世界の裏庭

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『事件家族』第2章-8

 

 港が近づくと道はアスファルトに変わった。漁港が近づくと人も多くなり、漁船の数も増えてきた。誰かが水上バイクを目撃しているかもしれないと思った。

 犯人が上流から下ってきたとすれば、ここを通らなければ海に出ることはできないからだ。釣り糸を垂らしている人がいたので、自転車を停めて尋ねた。

「あの、ちょっと訊きたいんですけど」

 言葉を発したとたん、歯がガチガチといった。大きなくしゃみがひとつ出た。

「少し前に、この辺を水上バイクが走っていくのを見ませんでしたか?」

 うさん臭そうにふり向いた中年の男は、草壁を見てぎょっとした。

「あんた、その恰好どうしたの?」

「ちょっと川へ落ちてしまって……それより見かけませんでしたか? 青に白い線が入った水上バイクなんですが」

「知らねえなあ。海のほうじゃよく見かけるけど、川を走ってるってのはあんまり見ないね。本当にこのへんを通っていったんなら見かけるはずだけど」

 礼を言って自転車に乗り、港の突端を目ざしながら、何人かに訊ねてみたものの、目撃者はひとりもいなかった。というより、誰もそんなものに関心などないという感じである。海の近くだけに、水上バイクなど珍しくないのかもしれない。

 草壁は途方に暮れた。橋から決死のダイブをし、追跡しようとしたのがこのざまだ。

 港の突端を右に折れて、たくさんの漁船が繋留されている港をあてもなく進んだ。無理かもしれないと思った。無性に温かいものが食べたかった。どうせなら、温かい汁物がいい。だが金はない。

 最悪だ。食べられないと思ったとたんに、腹がぐうっと鳴った。頭に浮かんだのは、なぜかお雑煮だった。仙台雑煮は草壁の大好物だ。

 と、意識の端を何かがかすめて通りすぎた。

 なんだ? すごく大事な何かを、いま、思いだしかけた。

 どういう連想か、日本一という単語が浮かんだ。犯人が最後に言った言葉だ。いったいどんな関係がある?

「ねえあんた、いったいどうしたっての」

 ふり向くと、かっぽう着姿のおばちゃんが近よってきた。

「ちょっと川に落ちてね」

 おばちゃんはガハハハと豪快に笑った。

「風邪ひくよ。着替え、貸したげようか?」

「あの、変な質問だけど、この辺で日本一といえばなんですかね?」

 おばちゃんは即答した。

「赤貝だよ。閖上の赤貝っていったらば、あんた、日本一の味なんだから。銀座の鮨屋でも大人気だってね。うちの赤貝丼も絶品だけど、食べてったら?」

 背後ののれんをあごで示す。どうやら店の人が、不審人物のようすを見に出てきたらしかった。

「食べ物じゃなくて、日本一の場所とかはないですか」

「日本一ねえ。すぐそこを流れてる貞山堀は、全部合わせれば日本一の長さだって話だけど」

「あっ!」

 貞山運河があった。伊達政宗が造った貞山堀は、総延長が四十数キロにのぼる日本一長い運河だと、観光資料で読んだ記憶がある。仙台雑煮は、貞山堀で獲れたハゼの焼き干しで出汁をとる。毎年年末の風物詩として、貞山堀のハゼを炭火で焼く場面がニュース映像として流れるのを、さっき草壁は連想したのだ。

 日本一とは、貞山運河のことだろうか。だとしたら漁港で誰も見かけなかったのもうなずける。名取川の河口少し手前から、海岸線に沿って南北に延びているから、海まで出る必要がない。

 もしかすると、貞山運河を通って逃げたのか?

