世界の裏庭

読書、映画、創作、自然など

『事件家族』 第1章-3

 

f:id:tsukimorisou:20200731184010j:plain

 

     ☆

 

 気が重かった。

 家路につくとき身体も気も重いのは、いまにはじまったわけではないが、それにしても今日は格別だと、草壁雅人は思った。小さな駅前の商店街を抜けて公園を通りぬける途中、人気のないベンチの前で草壁は立ち止まった。

 晴天による放射冷却で底冷えがしている。革靴の下からじんじんと冷気が上ってくる。ベンチの横に立ったまま、スーツのポケットからたばこを出して火をつけた。深く吸い込むと火口が濃いオレンジ色に変わる。鋭い冷気に磨かれた星が、澄んだ夜空でまたたいている。

 公園の大時計を見あげると夜の七時を少し回ったばかりで、ふだんに比べれば考えられないほどの早い帰宅だ。今夜これから家で起こるであろうことを、聡子と二人きりで離婚の話をすることを想像すると、いたたまれない気持ちになってくる。

 特に陽平のことを思うと胸が苦しくなった。今朝、出がけに聡子は小声でこう言ったのだ。

 今夜はおりいって話があるから早く帰ってきて、と。

 離婚の話に違いないと草壁は思った。絶対にそうだ。そうに違いない。

 自分にも責任はある。聡子にも責任はある。きっと双方にあるのだろう。夫婦の関係が修復不能なまでに壊れてしまったとき、責任の所在が片方は百パーセントで、片方がゼロということはあり得ない。

 ただ、ひとつだけたしかなことがある。息子にはなんの原因も責任もない。

 なのに巻き添えを食らうのは陽平で、選択肢すら与えられていない。それが不憫だった。かわいそうだと思っているくせに、具体的にはそうなることをくい止められそうにない、父親としての自分が情けなくもあった。

 たばこを落として靴底で火を消すと、肉付きのよい肩をすくめて家へ向かった。

 

 居間に妻の姿はなかった。また部屋でパソコンに向かっているのか。声もかけないまま二階の書斎へいき、脱いだ服を床に次々と放り投げていく。書斎だか寝部屋だかわからない状態になってもう長い。

 着替えてから一階へおりると、まだ聡子の姿は見えなかった。舌打ちしてソファへ腰をおろした。テレビのニュースでも見ようとリモコンを手にして、やめた。話し合いのときにテレビなんて、という聡子の声が聞こえてきそうだったからだ。

 帰ってきたのは物音でわかっているはずだが、たぶん夢中になってディスプレイを睨んでいるのだ。起業のまねごとをして以来、毎日がこんな調子だった。たまに言い争いになっても、草壁が何か言えば、聡子が冷静な調子で言い返す。

 口喧嘩と呼べるほど陽性のものではなかった。もっと開けっぴろげにののしり合ったほうが、感情のしこりをあとに残さないかもしれないと考えることもある。

 しんと静まり返った居間に電話が鳴り響いた。立ちあがって受話器をとった。

「はい、草壁です」

 電話口から突然、英語が聞こえてきた。女の声だった。

 早口に聞こえたのは、久しぶりに英語を電話で聞いたからか。ただ相手の話し方には、ていねいな印象を受けた。

 何を言っているのかはよくわからなかった。全体の文脈は理解できなかったが、相手は同じ単語をくり返しているようだ。

 なぜ英語の電話なんだ?

