶽がリボンのついたケーキ箱を手にしてる姿も、なかなか気持ち悪いものがあるな」 「誰が草壁になんか食わせるか、聡子さんと陽平のぶんだ。おまえは絶対に食うなよ、これ以上カロリーは必要ない」  ひとしきりのの知り合いをしてから、大嶽が森安明の関与と小夜の件についてざっと話してくれた。草壁は一芝居打つのに手を貸したものの、大嶽たちは直後に署へ行ったため詳しい内容は知らされていなかった。 「なるほど、そういう裏があったとはな。さすがの大嶽にもそこまでは見抜けなかったわけだ」 「あたり前だ。すぐにそんなことがわかるぐらいだったら、捜査なんてする必要がない」 「でも大嶽の話を聞いて、いま思い出した。あのときもやもやしていた胸のつかえが、やっととれた。これでもう悩まずにすむよ」 「ほう、草壁でも悩みがあるか。まあ、象だって悩むんだろうしな。例の離婚問題が、また勃発したか?」 「そうじゃない、事件のことだ。実はおれ、脅迫電話の相手が途中から変わったような気がしてたんだ。はっきり声が変わったとかじゃないんだけど、なんとなく違う人間を相手に話してるような感じがしててな」 「……なんの話だ?」 「なんのって、シオンちゃんが拉致された事件に関して、おれたちはいま熱く語り合ってるんじゃなかったのか」 「詳しく聞かせてくれ」 「おい大嶽、顔が怖いぞ。まるでエレベーターでジャック・ニコルソンと乗り合わせて、二人っきりで最上階まで行かなきゃならないときみたいな……」 「たわごとはいいから、早く話せ!」  草壁は肩をすくめた。いったい自分の話のどこが、これほど大嶽の興味を惹いているのか見当もつかなかった。  草壁は例の身代金受け渡しの当日、犯人から朝一番に電話が入ったときに違和感を覚えていた。最初はそれが何に由来するのかわからず、漠然とした居心地の悪さがあるだけだったが、三度目の電話がきたときに気づいた。 「前日の相手と比べると、言葉づかいが柔らかくなってる気がしたんだよ。でもそのときは、まさかもうひとり犯人がいるなんて考えもしなかっただろ? おれも犯人の指示に従って車を走らせるのに必死だったから、すぐに忘れちまった」 「それで?」 「血のめぐりの悪いやつだな。だから、一日目に電話してきたのは石黒で、二日目に電話をかけてきたのは森安明、そういうことだったんだろ?」  大嶽の表情は、いまや仁王様のようだった。草壁に食ってかからんばかりの勢いで近づいてくると、こう言った。 「本当か、草壁。いまの話は本当だな」 「あ? ああ」  大嶽は立ったまましばらく考え込んでいたが、最後に草壁の二の腕をぽんぽんと叩くとこう言った。 「草壁、グッジョブ」  駆け足のような早さで病室を出て行く。  大嶽と入れ違いに、聡子が病室へ入ってきた。不思議そうな顔をしている。 「ねえ、いま廊下で大嶽さんとすれ違ったんだけど、ぜんぜん私に気づかないの。しかも、なんだかものすごく怖い顔してたよ。あなた、また何か変なこと言って大嶽さんを怒らせたんでしょ?」 「ばかいうなって。おれは、ただ」  おれはただ……何を言ったんだ?      9  事件の真相の深層は、そういうことだったか——。  署へ到着すると大嶽は、すぐに森安明を留置場から呼び出すよう命じた。取調室へ入ってきた安明はどこかおどおどしていて、心なしか顔も青ざめて見えた。慣れない留置場暮らしのためか、それとも別の理由からなのか。  大嶽は両手の指を結び、相手の目を見据えてゆっくりと告げた。 「あの拉致事件で身代金を受けとり、水上バイクで逃走したのは、おまえだな」  安明はうつむいたまま、顔をあげようとしない。それはそうだろう。この男は真相を自供したように見せかけて、その奥にまだ秘密を隠し持っていた。 