世界の裏庭

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『事件家族』第1章-6

 

     ☆

 

 聡子は二人が戻るとコーヒーをいれるかと尋ねた。大嶽はお願いしますと答えた。

 電話が鳴った。

 草壁は電話を見つめ、それからすがるようにこちらを見た。ジャスト十二時だ。しんとした室内に、やけに大きな呼び出し音が断続的に響く。

 大嶽は後悔していた。逆探知の手配だけでもしておくべきだった。そのときハッと思い当たって言った。

「別の子機はあるか?」

 草壁が反応し、太った身体に似合わぬ速さで二階へ駆けあがる。書斎のドアを開けたところで、大嶽は階下の聡子に向かって叫んだ。

「あと一回鳴り終わったら電話をとって!」

 コードレス子機の台座で、緑色の着信ランプが点滅していた。向こうの会話をこれで聞くことができる。

「俺がとるぞ」

 大嶽の言葉に、草壁がうなずく。呼び出し音が消え、緑色のランプが点灯に変わる。

 大嶽は祈るような思いで、そっと受話器を外す。

「もしもし、草壁ですが」

「……お母さん?」

 男の子の声だ。

「陽平? 陽平なのね!」

「うん」

「どうしてるの? 大丈夫?」

 沈黙が流れた。

「僕、大丈夫だよ。心配しないでいいよ」

「いまどこなの? どこにいるの?」

「お願いがあるんだ。今度電話がかかってきたら、その人の言うことを聞いて。そうしてくれれば大丈夫だから」

「ねえ、どこにいるのか教えてちょうだい!」

 電話は切れていた。大嶽は子機を戻し、小声で草壁に告げた。

「録音じゃないな」

「なんだって?」

「陽平君の声だよ。聡子さんの問いかけに対して、ちゃんと応答していた。録音したものを流していたなら、こちらの問いとは無関係に一方的にしゃべりつづけるはずだ」

「そういう意味か」

 万一録音だった場合、すでに生存していない確率が高まるだけに大嶽は内心胸を撫でおろした。同時に、自分の仮定がいよいよ現実味を帯びてきたなと思った。

 居間へ戻るとなるべく二人を不安にさせないよう、特に聡子を刺激しないように告げた。

「正直に言うので、なるべく冷静に聞いてください。今回のこの一件、俺は少し変わった家出じゃないかと考えている」

 大嶽の言葉に、草壁はどこかほっとした顔になった。聡子は困ったような、怒ったような表情を浮かべている。

「そうか、うん、それならよかった」

「勘違いしないでくれ。いくら俺が警察官だといっても見込みが絶対に当たるというわけじゃない。そして、家出だから安心という意味でもない。とりあえず現時点まででは、誘拐の線はうすそうだと個人的に思えるというだけの話だ」

「でも、現役ばりばりの刑事のおまえが言うんだから間違いないさ」

「気になってるのは、終始一貫して筋が見えないってことなんだ」

「筋?」

「陽平君は、卒業旅行へ出かけると言って家を出た。なのに、友だちは知らないという。脅迫電話が入るが、英語だ。そこに今度は、陽平君本人からの大丈夫だという電話。聞いていた限りでは、陽平君の声に特別怯えている気配もなかった。一つひとつが、何かちぐはぐな印象を受ける」

 いったん言葉を切って、二人を交互に見た。草壁は小さくうなずき、聡子は身じろぎひとつしない。

「もしこれが本物の誘拐事件だとしたら、犯人はもっと緻密に計画を練っているはずだ。その場の思いつきで誰かを誘拐するとは考えにくいからな。一般的にはあまり知られていないが、じつは誘拐事件は検挙率が非常に高い犯罪のひとつだ。その理由は、犯人が身代金受け渡しの際に家族や警察と接点を持たざるを得ないからなんだが、今回はその肝心の金の要求がない。つまり、金銭以外に何か他の目的があるんじゃないか。そう推測してみるべきかもしれない」

 草壁夫妻の頭に言葉が染みわたるのを待って、ふたたび話しはじめる。

「本音を言うと、現時点の状況で捜査として動けるかどうかは非常に微妙なところだ。それに何より相手が誘拐したと言ってるのは犬だしな」

「大嶽。変なことを訊くが、犬を誘拐するとどんな罪になる?」

「法律的には、器物窃盗罪だろうな」

「器物って……物ってことか? 犬は物扱いか?」

「俺もおかしな話だとは思うが、法律上はそうなってるらしい」

 犬を殺した場合には、その流れで器物損壊罪になる。だが草壁に食いつかれると、また話が妙な方向へ進みそうなので話を先に進める。

「脅迫電話の内容は、明日もう一度電話するから夫婦で家にいろ。そういう要求だと思う。現時点で相手が要求しているのは、それだけだ。ここまでの状況を上司に報告したら、これは家庭内の問題じゃないのかと突っ返される可能性が高いと思う」

「家庭内の問題なんかじゃありません。あの子は家出なんてする子じゃないもの」

 黙ってじっと聞いていた聡子が怒りを押し殺すような声でいった。場を和らげるために大嶽は提案した。

「これ以上憶測を重ねても仕方がないので、ひとつ頼みがあります。明日は一日家にいてください。もちろん草壁も一緒にだ」

「でも、電話がきたらおれたちはどうすりゃいい? そのときになって突然、金を持ってこいとか言われても、それからじゃ遅いぞ」

「それはないな。九十九%ない」

「残りの一%は?」

 聡子はなおも怒った調子で尋ねてくる。聡子に向き合って答える。

「犯人像を考えるときに、基本的には犯罪で利益を得るものは誰かと我々は考えます。単純な話、殺人事件が起きて被害者が亡くなった場合、利益を得るのは誰かということ。もちろん利益とは金銭のみを指すわけではなく、いろいろなかたちがありますけど。そしてその中で、最大の利益を得ると思われる人物から当たります」

 説明しながら、大嶽は今日の聞き込みを思い出していた。東京での強盗殺人事件もそうだった。警視庁が被害者の甥を追っているのは、直後に姿を消したということもあるが、犯行直前に甥が老人に金の無心をしていたとの情報が入ったからである。

「しかし今回は、犯人の利益に相当するものがさっぱり見えてこない。何を目論んでいるのかはわかりませんが、これだけは断言できます。陽平君の身に危険が及ぶ可能性はない。もちろん君たち二人にも」

「どうして断言なんてできるんですか」

「刑事の直感です」

 聡子はあきれた顔になり、草壁は満足げにうなずいている。とにかく今夜一晩を安心させるにはこれでいいと判断した。

「俺も乗りかかった船だから、明日は休暇をとって付き合うつもりだ。ここのところずっと休みもとれずに働きづめだったし、大丈夫だと思う。相手の目論見がいったい何なのか、俺も知りたくなってきた」

 今度休みがとれたら山に行ってみようと考えていたが、またお預けだなと頭のすみで思った。

「おれは、明日は会社に欠勤届を出してある」

「ほう、それは」

 偶然だなと言いそうになったが、そうではないなと思い直した。奴が考えそうなことが想像できたからだ。

 草壁は今夜、奥さんから離婚の話を切り出される予定だった。今夜は立ち直れないほどのショックを受けるはずだし、一睡もできないかもしれない。やけ酒も飲むはず。だから翌日はとても仕事ができる状況じゃないから、事前に休暇届を——。

 大方そんなところだろう。こいつは昔から妙なところだけ手回しがいい。

 

 草壁家を出ると、じきに鼻の頭がかじかんで痛くなってきた。すっかり深夜になっていた。

 大嶽はコートの襟を寄せて夜空を見あげた。たくさんの星々が、地上にいる誰かに何かを伝えようとまたたいている。空気は冷たかったが、どこかに春の気配がひそんでいた。

 

     ☆

 

 翌朝。

 大嶽は三時間ほど仮眠をとっただけで、朝の五時には草壁家にいた。妻におにぎりをつくってもらい、車の中で温かいお茶とともに腹に詰めこんでおいた。

 草壁家の電話が鳴ったのは、朝の七時ちょうどだった。電話をとるのは夫の草壁の役目と決めてあった。

「……はい、草壁ですが」

 相手は女性で、やはり英語で話している。大嶽は居間を見渡せる椅子に座り、子機を通して会話を聞いていた。

 電話の相手は若い女性という印象だった。それも、かなり若い。せいぜい二十代前半というところではないか。こいつが主犯なのか? それとも他に主犯がいるのか? もっとも現時点で、犯人という呼称がふさわしいかどうかは難しいが。

 電話の内容を聞きとりつつメモをとった。子機を通して聞こえてくる草壁の声は、必要最小限の同意と相づちだけにとどめられていた。指示していた通りで、逆探知などしていないのだから、会話を長引かせたところで意味がないと事前に伝えてあった。

 聞きとりやすい英語だった。草壁夫妻が英語に堪能ではないことを前提に、会話というより、ぶつ切りの平易な単語のみをならべている印象だ。最後に草壁が自分の携帯電話の番号を相手に伝えると、電話は切れた。

