世界の裏庭

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『事件家族』第2章-6

 

     ☆

 

 仙台宮城インターから上り車線に入ったところで、草壁の携帯が鳴った。車にはハンズフリー通話の装置がつけてあり、運転しながら話ができる。

「……いまどの辺だ?」

「宮城インターから入ったばかりです」

「仙台南インターのジャンクションから、仙台南部道路へ入れ」

「南インターから南部道路? でも、南部道路はすぐに……」

「短いドライブだが、せいぜい楽しめ」

 電話が切れた。草壁は舌打ちをした。まさか、これほど早くルート変更の指示がくるとは考えてもいなかった。前方右手に、茂庭浄水場の建物が見えてきた。この付近は高速道路とは思えないほど、カーブや上り下りの勾配がきつい区間だった。

 仙台南インターは仙台宮城の隣の出入口で、インターチェンジとジャンクションが一緒になっている。つまり、とハンドルを大きく右に切りながら考えた。

 犯人はこちらを惑わせるつもりだ。

 南部道路そのものはすぐに行き止まりになる。仙台の市街地を中心として、西の山沿いを走る東北自動車道と、東の海沿いを走る仙台東部道路を結んでいるのが、南部道路だった。英語のHに見立てると、両側の縦線が東北道と東部道路、間を結ぶ横線が南部道路にあたる。

 南部道路は連絡道路だから、数十分も走れば東部道路に入ってしまうのだ。

 いまの会話は警察も聞いているはずだ。彼らはこのルートまで想定していただろうかと不安になる。いや、これぐらいは考えているはずだ、警察なんだからな。

 警察とのやりとりは、原則として禁止されていた。禁止されるまでもなく、運転しながら草壁にそんな器用なことはできない。だから、一方的に警察からの指示が聞こえてくるだけだ。不安や迷いや心配でいたたまれなくなっても、こちらからはいっさい相談できない。

 東北自動車道のパーキングやサービスエリア、あるいはエリア内にあるトイレなどの施設が受け渡し場所になるのではないかと草壁は思っていた。三本の高速道路はつながっているのだし、草壁にはわからないが覆面パトカーだってたくさん走っているはずだ。完全に裏をかかれたわけではない。

 しかし不安はぬぐいきれなかった。

 事前の打ち合わせで大嶽からは、あまりスピードを上げないようにしろと言われていた。交通状況にもよるが、できれば八十キロぐらいのペースを保ってほしい。犯人がどこでどんな指示を出してきても、少しでもその場所へつく時間を稼ぐためだった。

 ただし、犯人がもし走る速度を指定してきたり、ゆっくり走っていることを不信に感じている気配があれば、そのときは迷わず相手の指示に従え。

 仙台南インターの標識が見えてきた。分岐点を大きく左へと曲がり、南部道路のジャンクションへと進入していく。南へ向かっていたアウディが、進路を東へと変えた。このあたりは仙台市と名取市との境にあたり、支流である広瀬川が本流の名取川に合流する地点でもある。

 南部道路は追い越し区間をのぞいては、中央分離帯のない片側一車線で、速度は七十キロに制限されている。左手に住宅街が見えてきた。途中何ヵ所か、道の上を横断歩道が渡っていた。

 携帯が鳴った。犯人からだった。

「……いまどの辺だ?」

「いまは、ええと」

 何か目印になるものを探したが、これといってめぼしい建物がない。

「南ジャンクションから入ってまだ数分なので、少し前に最初の山田インターを通りすぎたところです」

「……そのまま東部道路へいって、若林ジャンクションから上り車線へ入れ」

「あのー、どこまで走ればいいんでしょうか?」

「まだまだ長いドライブになる。覚悟しておけ」

 名取川を越える橋を過ぎると、しばらく川の北岸を直進するルートになった。さっきまでの東北道とはうって変わって道が平坦になり、周囲には田園風景も広がりはじめた。運転席の窓からは、夏を思わせる強い陽射しが照りつけている。けれどそれは車内にいるからであり、外は風が強そうだ。こんな状況じゃなけりゃいいドライブ日和なんだがと、草壁は場違いなことを思った。

 草壁は、あることに気づいた。

 犯人はいつも電話の最初に「いまどの辺だ?」と尋ねてくる。草壁のアウディは真っ赤だから、遠くからでもかなり目立つはずだ。犯人が監視しているとしたら、奴が視界内にこの車を捉えているのだとしたら見逃すとは考えにくい。いちいち現在位置を確認する意味もない。

 犯人はもしかすると、車を確認できない場所にいるのか? たんなる勘だがそんな気がした。大嶽はこのことに気がついているだろうか。すぐにでも電話して教えたくなった。しかしこちらから電話するのは禁じられている。どうする? どうしたらいい?

 迷ってうちに若林ジャンクションの標識が見えてきた。田んぼの中の道を左に大きく曲がっていき、東部道路へ合流する。東北道に比べれば交通量は多くない。

 携帯が鳴った。通話ボタンを押すと、犯人が言った。

「……若林ジャンクションはすぎたか?」

 やはりそうだ。犯人は、おれの車を見ていない。

「いま、東部道路に合流したところです」

「……速度をゆるめろ」

 初めて犯人の口調に変化が出た。声にも緊迫感が増している。

「まだまだ長いドライブになるから、この辺でひと休みさせてやろう。少しいくと橋が見えてくる。橋のまん中で車を停めて、コーヒーでも飲め」

「あの、飲み物なんて持ってきてませんけど……」

「とにかく橋のまん中で停めろ。もうすぐ橋のアーチが見えてくる。そのアーチのまん中だ!」

 今回はもう一度、まん中、を強調した。

 犯人は、今回は電話を切らなかった。通話中のまま、草壁はアウディのアクセルを戻していく。片側二車線の区間だった。後続車がないのをミラーで確認してから、左車線を六十キロで走った。