「おまえの存在が浮かびあがったことで、おれが感じていた疑問のほとんどは解明された。そう思っていた。ところが草壁から、一日目と二日目とで脅迫電話をかけてきた相手が違うように感じたと聞かされて、まだ奥のほうに疑問が残っていたと気づいたんだ」  細野が驚きの表情でこちらを見ている。 「一日目の電話は石黒、二日目は森安明、そう考えるとすべてが符合する。石黒がシオンを殺そうとしなかった理由をおれが尋ねたとき、おまえはこう言ったな。シオンを無事に救い出すために、大金を手にできる方法があると教えたと。でもそれが交換条件となるためには、石黒が絶対にほしいもの、つまり切り札をおまえが握っている必要がある。金だ。おまえは自分で身代金を受け取りに行き、金を石黒に渡すのと引き換えに、シオンの無事と解放を約束させた。違うか?」 「………」 「草壁が金の入ったバッグを橋から落としたとき、水上バイクの上にいたのがおまえだったからこそ、約束したんだから殺すわけがない、と言ってしまったんだ。さらに草壁がシオンの居場所を訪ねたとき、日本一だった場所と答えた。あのときおれは、口約束を守るとはずいぶん律儀な犯人だなと感じた。場所がわかるまでの時間稼ぎになるし、同時に石黒の逃走を助けることにもなる。それが結果的には、おまえ自身の安全を確保することにもつながるからだ。ところでおまえは、貞山運河が日本一の長さだって知ってたか?」  黙って下を向いていた安明が、思わず顔をあげた。これほど驚くのだから、きっと知らなかったのだろう。 「おまえとしては、シオンの居場所を暗示したつもりだったんだろう。しかしあの日本一という言葉は、皮肉にも、同時に逃走ルートに目を向けさせてしまったんだよ」  常軌を逸した暴走男のせいでな、と大嶽は思った。 「犯行計画を考え、それを示唆するだけでも罪にはなる。だがみずからも犯罪の実行に加わったとなれば、話は違ってくる。罪の重さが比較にならないほど大きくなり、共同正犯も成立する。もしかすると小夜さんは、おまえの母親は、自分の息子が共犯者かもしれないと薄々勘づいたからこそ、自分の手を汚してまで、石黒の口を封じてしまわなければならないと思いつめたんじゃないのか」  安明は机に突っ伏して小刻みに肩を震わせていたが、やがて口を開いた。  森たばこ店から金を奪う話を持ちかけてきたのは、石黒だった。大学時代に安明から聞かされた話を覚えていたらしかった。安明が自分の実家を襲うという計画に手を貸さざるをえなかったのは、過去の出来事に遠因があった。  学生のころ、安明と石黒は遊ぶ金ほしさに引ったくりをした。バイクに二人乗りし、運転するのが安明で、バッグを奪うのは石黒の役目だった。引ったくりをしたのは三回だが、その最後の犯行の際、被害者が転倒してけがをした。  ニュースでそれを知った石黒は、にやにや笑いながら、おれとおまえは強盗罪の共犯だなと言った。それ以来安明は、石黒の申し出を拒否できなくなった。  だから今度も突然連絡してきた石黒に、おまえの実家から金を奪うから手引きしろといわれ、断ることができなかった。自分は東京の強盗傷害事件で警察に追われている身だ、万が一捕まったらこれまでの犯行は洗いざらいぶちまける。石黒はそう言った。昔の引ったくりをおれが白状すれば、おまえも同罪だ。  おれにそんなことはさせたくないだろう? と。  森たばこ店から奪えたのはわずかな金だけだった。その日は一日不在だったはずのシオンが、急に戻ってきたのが誤算だった。  森たばこ店での計画に失敗した直後、石黒から電話が入った。失敗は安明のせいだとののしり、女を人質にとったから、今度はそいつの親から金をせしめると言いだした。