世界の裏庭

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『事件家族』第2章–1

 

   【第二章】 鹿野シオン事件

 

     ☆

 

 草壁から電話が入ったとき、大嶽は署の会議室にいた。

 携帯のディスプレイを見ながら考えた。きっと陽平の話だろう。たしかに気になってはいるものの、あくまでもそれは個人的な問題だ。一方、森たばこ店の事件は公務だ。

 迷った末に廊下へ出て、通話ボタンを押した。詳細を話したくてうずうずしているはずの草壁から何度も電話をかけてこられるよりは、こちらの状況を伝えておいたほうがいいと判断した。

「大嶽だ。陽平君は無事だったか?」

「おれ、やっちまった! どうしよう大嶽、大変なことをやっちまったよ」

 草壁が同じ単語をくり返している。自分から電話をかけてきたくせに、大嶽の言葉が耳に入っていない。

「だから、何をやったんだ?」

「なんであんなことを言っちまったのか、自分でもわからない、おれ……」

「いいからおれの質問に答えろ!」

 大嶽は携帯に向かってどなった。通りすがりの婦警が、ぎょっとした顔を向けた。

「陽平君は無事なのか、それとも何かあったのか、どっちなんだ?」

「あ、ああ……陽平な。あいつは無事だ、元気だ、ぴんぴんしてる」

「陽平君の件について事情を話したい気持ちはわかる。だが、こっちも事件でてんてこ舞いなんだ。詳しい話はまた明日にでもかけ直す、悪いが」

 電話を切ろうとしたとき、耳に草壁の言葉が引っかかった。

「ちがう、こっちも事件なんだよ!」

 ほとんど泣きそうな声だった。事件?

「何かの事件に、陽平君が巻きこまれたって意味か?」

「そうじゃない。いや、そうなのかな? 娘のシオンが犯人にさらわれて、金を用意しろって電話が」

 大嶽は小指で首筋をかいた。陽平の家出話には、まだつづきがあるという意味だろうか? そもそも草壁には娘なんていないじゃないか。

「……娘のシオンって誰だよ」

「本名は鹿野シオンだ。でもどういうわけだか、草壁シオンになっちまった。頼む、助けてくれ大嶽。どうすりゃいいのか、もうさっぱりわからん」

 話はまるで要領を得ないが、どこかきな臭いにおいがした。

 大嶽は、辛抱強く草壁の説明に耳を傾け、聞き終えて愕然とした。

「それ、本当のことなのか」

「こんなときに冗談を言うと思うか」

「本当に、ほんとの話なんだな」

「残念だが何度訊いても無駄だ。本当だ」

 折り返し連絡するから待っていてくれと告げて電話を切った。上司に報告する前に考えをまとめておかなければならなかった。

 もっとも厄介なのは、電話してきた犯人は、シオンの父が草壁だと信じているところだ。草壁はじつは父親などではないのだと告げても、相手は聞く耳など持たないだろう。

 実の父親か母親を交渉役にしたりすれば、犯人は逆に信用しない。父である草壁が警察へ通報し、捜査員が親になりすまして自分を逮捕しようとしている——。相手はそう考えるはずだ。

 となれば当然、犯人は自分の身の安全を第一に考える。結果的に人質であるシオンという娘の命を危険にさらすことになってしまう。

 大嶽は頭を抱えた。それだけは絶対に避けなければならない。あの野郎、なんてことをしてくれたんだ。草壁雅人というおっちょこちょいな男を、これほど腹立たしく苦々しいと思ったことはない。

 壁を拳で打ちつけると、上司へ報告するため廊下を奥へと向かった。

 

 大嶽がほかの捜査員とともに草壁家に到着したのは七時十分だった。草壁から詳細を聞かなければならないし、次の脅迫電話がいつくるかもわからない。

 時間がほしかった。森たばこ店で事情聴取している捜査員から、現時点で判明している情報は聞いていた。とにかく現場である草壁家で犯人の出方を見つつ、対応する態勢を整えていくしかない。

 草壁にはあのあと電話で、もし自分たちが到着する前に犯人から電話がきた場合には、指示通りにしろと念を押した。その上で、できるだけ時間を稼いでくれと伝えた。金を用意するのに時間がかかると言え、と。

 夜陰に乗じて裏口から居間へ入ると、草壁と聡子が待っていた。陽平の姿はない。草壁の携帯電話と固定電話、それぞれに機器を設置するよう捜査員に指示した。犯人が公衆電話からかけてきた場合は、瞬時に場所が特定できる。いまどき、そんな間抜けな犯人がいたとしての話だが。