 頭のすみにそんな疑問が湧いたとき、電話の横のメモ帳が目に入った。落書きのような文字が書きつけてあった。

 電話の言葉に半分意識を向けながら、何気なくメモを読む。

 カタカナがいくつか書いてあり、ぐるぐると丸で文字が囲んである。聡子の癖だ。

 誰かに教えてもらった言葉が浮かんだ。

「プリーズ……プリーズ、スピーク、スローリィ」

 たしか、「もっとゆっくり話してください」という意味だったはずだ。稚拙な英会話が通じたのか、少しの空白のあと相手がしゃべる速度が明らかに遅くなった。

 メモをとろうと思いつき、文字が書かれているページをめくって新しい紙に聞きとれた単語だけ書きつけていく。

 相手は同じ文章を三回くり返してから電話を切った。

 ツーツーと音がする受話器を、そっと親機へ戻す。

 メモ用紙には二〇ほどの単語をカタカナで書いていた。「トゥモロー」「マネー」など理解できる単語もあったが、ほとんどはわからない。そんな中でいくつか気になるものがあった。

 チャンプ。キッドナップ。

 チャンプというのは、うちの飼い犬のチャンプのことだろうか。頭の中で日本語に置きかえてみると、おおよそこんな文章になった。

 チャンプ、誘拐、警察、電話しない、金は不要、明日電話、夫婦で在宅——。

 ふと思いあたることがあり、聡子が書いたメモを見たとたん階段を駆けあがっていた。迂闊だった。どうしてさっき電話をとる前に気づかなかったのか。

 チャンプを旅行に連れていったのは、陽平だ。

 犬を誘拐するなど聞いたことがない。珍しい種類の犬であるとか、大富豪が可愛がっているペットであるとか、よほど特殊な事情がない限りは。

 つまり、陽平が誘拐されたということじゃないのか?

 不意に右の部屋のドアが開き、聡子が出てきた。二階への階段を駆けあがった程度のことで、声が出ないほど息が切れている。身体が重い。太りすぎだ。

「陽平は……陽平は、携帯電話を持って……行ったか?」

「どうしたの。いったい何事?」

「いいから……答えてくれ。陽平は旅行に……携帯を持ってでかけたのか?」

「痛いじゃない、離してよ」

 気がつくと草壁は、聡子の両腕を強く掴んでいた。

「誘拐だ」

「誰が」

「陽平。いや、チャンプ。つまり、陽平」

「それ、冗談のつもり?」

「落ち着いて話を聞けよ。いいか、陽平が誘拐されたかもしれない」

 聡子の肩を強く揺すった。

 そのとき草壁は、聡子の身体にもう何年も触れていなかったことに初めて気づいた。こんなにきゃしゃで柔らかかったかなと、まるで緊張感のないことを思う。

「おれが帰ってくる前に、英語の電話がかかってこなかったか? 陽平が出かけたあとで」

「かかってきた、わけのわからない電話が」

「やっぱりそうか。メモ帳におまえが書いた文字が残ってた。そこにも、チャンプとキッドナップという文字が、カタカナでしっかりと書いてあった。その電話がかかってきたのは何時ごろだ?」

「わからない。夕方。たぶん、四時とか五時とか、それぐらい……ちょっと待って。宅配便が届いたのは、たしか電話をとったすぐあとだから、たぶん五時ぐらいかな。はっきりとはわからない。それでチャンプが誘拐されたっていうの?」

「チャンプを誘拐したというのは、陽平を誘拐したってことだ、たぶん。陽平が出かけたのは何時ごろだった」

「九時過だったと思うけど」

 どういうわけか二人とも声をひそめるように話していた。聡子は口の前で両手を合わせていて、指先がかすかに震えている。

「思い違いじゃないかしら。そんなことが突然起こるなんて」

 どんなことだって前ぶれもなしに突然起こる。事前に知らせておいてからはじまる事件なんてあるものか。

「いいか、これは現実だ。その証拠に犯人からの脅迫電話が二度もかかってきてる」

 犯人。脅迫電話。

 自分が口にした二つの言葉に、息が止まりそうになる。どこか絵空事のようで現実味がなかった出来事に、しっかりとした重量と手触りを感じたのはこの瞬間だった。

「とにかく電話をかけてみる。番号を教えてくれ」

 草壁は足早に階段を降りながら言った。聡子もあとをついてくる。

「番号? なんの番号?」

「陽平の携帯電話に決まってるだろ。まだ通じるかもしれない」

「あなた、陽平の携帯番号も知らないの?」

「あ? ああ……」

「最低」

 聡子は吐き捨てるように言い、一瞬冷たい視線を向けてから電話機へと駆けよった。ワンタッチダイヤルか短縮に入っていたのだろう、二度ボタンを押しただけで受話器を耳にあてる。