 メモ用紙には英語を書き留めてある。大嶽が顔をあげると、草壁が焦ったようすで言った。

「どうだ、わかったか?」

「ああ。でもあの英語だったら、草壁にも指示の内容はだいたい理解できたんじゃないのか」

「大まかなところはな。でも大嶽に教えてもらわないと、やっぱり不安だ」

 大嶽は持っていた英語のメモを翻訳して読みあげた。

「あなたたちは、二人でこれから指定する場所へ車で行く。昼の十二時。レストラン・ドメニカへ行く。ランチを注文して、二人で食べる。携帯電話は持っていくこと。最後に、かならず夫婦二人で行動する——以上だ」

 相手はなぜか、しつこいほど二人にこだわっていた。

「ランチを食べなさいって、どういう意味かしら」

「ドメニカという店には、行ったことがあるんですか」

「ええ。イタリア料理のお店で、家族で何度か食事したことがあります。といっても、最後に行ったのはもう四、五年も前になりますけど」

 何かを考えこんでいた草壁が言った。

「昼ご飯はすませておけってことじゃないか? きっとそこからまた連絡が入って、次の指示を出されるんだよ。たぶん体力勝負になるから、いっぱい食っておかなきゃな」

「そんなこと訊いてるんじゃないの。ごはんを食べておくようにという指示だけなら、家で腹ごしらえしておけばすむ話じゃない。どうしてレストランまで行って食べなさいなんて要求を出したのか、その理由がわからないって言ってるんじゃない」

 二人を取りなすように大嶽は告げた。

「疑問はもっともですが、いまここでその理由を考えてもはじまらない。次に指示がくれば、多少は筋が見えてくるかもしれない。一つだけならただの点だが、二つを結べば線になる。それにしても草壁、さっきの英語でよく携帯電話って単語がわかったな」

「ばかにするなよ、モバイルフォンぐらいわかるさ。でも最初は別の単語を言ってただろ。あれ、なんて言ってたんだ?」

「セル・フォンだ。英語じゃセル・フォンのほうが一般的だが、途中でモバイルフォンと言い直してた。やっぱり相手は日本語がわかる人間だという気がする」

「なんでそう思うんだ」

「途中からモバイルフォンに言い直したってことは、日本語じゃこっちのほうが通りがいいと知ってるんだと思う」

「英語圏で生まれた、日本語のわかる人物ってことか。ふむ、犯人像が絞り込めてきたようだ」

 草壁が指をあごに当てて言う。

「絞り込めるとまではいかないな。仙台市内に限っただけでも、英語圏出身の外国人の数は膨大だ」

「よし。そうと決まればさっそく出かけるか!」

「いくらなんでも早いんじゃない?」

 聡子が冷静に言った。時計を見ると、まだ七時半前である。

 彼女はゆうべは寝つけなかったからか、頬のあたりがげっそりとこけていた。わずか一晩で面やつれしているのは痛々しかったが、これが母親なのかもしれない。

 草壁も睡眠不足なのかもしれないが、まったく疲れたようすは見えない。

「まだ四時間以上あるのか。大嶽、それまでに何かやっておくべきことがあれば言ってくれ。おれにできることならなんでもやる」

 元気満々の草壁が、上司に指示を請う部下のような調子で訊く。

 本当の誘拐事件であれば、指定場所が判明した時点で即座に動く。犯人の出方を想定してチームを組み、指揮系統の確認と役割分担を徹底したうえで、所轄の警察署にも応援を要請して周辺を張り込むところだ。

 が、今回はそうではない。大嶽自身がこれは事件ではないと判断していた。万が一不測の事態が起きた場合は責任のそしりを免れないが——。

 大丈夫、自分を信じろ。

 

 たばこが切れていたので大嶽は買いに出た。

 変わった銘柄で自動販売機では売ってないんだがと草壁に言うと、少し歩くと品揃えの豊富なたばこ屋があるという。実際には酒屋だが店主にこだわりがあるらしく、品揃えが豊富でほとんどの銘柄があるはずだと彼は言った。

 道を教えるという草壁を制して家を出た。森たばこ店の場所なら知っている。昨日聞き込みをした森安明の実家だ。

 五分ほど歩くと古めかしい店構えが見えた。まだ時間が早いせいか入口にはシャッターが降りていたが、角に当たる部分だけはすでに開いていた。

 ガラス戸の向こうに小柄な老婦人がちんまりと座っていた。少し年がいっているが、彼女が母親だろうと大嶽は思った。

「いらっしゃいまし」

 小さなガラス戸を開けて、愛想のよい笑みで言った。

「こんなに早い時間から開いてるとは、驚きました」

「朝の早いお客さんが多いものですから。何を差し上げましょうか?」

「アメリカンスピリットは置いてますか」

「置いてございますとも。ナチュラルアメリカンスピリットの何を?」

「黄色いやつ、ありますか」

 驚いた。言い終わるか否かのうちに、すでに台の上に黄色いたばこが一個のっていた。年に似合わぬ素早さである。

「すみません、二個ください」

 すでに、もう一個が台の上に並んでいる。

「びっくりだな」

 老婦人がにこりと笑う。白髪の下にある顔にきれいなしわが寄っている。

「誇りを持っておりますんです」

「誇り?」

「お客さまをお待たせしたくないのです。自動販売機にだって負けたくありませんし、わたくしはこのたばこ屋という商売に誇りを持っておりますんです。もうこの仕事をはじめて五十年以上にもなりますから」

 嫌煙運動が大きな成果をおさめる一方で、廃業するたばこ屋は激増していると聞くが、健闘している店もあるのだと感心した。五千円札を渡しながら店内のようすをうかがうと、シャッターに隠れた場所には驚くほど広いたばこの陳列棚があった。

「国内はもちろん、アメリカから輸入している銘柄はほとんど揃っております。品揃えの豊富さが当店の自慢なのでございますよ。わたくしはもともと舶来たばこを中心に扱っておりましたもので」

 そこで何かを思い出したように、いったん口を結んだ。

「申し訳ございませんねえ。こう年をとりますと、すぐに無駄口ばかりするようになりまして。主人にはいつも注意されるのですが、つい」

「面白そうです、ぜひ聞かせてください」

 大嶽は買った箱を開け、一本たばこを取り出して火をつけた。店先にはスタンド式の灰皿が用意してある。目の前には小さな公園があった。敷地内には二階建ての建物があり、公民館と児童館の名称が書かれた看板が見えている。

 戦争後、仙台にも進駐してきたGHQから、彼女の父親はつてを使ってたばこを入手し、販売していた。当時まだ珍しい舶来たばこは、数少ない富裕層によろこばれた。彼女は十代のころから仕事の手伝いをしてきた。

「おかげさまで、その後酒販免許もとることができましてね。ですからうちは、申してみればたばこのおかげで、こうしていまも商売させていただくことができているわけでして」

「なるほど、それでたばこに誇りを」

「たばこはいまのご時世、たいそう嫌われておりますけれども、ほどよくたしなまれますぶんには、精神的な安息をもたらしてくれるように思います。昔から毒と薬は裏表とも申しますし。わたくしなどは毒のない人生などつまらないような気もいたしますけれど、どうなんでございましょうねえ」

 毒のあることをさらりと告げると、口に手をあてて優雅に笑う。たばこを灰皿で消したとき、大嶽はふといたずら心を起こした。さっき彼女が話すのを聞いていて、気づいたことがあった。

 大嶽は空を見あげて「ビューリィフル・レインボウ」とつぶやいた。と、老婦人は反射的に、ガラス戸から身を乗り出すように空を見あげた。

 青空が見えてはいるが、虹など出ていない。きょろきょろと虹を探すようすを眺めていると、視線に気づいたのか彼女は照れ笑いを浮かべた。

「いやですよ、年寄りをおからかいになって」

「やはり、英語を聞き分ける耳を持ってらっしゃる」

「GHQの方々とお付き合いがありましたので、多少は。ふだんはすっかり忘れていますのに、この年になってもまだ、ときどきとっさに英語に反応してしまうことがあるんです」

 さっき大嶽が告げたたばこの銘柄をくり返す際、彼女はカタカナ言葉とは異なる発音で復唱した。だから、もしやと思ってかまをかけてみたのだ。

 たばこ屋の店番をしている白髪の老婦人が、よもや英語に堪能とは思わない。それが思い込みというものだ。

 大嶽は、草壁家にきた脅迫電話を思い出していた。

 女の発音はネイティブに近かった。しかし、だからといって外国人とは限らないのではないか。英語圏で生まれ育った、帰国子女という可能性だって考えられる。

「吸い過ぎにはご注意くださいませね。くれぐれも、薬が毒になりませんよう」

 老婦人は最後に品の良い笑顔でそうつけ加えた。大嶽は愛想笑いを返して草壁家へ急いだ。

 

     ☆

 

 聡子は二階の仕事部屋にいた。

 昨日の夜からメールチェックをしていなかったから気になっていた。こんな状況なのにバカじゃないの? 自分でそう思わないでもない。

 何もなければいいけどと思いつつ画面を開くと、四件メールが届いていた。注文は二件で、あとは問い合わせだったが、わずらわしい気持ちの中にうれしい気持ちがある。

 お店を開いているのだから、注文があるのはよろこばしい。しかし息子の行方がわからないときに、息子をとり戻すために必死で動き回ろうという矢先に、少しの時間を見つけてまでディスプレイに向かっている自分。

