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気が重かった。
家路につくとき身体も気も重いのは、いまにはじまったわけではないが、それにしても今日は格別だと、草壁雅人は思った。小さな駅前の商店街を抜けて公園を通りぬける途中、人気のないベンチの前で草壁は立ち止まった。
晴天による放射冷却で底冷えがしている。革靴の下からじんじんと冷気が上ってくる。ベンチの横に立ったまま、スーツのポケットからたばこを出して火をつけた。深く吸い込むと火口が濃いオレンジ色に変わる。鋭い冷気に磨かれた星が、澄んだ夜空でまたたいている。
公園の大時計を見あげると夜の七時を少し回ったばかりで、ふだんに比べれば考えられないほどの早い帰宅だ。今夜これから家で起こるであろうことを、聡子と二人きりで離婚の話をすることを想像すると、いたたまれない気持ちになってくる。
特に陽平のことを思うと胸が苦しくなった。今朝、出がけに聡子は小声でこう言ったのだ。
今夜はおりいって話があるから早く帰ってきて、と。
離婚の話に違いないと草壁は思った。絶対にそうだ。そうに違いない。
自分にも責任はある。聡子にも責任はある。きっと双方にあるのだろう。夫婦の関係が修復不能なまでに壊れてしまったとき、責任の所在が片方は百パーセントで、片方がゼロということはあり得ない。
ただ、ひとつだけたしかなことがある。息子にはなんの原因も責任もない。
なのに巻き添えを食らうのは陽平で、選択肢すら与えられていない。それが不憫だった。かわいそうだと思っているくせに、具体的にはそうなることをくい止められそうにない、父親としての自分が情けなくもあった。
たばこを落として靴底で火を消すと、肉付きのよい肩をすくめて家へ向かった。
居間に妻の姿はなかった。また部屋でパソコンに向かっているのか。声もかけないまま二階の書斎へいき、脱いだ服を床に次々と放り投げていく。書斎だか寝部屋だかわからない状態になってもう長い。
着替えてから一階へおりると、まだ聡子の姿は見えなかった。舌打ちしてソファへ腰をおろした。テレビのニュースでも見ようとリモコンを手にして、やめた。話し合いのときにテレビなんて、という聡子の声が聞こえてきそうだったからだ。
帰ってきたのは物音でわかっているはずだが、たぶん夢中になってディスプレイを睨んでいるのだ。起業のまねごとをして以来、毎日がこんな調子だった。たまに言い争いになっても、草壁が何か言えば、聡子が冷静な調子で言い返す。
口喧嘩と呼べるほど陽性のものではなかった。もっと開けっぴろげにののしり合ったほうが、感情のしこりをあとに残さないかもしれないと考えることもある。
しんと静まり返った居間に電話が鳴り響いた。立ちあがって受話器をとった。
「はい、草壁です」
電話口から突然、英語が聞こえてきた。女の声だった。
早口に聞こえたのは、久しぶりに英語を電話で聞いたからか。ただ相手の話し方には、ていねいな印象を受けた。
何を言っているのかはよくわからなかった。全体の文脈は理解できなかったが、相手は同じ単語をくり返しているようだ。
なぜ英語の電話なんだ?
頭のすみにそんな疑問が湧いたとき、電話の横のメモ帳が目に入った。落書きのような文字が書きつけてあった。
電話の言葉に半分意識を向けながら、何気なくメモを読む。
カタカナがいくつか書いてあり、ぐるぐると丸で文字が囲んである。聡子の癖だ。
誰かに教えてもらった言葉が浮かんだ。
「プリーズ……プリーズ、スピーク、スローリィ」
たしか、「もっとゆっくり話してください」という意味だったはずだ。稚拙な英会話が通じたのか、少しの空白のあと相手がしゃべる速度が明らかに遅くなった。
メモをとろうと思いつき、文字が書かれているページをめくって新しい紙に聞きとれた単語だけ書きつけていく。
相手は同じ文章を三回くり返してから電話を切った。
ツーツーと音がする受話器を、そっと親機へ戻す。
メモ用紙には二〇ほどの単語をカタカナで書いていた。「トゥモロー」「マネー」など理解できる単語もあったが、ほとんどはわからない。そんな中でいくつか気になるものがあった。
チャンプ。キッドナップ。
チャンプというのは、うちの飼い犬のチャンプのことだろうか。頭の中で日本語に置きかえてみると、おおよそこんな文章になった。
チャンプ、誘拐、警察、電話しない、金は不要、明日電話、夫婦で在宅——。
ふと思いあたることがあり、聡子が書いたメモを見たとたん階段を駆けあがっていた。迂闊だった。どうしてさっき電話をとる前に気づかなかったのか。
チャンプを旅行に連れていったのは、陽平だ。
犬を誘拐するなど聞いたことがない。珍しい種類の犬であるとか、大富豪が可愛がっているペットであるとか、よほど特殊な事情がない限りは。
つまり、陽平が誘拐されたということじゃないのか?