 ほんの数秒なのか数十秒かかったのか、じりじりとした長い時間に感じられた。

 聡子のため息が結果を物語っていた。

「だめ。つながらない」

 電源が切られていることは予想できた。切ったのは犯人だ。

「最初の電話で、脅迫電話って気づかなかったのか」

「だって……」

 聡子は黙り、床にしゃがみこむ。

「英語だったからか?」

 聡子がうなずく。さっき電話をとったときは、自分だって面食らったのだ。聡子は学生時代から理数系科目が得意で、語学系は苦手だといっていたから、突然電話口から聞こえてきた英語に当惑するようすは想像できる。輸入関係のやりとりは英語に堪能な友人に頼んでいるらしい。

 

 草壁は自分を鼓舞するように、大きく息を吸って吐いた。見込みがないと知っていながら、何度も陽平の携帯にかけ直す聡子の背中に向かって言った。

「よし。それじゃ次は、旅行へ行った友だちの家に電話してみよう。宮城蔵王だかの実家の番号に電話したほうが早いな」

 聡子が住所録を開いて電話をかけた。

 立ったまましばらくそのやりとりを聞いていたが、ようすがおかしい。受話器を置いてこちらに向き直ったとき、聡子は蒼白で信じられないことを言った。

「旅行になんか行ってないって」

 意味を量りかねた。

「どういう意味だ、急きょ取りやめにしたってことか?」

「そうじゃないの。アッちゃんもお父さんも、いまお家にいるんだって。卒業旅行なんて話はぜんぜん知りませんって。そんな話が出たこともないって言うの。陽平が言ってた卒業旅行の話、全部でたらめ……あの子、どうしてそんな嘘を」

 聡子は顔を両手でおおっている。草壁の頭はすっかり思考停止状態だった。頭をぶるぶると振って脳を起こす。

「陽平はいま、どうしてるんだ?」

「そんなこと、私に聞かれてもわかるわけないでしょ」

 気持ちを鎮めろと自分に命じたとき、ふと懐かしい顔が脳裏に浮かんだ。そうだ、まずはあいつに相談してみよう。

「よし、警察に電話してみる」

「ちょっと待って! 警察には連絡しないようにって言われたじゃない」

「一一〇番通報するわけじゃない。最終的にはそうなるかもしれないけど、その前に大嶽に相談してみる」

「誰?」

「大嶽修二だよ。同級生で、M県警の刑事の」

「……私たちの結婚式で、スピーチしてくれた人?」

「ああ、そうだったな」

 すっかり忘れていた。十何年も前の話だ。聡子は露骨にいやな顔をした。結婚式のスピーチを思い出したのかもしれない。

「だめ、同じことじゃない。警察に連絡して、陽平に何かあったらどうするつもりなの」

「だったらどうしろっていうんだ。何もしないでじっと待ってろってのか」

「だから次にくる電話を待って、犯人の言う通りに……」

「そんなバカな話があるか。ただ相手の言いなりになって何もしないで、陽平に何かあったりしたら悔やんでも悔やみきれないぞ」

 話が堂々巡りになっていた。こうしている間にも時間はどんどん過ぎている。

「なあ聡子。いまはっきりしてるのは、おれたち二人だけで考えてても、らちが明かないってことだ。プロに頼るしかない。違うか?」

 聡子はそっぽを向いて爪をかみはじめた。草壁はすがりつくような思いで、携帯のアドレスから大嶽の番号を呼び出した。