 中毒なのかもしれない、と思う。仕事中毒なのかネット中毒なのは定かではないが、罪悪感に似た複雑な感情はある。両手のひらに顔をうずめて、しばらく目を閉じた。それから机の上に置いてある携帯から電話をかけた。

「はい」

「あ、藤間さん? 聡子だけど、ごめんね、いま話しても大丈夫?」

「全然大丈夫です。バイトですか?」

「そうなの。今日は、藤間さんの都合はどうかな」

「相変わらずひまなので、ぜんぜんオッケーです。なんなら、いますぐ行ってもいいぐらいですけど」

「助かるわ。いますぐじゃなくていいけど、九時ぐらいまでにきてもらえるとうれしいんだけど」

「了解です」

 ほっとして聡子は電話を切った。電話の相手は、忙しいときに手伝ってもらう大学生のアルバイトだった。学校へ通っているようすはあまりないから、ニートなのかもしれない。

 ネットショップへの注文や問い合わせは、深夜と週末に集中する。メールの返信は聡子ひとりで対応できるものの、注文が重なって梱包や発送作業をさばききれないときに頼む。半年ほど前に町内会の行事で知り合い、試しにバイトを頼んでみたところ手際がよかったので、以来週に二度きてもらっている。

 

 九時五分前に亜子がやってきたので、夫と大嶽に簡単に紹介してから、二階の仕事部屋へ入った。聡子が今日一日でやってもらう作業を大まかに説明する。

「今日は一日いないと思うけど、作業が終わり次第鍵をかけて帰ってもらえるかな。これ」

 聡子は、亜子に家の合い鍵を渡した。部屋を出ようとした聡子に彼女が声をかけてくる。

「なんか、ものものしいですね」

「うん、ちょっと」

 ぎこちない笑みを返して部屋を出た。リビングに戻ると大嶽の姿はなく、サッシの前に立って外を眺めていた草壁がふり返った。

「ところで昨日の夜、話があるって言ってたのが気になってたんだけど、いったいなんの話を……」

「その話は、今日はよしましょう。よけいなことを考えて、二人とも集中力を欠いて何かあったらことだもの」

「そんなことにはならない」

「あなた、ふだんから集中力がないから」

 草壁は怒ったような情けないような、複雑な表情をした。

「おれの場合、集中力がないわけじゃないんだ。ただ、人よりちょっと分散力が強いというか」

 まだ家族だったころなら、きちんと家族が家族として機能していたころだったなら、笑ったのかもしれない。でもいまはまるで笑えない。

 同じような軽口なのに、同じように笑うことができない。問題はこの距離感なのだ、と聡子は思う。

「ちょっと外の空気を吸ってくる」

 気まずい空気に耐えかねたのか、草壁は部屋を出ていった。

 聡子は床にぺたりと座ると、誰もいない広いリビングをあらためて見わたした。ひとり取り残された気分になり、とたんに心細くなってくる。草壁は、昨夜聡子が何を言い出そうとしていたのか、どんな話をしようとしていたのか想像がついたに違いない。

 昨日あんな事件が起きなくて、予定通りに二人きりで別居の話をしていたらどうなっていただろう……頭を強くふって、その仮定を追い払った。

 重大な話を切り出そうと決心した日に、よりによってあんな出来事が起きてしまい、別居の話はお預けになってしまった。残念というより、心のどこかでほっとしている。考えに考えて決めたはずの結論が揺らいでいた。

 草壁家はもう何年も前から、家族としての体をなしていない。けれど家族をつづけていく確信も持てない代わりに、別居に踏み切る決心もつけられずにいる。家族という容れものに穴が開いているのだ。

 もちろん、修理してそれを使いつづける選択肢はある。聡子はその思いでここまでやってきたつもりだった。本当にもう修繕できないのだろうか?

 大切に使ってきたつもりだったけど、ふさいでもふさいでも見えない小さな穴から水が漏れる。これ以上修理したところで、根本的に水漏れが直る見込みはきわめて低い。直るかもしれないけど、すごくみっともない姿をさらすだけかもしれない。

 昨日まではそう思っていた。でも今朝になってみたら、自問するもうひとりの自分を発見した。

 これで終わり? 本当に、本当にそれでいいの?

 もう何も考えられなかった。疲れてしまった。聡子は両手で顔をおおう。泣くのかなと思ったけど、涙は出てこなかった。悲しいという感情すら鈍磨しつつあった。

 陽平さえ無事で戻ってきてくれたら、と寝不足でよどんだ頭で考える。あの子さえ元気で帰ってきてくれたなら、先のことはそのときにもう一度考えよう。

 玄関のドアが開く音がした。草壁か大嶽が戻ってきたらしかった。

 今日は何があっても、陽平をこの手で抱きしてあげよう。聡子は立ちあがると、両の頬をぴしゃりと叩いて活を入れた。

 

     ☆

 

「さてと、何にしようかな。きみはなに食べる?」

 草壁の問いかけに、むっつりと黙りこんでいた聡子が答える。

「食欲なんてない。あるわけないでしょう」

「食べなきゃだめだ。どこで誰がこっちのことを監視してるかわかったもんじゃないんだからな。電話で指示された通りにしないとだめだ、陽平を無事救い出すためにもさ」

 レストランの席でそれぞれメニューを開きながら、二人はごく小さな声で話していた。

「でも、こういうのって久しぶりだよなあ」

 草壁は必死に気持ちを盛りたてようとするのだが、聡子はいっこうに反応してくれない。気持ちはわかる。草壁だって同じ心境だ。でもこんなときだからこそ、せめて空元気を出さなくちゃいけないと、自分に言い聞かせていた。

「二人きりでレストランで食事するなんて、なんか独身のころに戻ってデートしてるみたいな気分になってくるよ」

「なにをばかなこと……こんなときに何を食べるとかデートみたいとか、ほんと信じられない」

 聡子は怒りを抑えた低い声で、言葉をテーブルの上に吐き捨てる。

「電話がきたらすぐに動けるように、気は引き締めてるから大丈夫だ。だから食べるときぐらい……」

「あなたって人は、食べることばっかり」

 心底うんざりしたという感じの言葉に、さすがに草壁もかちんときた。

「人間だって動物だって、食べていかなきゃ生きていけないだろうが」

「あなたの場合は食べ過ぎなのよ」

 ウエイトレスがやってきた。食欲なんてないから何を食べても同じだと聡子が言うので、彼女の分はパスタランチにした。

 草壁は迷った末、コースランチBを注文した。陽平のことを思えば、正直なところ食欲はまるで湧かない。ただ、夫である自分がめしものどを通らないほど落胆していたのでははじまらないと思う。

 無理をしてでも豪快に食っているところを見せてやる。能天気な大食らいに見えたって構わない。危機に際して、いざというときには頼りになると、たとえ今日一日だけでも妻に感じさせてやりたかった。

 そして陽平を無事取り戻したら、正々堂々と離婚の話し合いに応じよう。

「ねえ、前々から思っていたんだけど、三、四年前から急にたくさん食べるようになったでしょう。それでこんなに太っちゃったんだと思うけど、何か原因でもあったの?」

 何度か話そうと思ったけれども話すきっかけがつかめずにいたことを、告げるべきだと草壁は思った。

「ストレスだ。辛いことを忘れられるのは食事している時間だけで、それだけが楽しみだった。そのうちいくら食べても満腹感を感じなくなった。理由ははっきりしてる。四年前の人事異動のときからだ」

「人事異動?」

「じつはおれ、いま係長なんだ。降格人事があって、課長から格下げになっちまった」

「どうして、そんな……ぜんぜん知らなかった」

 聡子は口もとに手をあてて驚いている。それはそうだろう。降格人事なんて、自分も想像できなかった。

「何か大きな失敗でもしたの」

「してないよ。してないと思う。少なくとも、自分ではっきりとわかるほどのミスはやってないつもりだ。致命的なミスでもして会社にでかい損失を与えたとか、社会的信用を失墜させたとか、そういうはっきりした理由があるんだったら、あんなに苦しまなかっただろうな」

 草壁は縁故入社でいまの広告代理店に入社していた。父が一代で築いた量販チェーン店は、当時めざましい勢いで拡大していた。けれども他地域から全国区の大手量販店が進出してくると、資本力の差はいかんともしがたく、見る間に凋落の一途をたどっていった。入社後しばらくはかなりの広告出稿をしていたが、徐々に扱い高は減っていき、やがてぱたりと途絶えた。

 それが降格人事の理由かどうかはわからない。影響しているのだろうし、長引く不況の中、他の仕事でも売上げが上げられなかったことも関係しているはずだ。好調のときはいいが、不調のときに仕事をつくり出す才覚はない。ようは、使えない営業との烙印を押されたわけである。

 ランチが運ばれてきた。草壁は口の中に押し込むように食べたが、聡子はスパゲティをフォークでいじっては、思い出したように一、二本口へ運ぶだけだった。

「おれ、二重人格なのかもしれない。最近そう思うようになった」

「それ、病気ってこと?」

「そういう意味じゃなくて、酒を飲むと人格が一変するんだよ。仕事がうまくいかなくなってやけ酒を飲むようになっただろ。前はそんなことなかったのに、夜中まで飲むともう自分でもわけがわからなくなって……」