人質を取って、同時に金も奪うには一人では無理だ。おまえはもうりっぱな共犯なんだ、一蓮托生なんだよ、と石黒は言った。  話を聞くうち、拉致されたのがシオンらしいと気づき、安明は驚いた。しかもどういうわけか石黒は、シオンを草壁家の娘と思いこんでいる。  安明はシオンが身内である事実を、最後まで隠し通そうと決めた。自分のまいた種なのだから、いまさら逃げるわけにはいかない。シオンが嘘をついているとばれたら、激怒した石黒が何をするかわからないと思った。  一計を案じた安明は、実行犯役を買って出た。その代わり、人質の身に何かあった場合は金を渡さないと、交換条件を出したのだった。この時点で、安明にとっての人質はシオン、石黒にとっての人質が金という図式が成立した。これまでいつも言いなりになってきた安明が、石黒との立場を逆転させるためだった。  現実的な問題もあった。安明の考えていた計画では、身代金を受けとったあとで捜査網をくぐり抜けて逃げきるには、水上バイクが不可欠だった。しかし石黒は運転ができない。  安明の裏切りを警戒していた石黒は、これで完全な共犯関係に巻き込めると知り、提案に乗った。  供述書に書き取られた二人の会話は、以下のようなものだった。 安明「おれが、身代金受け取りの実行犯の役目を引き受ける。だから石黒は、人質を監視してくれ。その代わり、人質には絶対に手を出さないと約束しろ」 石黒「なぜそこまで、人質の身を案じるんだ」 安明「おれはすでに石黒の共犯だ。つまりおまえが人を殺せば、それは同時におれの罪にもなる。しかし、人を殺したり女を暴行したりする犯罪に関わるのだけは、絶対にいやだ。金を奪うのと人に危害をくわえるのとでは、罪の重さがまったく違う。だからおれは身代金を受けとったあとで、もしも人質に何かあったとわかったら金は渡さない。おれも手を汚すんだ、約束してくれ」 石黒「金をとって、自分だけ逃げるつもりじゃないだろうな」 安明「そんなに疑うのなら、石黒が自分で水上バイクを運転してそのまま逃走すればいい」 石黒「おれは水上バイクの運転ができない」 安明「だったら明日の朝まで、水上バイクを使わないような受け渡しや逃走の方法を考えて、自分で実行してくれ。おれが女を監視するから」 石黒「わかったよ、おまえを信じる」 安明「万一おれが戻らなかった場合には、女を殺すなり自分だけ逃げるなりすればいいだけの話だ。だがおれは絶対に金を持っていくし、おまえを安全に逃がしてやる。身代金を受けとったあとに水上バイクで蒲生干潟まで行き、石黒を乗せてそこから仙台空港へ連れていく。蒲生干潟から空港までは、人目につかない貞山運河を通る。狭い水路で近くに車が通れる道はほとんどないし、両岸は松並木だからヘリコプターで探そうとしても簡単には見つからないと思う。それに警察は、蒲生干潟の日和山方面に捜査員を集めるに違いないから、正反対の方向にある空港は手薄になるはずだ。石黒、おまえにとってリスクは何もない」  話がまとまり、計画は実行に移されることになった。  安明が犯行に加わると決めたとき、監禁するのに絶好の場所があると思いついた。蒲生干潟は築堤工事中のため、付近一帯が工事関係車両以外立入禁止であると知っていた。つまり、工事関係者以外はほとんどやってこない。  石黒は工事現場の作業小屋にあった合い鍵で、敷地に停められていた作業車に目隠ししたシオンを乗せ、教えられた通りに日和山近くの廃屋へ連れていった。  安明は近くで待ち合わせて落ち合い、石黒を自室へ連れ帰った。計画を成功させるために、今夜いっぱい使って打ち合わせしておく必要があると口実をつけたのだが、それはシオンから石黒を引き離しておくためだった。  