世界の裏庭

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『事件家族』第1章-5

 

     ☆

 

「おれ、浮気してるんだよ、じつは」

 草壁が言った。聡子がいないかと、大嶽は慌てて辺りを見回した。

「バーの女だけどな。うちに電話をかけてよこしたってのは、そいつかもしれないと思ってさ」

「突然なんの話だ?」

 夜になっても息子が帰ってこず、脅迫電話がかかってきた。にもかかわらず、即座に警察へ通報しようとしないで大嶽に——もちろん警察官ではあるわけだが——相談を持ちかけてきたことに一抹の疑念を抱いていた。

 だから大嶽はさっき聡子が席をはずしたときを見計らって、何か心当たりでもあるんじゃないかと、草壁にかまをかけてみた。

 少し考えた草壁の答えが、いまの言葉だった。

「その女、学生時代にアメリカに留学してたとかでな、英語はペラペラだといつも自慢してたんだ」

 いくら待ってもつづきを話そうとしないので、大嶽は焦れて先をうながす。

「それで?」

「それでって……これで終わりだ」

「女が脅迫電話をかけてきたと草壁が推測する、その理由はなんだと訊いてるんだ」

「英語が話せる女で、おれに悪意を抱いてる女と考えたとき、すぐ頭に浮かんだのがそいつだった」

「本当に、理由はそれだけか? でももしそうなら、相手の声は一発でわかるはずじゃないか」

「声なんて、いくらでも変えられるじゃないか。ダックボイスとか」

 ヘリウムガスによる声の変化のことを言っているらしい。

「いまおまえ、悪意って言ったな。草壁とその女の間に、何かトラブルが起きているという意味にとれるが」

「ああ、ちょっともめてる」

「陽平君を拉致してしまうほどの、つまり犯罪行為までやってしまうほどのトラブルなのか、それは」

「おれはそうは思わないが、でも女の考えることは男にはわからないからな」

 聡子が階段を降りてくる音がした。草壁は、大嶽に手のひらを向けて話を止めた。

 聡子が居間に戻ってくると、草壁が気まずそうに黙りこんだ。大嶽は間をとりつくろうように言った。

「陽平君の友だちの家にも、実家のほうにも電話したんですね」

「ええ。でも卒業旅行なんて誰も知らなかったみたいで、そんな話は聞いたこともないって言われました」

「行き先として考えられるところは全部当たりましたか。たとえばおじいちゃんおばあちゃんの家、二人の実家なんかにも」

「もちろん電話しました。ただ、陽平が行ってないかなんて尋ねたら大騒ぎになると思ったので、ごきげん伺いに連絡したという感じで話しましたけど。もしその家に陽平がいたとしたら、当然その話になるはずです」

「草壁と聡子さんの知り合いとか友人、そういう人たちのところには?」

「思いつく限りの心当たりには、ぜんぶ連絡しました」

 聡子は言いきった。大嶽は確認しておくべきことを順番に質問していく。

「陽平君の所持金はいくらぐらいでしたか」

「一万五千円渡しました」

「そんなに? やりすぎじゃないのか?」

 草壁が口をはさんでくる。

「お友だちの実家に泊まらせてもらうんだから、何かあった場合のために多めに持たせてやったの」

 草壁と聡子が、さっきから一度も視線を合わさずに会話しているのが気になる。

「それとは別に、陽平君が自分で自由にできるお金はどれぐらいありましたか。自分の貯金箱、あるいは銀行口座は自分で引き出せるようになっていましたか」

「中学生になるので、お金の管理も自分でさせたほうがいいと思って、キャッシュカードと通帳を渡したばかりでした」

「口座には、どれぐらい?」

「十万円にちょっと欠けるぐらいです。お年玉とか進級のお祝いとかでいただいたお金を、ずっと貯金させてましたので」

「いきなり全額、陽平に渡したのか? いくらなんでも多すぎだろう」

 草壁がふたたび口をはさんだ。こいつがいるとちょくちょく話が脇道にそれる。

「これまでは相談を持ちかけたって乗ってくれもしなかったくせに。いまごろになって偉そうに言わないで」

 聡子は何度か深呼吸をして、自分の気持ちを鎮めるようにしてつづけた。

「大嶽さんは、犯人の目あてはやはりお金だと思いますか。それともほかに目的があるんでしょうか?」

「俺にもまだわかりません。直接相手と会話できたら、多少は想像がつくのかもしれないですがね。いちばんわからないのは、飼い犬を誘拐するという行為にどんな意味があるのかです」