 気がつけばバーの女と浮気していた、と、口を滑らせそうになり、すんでのところでコップの水と一緒に呑みこむ。

 あぶなかった。そう思う一方で、いっそ何もかも告白してしまったほうがすっきりするかもな、とも考えている。

 しばらくの間、黙々と食事をした。食後のコーヒーをひと口飲んだとき、携帯電話が震えた。草壁は聡子に目顔で知らせると、席を立って出口へ向かった。

 

     ☆

 

 昼過ぎの十二時四十分、大嶽はレストランに面した道路に停めた車の中でコーヒーを飲んでいた。妻が魔法瓶に入れて持たせてくれたのだ。

 草壁の家は午前十時に出た。指定された時刻の二時間前だった。草壁たちはまっ赤なアウディ・クーペで、大嶽は自家用車のカローラでここまできた。考えようによっては、白のカローラほど張り込みに適した車種はない。これほどどこにでも溶け込み、目立たない車もないからだ。

 草壁夫妻が席に向かい合って食事をしている姿が、大きな窓ガラスを通して見えている。大嶽は店から距離をとって停車しているが、向こうに動きがあればすぐわかるように合図を決めておいた。

 駐車場内に停車している車は五台。周辺は仙台郊外の住宅街で、犯人が身を隠して店内を監視できる場所はなさそうに思えた。逆に大嶽の存在が相手に知れる可能性も高いわけだが、いまのところ目立った不審車両や人影は見当たらない。

 ときおり薄日が射すものの雲が多くなってきた。エンジンをかけて車内を暖めたいほど寒かったが、それもできない。白い排気ガスで車内に人がいると勘づかれる怖れがある。シートも倒して、フロントガラスからかろうじて外が見える程度にして、神経を張り詰めていた。

 張り込みには慣れているが、寒い季節はやはりつらい。せっかくの休みの日に、とは努めて考えないようにした。陽平が無事戻ってくるのであれば何ほどのこともない。

 子どもはかならず元気で、絶対に家へ帰ってこなければならない。小さな子どもたちに責任と義務があるとすればそれだけだ。スポーツが苦手だろうが勉強が嫌いだろうがゲームが下手だろうが、そんなことは屁でもない。

 子どもは親が待つ家に帰ってくるべき存在だ。

 そうでなければならない。なぜなら親というのは子どもが帰ってくるまで、いつまでも、いつまでも待ちつづけてしまうものだから。

 誘拐犯が、身代金受けとりの際に家族をあちこち引っ張り回すのは、よくある手口だ。犯人が姿をまぎれさせるために人混みの中を指定してくる場合もあれば、逆に人目がまるでない人里離れた場所へ行くよう指示することもある。

 ただし今回の相手は身代金を要求してはいない。それが大嶽の頭を悩ませている最大の要因だった。

 店に目を戻したとき、入り口ドアの向こうに草壁の巨体が現われた。携帯を耳に当て、何度もうなずくようなしぐさをしている。直後、大嶽の携帯に草壁から連絡が入り、犯人からの指示を簡潔に確認した。

 聡子が手回しよく会計をすませていたらしく、すぐに二人は店から出てきた。草壁は太った身体を使って、身振り手振りでしきりに何かを話しかけている。聡子はうつむき加減で小さくうなずいている。

 アウディに乗り込んで駐車場から出るのを見届け、数分待ってから、ゆっくりと車を発進させて次の指定場所へと向かう。二番目に指示されたのも、また妙な場所と行動だった。

 大嶽はある仮説を立てていた。まだ確信を持つところまでには至らなかったものの、犯人の意図と思惑が、かすかに見えてきた気がしていた。

 

     ☆

 

 指定された遊園地は予想していたほど客が多くはなかった。郊外にあり、市街地からは車で東方向に三十分ほどだ。広大な敷地の周囲は山と木々に囲まれている。

 犯人から草壁が受けた指示は、正確にいえば次のようなものだった。

 三時までに二人で、指定した遊園地へ行く。入場券を買い、大観覧車に乗る。ただし、かならず二人で。

 観覧車。想像しただけでも、草壁は尻の辺りがむずむずしてくる。

「早く行きましょう。ぐずぐずしてる暇はないんだから」

「……ムリ」

「まだそんなこと言ってるの。無理とか無理じゃないとか、そういう次元の話じゃないでしょう。陽平のために昼ごはんはお腹いっぱい食べられても、高いところにはのぼれないっていうの?」

「けど、本当に苦手なんだって。小さいころからずっとだめだったんだから。はしごをかけて家の屋根にのぼるのだって、震えて足がすくんだぐらいなんだ」

 無言のままで聡子は助手席のドアを開けた。とたんに強い風が車内に吹き込んでくる。火が出そうな目つきで彼女は睨みつけてきた。

「わかった。行くよ、いま決心した」

 草壁は車から出ると、なるべく不自然にならないように白いカローラのほうに目をやった。大嶽が小さく手をあげるのが見えた。

 こんな開けた場所のどこかで、こちらから判別できないように犯人が監視しているとはとても思えなかったが、絶対とは言い切れないし、大嶽もとにかく指示通りに行動しろと言った。

 二人分の入場料を払うと、聡子はさっさと観覧車に向かって歩いていく。案内板など見るまでもなく、園内のどこからでも見えるほど大きな観覧車だ。なるべく見あげないようにするが、嫌でも目に入ってくる。

 いちばん上まで行ったら高さはどれぐらいになるだろう。五十メートルぐらい? まさか百メートルはないよな? そんな高い空中に自分が浮かんで、足の下には地面までいっさい何もないなんて信じられない。

 さらに信じがたいのは、わざわざお金を払ってそんなくだらないものに乗りたがる人間が存在する、という事実だ。

 しかし、乗りたがる人間はほとんどいなかった。少なくともいま現在この遊園地内には、観覧車に並んでまで乗りたがる物好きな人はいない模様だ。近づくほどに巨大さがはっきりとわかる。

 ぜひとも行列ができていてほしい——草壁のそんな願いはあっさり絶たれた。少しでも、一分でも二分でも構わないから乗る時間を遅らせたかった。聡子が券売機で乗車券を二枚買い、係員へ近づいていく。

 草壁の頭にひらめくものがあった。窮地から逃れるためなら、人間、知恵は働くものだ。そう。体重制限があるかもしれないではないか。望み薄ではあるが、アトラクションの中にはジェットコースターのように体重制限があるものがある。観覧車もきっとそうだ、そうであってくれ。

 願いをこめて、係員にさり気なく訊いた。

「観覧車には、体重百キロの人間は乗れないでしょう?」

 アルバイト学生とおぼしき若い男の係員は、草壁をちらりと一瞥しただけであっさり答えた。

「ぜんぜん平気っすよ。定員四人ですから」

 年貢の納めどきか。そう思ったとき、風が吹いた。

 みっともないが、最後の望みはこの風だ。強風により運行停止。そんなシナリオを思い描いてみる。怖くて乗らないというわけにはいかないが、不可抗力であればしかたがないのではないか。ふたたび恐る恐る尋ねると、バイトの彼はこう言った。

「この程度の風じゃ止まりませんよ、強度は充分ですからね。ただし、多少は揺れると思いますけど」

「もう、いいかげんに観念なさい!」

 係員がチェーンを外すと、聡子は無理やり腕を引っぱり、ゴンドラの中へと草壁をおしいれた。

 箱が、ゆらーりゆらーりと揺れた。少しずつ少しずつ高度を上げていく。未練がましく地上を見ていると、かなり離れた場所に大嶽が立っているのが見えた。のんびりとコーヒーを飲んでいる大嶽の姿が、どんどん小さくなっていく。空へと近づいていくにつれて、尻のむず痒さが増していく。

「そういえば、いまのあなたのへっぴり腰で思い出したわ。たしか前も、こんなことがあったんじゃなかった?」

「おれが、この観覧車に乗ったって意味か? あり得ないって、そんなの。いまだって、陽平のことがなかったら絶対絶対乗ってないんだから。だって、とにかくおれは高いところが……」

 と、記憶の端を何かがかすめて過ぎた。

 そうだった。観覧車に決死の覚悟で乗ろうとして、ゴンドラに足までかけて、すんでのところで降りたことがあった。あやうく観覧車を停止させてしまうところだったのだ。

「ほら、陽平がまだ小学校の一年か二年のころ、夏休みに遊びにきたことがあったじゃない。陽平が観覧車に乗りたいって言って、あなたが度胸を決めて乗るって大みえ切って。でも乗る寸前に、やっぱりだめだって降りちゃった。ほんと、最後の最後で意気地がないんだから。あのとき陽平、すごく悲しそうな顔で窓にほっぺを押しつけて、下にいるお父さんのこと見てたのを憶えてる」

 そういえば、どんどん上がっていく観覧車のゴンドラに向かって、ほっとして手を振った記憶がよみがえってくる。

 そんなことがあったな。さっきのレストランでも——。

「なあ聡子。さっき入ったレストランも、おれたちが昔何度か行った店だったよな」

「陽平が小さいころにはちょくちょく行ってた。あのお店、子どもが一緒でも歓迎してくれたし、外にテラスがあってチャンプも連れて行けたから、陽平はすごくお気に入り……」