事情聴取をしながら大嶽は、安明が鹿野シオンに対しては心からの愛情を抱いているらしいと感じた。もちろん恋愛感情ではなく、年の離れた妹を愛するのに似た気持ちなのだ。  身代金の値下げ交渉にあっさり応じたのも、安明がなるべく早く終わりにしたほうがいいと判断したからだ。石黒は一億円に固執したが、時間を稼ごうとするのは警察の常套手段で、延びれば延びるほど捜査側が有利になっていくと安明が説得すると、しぶしぶ了承した。  残りの七千万円を三日後に受けとると草壁には言ったが、とりに行くつもりはなかった。残金を受けとる意志を伝えておけば、相手も市内か近郊に潜伏していると思うはずだと考えた。油断させ、捜査をかく乱するためである。  これが鹿野シオン拉致事件の真相だった。  声紋を照合したところ、二日目の脅迫電話は森安明のものと証明された。大嶽修二の中で事件が完璧に終わりを告げたのは、この報告を聞いたときだった。      10  草壁雅人は、さっきから一心不乱にすりこぎを回していた。  横では陽平が真剣な顔で、すり鉢が動かないように押さえていた。中には、茹でたばかりの枝豆をサヤから出したものが入っている。 「おれ、夢を見て気がついたんだ。わが家のソウルフードは、づんだ餅だったんだよ!」  唐突に雅人がそう口走ったのは、今朝起きてリビングに入ってきてすぐだった。 「何よその、ソウルフードって」 「決まってるだろう、魂の食事だよ」  直訳ではないかと聡子は思ったが、面倒くさいので何も言わなかった。 「それでその、づんだ餅がどうかしたの?」 「つくるんだよ。今日の昼飯は、づんだ餅にする。枝豆とか餅はあるかな?」  聡子は呆れた。この人は何を考えているんだかさっぱりだ。でも、きっと源吾茶屋で二人で食べたのを思い出したのだろうと思った。 「おれがつくる。わが家のソウルフードを、おれがつくるよ」  びっくりした。結婚して以来、夫が料理をしている姿など一度も見たことはなかったからだ。 「おい陽平! 降りてこい。いまからづんだ餅をつくるから!」  階段を降りてきた陽平が、なんのことだかわからないという顔をしていた。雅人がまた、意味不明のソウルフードについて話した。 「マジ? づんだ餅って、家でつくれるの?」 「あたり前だろうが、もともとは宮城県の郷土料理なんだぞ」  家で包丁を握ったことのない男が、偉そうに。そう思ったけど口には出さなかった。なんだか二人が楽しそうに見えたからだ。  雅人は陽平を巻きこみ、陽平もよろこんで応じた。キッチンがとたんに賑やかになった。  大きな鍋でたっぷりのお湯を沸かして茹でながら、電子レンジじゃ駄目なんだぞと陽平に言い、さやからすり鉢にあけながらミキサーを使うのは邪道だと、いちいちうるさい。初めてつくる料理がづんだ餅というのもどうかと思うが、男の料理を気どっているのかもしれない。あまり似合わない気もするけど。  聡子は高みの見物である。危なっかしい手つきながらも、二人がすり鉢を囲んでいるようすを眺めながら、今回の事件について思いを巡らせていた。  少し前まで、草壁家は崩壊寸前だった。最後の柱を一本抜いたら、がらがらと音を立てて家庭が崩れ落ちてしまっていたはずだ。  あの日、自分から別居を切り出すつもりだったのに、陽平の狂言誘拐が起きてしまってそれどころではなくなった。森たばこ店の強盗から、鹿野シオンという女の子の拉致監禁事件、そして肺炎を起こした雅人の入院と、まさに嵐のような数日間だった。  聡子はすっかり毒気が抜けてしまった。この表現が正しいのかどうかわからないが、そんな感じだった。  シオンの両親は離婚していて、まだ幼かった彼女はきっと精神的に深い痛手を負ったのだろう。