不意に右の部屋のドアが開き、聡子が出てきた。二階への階段を駆けあがった程度のことで、声が出ないほど息が切れている。身体が重い。太りすぎだ。
「陽平は……陽平は、携帯電話を持って……行ったか?」
「どうしたの。いったい何事?」
「いいから……答えてくれ。陽平は旅行に……携帯を持ってでかけたのか?」
「痛いじゃない、離してよ」
気がつくと草壁は、聡子の両腕を強く掴んでいた。
「誘拐だ」
「誰が」
「陽平。いや、チャンプ。つまり、陽平」
「それ、冗談のつもり?」
「落ち着いて話を聞けよ。いいか、陽平が誘拐されたかもしれない」
聡子の肩を強く揺すった。
そのとき草壁は、聡子の身体にもう何年も触れていなかったことに初めて気づいた。こんなにきゃしゃで柔らかかったかなと、まるで緊張感のないことを思う。
「おれが帰ってくる前に、英語の電話がかかってこなかったか? 陽平が出かけたあとで」
「かかってきた、わけのわからない電話が」
「やっぱりそうか。メモ帳におまえが書いた文字が残ってた。そこにも、チャンプとキッドナップという文字が、カタカナでしっかりと書いてあった。その電話がかかってきたのは何時ごろだ?」
「わからない。夕方。たぶん、四時とか五時とか、それぐらい……ちょっと待って。宅配便が届いたのは、たしか電話をとったすぐあとだから、たぶん五時ぐらいかな。はっきりとはわからない。それでチャンプが誘拐されたっていうの?」
「チャンプを誘拐したというのは、陽平を誘拐したってことだ、たぶん。陽平が出かけたのは何時ごろだった」
「九時過だったと思うけど」
どういうわけか二人とも声をひそめるように話していた。聡子は口の前で両手を合わせていて、指先がかすかに震えている。
「思い違いじゃないかしら。そんなことが突然起こるなんて」
どんなことだって前ぶれもなしに突然起こる。事前に知らせておいてからはじまる事件なんてあるものか。
「いいか、これは現実だ。その証拠に犯人からの脅迫電話が二度もかかってきてる」
犯人。脅迫電話。
自分が口にした二つの言葉に、息が止まりそうになる。どこか絵空事のようで現実味がなかった出来事に、しっかりとした重量と手触りを感じたのはこの瞬間だった。
「とにかく電話をかけてみる。番号を教えてくれ」
草壁は足早に階段を降りながら言った。聡子もあとをついてくる。
「番号? なんの番号?」
「陽平の携帯電話に決まってるだろ。まだ通じるかもしれない」
「あなた、陽平の携帯番号も知らないの?」
「あ? ああ……」
「最低」
聡子は吐き捨てるように言い、一瞬冷たい視線を向けてから電話機へと駆けよった。ワンタッチダイヤルか短縮に入っていたのだろう、二度ボタンを押しただけで受話器を耳にあてる。
ほんの数秒なのか数十秒かかったのか、じりじりとした長い時間に感じられた。
聡子のため息が結果を物語っていた。
「だめ。つながらない」
電源が切られていることは予想できた。切ったのは犯人だ。
「最初の電話で、脅迫電話って気づかなかったのか」
「だって……」
聡子は黙り、床にしゃがみこむ。
「英語だったからか?」
聡子がうなずく。さっき電話をとったときは、自分だって面食らったのだ。聡子は学生時代から理数系科目が得意で、語学系は苦手だといっていたから、突然電話口から聞こえてきた英語に当惑するようすは想像できる。輸入関係のやりとりは英語に堪能な友人に頼んでいるらしい。
草壁は自分を鼓舞するように、大きく息を吸って吐いた。見込みがないと知っていながら、何度も陽平の携帯にかけ直す聡子の背中に向かって言った。
「よし。それじゃ次は、旅行へ行った友だちの家に電話してみよう。宮城蔵王だかの実家の番号に電話したほうが早いな」
聡子が住所録を開いて電話をかけた。
立ったまましばらくそのやりとりを聞いていたが、ようすがおかしい。受話器を置いてこちらに向き直ったとき、聡子は蒼白で信じられないことを言った。
「旅行になんか行ってないって」
意味を量りかねた。
「どういう意味だ、急きょ取りやめにしたってことか?」
「そうじゃないの。アッちゃんもお父さんも、いまお家にいるんだって。卒業旅行なんて話はぜんぜん知りませんって。そんな話が出たこともないって言うの。陽平が言ってた卒業旅行の話、全部でたらめ……あの子、どうしてそんな嘘を」
聡子は顔を両手でおおっている。草壁の頭はすっかり思考停止状態だった。頭をぶるぶると振って脳を起こす。
「陽平はいま、どうしてるんだ?」
「そんなこと、私に聞かれてもわかるわけないでしょ」
気持ちを鎮めろと自分に命じたとき、ふと懐かしい顔が脳裏に浮かんだ。そうだ、まずはあいつに相談してみよう。
「よし、警察に電話してみる」
「ちょっと待って! 警察には連絡しないようにって言われたじゃない」
「一一〇番通報するわけじゃない。最終的にはそうなるかもしれないけど、その前に大嶽に相談してみる」
「誰?」
「大嶽修二だよ。同級生で、M県警の刑事の」
「……私たちの結婚式で、スピーチしてくれた人?」
「ああ、そうだったな」
すっかり忘れていた。十何年も前の話だ。聡子は露骨にいやな顔をした。結婚式のスピーチを思い出したのかもしれない。
「だめ、同じことじゃない。警察に連絡して、陽平に何かあったらどうするつもりなの」
「だったらどうしろっていうんだ。何もしないでじっと待ってろってのか」
「だから次にくる電話を待って、犯人の言う通りに……」
「そんなバカな話があるか。ただ相手の言いなりになって何もしないで、陽平に何かあったりしたら悔やんでも悔やみきれないぞ」
話が堂々巡りになっていた。こうしている間にも時間はどんどん過ぎている。
「なあ聡子。いまはっきりしてるのは、おれたち二人だけで考えてても、らちが明かないってことだ。プロに頼るしかない。違うか?」
聡子はそっぽを向いて爪をかみはじめた。草壁はすがりつくような思いで、携帯のアドレスから大嶽の番号を呼び出した。