 ハッとした顔で、聡子が草壁を見た。

「もしかして、犯人が陽平から話を聞いてるってことじゃないか? 小さいころに行った店や場所を聞き出した上で、指示してるとか」

 聡子は両の手のひらを合わせ、唇の前に立てて真剣に考え込んでいる。ゴンドラはすでに最高到達点へと近づきつつあった。

 不思議なことに草壁から恐怖心が消えていた。いま自分が口にした言葉が、陽平の安全を担保することになるのかどうかはわからない。しかし今回の一連の騒動が、残酷な結末とは結びつかないという直感がはたらいた。

 少なくとも陽平と犯人との間には、ある程度の意思疎通がある可能性が高い。

「まだ、心の底からは安心できないけど」

 聡子が手をほどいて言った。慎重な物言いだった。

「電話してきた相手が、陽平から思い出を、家族がいちばん楽しかったころの思い出を聞きだしている。それは間違いない気がする。さっきのレストランもこの遊園地も、まだわが家が家族らしかった時代に行ってた場所だもの」

「なんだか大昔みたいな言い方だな」

「すごく大昔でしょ。父親としてあなたが子どもと接していたのは、白亜紀末期ぐらい昔のことじゃない? ちょうど恐竜が絶滅したころ」

 聡子の軽口が、今回の出来事の明るい結末を暗示している気がした。ゴンドラはゆるやかに下降しはじめていた。

「ねえ、初めて陽平がひとりでお泊まりした日のこと憶えてる?」

 自分にとって分の悪い方向へと流れている感じがしたから、草壁はあいまいにうなずいておいた。

「あの子が、幼稚園で夏休みにキャンプへ行ったことがあったでしょ。あの夜も、久しぶりにあなたと私と二人で、あの店へ食事に行ったんだよ」

「そうだったな」

 本当は、そうだったかな? と言おうとしたのだが、忘れていることが伝わってはまずいと思って嘘をついた。おれは最近、嘘ばかりついている。

「女と男って、時間が経つにつれて、どんどん服を着替えていくの。独身時代に私は働く女という服を着ていた。学生のころからずっと憧れつづけていた服。結婚すれば、今度は妻という服に着替えることになる。でもまだ私のワードローブには、働く女性の服も残ってる。そのときどきで着替えることが許されている。でもね、子どもが生まれるでしょう? そうなったとたん、私は母親という服しか着られなくなった。どうやってもサイズが合わなくなって、他の服が着られなくなるんだよ。その服装でいることを、強制的に義務づけられてるみたいに」

 聡子が妊娠したとき、たしかに草壁はそうするよう彼女に求めた。

 草壁の両親は二人とも、自分が小さなころから働きづめだった。小学校に上がった当時は会社が急成長していたころで、父はもちろんのこと、経理を担当していた母親もほとんど家にいなかった。

 学校から家に帰ってからは、姉が母親代わりだった。おやつも夕食も、勉強するときの夜食までも姉が作ってくれた。姉には感謝しているが、淋しさは長い間消えなかった。父親とキャッチボールをしてみたり、母親に甘えたりもしてみたいと思いつづけていたのだった。

 両親が懸命に働いてくれたおかげで、物質的に不自由をした記憶はない。でも自分が家庭を持ったとき、妻には家にいてほしいとひそかに思っていた。

 聡子と出会い、付き合うようになってすぐに、彼女がキャリア志向だというのはわかった。結婚してからも働きたいという意志は尊重したものの、思いもかけず子どもができたと知ったとき、長く抱えていた気持ちを伝えた。会社の仕事が順調だったから、多少調子に乗ってもいた。

 息子には自分と同じ淋しい思いはさせたくない。何度も話し合いを重ねたつもりだったから、彼女は納得したものだとばかり思っていたが、そうではなかった。

 ゆっくりと近づく地面を眺めながら、聡子は静かに話した。

 あなたから、子どもを家で待っていてくれと告げられたとき、騙された気持ちだった。その気持ちは子育てをしながらもずっと消えなかった。忘れることができなかった。

 陽平が小学校に入って少し時間がとれるようになったころ、昔からの友人にネットショップという形態があると教えてもらった。どんなかたちでもいいから仕事をしたかった。妻でもなく、母でもなく、ひとりの女性として社会と関わるために。

「あなたが憎らしかった」

 草壁は動揺した。しかし妻が自分を憎んでいると、とうに気づいていたはずだ。ただ認めたくなかっただけのことではないか。

 決壊した川のような勢いで、聡子はしゃべりだす。

 あなたの仕事は順調そのものに見えた。さっきの降格人事の話を聞くまで、少なくとも私にはそう見えた。毎日毎日仕事や接待、加えてたまの休日も仕事がらみのゴルフばかり。大きな仕事も手がけていた。

 焦りを感じた。夫の仕事を支える妻の役割に徹しようと思ったけれども、心の底から納得することはできなかった。あなたがやり甲斐のある仕事をしている同じころ、自分は子どものおむつを替えたり、料理や洗濯をし、ただひたすら夫の帰りを待つばかり。

 仕事に打ち込めるあなたに、打ち込める環境にいられるあなたに、私は嫉妬していた。いったん切れてようやくつながった社会との糸は、もう二度と切られたくはなかった。

 

     ☆

 

 大嶽は離れた場所に停めたカローラから、草壁たちのようすをうかがっていた。

 周囲への監視も怠ってはいなかった。停車している車、レストハウスの中など、不審な動きをする人物がいないか、感覚を研ぎ澄ませて。

 観覧車に乗っている物好きは、草壁たちだけのようだった。草壁の巨体がこちら側の窓をふさいでいるので、遠目からでもすぐにわかる。そこでふと思いだした。あいつ、高所恐怖症じゃなかったか?

 携帯が着信した。ディスプレイを見ると、部下である細野の名前が表示されていた。非番の日に署から連絡が入るとき、いい話は多くない。

「なんでこんなときに」

 観覧車から目を離さないように通話ボタンを押した。

「大嶽だ」

「あ、細野です。すみません、お休みの日に」

「前置きはいいから用件だけ言ってくれ。いま急用中なんだ」

 急用中とはおかしな日本語だと考えていると、案の定細野は意味をとり違えた。

「すみません、お休みのところ。ですが、課長に連絡しろといわれたものですから」

「何があった?」

「あ、すみません。あの、例の件で新しい情報が入ったんですけど、いちおう大嶽さんの耳にも入れておいたほうがいいと」

「だから、例の件ってなんのことだ」

「すみません。東京の強殺事件の、例の容疑者です。じつは今日の昼前、また目撃情報が入りました。手配中の写真によく似た男がいたと」

「通報者と目撃場所は?」

「通報があったのは青葉区内のネットカフェの店長からです。その店で容疑者によく似た男に、店の女性従業員が応対したとのことです」

 細野が言った店の名前は、大嶽が数日前に当たったところだった。回った先に顔写真のコピーを置いてもらい、注意してもらうよう促していた。

「若い女性アルバイトみたいですけど、カウンター業務の最中に客として店内にいたそうです。店長が客の死角になるカウンター内側に、手配写真を貼っていたとかで」

「いつだ」

「昨日です。三月十日、午前十時二十八分の出店記録があります」

 不安がなくはない。警視庁から提供された写真は、画像は鮮明だったものの、いかんせん犯人の顔が平凡すぎる。やせ形でメガネをかけてぼさぼさ頭という、ネットカフェにはよくいそうなタイプで、特徴らしい特徴のない顔だった。

 容疑者の石黒は、警察に追われていることを承知しているはずだった。事件直後に姿を消したまま、その後一度も住まいに戻っていない。捜査員が張り込んでいる可能性を考えているからだろう。

 つまりよほど間抜けなやつでもない限り、変装ひとつせずに写真通りの外見で行動しているとは考えにくい。帽子やメガネの有無だけで人の印象は驚くほど変わるものだ。

 目撃者が若い女性の場合は思い込みが激しいケースも多く、あまり過度に期待しないほうがいいかもしれない。

「了解。もし進展があれば連絡をくれ。さっきも言ったように、いまちょっと手が離せないんだ」

「わかりました。何かあったら、また電話します」

 通話を切ってから、嫌な予感がした。細野はきまじめに過ぎるところがあるから、きっと何も新たな情報が出てこなくてもまた連絡をよこすに違いない。

 電源を切っておきたかったが、万一のこともあると思い直した。次に連絡がきたときのために、二つの携帯を瞬時にわかるようにしておいたほうがいい。

 赤の携帯は、誘拐用。ジャンパーの左ポケットに入れておき、運転中でも即座に左手で取り出せるようにしておく。

 黒の携帯は、強殺用。こっちはジャンパーの右ポケットだ。

 

     ☆

 