 道が右へ大きなカーブを描きはじめたころ、遠くに橋のアーチが見えてきた。

「アーチって橋の上にある半円形のやつのことですか」

「そうだ。アーチの一番高い場所の、路側帯で停車しろ」

 アウディを左へ寄せて、ゆっくりと減速していく。室内ミラーにうしろから近づいてくるシルバーの車が見えたので、ハザードライトをつけた。追突されてはたまらない。

 いや、もしかするとあれが犯人の車なのか。胸が高鳴ってくる。完全に停車させてから草壁は犯人に告げた。

「停まりました。アーチの、まん中だと思います」

 ここで身代金の受け渡しをするつもりだろうか。だとしたら絶好の場所だ。犯人と草壁の会話を逐一聞いていた警察は、この前後に捜査車両を集結させているはずだからだ。まるで捕まるためにのこのこ出てくるようなものではないか。

「金の入ったバッグと携帯を持って、外へ出ろ」

 携帯電話とバッグを持って外に出た。風が強かった。ジャージ姿だったと思い出して上にフリースをはおった。川通しで吹きつける西風が肌に突き刺さる。名取川の河口も近く、川幅は二、三百メートルほどもありそうだ。

 突然、耳に当てたままにしていた携帯から、けたたましいエンジン音が聞こえた。車のアクセルを空ぶかししているような音だ。

 シルバーの車が、草壁のすぐ横を通りすぎていく。ドライバーけげんそうに草壁を見ていた。草壁は、欄干から橋の下をおそるおそる眺めた。予想以上に高かったからすぐに目をそらした。遊園地で乗った観覧車ほどではないにせよ、川面まではかなりの距離がある。

 次の犯人の指示は、短かった。

「バッグを橋から落とせ」

「え? 橋から?」

 頭の中が白くなった。落とせといわれても、下は川だ。金を捨てろということか?

 携帯からはエンジン音が聞こえている。特徴のある響きで、車というより大型バイクの爆音に近い。

 そのとき奇妙なことに気がついた。携帯から聞こえるエンジン音が、どういうわけかステレオで聞こえる。

 いや、そうじゃない。携帯とは別のエンジン音が、どこかから聞こえている。慌ててあたりを見回したが、高速の前後にバイクの姿はない。

 そして、エンジン音がシンクロした。

 別々の場所から、同じ音——。ハッとした。へっぴり腰のまま欄干へ近づき、下をのぞきこんだ。水上オートバイが近づいてくるのが見えた。

 草壁が立っている足の下、橋桁の陰から現われた。橋の上から死角になる場所に隠れていたに違いない。これでは、この道路を走っている車からは絶対に見えない。

 車を使って高速道路を走れと指示されたため、すっかり車だとばかり思いこんでいた。目くらましだったのだ。

 警察はどうだ? こんな状況までは、予測していなかったのではないか? いや警察だ、これぐらいは想定内のはずだ。想定内であってくれ。祈るような気持ちでいる草壁に、犯人がどなりつけた。

「早くしろって!」

「シオンは、娘はどうした? おれは言う通りに金を持ってきたじゃないか。約束が違うぞ!」

「娘は返す、約束する!」

「だめだ! 無事だとわからなけりゃ、金は渡せない」

 欄干から草壁が見おろすと、水上バイクに乗った犯人が見あげていた。バイクは川面の同じ場所をくるくる回っている。

「娘は生きてる。約束したんだ、殺すわけがない! 早くバッグを落とせ。金が本物だと確認できたら居場所を教える。時間がたつほど、命が危険にさらされるぞ!」

 この言葉は本当だ。犯人は真実を語っている、そう確信した。引き延ばすのはもう無理だ。

 草壁は、三千万円の入ったバッグを放り投げた。

 数十メートル下の川面に向かって、バッグがスローモーションで落ちていく。ずいぶん長い時間が経過した気がした。

 バシャン、とバッグが水面を叩く音。

 二十メートルばかり離れた水上バイクには、防寒着と防寒マスクを身につけた男が乗っている。遅い流れに乗ってゆらゆらと流されていくバッグに、ゆっくり近づいて回収した。

 バッグの中を開けて確認している。

「教えてやる。娘がいるのは、日本一の場所だ」

「日本一……何を言ってるんだ! おい!」

 ツーツーと音がした。切れていた。

 呆然と携帯を見つめていると、ディスプレイが着信を告げた。大嶽からだった。

「おい草壁どうした、いったい何があった?」

 大嶽には、いま何が起きたかわかっていない。

「水上バイクだ。犯人は水上バイクで川からきて、この橋から落としたバッグを拾っていったんだよ!」

「水上バイク? くそっ!」

 大嶽の怒鳴り声を聞いて、草壁は絶望的な気持ちにおそわれた。警察もまるで予測していなかったことが、いまの言葉で伝わってきた。

「犯人の服装と水上バイクの特徴を教えろ」

 草壁は川を見た。バイクの色は青と白、犯人が着ているのは上下黒の防寒着、河口方向へ向かっていると告げた。

 車で追いかけようにも高速道路の上だし、一般道路に捜査車両が待機していたとしても、犯人は水の上だ。車で追跡するのは難しいだろう。

 もう一度川へ目をやった。水上バイクは水を高々とふき上げながら、みるみる下流に遠ざかっていく。おれの金が——。

 やられた、と草壁は思った。