世界の裏庭

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『事件家族』第2章-7

 

     ☆

 

 やられた、と大嶽は思った。

 完全に裏をかかれた。無線マイクに向かって叫んだ。

「犯人は東部道路の新名取大橋上から、名取川に向かって現金の入ったバッグを落下させ、水上バイクでバッグ回収後、河口方面へ逃走。水上バイクは青と白のツートンカラー、犯人は黒の防寒着、顔にはマスクを着用。付近にいる全車両は現場付近へ急行!」

 無線を切り、唇をかんだ。現場へ急行しろとと命令したところで、犯人は水の上を逃げている。捜査車両がいくら追いかけようとしたところで——。

 再度、無線のスイッチを入れた。今度は回線を切り替えて、県警本部につなぐ。大嶽は上司に告げた。いますぐ海上保安庁に連絡を入れ、巡視艇とヘリの出動要請を依頼してほしい、と。

 会議では捜査用ヘリを出動させる案も出たが、警察の関与を犯人に知らせてしまう危険性が高いことから見送られた。川から犯人がやってくるなど予想していなかった。高速道路上のどこかか、あるいは一般道に降りた場所を指定してくるという想定だった。

 金をビニール袋で包めという指示は、このためだったのだ。

 終わったことをいつまでも悔やむな。いま考えるべきは鹿野シオンの安全確保だ。

 そう。犯人は最後に、日本一だった場所と言った。日本一の場所ではなく、日本一だった場所、と。

 それが引っかかった。言葉通りに考えれば、過去に日本一で現在は日本一ではない場所という意味にとれる。そんな場所がこの付近にあっただろうか。

 携帯電話からどなる声が聞こえた。まだ、草壁との通話を切らずにいたのだった。

「大嶽だ。どうした?」

「なあ大嶽、おれにもしものことがあったら、陽平と聡子を頼んだぞ」

「……この非常時になんの冗談だ」

「おれが高いところが苦手だってことは、おまえも知ってるよな。橋から下をのぞきこんだだけでも、しょんべんちびりそうだ。でもよ、このまま犯人を逃がすわけにはいかないじゃないか。シオンちゃんを助けるためにも、親父から借りた金をまんまと持ち逃げされないためにも、決断するしかないんだよな。遊園地で聡子にも言われたじゃないか、いざとなると意気地なしだって」

 大嶽に向かって話しているというより、自分自身に言い聞かせている感じだった。

「いったいなんの話だ?」

「いま犯人を追跡できるのは、おれだけだ。車でもバイクでもだめだ。あの凶悪犯を追えるのは、世界広しといえど、おれだけなんだよ!」

「世界って、おまえ……」

 いやな予感がした。草壁の気持ちが異様に盛りあがっている。暴走する予兆だ。新名取大橋のアーチが遠くに見えた。路側帯に真っ赤なアウディが停車している。

「水は冷たいだろうが、脂肪はたっぷり蓄えてあるから大丈夫だ。それに何より、おれは燃えてる」

「バカなことは考えるな。やめろ!」

「おし。清水の舞台から飛び降りるつもりで、飛び降りるぞ!」

 比喩になってねえと言おうとした瞬間、フロントガラスの向こうに小さく見えていた巨体が、ふっと消えた。

「草壁っ!」

 橋の手前で停めた車からでると、大嶽はアウディへ駆けよった。大嶽は欄干から下を見おろした。数十メートル下にある川面に大きな波紋があったが、川の流れに押されてそれもすぐに消えた。草壁の姿はどこにも見えない。

 

     ☆

 

 息も絶え絶えだった。

 咳き込ん口から大量に水が出た。でも、生きている。視界が揺れているのは、寒さで身体がすさまじく震えているからだと気づいた。地面に腰を下ろしたジャージから、激しい勢いで水が流れ出している。

 水中なのか水面なのかもわからないまま、無我夢中で腕と足を動かした。途中からは冷たさに痺れて感覚が麻痺していた。

 どうして助かったのかもわからない。気がついたときには、川岸の畑の上に転がっていた。目の前にはコンクリート護岸がある。ななめに傾斜がついているから、そこから上がったらしい。

 視線を上流に向けると、はるか遠くに橋と半円形のアーチがあった。欄干の間から赤い車が見える。すぐうしろに数百メートルは流されたらしい。下流に目をやると水上バイクの姿はどこにもなかった。しかしまだそう遠くへは行っていないはずだ。

 草壁は立ちあがった。ポケットを探ったが携帯はなかった。財布もない。何もない。川風が骨の芯まで沁みた。

 畑を抜けると堤防の上に道があった。自転車道らしい細い道だ。堤防沿いの道を駆け足で下流へ向かった。だが、ものの一分もたたないうちに息があがった。ただでさえ太りすぎなのに加えて、必死で泳いだせいで体力の消耗が激しい。

 とぼとぼ歩きながら、おれ何やってんだろうと思う。自分でいやになってくる。また勢いだけで暴走して飛び込んだはいいが、走って水上バイクを追いかけようとでも思ったのか? 道の数十メートル先に一台の自転車が止まっているのを発見したとき、天啓のように閃いた。

 自転車なら追いつけるかもしれない。近づくと川原の離れた場所にある畑で、おじいさんが農作業しているのが目に入った。

 迷いはなかった。おじいさんに向かって草壁は叫んだ。

「すいませーん、自転車貸ります!」

 おじいさんがこちらを見て、耳に手をあてている。自転車にまたがって片手をあげると、おじいさんがこちらに向かってくる。

「捜査のご協力に感謝いたします!」

 さっと敬礼をすると、草壁は猛スピードで自転車をこぎはじめた。ふり返ったとき、おじいさんが片手をあげて追いかけてくるのが見えた。

 広い河川公園をすぎると、川岸につながれた小舟が目につくようになってきた。もうすぐ閖上漁港だった。川沿いの自転車道はつづいていたが、もうじき海に突きあたるはずだ。

 走るとすぐに息が切れたのに、自転車はあまり苦しくなかった。ただ寒さが尋常ではなかった。身体を温めようとスピードを上げると、比例して全身から体温が奪われていくのだ。

 おれは脂肪に守られている。自分にそう言い聞かせながらペダルをこぎつづけるうち、ふと疑問が湧いた。

 なんのために犯人を追ってるんだ? 犯人を捕まえるためか?

 いや、違う。金を奪われたのは悔しいが、犯人は大嶽が捕まえてくれる。きっとつかまえてくれると信じている。

 おれはシオンを助けるために、まだ見たこともない女の子の命を救いたいがために、走っているのだ。寒さと疲れで折れそうになる心を、その言葉で支えた。