 大嶽は青ざめている草壁に尋ねた。

「犯人から電話は」

「あのあとはきてない。大嶽、すまない」

 草壁は巨体を折り曲げて頭をさげた。返す言葉が見つからなかった。

「とにかく全力で事にあたるしかない。陽平君は?」

「二階の部屋に行かせてる。疲れてるみたいだったから」

「悪いが、事情を聞きたいから呼んでくれ。ぜひ直接話を聞きたい」

 聡子と一緒に降りてきた陽平は、居間にいる捜査員たちに物怖じすることもなく、大嶽の質問に答えた。どうやって二人で計画したのか、二日間どこで過ごしていたか等については簡単にすませた。

 問題は陽平が、森たばこ店での強盗事件の何を目撃していたかだった。大嶽は微に入り細にうがって訊き出そうとしたが、得られた情報は少なかった。

 陽平が店の外で待っていると男が飛び出してきて、直後にシオンが出てきた。シオンは陽平にも気づかずに男を追っていった。おばあさんに危ないから家に帰りなさいと言われ、言う通りにした。

 それだけだった。子どもだし、本当に短い時間に起きた突然の出来事なのだからしかたがないだろう。

「ありがとう、もう二階で休んでていいよ。また話を訊かせてもらうかもしれないけど、そのときは頼む」

「なんでも聞いて。僕、シオンねえちゃんを助けるためならどんなことでもするよ。悪い奴なんて許さないんだから!」

 たくましい言葉を残して陽平が自室へ戻ったあと、大嶽は署へ報告を入れてから草壁に言った。

「教えてくれ。おまえはなぜ、鹿野シオンの父親だなんて答えたんだ?」

「いや、おれは別にそんなつもりじゃなくて、ただ……」

 しどろもどろである。

「ただ、なんだ?」

「話の流れで、気がついてみたらそうなってて、違うと言おうとしたときには電話が切れてて」

「犯人との電話の内容を、もう一度正確に教えてくれ」

「最初にかかってきた電話では、子どもを預かってるから金を用意しろとだけ言われたんだ。ところが直後に陽平が帰ってきたもんで、そこですっかり安心してしまった。で、電話のことをすっかり忘れちまった。気持ち、わかってくれるか」

 たしかにそうかもしれない。現にひとり息子が目の前にいれば、とりあえず安心してしまったとしても責められない。

「しかも陽平から、シオンって女の子と二人で狂言誘拐を計画したんだって聞かされて、ごめんなさいと謝られた。電話のことなんてすっかり忘れてたところに、今度は突然、おまえの娘を預かってるから一億用意しろっていう。そのときおれの頭がまっ白になったしたのもわかるだろ?」

「一歩ゆずって、おまえの混乱ぶりは理解しよう。わからないのは、相手に向かってなぜはっきりと、うちには娘なんていないと言わなかったかってことだ」

「なんでだろうな……わからない」

 俺もいまだにおまえがよくわからん、と大嶽は思った。

「ただな、これはあとから(あのときおれは無意識にこう考えたんじゃないか?)と自分で思ったことだけど、陽平からシオンの両親は外国にいるって聞かされてたもんだから、おれが父親代わりになってやらないとダメなんじゃないかって……」

「だからそこがおかしいんだって! なんで縁もゆかりもないおまえが、その娘の父親代わりになろうとする」

「でもシオンって娘は、本当に陽平を心配してくれてたらしいから、たぶん感謝したい気持ちだったっていうか……わからないが」

 堂々巡りだった。気持ちを切り替えよう。起きてしまったことはしょうがない、今後に全力を注ぐほうが懸命だ。

「おれはこれからたばこ店へ行って詳しい事情を訊いてくる。もしその間に犯人から電話が入ったときは、この人の指示に従ってくれ」

 草壁家には大嶽のほかに三人の捜査員が詰めていた。草壁家の責任者である菅原は、大嶽より五歳ばかり上の現場経験が豊富な男だった。

「銀行が閉まっているから、今夜中に金の受け渡しをするような話にはならないと思うが、万一犯人がそう言ってきた場合には、とにかく一生懸命金を集めているからと言ってくれ。むずかしいかもしれないが、相手を刺激しないように時間を稼いでほしい」

 わかったと答える草壁の目がわずかに泳いだ。心配だ。後ろ髪を引かれる思いで大嶽は森たばこ店へと向かった。