「チャンプはもう十一歳で、すごく長生きのおじいちゃん犬なんです。陽平とチャンプは、ほんとに兄弟みたいに仲良しでした」

「陽平が生まれた翌年に、仔犬だったのを知り合いから譲ってもらったんだ。名前をつけるのに二人でずいぶん悩んでな」

 聡子は顔を上げると困ったような顔で尋ねた。

「私たち、どうすればいいでしょう?」

 可能性として考えられるのは、草壁がこっそり話してくれた浮気相手の女だったが、聡子の前で話すわけにはいかない。頭を整理するのに時間がほしいと思った。

 大嶽がたばこを吸ってもいいかと言うと、草壁はすまなそうな顔をした。

「悪いな、家の中は禁煙なんだ。外へ出ようや」

 玄関から出ると、冷気が肌を突き刺してきた。草壁が歩き出したので、たばこに火をつけてあとにつづく。

 近くの公園へ着くと、草壁は携帯をとりだした。

「電話してみる」

「どこに」

「例の女のところだ。いまごろはきっと店に出てるはずだけど、かまうもんか」

 止めようかとも思ったが静観することにした。可能性がゼロでない限り、当たらせておくべきだった。

「お? ユリカか? 草壁だ。おまえ、おれの息子をさらってないだろうな?」

 おい、待て。

 いくら捜査の駆け引きにずぶの素人とはいえ、あまりにストレートすぎる。それにこんな言い方では、相手が知らなかった場合さらにまずいことになる。

「なんだって? 留学先はアメリカじゃなかった? セントクリストファーネイビス? どこだよそれ? ああ?」

 やがて草壁の口から、たんなる口喧嘩の言葉が飛び出すようになる。

「生意気言うな、この……な、なんて言った? ……誰が百貫デブだ! おまえがデブ専だから、おれがデブなんだろうが……順番が逆か。とにかく誰のおかげで、これまであんな暮らしを……あ? ああ、そりゃたしかに以前と比べりゃ少しは……スーパーメタボ級? おれはこれでも高校の水泳部で市の大会で入賞したことが……」

 聞くに堪えない低レベルの口喧嘩が、貴重な電波を通じて交わされている。いちいち相手の罵声を復唱するせいで、大嶽にはおおよそ内容が把握できた。

「やかましいわ! おまえがいるくそったれな店なんか誰が行くか!」

 最後に小さく叫ぶと、手に持っていた携帯電話を地面に投げつけ、肩を上下させて息をしている。大嶽は携帯電話を拾いあげると土を手で払い、彼の手に戻した。

「脅迫電話の相手が、浮気相手だった可能性はありそうか?」

「ないな」

 草壁は即座に言った。

「電話しながら、こいつじゃないなとおれも思ってた。あのばか女には、陽平を誘拐したり英語で脅迫電話をかけてくるような知恵はない。さっきはおれもパニクって、つい向こうの土俵に乗っちまった」

 ほぼ同じ土俵だろう。

「気分がすっきりしたよ。それに、あいつと縁を切るいいきっかけになる」

 聞きもしないのに、彼は女とのトラブルの内容について話した。以前から小遣いを渡していたが、給料の減額に合わせてそれも減り、最近は口論が絶えなかったという。

「寒いな。そろそろ家に戻ろうや」

「おれは暑いぐらいだ」

「おまえは頭に血が上ったからだろ。分厚い肉じゅばんも着込んでるしな」

 ははっと笑って草壁が歩き出す。大嶽は尋ねた。

「奥さんは浮気に気づいてたのか」

「まさか。そこはうまくやってたさ」

 本当だろうかといぶかしんだ。こいつは昔から、そういうものを察知する能力に欠けていた。聡子は気がついていながら知らないふりをしているのではないか。

「今夜は、おれの人生最悪の日だ。じつは今朝家を出るときに、聡子がまじめな話があると言ってきた。陽平が卒業旅行で一晩家を空けるから、今夜がちょうどいいタイミングだっていってさ。たぶん離婚の話だ」

「おいおい本当かよ。やっぱり浮気がばれてたってことじゃないのか」

 草壁は立ち止まり、いま初めて気がついたとでもいうようにこちらをまじまじと見た。

「うそ?」

「間違いないと思うぞ。それとも何か、他に思いあたる理由でもあるのか?」

 数秒考えてから、草壁は自信なさそうに答えた。

「ネットショップじゃないかなと思う。あいつ、ショップを起業して何年かたつんだが、まるで仕事中毒なんだ。いつでも何をやっててもネットのことが、客からの注文メールやら問い合わせが入ってるんじゃないかって気になってしょうがないんだよ。あいつはすっかり変わっちまった」

 玄関の前だった。