 ゴンドラが地面に着きそうになったとき、草壁の携帯が鳴った。相手が次の場所に指定してきた場所を聞き、草壁は首をひねった。

 電話の相手は、四時半までに天文台へ行けと言ってきたのだ。そこでおやつを食べろ、と。

 仙台市天文台は、この遊園地からさほど遠くない場所に去年の夏リニューアルオープンしたばかりだった。指定場所を伝えると聡子は黙りこんだ。

「もしかして、新しい天文台に聡子と陽平で行ったことがあるか?」

「ない。私もさっきから考えてるんだけど、でももしかして……」

「もしかして?」

「学校の課外授業か何かで天文台に行ったのかなって、ちょっと考えたんだけど憶えてない。私は行ってないと思う」

 新しい天文台へ、草壁家は行ったことがない。互いに口にはしなかったものの、さっきまでの楽観的な仮説ががらがらと音を立てて崩れていくのがわかった。

「場所はたしか、森ヶ丘だったな?」

「そうだったと思う。詳しい場所は知らないけど」

「公共施設だから、近くまで行けばたぶん案内看板があるだろう」

 できるだけ陽気な声を出し、駐車場の出口に向かって車を動かしはじめたとき、大嶽がレストハウスから出てきた。

「これで、さっきの推測は外れたことになるね」

「ああ、振り出しに戻ったな。でも悲観することはないさ、大丈夫」

 草壁のどこかで何かが引っかかっていた。しかしそれが何かが掴めない、もやもやとしたもどかしさが頭のすみにある。

 国道を市街地方向にもどった。ときおり川の渓谷が道路から見え隠れしている。このあたりにドライブできたことが何度かあった。二人ともまだ独身のころだ。

 あらためて考えると、夫婦や家族という関係は奇妙なものだ。夫と妻の血を半分ずつ分けた子どもをまん中にして、血のつながっていない男と女がそれを守ろうとする。いったいなんのために守っているのか判然としないまま。

 どうしておれは、聡子から離婚の話を切り出されそうになって狼狽したのだろう。世間体か? かたちのない世間が怖いのなら、いざとなってあたふたするぐらいなら、ふだんからもっと大事にしておけばいい。

 そんなことはわかっているが、簡単なことが簡単にできないからこそ、人間は悩むんじゃないか。

 ハンドルを右に左に切りながら、草壁は考えている。

 仕事は数字という見えやすいものを相手にするが、家族は数字で表わすことができない。それが自分のような男にとっては難しい。家族というのは軟体動物のようにぐにゃぐにゃしていて、曖昧模糊としてとらえどころがない。だから自分のようなタイプの男にとって、家にいるほうがストレスになる。会社で働いているほうがずっと楽なのだ。もっとも、降格人事以降は針のむしろとなっているのだが。

 家にも会社にも、おれの居場所はない。

 道路が二車線から四車線に変わったところで、右手に森ガ丘の住宅が見えてきた。信号を右折し、長い上り坂を少し行くとアウトレットモール、次いで交差点が見えてくる。

 直進すべきか右折かと迷ったとき、不意に聡子が叫んだ。

「違う! ねえ、いまきた道を戻って!」

「なんだよ、何言ってる? もうすぐなんだぞ」

 右折して直進した先に、白っぽい建物が見えている。あれが天文台に違いない。

「いいから、言う通りにしてってば!」

 草壁はブレーキを減速し、後続車をやり過ごしてから車をUターンさせて、いまきた道を引き返した。

「ここじゃない。天文台っていうのは、こっちのことじゃないの!」

「いったい何を言ってんだよ。せっかくここまできたのに。どこへ向かうつもりなんだ?」

「西公園よ、前に天文台があった」

「前の天文台に行ってどうするんだ」

「陽平が小さいかったころ、一度だけ西公園の天文台に行ったことがあったでしょう」

「……あ、そうか」

「私、大嶽さんに連絡する」

 聡子は自分の携帯で大嶽に電話してから言った。

「あの子がまだ幼稚園のころ、たぶん年中さんのころね。西公園にあった古い天文台にみんなで行った。おやつの謎が、それで解けたの」

 いいぞいいぞと、草壁はハンドルを叩いて言った。

「教えてくれ、おれたちはいったい何を食えばいいんだ?」

「お餅。公園の中にあった茶屋のづんだ餅。天文台でプラネタリウムを見た帰りに、あそこでお餅を食べた」

「づんだ餅。そうか思い出したぞ。たしか陽平が生まれて初めてづんだ餅を食べたのが、あの店だ」

「ずんだ餅じゃなくて、づんだ餅を食べさせなきゃいけないとか、わけのわからないこと言って」

「それで陽平がうまいうまいって、四つだか五つ食ったんだ。あいつ、あれで大好きになったんだよな」

 西公園は、広瀬川を見おろす高台にある公園だ。移転前にはその一角に天文台があり、すぐそばに有名な茶屋がある。天文台は郊外に移転したが、店はいまも営業している。

 草壁の腹がくうっと鳴った。草壁と聡子は声をあげて笑った。もう何年ぶりになるかもわからない一体感に、車内が満たされた。

「づんだ餅って聞いたら、腹へってきたぞ」

「また太るんだから」

「これが最後だ。おれは痩せることに決めた」

「ダイエット?」

「じつはおれ、階段をあがるだけで息が切れるような自分がいやでいやでしょうがなかった。おれは生まれ変わる。なあ、いまのおれは動物にたとえると何に見える? 正直に答えてくれ」

 聡子が言いよどんでいるので、草壁は促す。

「気にしないで言ってくれよ。そのほうが減量に燃える」

「……トド?」

 ショックを受けた。せめてカバぐらいかと予想していたから、そこまでひどいとは思わなかった。

「よし、おれはトドからイルカに変身する」

「残念だけど、トドとイルカは分類上、別種の生物だよ」

 聡子が冷静にいう。

「イルカはクジラの仲間なの。いくらなんでも、別の種に変身するのは無理だと思うけど」

 間違った知識を見過ごしにできない性格はわかる。が、ノリというものがあるだろう。

「なら……アシカは?」

「トドもアシカも、同じアシカ科」

「わかった。それじゃ、トドからアシカを目ざそう」

 理系は面倒だが、でも面白い。独身のころ、同じ感想を抱いた記憶がよみがえってくる。妻が久しぶりにひとりの女に見えた。

 トンネルを抜けるとすぐ交差点にぶつかった。これを左折すれば、すぐ西公園だ。

 

     ☆

 

 青葉山トンネルの先で信号待ちをしながら、おかしいなと大嶽は考えていた。

 草壁たちは西公園の旧天文台へ行き先を変更すると言ってきたが、建物はすでに取り壊されて跡形もない。携帯電話がまた震えた。右ポケット、今度は黒いほうだった。片手で携帯をとりだして話しはじめたとき、信号が青に変わった。

 舌打ちをして車を発進させ、右折する。

「大嶽だ」

「あ、細野です。何度もすみません」

 ウインカーを上げて、車を路上に停める。

「今度は何だ?」

「強盗事件が発生しました」

 よりによってこんなときに、と思った。

「現場は?」

「青葉区内のたばこ屋です。通報者は、たばこ屋の店番をしてたおばあさんです。一報を受けてたばこ屋へ行った捜査員が、犯人の人相や風体を訊きだしてて、ふと思いあたって、持っていた写真を見せたそうです」

 いつもこの男は気を持たすような話し方をするので、いらいらしてくる。

「だから、なんの写真だ」

「石黒です、東京で強盗殺人事件を起こした。写真を見せたところ、おばあさんが似てると言ったそうで。絶対とはいえないが、酷似してると」

「それを早く言え!」

 金を奪って逃げた犯人が、逃走先でふたたび犯罪を犯すケースは少なくない。たいがい金遣いが荒いし、逃走資金もすぐに底をつく。歩道橋を降りながら聞いた細野の話は、次のようなものだった。

 今日の夕方四時過ぎ、たばこ屋に男が刃物を持って押し入った。おばあさんがレジの中にあったお金を全部渡すと、犯人は「金庫の金も出せ!」と叫んだ。

 その先がよくわからない。ちょうどその場面に、外出から戻ってきた中学生の孫だか娘だかが遭遇したらしいのだが、その子は警察に通報するようおばあさんに言い残すと、驚いたことに、そのまま犯人の跡を追っていったというのだ。

 今回の強盗事件と、東京の事件とが同一犯である可能性が出てきたのだから、捜査一課が色めき立ったのも無理はない。

 容疑者である石黒洋太郎は、十年ほど前に仙台市内の私立大学に在籍していた。土地鑑もあるわけで、今回の犯行に及んだことも充分に考えられる。細野はつづけた。

「おばあさんはかなり年ですが頭はしっかりしているし、しゃべり方もはっきりしていると捜査員が言ってました。信用に値する証言かと」

 用事をすませたら署へ出ると伝え、電話を切って車の外へ出ると、道の向かいにある茶屋へと駆けた。

 

     ☆

  

