世界の裏庭

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『事件家族』第2章-13

 

     ☆

 

 事件の幕切れは、後味の悪いものになった。

 エスカレーターから飛び降りた犯人の石黒洋太郎は、頭部に大けがを負って救命救急センター併設の病院へ搬送されていた。頭蓋骨の陥没骨折と脳挫傷で重体だった。意識が戻らず話すこともできないため、事情聴取は一度もできていない。医師の話によれば、かなり重篤で危険な状態だという。

 なぜあのとき石黒が飛び降りようとしたかは推測するしかないのだが、現場の噴水に入ってみてわかったことがあった。石黒が飛び込んだ二段目の槽は、中二階から見るとかなり水深があるように見えるのだ。ところが実際には、わずか数十センチしか水が張られていない。水の底も壁のタイルも真っ黒なために、実際よりも水深が深いと錯覚してしまうのである。

 事実大嶽も、石黒が飛び込んだときはそう思った。だから水に飛び込んだ直後、奴が仰向けで浮かんでいる理由がわからなかった。

 上と下から追い詰められて、石黒は水に飛び込めば逃げられるととっさに考えたのかもしれない。水が深いと思いこんで飛び込み、水底で足を滑らせたときにタイルの縁で側頭部を強打した。

 石黒が運ばれた同じ病院に、同じ日の夜に入院してきたのが草壁だった。大嶽を含め数人の捜査員が病院に詰めていたが、草壁がいると知ったのは、病院の廊下で偶然聡子に会ったからだ。

 草壁は橋から川へ飛び降りてから、全身ずぶ濡れのまま自転車で走り回ったせいで、風邪から肺炎を併発し、夜になってから救急車で運び込まれていた。草壁も警察で事情を訊かれていたが、途中で意識がもうろうとしてきたという。

 大嶽は見舞いがてら事情を聞こうと、病室に顔をだした。ひとつだけ確かめたいことがあった。なぜ草壁は、石黒が空港へ向かったと確信したのかということだ。

 高熱で意識がもうろうとしながら草壁は答えた。

 自転車で閖上漁港の近くを走りながら、会う人会う人に水上バイクのことを尋ねた。すると釣りをしていた人が、貞山堀を南へ走っていく水上バイクを見かけたといった。ちょうどそのとき、草壁の頭上を轟音を立てて飛行機が飛んでいき、直後に着陸するのを見て、犯人は空港から逃げるつもりではないかと直感したというのだった。

 げっそりと頬がこけていたので、大嶽はいい機会だから少し痩せろとからかった。奴は真顔で「おれはアシカになる」と意味不明の言葉をつぶやいた。熱でうわごとでも言っているのだろうと思い、はやばやと退散することにした。病室を出るとき、聡子はあきれ顔でこう言った。

「あの人、なんて言ったと思いますか? 自転車で走っていればそのうち風で乾くだろうと思ったって……真夏じゃあるまいし、信じられます?」

 苦笑いするしかなかった。一時は危ないと医師からも言われたらしいが、最悪の危機は脱したらしかった。あいつのことだ、少々ではくたばらないだろう。

 

 鹿野シオンは無事保護されていた。

 事情聴取の最初に、どうして強盗犯人を追っていったのかと大嶽は尋ねた。しばらく考えていたシオンは、自分は森家に居候していることで肩身の狭い思いをしていたわけじゃないですけど、と言い訳めいたことをいって話しだした。

 大伯母の小夜が、気にしなくていいんだよと本心から言ってくれているのも知っていた。けれども、やはり気兼ねがあった。身勝手な父とも母とも一緒に暮らしたくはなかったが、かといってほかに身を寄せる親類もいない。

 当分の間という漠然とした約束のまま、ここまできてしまっていた。でもこの状態がいったい何年つづくのか自分でも見当がつかず、精神的にも不安定な状態がつづいていた。さらに陽平の狂言誘拐を実行したことで、警察まで出てきていると思い込んでいたし、大ごとにしてしまったと落ち込んだ。

 後悔を抱えつつ陽平と草壁家へ向かっていたときは、とても鬱々とした心境だった。そんな状況で強盗の石黒と遭遇し、気づいたときには身体が勝手に動いていた。

「いまこそ伯母さんに恩返しできるチャンスだって、とっさにそう思いました。ほんと、どうしようもないバカなんです、あたし。あとで冷静に考えてみるとなんて無謀なことをしたんだろうって。恩返しどころか、かえって大きな事件になっちゃって、きっとまた森の伯母さんに迷惑かけちゃったんだなって、すごく後悔しました。怖いと思うよりも、申し訳ない気持ちのほうがずっと強かったです」

