世界の裏庭

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『事件家族』 第1章ー1 長編ミステリー

◉新シリーズ開始!

(あらすじ)

 ある朝、草壁家にかかってきた一本の電話が、すべてのはじまりだった。英語で話してくるのだが、どうも様子がおかしい。意味はわからないが、何やら、きな臭い事件の気配がただよいはじめる−−。

 

   【第一章】 草壁陽平事件

       ☆

 

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 パソコンの起動ボタンを押したとき、電話が鳴った。

 マックのパソコンは立ちあがるまでに少し時間がかかる。誰からだろう? と草壁聡子は考えた。

 二回目の呼び出し音。

 反射的に時計に目をやった。そろそろ夕食のしたくをはじめる時刻だった。

 三回目。

 陽平の友だちのお母さんからかもしれない。小学校は卒業したけど、父兄の委員会の残務整理が残っている。

 四回目の呼び出し音が鳴り終えたとき、ため息をついて、聡子はコードレス電話の子機をとった。

「はい、草壁ですが」

 受話器の向こうで、息を吸い込むような気配があった。

「もしもし? あの、どちらさまですか?」

 相手が何かを言ったが、意味がわからなかった。電波状態が悪いのか、くぐもった声だ。いたずら電話かもしれないと思い、このまま電話を切ってしまおうかとさえ思ったが、そうしなかったのは相手が女性だったからだ。

 しかも相手が話しているのは、英語のようだ。

 なぜ、英語? いたずら電話の次に思い浮かんだのは、新手のセールスという推測だった。けれど、考えてみればそれもおかしい。ここは日本だ。一般家庭に電話をかけてきて、一方的に英語でセールスをするというのは考えにくい。

「あの私、英語はわかりませんので」

 沈黙した相手に、聡子は精一杯抗弁するつもりで告げた。そこでふと感じたことがあった。

 さっきからこの人は、いくつかの同じ単語を何度もくり返していないだろうか? まるで何かのキーワードを印象づけようとするみたいに。

 相手はまた、アンダスンというような言葉を口にした。語尾が上がっているから、こちらに何かを尋ねているのだと思うが、わからない。

「ですからさっきも言いましたけど、英語なんか聞いてもわからないんですってば」

 いらだってきて聡子が言うと、また沈黙があった。

 もしかしたら、と聡子は考える。電話の向こうにいる人物は、英語を話してはいるものの、日本語も理解できるのではないかしら。

「うちは、草壁です」

 聡子は、く・さ・か・べ、と噛んで含めるようにゆっくりと自分の名字を伝えた。

「もしかして、番号をお間違えじゃないですか?」

 そう言ってみてから、そうだそれがいちばんあり得ることじゃないの、と得心した。きっと友人宅の——相手はたぶん同じ外国人なのだろう——電話番号にかけ間違えたのだ。

 こちらの電話番号を告げようとしたとき、前ぶれもなく電話が切れた。

「もう。なんなのよ、いったい」

 受話器を睨みつけ、それから台に戻す。

 ふと見ると、電話機の隣に置いてあるメモ用紙に、カタカナが書いてある。聡子の癖で、電話で話しているとおかしな模様を描いてみたり、書いた言葉のまわりをぐるぐると丸で囲ったりしてしまうのだ。

『チャンプ』『キッドナップ』『アンダスタン』

 メモ用紙にはそう書いてあり、『チャンプ』のところだけボールペンでぐるぐると丸く囲ってある。

 自分で書いておきながら意味不明だなと考えたところで、今度はドアチャイムが鳴った。ただでさえ忙しいこの夕方の時間帯に。やれやれと思いながら玄関に向かった。

 宅配便は通販会社からのものだった。受取人は草壁雅人になっているから、夫が何か注文したらしい。やけに重い。また無駄な買い物でもしたのだろうと考えつつ、荷物を書斎に運びこんだ。

 夫婦の寝室だった部屋に、現在寝ているのは聡子だけである。夫の草壁のほうは、何年か前から家を建てたときに書斎として設けた、八畳ほどの広さの洋間で寝ていた。ベッドが性に合わないという口実で、フローリングの床に直接布団を敷いている。

 聡子は今夜、夫の雅人に別居の話を切り出そうと決心していた。

 離婚を前提とした別居である。

 夫婦とは名ばかりで、赤の他人がひとつ屋根の下に暮らしているような生活が何年も前からつづいていた。世間的にはそんなそぶりを見せてこなかったから、親や親戚にとってはきっと寝耳に水で、かなり驚かせることになるかもしれなかった。

 離婚した夫婦が原因を聞かれると、性格の不一致とか生活のすれ違いとよく答える。離婚調停の席で、なぜ離婚に踏み切るのかと訊かれたときに、そんな言葉が使われるという話を聞いたことがある。