 茶屋でお茶を飲んでいるとき携帯が着信した。画面を見た草壁は、あやうく縁台から転げ落ちるところだった。

 陽平の携帯電話からだった。

 これまでの電話はすべて番号非通知だった。陽平の携帯には何度かけても通じなかったのに、向こうから電話がきたのだ。

 慌ててボタンを押して叫んだ。

「陽平か! 大丈夫か? 元気なのか?」

「お父さん、ごめんね、僕……」

 陽平に向かって、草壁はなおも問いかけた。

「おい陽平、いまどこにいるんだ?」

「僕、いま、家にいる」

 びっくり仰天とはこのことだ。

「家って、うちのことか? あの、わが家なのか?」

 自分でも何を言っているのかよくわからない。

「うん、僕たちが住んでる家。いま帰ってきたところ」

「ひとりで?」

「うん……ひとり」

 家にいる? それが本当だとしたら、今日一日電話に踊らされていたのは、いったいなんだったんだ? 混乱しすぎて頭痛がしてきた。

「わかった、急いで帰る。いまお母さんと変わるから」

 陽平からの電話と知っておろおろする聡子に、携帯を渡してから駐車場へ走った。神社の横に無断で停めていた車を出し、参道で携帯を握りしめている聡子を大声で呼ぶ。

「早く乗れ! 家に戻るぞ」

 陽平と会話をつづけている聡子が助手席に乗ったところで、草壁はアウディのアクセルをぐっと踏み込んだ。参道から西公園通りに出ようとしたとき、向こうから大嶽が走ってくる姿が見えた。

 急ブレーキをかけて車を停め、外へ出た。

「陽平から電話が入った! いま家にいるっていうんだ」

「なんだって? 本当か」

 大嶽もけげんそうな顔つきだ。そりゃそうだ、草壁だってきつねにつままれたような心持ちだろう。大嶽が言った。

「じつはおれもいま会社から連絡が入ってな、急用ですぐに行かなきゃならなくなった。おまえたちには最後まで付き合うつもりでいたんだが」

「こっちはもう大丈夫だ。陽平が帰ってきたんだから、大嶽は仕事へ行ってくれ」

「なら、おまえの言葉に甘えさせてもらう」

「何いってんだ、昨日今日とおまえにどれだけ助けてもらったと思ってるんだよ。また電話する、陽平から詳しい話を聞いたら」

「そうだな。それを聞かせてもらわないと、今夜眠れなくなるかもしれん」

 大嶽が小さく笑った。

「本当に……本当に、ありがとうございました。お礼の言葉もありません」

 隣で聡子が深々と頭をさげた。顔をあげると目に涙が浮かんでいた。警察署へ向かう大嶽と別れ、草壁ははやる気持ちを抑えて家へ向かった。

 

 ところが、家に戻ると陽平はいなかった。犬小屋にはチャンプの姿もない。

 念のため、二階の部屋をすべて探してみようと階段をあがったところで、携帯電話が鳴った。

 ディスプレイを見ると、今度はまた非通知画面が表示されている。ふたたび緊張に身を縛られながら通話ボタンを押した。

「草壁ですが」

「てめえの子どもを預かってる」

 当然女の声だろうという先入観があったからか、男の声が聞こえてきたことで頭に空白ができた。

「金を用意しておけ。また連絡する」

 返答する間もなく電話は切れた。呆然としたまま画面を凝視した。

 金を用意しろ?

 金の話が出るのは初めだ。しかも陽平から、家にいると電話が入ったばかりではないか。なぜ電話をかけてくる相手が、女から男に突然変わったのか。

 いったい何がどうなってるんだ?

 首をひねりながら階段を降りていったとき、家の外で「陽平!」と叫ぶ声が聞こえた。慌てて玄関から飛び出すと、聡子が路上で陽平を抱きしめていた。

 草壁も駆けより、まとめて二人の肩を抱いた。陽平はしきりにごめんなさいとくり返し、聡子はもういいからと答えている。

 陽平が戻ってきた。

 朝からこわばりっぱなしだった全身の緊張がほどけていくのを、草壁は感じた。リードを受けとりチャンプを犬小屋に連れていくと、何か悪さをしでかしたと感じているのか、しっぽを足の間で丸めて、ごめんなさいとでもいうようにクゥンクゥンと鳴いて中へ入っていく。

 草壁と聡子は車の中で話し合ってきた。何があったのか、どこでどうしていたのか尋ねたいことは山ほどあるが、焦って訊き出そうとするのはやめよう、と。

 居間へ入ってソファへ座ったところで草壁は訊いた。

「陽平、腹は減ってないか?」

「ううん、大丈夫。ごはんもちゃんと食べてたし」

「そうかそうか、ならよかった。聡子、悪いけどコーヒーをいれてくれないか」

 湯を沸かしに聡子が消えたので、草壁は小声で言った。

「おい陽平、今日の夕飯、どこか外へ行って食べようや。焼肉とかピザとか、おまえの好きなもんでいいぞ」

「僕は家がいいな。今日は家で食べようよ。せっかく久しぶりに三人揃ったんだもん」

「それじゃあ家で食べるか。三人揃って旨いもんでも食おう。おまえは何がいい? なんでもいいんだぞ」

 少し考えてから陽平は答えた。

「ねえ、お父さん。どうして何も聞かないの? アッちゃんの実家に泊まりに行ったなんて、嘘だって知ってるんでしょ? 聞きたいことがあるんだったら、ちゃんと聞いてよ」

 草壁は思わずうなった。こいつはいつの間に、こんな大人びたことを言うようになったのか。

 一理ある。というより、明らかに陽平が言っているほうが正論で、筋も通っている。必要以上に息子に気を使い、中途半端に大人の対応をしようとした自分たちのほうが、ずっと情けない。

「わかった。それじゃお母さんがきたらそうしよう。陽平に聞きたいことは、本当は山ほどある」

「そりゃそうだろうな、あんなことしたんだから」

 窓の外はすっかり暗くなっていた。二人でしばらく外を眺めた。コーヒーとジュースがテーブルの上に置かれたところで、草壁はおもむろに話を切り出した。

「まずは昨日の夜、どこに泊まってたのかから教えてくれないか」

「シオンねえちゃんの、おばあちゃんの家」

 最初からわからない名前が出てきた。草壁が聡子を見ると、彼女も首をひねっている。

「そのシオンねえちゃんって、誰だ?」

「シオンねえちゃんは、児童館にきてる人で……」

「ちょっと待って」

 聡子が割って入った。

「そんなふうにばらばらに聞いていくよりも、時系列に沿って話させたほうがいいんじゃないかしら」

「時系列ってなに?」

 陽平が聞き返す。話が混乱しそうだったので、草壁は提案した。

「それじゃこうしよう。お母さんに、まずは順番通りに質問してもらう。途中途中で、気になったことをお父さんが聞く。それでいいか?」

「わかった。聞かれた順番に答えればいいんだね」

 草壁が目で促すと、聡子はひとつうなずいて言った。

「アッちゃんと卒業旅行に行くというのは嘘だったわけだけど、そのことはアッちゃんは知ってるの?」

「知らないよ。何も話してないもん」

「卒業旅行へ行くというのは、いつ、誰から出た話なの?」

「シオンねえちゃんと児童館で話してるときに、シオンねえちゃんが言ったんだ。こういうのをキョーゲン誘拐っていうんだよって」

「狂言誘拐」

 聡子と草壁の声がダブった。聡子は咳払いをひとつして冷静に質問をつづけた。

「ということは、陽平とそのシオンっていう女の子と二人で、今度のことを計画したのね。そのおねえさんは何歳で、どういう人なの?」

「名前は、鹿野シオンっていうの。今度、中学三年生になる。小学校の児童館で会って友だちになったんだ、ボランティアしてるから」

 我慢できずに草壁は口をはさんだ。

「おれからも聞きたいことが二つある。どうして陽平じゃなくて、チャンプを誘拐したんだ? それと、なんでシオンねえちゃんは英語で電話してきた?」

「二番目の質問から答えるね。シオンねえちゃんは、アメリカで生まれて育って、二年ぐらい前に日本にきたばかりなの。お父さんもお母さんも日本人だから、日本語は話せるけど、本当は英語のほうが得意なんだって。でも、ふだん学校では絶対に英語は話さないようにしてるんだよ」

「で、どうして英語だったんだ?」

「最初に電話するときすごく緊張して、それで、気がついたら英語で話してたんだって。次からは日本語で話すつもりだったけど、とちゅうで考えが変わったらしいんだ。英語で電話がきたら言葉がわからないから、お父さんとお母さんはわけがわからなくなるでしょ? だから時間がかせげるし、警察に話してもいたずらだと思われるんじゃないかって思った。それに、最初英語で話して次に日本語で話したらバイ……バイ……なんだっけ」

「バイリンガルか」

「そう、それ。どっちの言葉も話せる人だってすぐばれちゃう。だからそのまま英語にしたんだって言ってた」

「チャンプを誘拐したのは?」

「人間を誘拐したら、すごく大変な罪になるんでしょう? 大騒ぎになって刑務所に入れられることになったら困るから、僕が犬のチャンプを誘拐しようって言ったんだよ」

「おねえちゃんが電話をしているときとか、陽平はどこにいて何をしていたの?」

 ふたたび聡子が聞き役に戻る。

「おねえちゃんはいま、おばあちゃんの家に住んでるんだ。お父さんとお母さんは、また仕事で外国に行ってるから。日本に帰ってきて仙台で暮らしてみたら好きになって、もう外国へ行くのはいやになって、だからひとりで残ったみたい。シオンねえちゃんははなれっていう小さな家に住んでて、僕はうちの人に見つからないように、じっと部屋に隠れてた」