 大嶽にとって最大の謎は、シオンが草壁を父と偽った理由だった。するとシオンは、意外なことを言った。最初に草壁を父と勘違いしたのは、犯人の石黒だったというのだ。

「早く警察の人が助けにきてくれないかと、そればかり考えていました。そうしたらあの男が、身代金を取るためにおまえの親に電話したと言ってきたんです。意味がわかりませんでした。だってあたしの携帯には、親の番号なんて入れてなかったんです。電話番号は部屋にある電話帳には書いてありますけど、携帯には入れてませんでした」

 シオンは陽平の狂言誘拐を実行するために、陽平の父親、つまり草壁の携帯番号を教えてもらっていた。その登録名が、「父・草壁雅人」だった。

「あたしの携帯は捕まってすぐにとられたし、犯人はいつも外で電話してました。誰を相手にどんな話をしてたのかぜんぜんわかりませんでした。だから犯人が、あたしの名前を草壁シオンって呼んだとき、反射的にうなずいちゃったんです。関係ない草壁さんちを巻きこんじゃうって薄々わかってたけど、でもそうなればきっと、警察の人だってすぐに気づいてくれるはずだって思って、あたし……」

「おれが草壁たちのあとをつけていたのを、君は気づいてたんだね」

「トヨタの、白い車でしたよね?」

 まいったなと思った。これじゃあ刑事失格だ。尾行するときの最大の弱点は、前にばかり目が行って、背後の注意力が散漫になることだ。

「草壁さんがどう答えるかは、陽平君からあたしのことを聞いているかどうかだと思いました。でも知っていたとしても、身代金を払えなんて話に乗ってくれるかどうかは自信がありませんでした」

「一か八かの賭けだったわけか」

「草壁さんには、なんて言っていいかわからないぐらい感謝してます」

 草壁が身代金を負けてくれと言ったことを、この子はまだ知らない。今後も知らせないほうが双方のためだろう。

「もし草壁さんが断ったとしても、尾行していたあの警察の人に知らせてくれるはずだって、そうしてくれるって信じてました。あのときのあたしには、何かを信じることぐらいしかできなかったから」

「ずいぶんと危険な賭けだな。まあ、結果的にこうして無事戻ってこられたからよかったようなものの」

 しばらくうつむいていたシオンが、ぽつりとつぶやいた。

「あたしみたいな迷惑っ子なんか、この世からいなくなっちゃえばいいんです」

「いなくなったほうがいい子なんて、世の中にはひとりもいないよ」

 大嶽がそう語りかけるとシオンは泣き出し、やがて号泣した。わずか十代半ばのこの娘が置かれている境遇に胸が痛んだ。

 ひとしきり泣き終えるのを待ってから、質問を再開した。捕まったシオンは最初、近くの工事現場の作業小屋に監禁されていた。日中は使われているようだったが、夜は無人になる。両手と両足をロープで縛られ、手拭いで目隠しをされた。

 一度、石黒が電話するために外へ出ていたとき、目を盗んで逃げようと試みた。小屋の窓から出ようとしたところで見つかり、平手で頬を張られた。再度きつく縛り上げると、石黒は言った。

 本当はおまえを殺してもいいんだが、がまんしてるんだ。だがもし今度おまえが逃げたら、おれはどれだけ時間がかかっても、必ずおまえの両親を捜し出して殺してやる。

 その脅し文句を聞いて、シオンは金縛りになってしまう。すきを見つけて逃げられる可能性はあるが、でも、もう逃げられないと観念した。

「あたしが逃げたら、あたしは助かるかもしれない。でもそうしたら今度は、陽平君のお父さんとお母さんを危険な目に遭わせてしまう。あの男の目を見て、こいつなら本当にそうすると思いました。すごく恐ろしい目をしてたから。自分でも不思議ですけど、これ以上陽平君ちに迷惑をかけるわけにはいかないと思うと、逃げたい気持ちがすっかり消えてなくなったんです」

 言葉の鎖をかけられたのだ。手足を縛られるよりも、はるかに彼女の強い束縛となっただろう。