遠い異国の地で生まれ育ち、両親に引きとられることも拒否して、大伯母の家へ寄寓していた。  言葉にできないぐらい辛い思いをしたに違いない。にもかかわらず、陽平から離婚するかもしれないと相談された彼女は、阻止するために必死に考え、行動してくれた。  絶対に陽平を、自分と同じ境遇にはさせない。そう決心して。  陽平とシオンがあんな計画を実行したという意味では、聡子たちも迷惑をこうむったわけだけれど、ちっともそんな気持ちにならないのが不思議だ。雅人などは陽平とシオンに逆に感謝していると言っていた。聡子も同じだ。  シオンが拉致事件に巻きこまれてしまったことで、森家の家族事情が表面化してしまった。シオンが世話になっていた森夫妻は、夫婦仲は悪くなかったらしいが、お父さんと息子さんの関係が長い間ぎくしゃくしていた。  息子の安明は家を出てひとり暮らしをしていて、夫と息子の間にはさまれた小夜はさぞかし気苦労が絶えなかったろう。そして一連の事件は、あのような結末を迎えてしまった。  家族って、難しいな。一連の事件を通して、聡子はしみじみ考えさせられた。  森家はこれからいろいろな意味で大変だ。せっかくつかの間安息の地を見つけたシオンは、これからどうなっていくのか、境遇を思うと胸が痛む。  離婚が悪いこととは思わない。自分だって一度は本気で決心した。家族の問題を解決するには離婚するしかない状況や、そうしなければ命さえ危うい場合だってあるに違いない。  でも聡子の場合、一連の事件による暴風雨に投げ込まれて、少し時間が空いてしまったいま、別な風景が見えてきた。  子どもの成長は、声変わりや口元のうぶ毛がひげに変わるというような、外見の変化が重要ではないのだと気づかされた。心と身体は絡まり合っていて、二本の螺旋階段をのぼってゆくようなものかもしれない。  身体的変化は目に見えるけど、心は見えない。だから親は見えるほうの変化に目を奪われがちになってしまって、心が一緒に変わっている事実は見過ごしがちになる。  まだ身体の小さな陽平も、見えない場所で何かを変えていたのだ。その証拠に、聡子の言動から離婚の危機を敏感に察知して、シオンに相談していたではないか。  雅人が不意に言った。 「なあ、そろそろ砂糖を入れてもいいかな」 「えー、枝豆に砂糖を入れるの? 気持ち悪くない?」 「バカ、そうしないと食べても味がしないだろうが」  聡子はすり鉢を覗きこみ、ひとつまみ口に入れてみた。まだ豆は潰れはじめたばかりだった。 「まだまだね。こういう粒々が見えなくなるまでやらなくちゃ」 「もうずいぶん長い時間すり潰してるんだけどな」  雅人がぼやくと、陽平がすりこぎを持って言った。 「今度は僕がやる。お父さん、押さえてて」 「家庭料理っていうのは、時間がかかるものなの」  しっかりすり潰してから、味見をしつつ少しずつ砂糖を入れていくのだ。そうすると青々とした枝豆は、次第にトロトロと半個体状になってくる。最後に塩を入れて味を引き締めれば出来上がりだが、まだ早そうだ。  夫の意外な一面を見たのも収穫だった。あの一連の行動を収穫といっていいのかは、微妙なところだけど。  何が雅人の原動力になっていたのか、いまいちよくわからない。発言にも行動にも論理的な整合性などなかったし、一貫性もなかった。いざというときに頼りになるかといえば、それも違う。  でも、ほんのちょっぴり見直したのはたしかだ。高所恐怖症のくせに、遊園地で初めて観覧車に乗ったぐらいだったのに、あんなに高い橋から川へ飛び込んだと聞いたときは驚いた。誰にでもできることじゃないと聡子は思う。  大嶽に話を聞くと、苦笑いしながらこう言った。 