「ごはんはどうしてたの」

「シオンねえちゃんが買ってきてくれた。コンビニとかホカ弁とか。すごくおいしかったよ」

「チャンプは? まさかチャンプも離れにいたわけじゃないでしょ?」

「一晩だけ預かったっておばあちゃんに嘘ついて、シオンねえちゃんが玄関で寝かせてくれた。その家、玄関がすごく広いんだ。ドッグフードも、チャンプにいつも食べさせてるやつを僕が教えて、買ってきて食べさせてくれた。僕が散歩に連れていくときは、いつも児童館によってたから、チャンプはシオンねえちゃんにすごくなついてるんだ」

「そっか、そういうことだったのね。どうして今日は、あんな場所へ私とお父さんを引っ張り回したの?」

 その質問をしたとたんに、陽平は言いよどんだ。今回の出来事の核心に触れる話なのかもしれないと思った。草壁は、できるだけ柔らかい口調で尋ねた。

「もしかして、家族みんなで出かけたことがある場所だったからか?」

 ちらりと顔をあげ、目を伏せて、こくりとうなずく。悪さをしでかしたときの癖だ。久しぶりに見た。それだけ長い間父親をサボってたのだと思うと、胸がちくりと痛んだ。

「シオンねえちゃんは、お父さんとお母さんが本当にそこへ行くかどうか、どうやって確認したんだろう」

「観光タクシーっていうのを一日借りたの」

「そうか、それで尾行してたのか」

「ビコー?」

「お父さんたちの車を追いかけることだよ」

「そう。でもシオンねえちゃん、もう一台白い車もいたって言ってた。警察の人かもしれないってビビってたけど、そうなの?」

 どう言うべきか迷った。が、結局こう答えた。

「お父さんの友だちだ。警察の人じゃない」

「よかったー」

 陽平がほっとした表情を浮かべたのでほっとした。そろそろ最大の疑問について答えを聞くべきときだった。

「どうして、こんなことをしようと思ったんだ」

 無言だった。握りしめた手の甲に、ぽたぽたとしずくが落ちる。陽平はしゃくりあげながらこんなふうに話した。

 何ヶ月か前、学校から帰った陽平は母親を驚かそうと、仕事部屋へ忍び足で近づいた。中で聡子が誰かと話している声が聞こえたので、いけないと思いながらも面白半分で盗み聞きをして、びっくりした。

 聡子が家を出るかもしれないと話しているのだった。

 固まったまま陽平がなおも耳をそばだてていると、聡子の口からリコンという言葉が出た。足音を立てないようにそっと階段を降り、ランドセルを背負ったままふたたび家を出た。頭がぐらぐらした。気がつくといつもの児童館へ足が向いていた。

 シオンから何かあったのかと聞かれ、どうすればいいのかわからなくなった陽平は、思わず「お父さんとお母さんがリコンしちゃう」と泣きながら打ち明けた。その後は毎日のように児童館へ行き、シオンと話した。

 ある日シオンは提案があると言った。それが草壁家リコン阻止計画である。陽平がどれだけ大切な存在なのか、お父さんとお母さんに教えてやるためには、陽平が一度消えなくちゃいけないとシオンは言った。

 だからこれまで家族で行った中で、陽平が楽しかった場所へ二人を連れていって思い出させる。そうしたらきっと、元の仲良しだったころの家族に戻る。二人はそんなふうに考えた。

「最初はね、お父さんとお母さんに大切なものを持ってくるようにって、言おうと思ってたんだよ」

「大切なものって?」

「結婚指輪」

 草壁は聡子と顔を見合わせた。二人ともずいぶん前から指輪などつけなくなっていた。子どもなりに考えた大切なものが、結婚指輪だったのかもしれない。

「でも、やっぱり人からものをとるのはよくないことだから、別の方法を考えることにしたの」

 そうか、と草壁は力なくつぶやいた。父親として自分が情けなくなってくる。

「僕、あのころのお父さんとお母さんに戻ってほしかった。だから楽しかったところを選んで、シオンねえちゃんに教えて、それで」

「それで?」

 聡子がやさしく尋ねると、陽平はがまんできずにしばし号泣した。

「小さかったころはあんなに楽しかったのに、みんなでいろんなところへ行って、いろんなものを食べていっぱい話もしたのに……」

 その顔はもう涙と鼻水とでぐしゃぐしゃだった。

「家族がばらばらになるなんて、やだよ」

 草壁は陽平を抱きしめた。胸のあたりに息子の顔が当たり、シャツが温かく湿った。子どもの涙はおとなより熱い。

「ごめんな、陽平。お父さんはまったくダメ親父だ」

 この場で言葉をとりつくろって陽平を安心させることはできる。でも、それでは意味がないと気づいた。

 その場しのぎに過ぎないことぐらい陽平にだってわかる。子どもだからといって、子ども騙しの言葉でごまかしてはいけない。こいつはもう、大人への階段を踏み出しはじめている。

「お父さんとお母さんは、ちゃんと話をする。きちんと話し合いをして、そのあとで陽平も一緒に話をして、それで決めよう。家族のことだもんな。お父さんとお母さん、そして陽平もいて、家族だ」

 胸に顔をうずめたまま、陽平がうなずく。

「それでいいか?」

 聡子を見た。うつむいていた顔をあげて、同じようにうなずく。

「約束だ。もう泣くのはやめろ、いいな」

「うん、もう泣かない」

 陽平がにこりと笑った。草壁も笑い返した。

「そういう意味じゃ、そのシオンねえちゃんって女の子は、わが家にとって恩人かもしれないな」

 草壁が言うと、陽平はとたんに顔をしかめた。

「でもちょっとおかしいんだよ。シオンねえちゃんの携帯電話にさっきから何度もかけてるんだけど、さっぱりつながらない」

 意味をはかりかねていると、陽平がつづけた。

「シオンねえちゃん、言ってたんだ。こんな悪さをしたんだから、陽平のお父さんとお母さんにちゃんと謝らなくちゃって。自分は年上だからっていって。それで、一度家に寄ってから行こうって言われて、たばこ屋さんに寄ったの」

「森たばこ屋のことか?」

「うん」

 シオンという娘が、森たばこ店の孫だと知って驚いた。あそこのばあさんとはたばこを買うときにひと言ふた言話す程度で、たしか息子がいたが同居してはいなかったはずだった。

「シオンねえちゃんは、いまどこにいるんだ?」

「それでね、たばこ屋さんへ行ったら変なお兄さんがいて、おばあさんからお金を取って逃げていったんだよ」

「なんだって?」

「それで?」

 草壁と聡子の慌てぶりに、陽平も驚いている。

「シオンねえちゃん、不良のくせに正義感が強いんだ。曲がったことが大嫌いなんだ。だから悪いやつを許せなかったんだよ、きっと」

「もしかして、犯人を追いかけていったの?」

 陽平がうなずいた。

「大変じゃない! それが本当なら、早く警察に電話しなくちゃ」

「おばあさんがもう一一〇番に電話したよ。僕は家に帰ってなさいって、また何かあったら連絡するからねって言われて……」

 だから陽平はいったん家に戻ったものの、心配になってたばこ屋へ行ったが、たくさんの警官がいるのを見て、びっくりして帰ってきた。

「なんでそれを先に言わないんだ」

 草壁が言うと、陽平は不満そうである。

「だって順番に答えろって言ったのは、お父さんじゃないか」

 頭をかかえた。いや、かかえている場合じゃない。

「そりゃそうだが、でも時と場合によりけりといってだな」

 そのとき草壁の携帯が震えた。大嶽だろうかと思って画面を見ると、また番号非通知である。

「はい、草壁ですが」

「金は用意できたか」

 迂闊なことに、さっきかかってきた電話のことをすっかり忘れていた。陽平が戻ってきたことで安心しきっていたのだ。

「あの、金ってなんの金でしょうか?」

「身代金に決まってんだろうが!」

 混乱した。この男はいったい何の話をしているのだ?

「うちの息子は、いま目の前にいますけど」

「息子じゃねえ。草壁シオン、てめえの娘だ」

 草壁……シオン?

 さっき陽平から聞いた話を思い出し、とっさにこう答えた。

「娘の……シオンが?」

「一億円用意しろ。命と引き換えだ」

「ちょ、ちょっと待ってください。そんな大金……」

「てめえが持ってるのはわかってんだよ。場所はまた指示する。警察には連絡するんじゃねえぞ、わかったな?」

 電話は切れた。草壁は固まったまま携帯電話を凝視した。

 いまおれ、なんて言った?

 シオンは陽平を親身になって心配してくれた。しかも、頼れる両親はいま日本にいないという。だから自分がシオンの父親代わりになろう、とっさにそう考えたのか? わからない。

 じわりと胃の底が熱くなるのを感じた。

 もしかするとおれは大変なことをしでかしてしまったのかもしれない。そう気づいたときは遅かった。

 

                            (第1章 終わり)

 

 

●第2章「鹿野シオン事件」

●第3章「大嶽修二事件」

(公開まで少し時間がかかる予定……)