 大きなくしゃみがひとつ出て、我に返った。それはおかしい。犯人が自分の逃走ルートをわざわざ教えるはずがない。だいいちあれは、草壁が尋ねたシオンの居場所に対する答えだった。

 ふと見ると、繋留された漁船のはるか向こうを飛行機が飛んでいた。ここから仙台空港まではそう遠くない。

「貞山堀は仙台空港のほうまで行ってますか」

「貞山堀はあんた、空港のすぐきわを流れてるよ」

「車が走れるような道路は?」

「うんにゃ、そういう道はないね。貞山堀沿いに沿ってずーっと行けるのは、自転車道だけさ」

 おばちゃんの指さした先で、飛行機が徐々に高度を下げていた。

 空港か。

 おばちゃんから道順を聞き、自転車に飛び乗った。広浦に架かった橋を渡り、仙台空港までつづく自転車専用道路を、草壁は全力で失踪した。

 

     ☆

 

 大嶽の車は名取インターで降りた。草壁が飛び込んだ橋の、すぐ先にあるインターだった。

 草壁を追尾していた覆面車両は当然だが、捜査本部までもが大混乱に陥っているようすだった。捜査人員の配置も車両の配備も、すべて犯人が車かオートバイを使用することを前提に準備されていたからだ。

 県警の捜査ヘリや海上保安庁が、空から水上オートバイを探すことはできるだろうかと大嶽は考えた。事前に応援を要請していれば即座に対応もできる。しかし突然の依頼だから、出動までにどれぐらいの時間がかかるのかも読めない。

 犯人の水上バイクが、広い海にぽつんと一台だけいるのならばすぐにも発見できるだろう。しかしこのあたりの海辺はサーフィンやヨットなどのマリンスポーツも盛んで、水上バイクの数も多いはずだ。

 この犯行計画を練った犯人が、みすみす見つかるような逃走方法を考えるだろうかというのが、大嶽の懸念だった。空や海から捜索隊が出動した時点まで、犯人がずっと水上バイクで逃げているとは考えにくい。どこかで陸路、車かオートバイか徒歩に切り替えるはずだ。

 本部も水際で犯人を確保するために、別働隊を海岸沿いに緊急配備するよう指示したものの、すべての海岸沿いを車両が通行できる道が走っているわけではないし、いかんせん範囲が広大すぎる。

 空からの探索は時間が足りない。陸からの探索は人員が足りない。犯人逮捕と並行して、シオンの発見にもかなりの捜査員を割かなければならないのだ。

 大嶽が考えているのは、石黒が言った言葉の意味だった。日本一だった場所。

 何かが浮かびそうになるのだが、思い出せそうで思い出せないもどかしさと、草壁の安否とがごちゃ混ぜになり、集中して考えられない。

「なあ、この辺で日本一っていえば何を思い浮かべる?」

 運転している細野に問いかけてみた。

「自分もずっと考えてるんですが、なんのことだかさっぱりです。牛タンとか笹かまとか、そういうみやげ物しか頭に浮かばなくて」

 物を表わしているのか、それとも場所なのか。

 さっきから大嶽の頭をちらちらとかすめているのは、なぜか鳥の姿だった。自分がいくら自然や鳥が好きだといっても、どうしてこんなときにそんなものが思い浮かぶのか。

 車は名取川に近い道を探して走っていた。草壁の心配をするのは川へ着いてからにしようと決めた。目を閉じて意識を集中させる。

 ……鳥の群れが見える。大きいから渡り鳥か……背景にはヨシ原が、さらに遠景にはぼんやりと海が……。仙台湾の近くで鳥好きの間で知られる場所といえば、蒲生干潟だ。大嶽も渡りの季節に何度か見に出かけたことがある。

 しかし別にあそこは渡り鳥の数が日本一とか、面積が日本一だというわけじゃ——。

「あっ!」

 大嶽は声をあげた。思い出した。

 バードウォッチングで有名な蒲生干潟には、もうひとつ隠れた名所がある。日和山だ。日本一低い山として知られる。正確にいえば、日本一低い山「だった」。

 国土地理院の地形図に、標高六・〇五メートルの日本一低い山として記載されていたことから、以前地元で話題になったことがある。

 けれど十年ばかり前、他県の山に日本一の座を奪われた。だからいまの日和山には「元祖 日本一低い山」の表示があったはずだ。冗談みたいな話だが本当だ。

 鹿野シオンは、蒲生干潟の日和山の近くにいる。

 大嶽は無線マイクをとり、捜査員を日和山に向かわせて周囲を徹底的に洗うよう、本部に伝えた。