「今回の件は、草壁の暴走が吉と出た非常に珍しいケースだ。あいつは若いころから、身体だけでかい子どもみたいなもんだったから」  そのとき聡子は、結婚披露宴のスピーチを思い出した。  雅人の友人代表としてマイクの前に立った大嶽は、「草壁は大きな赤ん坊と同じなので、聡子さんも苦労すると思います。子どもの面倒を見ているようなものですから」と言ったのである。あのときは、晴れの披露宴だというのになんて失礼なことを言う人なんだろうと、腹を立てた。  いまにして思えば、じつに的を射たスピーチだったというしかない。さすが付き合いが長いだけのことはある。  今回の出来事で、聡子と雅人との間に横たわっていた問題が解消したわけではない。雅人は陽平とよく話したり、遊ぶようにはなった。聡子と会話を交わす機会もだいぶん増えた。  でもそれだって、弱った人にカンフル注射したときのように一時的なものかもしれないのだ。危機に際して家族がまとまって、絆が強くなったと勘違いしているだけかもしれない。  別居の話を切り出すのは、どうしよう? 私の本心は、どうしたいんだろう? 「なあ、もうさすがにいいんじゃないか?」  物思いを中断させられて、聡子は立ちあがった。枝豆はちょうどいい具合になっていた。少しずつ砂糖を加えていくと、すり潰した枝豆は艶ととろみを増していく。 「さてと、最後に塩を入れたら出来上がりだね」 「づんだ餅って、塩を入れるのか?」  雅人がびっくりしている。 「甘い味付けのものには、だいたい塩を入れるんだよ。あ、そうだ。あれを使ってみようかな」  聡子はたくさんの調味料の中から、薄紅色の塩を手にした。 「これはね、スウィートローズ・ソルトという塩。ヨーロッパアルプスの天然岩塩で、お料理はもちろんだけど、お風呂に入れてもいい。カルシウムとか鉄分とかも豊富で、仄かに甘みがあるの」 「塩なのに甘いのか。すげえな」  雅人が妙なところに感心している。 「塩梅というぐらいで、塩加減は味の決め手だから」  そう言ってから、聡子はふと思った。料理の決め手は塩だ。塩と梅酢の加減で味が決まるといわれるように、家族にも塩梅が大事なのかもしれない。 「うん、いい塩梅だね。これ、わが家の味にしようか」 「わが家のづんだ、完成!」  陽平が叫んだ。頬にすり潰した枝豆がくっついている。聡子はそれを、指でつまんで口に含んだ。  砂糖の甘みが塩で引き締まり、味に深みが増した。それでいて砂糖とは異なる、ほんのりとした甘みもある。わが家の塩加減だ。      11  十一時ごろ、大嶽が訪ねてきた。  草壁が来訪の予定を知らせていなかったから、聡子はけげんそうな顔をしている。 「昼飯でも食いにこないかって、おれが誘ったんだ。ちょっと頼みたいことがあってな」  づんだ餅を陽平とつくった自慢話を聞かせながら、みんなで食べた。事件で何度も家にきているので、聡子や陽平も大嶽も気兼ねしないほどには打ち解けるようになっていた。  自然に事件の話になった。草壁がとった一連の奇矯な行動の一部始終を、大嶽は面白おかしく語った。聡子も陽平も詳しいところまでは知らなかったらしく、笑ったり驚いたりしている。  大嶽はひととおり話すと、真顔で雅人を見た。 「今回の事件で、たしかに草壁の突飛な行動や発言に助けられた部分が、まったくないとはいわない。だがな、それは全部結果オーライだったってことだ。おまえは結果オーライ男だっただけだからな」 「大嶽、ようやくおれを認めたな」 「褒めてねえよ」  大嶽がうんざりしている。どう言ったらこの男を心底反省させられるのか、と考えている顔だ。 「おまえのとった行動は、明らかにずれていた。ただ今回に限っていえば、運よくいい方向にずれたという意味だ。