 輪郭のぼやけたこのあいまいな言葉が、果たしてどれほど真実を物語っているものか、当事者になってみるまで聡子には見当もつかなかった。ほかにもっと重大な何かがあるのだけれど、それを表沙汰にしたくないばっかりに、体裁をとりつくろうのに都合がいい言葉として使われているのだ。そう思っていた。

 ところが、離婚も視野に入れて別居を真剣に考えはじめてみて自分で驚いた。きわめて表層的ともとれるこの言葉が、かなり的を射ていると痛感させられた。

 自分と夫がどうしてこんなふうになったのか、はっきりとした理由がさっぱりわからない。些細な理由は数え上げたらきりがない。でなければ、離婚を真剣に思い悩んだりはしない。はるか遠い昔の気もするけど、彼を愛していた時代はたしかに存在したのだから。

 息子の陽平にだって精神的な重荷を背負わせたくはない。陽平がいたから、ここまでつづいてきた。

 でも、と唇をかみしめながら聡子は思う。もうこれ以上は我慢できない。自分を殺して家族というかたちを維持しつづけるのは無理だ。完璧な妻、完璧な母親、完璧な女性でありたいと願っていたはずなのに。

 聡子が考える完璧な女性像にとって絶対に欠けてはいけないピース、それは仕事だった。大学時代から聡子はキャリア志向が強かった。結婚しても、子どもができても、仕事を辞める気などなかった。夫にだって結婚前からそう告げていた。

 なのに妊娠したとたん、夫の草壁から「子どもが家に帰ったとき、母親には家で待っていてほしい」と懇願されたのだ。そんな旧弊ともいえる家族像を持っているとは知らなかったから、聡子は困惑した。

 話が違う、卑怯だとさえ感じた。けれどもまだ、何年かたって子どもが手を離れるころになれば、ふたたび仕事に戻れるという希望を捨ててはいなかった。しかし子どもが生まれてみれば、ただただ日々の現実があるだけだった。

 昼夜問わずの授乳で睡眠は寸断され、おむつ交換や神経を使う入浴までこなさなければならず、心身ともに疲れ果てていった。育児は聡子の想像を超える大変さで、何事も完璧を期さずにいられない彼女にとって、二足のわらじなどどだい無理な話だったのだと気づかされた。育児休暇制度のない会社だったこともあり、結果的には退職せざるを得なかった。

 でも、と、そこでわが身を省みる。

 草壁との間がぎくしゃくするようになったのは、聡子が数年前にインターネット上にショップを立ちあげてからのことだ。

 仕事をしたい。母親や妻という立場ではなく、ひとりの女性としてふたたび社会と関わりたい。中断したキャリアを、どんなかたちでもいいから再開したかった。

 そんな聡子にとって、在宅で仕事ができるネットショップは理想的に思えた。かつて会社の同僚だった華絵からその話を聞いたとき、これだと思った。

 ショップは予想以上にうまくいっていた。低空飛行だった最初の三ヶ月を超えた頃から、急激にアクセス数が増えていった。ネット上で架空の店舗を運営するというスタイルが、自分には合っていたのかもしれなかった。

 きっかけは塩だった。大学時代に塩の成分に関する研究をしている友人がいて、話を聞いているうちに興味が湧き、さまざまな天然塩を取り寄せては料理に使ってみた。すると種類によって本当に味に違いが出ると知り、あれこれ試してみるのが楽しくなった。ていねいにノートを取っていたことも役立った。

 友人から教えてもらったリストをもとに、日本だけでなく世界中の岩塩や湖塩を販売している。産地や成分と一緒にお料理レシピを添えるほか、入浴やマッサージ用の塩も取り扱うようになった。

 毎日朝は五時に起きて、二時間ほど注文や問い合わせのメールを確認する。七時には食事を食べさせて学校と会社へ送り出し、午前中にはきちんと家事をすませておく。陽平が学校から戻るまでの数時間を梱包や発送の作業にあて、夕食やお風呂がすんで一段落したあと、また作業をつづける——。

 体力的にはきついけれど充実感があった。お礼のメールなどが届いたときなどは、自分がたしかに社会と関わっていると実感できるのだ。ただそれが夫婦間に不協和音をもたらし、意思疎通をはかれなくなった遠因になったのかもしれないとも思う。気がついたときには、性格の不一致や生活のすれ違いと表現するしかない状態におちいっていたのだ。

 聡子は、大きくて深い吐息をついた。最近はため息ばかりついている気がする。疲れているのかなと、ぼんやり思う。

 母として、妻として、そして何より働く女として、すべてを完璧にこなそうとするのは無理がある。だから役割のひとつを、肩からおろしたくなっているのだ。そう、妻という役割を。

 そういえば、と思い出した。今朝、出かける前の陽平と交わした会話だった。

 あの子は、何かふだんと違う気配を察していただろうか。