世界の裏庭

読書、映画、創作、自然など

『事件家族』第2章-14

 

 その日の深夜、車に乗って一度だけ移動した。それが発見された蒲生干潟にある、日和山近くの廃屋である。シオンに無理やり睡眠薬か何かを飲ませるとすぐに、石黒は出ていった。目隠しを通して光が射しこまなかったから、まだ夜が明ける前だった。波の音が聞こえたから、海の近くだとわかった。

 シオンが知る限り、犯人は石黒ひとりだった。石黒は最初は興奮していたが、電話を何度かかけるうち徐々に落ちついてきた。暴力をふるわれたのも平手で殴られたときだけで、性的暴行を受けることもなかった。

 理由は彼女にもわからない。その後も発見されるまで眠りつづけていたから、石黒があの建物に戻ってきたのかどうかも知らない。恐怖心、あるは羞恥心から事実を隠している可能性もなくはないが、大嶽が見るところシオンの証言は真実のように思えた。石黒の目的はあくまで金の奪取にあり、それだけに神経を集中していたせいでほかのことなど眼中になかった。そんなふうに考えることもできる。

 しかし、と一方で思う。常識的に考えれば、やはり不自然だ。鹿野シオンは中学三年生だというが、この年代の子にしては大人びている。石黒に、よこしまな気持ちが兆さなかったのは不思議だ。

 また拉致や誘拐で身代金を要求する犯人は、比較的早期に人質の口を封じるケースも多い。犯人の顔を見てしまっているからだ。なぜ石黒は、シオンを消そうと考えなかったのだろう?

 わからない点は、ほかにもいくつかあった。なぜ、さほど大金がありそうにも見えない森たばこ店を襲おうと考えたのか。

 身代金を奪った方法についてもそうだ。いくらかは土地鑑があったにしても、十年も前の話なのだ。東北自動車道から南部道路を経て東部道路、そして川へ投げ落とさせた金を水上バイクで回収し、貞山堀を通って仙台空港へ——。

 地元の地理にかなり精通していなければ考えつかない手法と逃走ルートに思える。身代金を奪おうとする事件では、事前に計画を練ってから犯行に及ぶのがふつうだ。そして多くの場合、家族は警察へ通報するものだし、人命にかかわる重大犯罪で要求金額も大きいため、警察も血まなこになる。

 犯人は金を受けとる際に最低でも一度、姿を現わす危険を冒さざるをえない。警察側からすればそれは逮捕する絶好のチャンスであり、だからこそ犯人の側はこの局面を巧妙にすり抜けるために知恵を絞る。

 だからこそ事前に計画を練りあげる時間が必要になるはずだった。石黒はわずかな時間でこれを計画し、実行したというのか。

 これらの疑問に答えられるのは、石黒だけだ。医師の話では確率は五分五分らしい。助かってほしいと大嶽は願った。警察官の立場としては偽らざる気持ちである。被疑者が死亡して尻切れとんぼのまま終結する事件は、耐え難いほどの後悔にさいなまれるものだからだ。

「疲れただろうから、とりあえず今日はこれぐらいにしておこうか。ああ、そういえばもうひとつだけ。陽平君のことだけど」

「やっぱり陽平君のことも、事件になるんですか?」

 シオンの表情が不安げに曇ったので、それを振り払うように手をふってみせた。

「いやいや、そうじゃないんだ。そっちの件は何も問題ないからこれ以上心配しなくていい。ただ個人的に、君に訊いておきたいことがあっただけでね」

 内容はおおむね草壁と聡子から聞いていたが、ひとつだけ気になっていた。

「どうして脅迫電話が英語だったんだい?」

「緊張したんです、すごく。そうしたら、とっさに英語が出ちゃったんです」

「なるほど、君にとっては英語が母国語だからか。ネイティブスピーカーというのはそういうものなのかもしれないね。本当にそれだけだね」

 シオンは少し考えた。迷っているようにも見える。

「犬のチャンプを誘拐するんだから警察には捕まらない、大丈夫って自分に言い聞かせてはいましたけど、それでも初めて電話をかけるときは手がぶるぶる震えるぐらい緊張したんです。陽平君のお母さんが電話にでたとき、これでもう逆戻りはできないと思ったら手に汗をかいてきて、気がついたら英語で話してて、もう最後まで英語で押し通すしかないって……」

 きれいに日焼けしたシオンの顔が、わずかにこわばっている。

 大嶽の刑事としての経験則に照らし合わせれば、彼女は嘘をついている。あるいは、まだ隠していることがある。もっともそれは、大人の犯罪者を取り調べた経験からくるものだから、思春期の娘にあてはめるのは少々酷かもしれなかった。

 事件は解決をみた。