レアケースなんだよ」 「わかってる。おれは今度の事件を境に生まれ変わった。発見もあったぞ。結果的には肺炎になったおかげでこんなに痩せんだから、いちばんメタボ効果があるのは、事件だってことがわかった」  聡子と陽平がキッチンへ行ったので、草壁は声を小さくした。 「ところで、大嶽に頼みがある。今度の週末、一晩だけでいいから陽平を預かってくれないか」 「陽平をうちに泊まらせるってことか?」 「じつは、例の話を聡子と二人だけでしようと思ってる」 「例の……ああ、離婚の話か」 「正確には、聡子は別居の話をしようと思ってたらしいがな。ただ今回の話し合いについては、おれから申し出た。結婚して以来、おれはいつもそういう問題と向き合うことから目をそらしてきたんだ」 「恋は人を盲目にするが、結婚は視力を戻してくれる、という言葉があるそうだ」 「深いな。しかも笑える」 「視力が戻ればすみずみまで見える。良いところも悪いところも。だが、一生目をつむったまま生きていくわけにもいくまい」 「事件のあと、おれは人格が入れ替わったみたいに積極的になった。まさに、飛ぶ鳥を眺める勢いだな」 「……バードウォッチングか?」 「とにかくおれは、思いきってこう言ってみた。できれば後ろ向きじゃなく、前向きの話し合いにしたいと思ってるって。あいつも了解してくれてる。ただ陽平が家にいると思うと、この間のこともあるから心配なんだ。また聞き耳を立てられて、家出なんてされたら困るし」  大嶽が小さく笑った。少し間をとり、草壁は思いきって言ってみた。 「たまには息子の代わりに、子どもと一緒に過ごしてみるのもいいんじゃないかと思ってさ。おまえらの結婚記念日だっていうし、うちの息子を一日レンタルするよ」 「おれの結婚記念日を、どうしておまえが知ってる?」 「奥さんから聞いた。来週末はちょうど、おまえたち夫婦の結婚記念日だっていうじゃないか。おまえのことだからすっかり忘れてると思うがな。とにかくそんなわけだから、陽平をおまえの家に泊めてやってほしい。亡くなったおまえの息子の代わりにゃならないが、陽平と遊んでやってくれ」  大嶽にはひとり息子がいた。しかしいまから五年ほど前、交通事故で亡くなっていた。  横断歩道を青信号で渡っていたところに、携帯電話で話しながら運転するトラックが突っこんできたのだ。警察官だったのでふだんから口を酸っぱくして交通ルールを教えていただけに、当時はかける言葉も見つからないほど落ち込んでいた。 「もしこれが差し出がましい申し出だったら、遠慮なくそういってくれ。おれは野暮天だから、人の気持ちがよくわからん」  大嶽はしばらくうつむいていたが、やがてゆっくりと顔をあげた。 「うちのやつも子どもが好きだから、よろこぶよ。陽平のことは気にしないで、じっくりと財産分与の話でもしてくれ」 「だから、離婚の話じゃねえんだって」  大嶽が帰ったあと、なぜか晴れ晴れとした気分になってきた。だから聡子と陽平の前で、両手を大きく広げて言った。 「陽平、いま世界には何人ぐらいの人間がいると思う?」 「うーんと、十億人ぐらい?」 「現在世界の人口は、六十数億人だ。すごいだろう。その六十億分の三だなんて、すごい確率だと思わないか?」 「えっと……なんの話?」 「おれたち家族三人は、奇跡的に家族だってことじゃないか。いや、これぞまさに奇跡だ!」  聡子と陽平は顔を見合わせ、それから爆笑した。笑わせるんじゃなくて泣かせるつもりだったんだけど、と思いながら、草壁は庭に目をやった。  枝分かれしたウメモドキの蕾が、ふくらみはじめていた。
                                  (了)