世界の裏庭

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『事件家族』 第1章-2

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     ☆

 

 陽平は黙りこんで椅子に座り、足をぶらぶらさせていた。ダイニングテーブルの上には大好物のフルーツゼリーが置いてあるのに、珍しく手をつけようとしなかった。

 陽平は二日前に小学校を卒業し、四月からは中学生になるが、骨は太いけれど身長が高くはなく、まだ変声期を迎えていないせいか年より幼く見える。

「中学へ行ったら、やっぱりバスケ部に入るつもり?」

「そんなの、学校へ行ってみなくちゃわかんない。部活の練習とか見学してみて、先輩とか先生が面白そうだったら違う部に入るかもね。野球とか」

「陽平、野球なんて好きだったっけ?」

「好きだよ。アッちゃんとよく校庭でバッティングやったり、人がもっといればチームを作って試合したりしてるんだ。僕、バッティング得意なんだ。このごろぜんぜん遊んでくれないけど、お父さんのボールだって打つ自信あるよ」

 野球が好きだなんて、初めて聞く話だった。

「陽平はさ、お母さんとお父さんとどっちが好き?」

 下目づかいで陽平がこちらを見た。唐突すぎたかなとは思ったものの、口にしてしまったものはしょうがない。

「これはたとえばの話だと思って聞いてほしいんだけど。たとえばだよ、お母さんとお父さんが別々に暮らさなくちゃいけなくなったとして、陽平だったらどっちと一緒に暮らしたい?」

「どうしてお母さんとお父さんは、別々に暮らすの?」

 不審そうな口ぶりに変わったので、慌てて聡子は言い足す。

「だから、たとえばの話なんだけど。そうね、お父さんが会社の都合でどこか遠い街へ転勤になったとしようか。そうしたらどうしたい?」

 自分でもずるいなと思う。架空の設定というわりには、ずいぶんバイアスがかかっている。平等ではない。陽平の選択肢を明らかにせばめて、聡子には有利、夫にとっては不利な状況をつくりあげている。

「僕だったら……」

 言葉を探すように天井を眺める。十秒ほど考えてから、陽平はまっすぐこちらの目を見てこう答えた。

「僕だったら別々に暮らすのなんていやだな。やっぱり一緒がいい。家族なんだから、三人一緒がいい」

 陽平から目をそらし、気づかれないようにそっとため息をついた。さらに踏み込んで話すべきかどうか迷っていると、陽平が椅子から立ちあがった。

「そろそろ出かける?」

「うん。もうすぐ待ち合わせの時間だから」

 正直なところほっとしたので、自然に笑みがこぼれた。

「でも、本当にチャンプを連れてって大丈夫なのかしら」

「大丈夫だって。アッちゃんちはみんな犬が好きだし、チャンプは何度も一緒に遊んでるから慣れてるんだ」

 チャンプは、庭のすみにある犬小屋で飼っている犬である。十年以上も生きていて、かなり老犬の部類に入る。とても賢い犬で、ほとんど無駄吠えをしない。

 陽平は卒業旅行と称して、仲のいい友だちの実家へ一泊させてもらう計画を立てたらしかった。行き帰りはそのお父さんが車で送り迎えしてくれるというのだけど、小学校で卒業旅行とは少々早すぎるような気もする。

 ぜひ飼い犬のチャンプも一緒に連れていきたいと言われたときは、さすがに反対したのだが、友だちも犬好きだし、車に乗せていけるから問題ないと押しきられた恰好だった。

 その実家というのが宮城蔵王の南麓にある山あいの町で、まだ雪もたっぷり残っている。仙台市内からなら、車で一時間とちょっとの距離だ。チャンプと雪の上で思いきり遊んでみたいと陽平に言われ、しぶしぶ許可したのだった。

 時計を見ると、午前九時十分だった。待ち合わせは九時半にアッちゃんの家だというから、少し早めに出たほうがいいかもしれない。

「それじゃ行ってくるから」

「行ってらっしゃい。ご迷惑をおかけしないようにするのよ」

「うん。わかってる」

 玄関まで見送りに出て、デイパックを背負った小さな背中に、気をつけてと声をかけた。

 

 今朝のそんな光景を思い出しながら、聡子はぼんやり考えている。

 幼い外見とは裏腹に、陽平は大人びたところのある子だった。大人に対して気を使うというのか、相手の考えていることを敏感に察知して先回りするところがある。

 だからこそ聡子は、今夜両親が重大な話をしようとしていることに気づいていたのかどうか、気になっていた。注意してきたつもりだったけど、あの子は勘が鋭いところがあるから——。

 ううん、そんなはずない。勘づいているわけがない。一方で、今朝出がけにこのまま話してしまおうかと考えたのもたしかだ。夫がいるときに三人で話すよりは、まず陽平と二人で話したほうがずっとスムーズに説明できそうな気がする。

 夫は気分屋だから、そのときどきの感情にまかせてものを言う。聡子が急に別居の話など持ち出したら、激しく動揺してどんな行動に出るのか想像もできない。

 誰もいない部屋であれこれ考え込んでいるうちにむしゃくしゃしてきて、無性に身体を動かしたくなった。じっとしているのが苦痛になってきた。

 よし、掃除をしよう。聡子は立ちあがった。

 今夜の対決に備えて戦場をきれいにしておこう。居間の掃除を念入りにやり、ついでに風呂場とトイレもぴかぴかにした。これほど徹底的に掃除をするのは、すごく久しぶりだった。

 掃除をやり終えて小さな満足感にひたり、時計を見ると六時に近かった。